「20年間お袋の介護をしてくれてありがとうよ。ちょうど区切りもいいし、出て行ってくれ」
穏やかな口調で切り出した夫に、私は一瞬言葉を失った。そして彼は続けた。
「若い部下と再婚するわ」
「は?50過ぎのおじさんを誰が相手してくれるのよ」
「冗談はそのくらいにして。門太君だ」
「え、角田って、レナさんのこと?」
「ああ、お前も何度か会ったことがあったな」
私は何度か彼の部下を家に招いたことがあった。レナさんは確かまだ30歳くらい。若いのにしっかりした印象の女性だった。あの彼女が、この男と?
「愛に年齢は関係ない」
「あるでしょ。彼女のご両親だって絶対いい顔しないわよ」
「本当にお前の価値観は昭和のままだな。今は多様性の時代なんだよ」
「要は若い子が好きってことでしょ?」
「違う。俺と彼女は内面で引かれ合ってるんだ」
吐き気がした。私は20年間、彼の母親の介護をしてきた。その間に彼は好き勝手に女を作っていた。それでも私は家族のためにと思って耐えてきた。それが今、若い女と再婚するから出て行けだと?
「離婚したとして、お母さんの介護はどうするのよ。若い子が喜んで引き受けるなんて思えないわ」
「彼女は俺の親なら喜んで介護すると言ってる」
「嘘でしょ?」
「お前みたいに打算的な女じゃないってことだ」
「はあ?私だってあなたのお母様だからと思ってこの20年支えてきたのよ」
「お前は遺産目当てだろうが」
彼は母の預金が2300万あるのを知っていた。そして私がそれを狙っていると決めつけた。
「お前みたいな強欲な夢はいらん。2度と見せるな」
そう言って彼は部屋を出て行った。
数分後、私は静かにスマホを取り出し、メッセージを送った。
「来たわ」
返信はすぐに来た。
「来ましたか。じゃあ、引き続き計画通り」
翌日、私は荷物をまとめて家を出た。
「お母さんの介護ノートはテーブルに置いておいたわ」
「ご苦労。色々とこだわりがあるから気をつけてね」
「お前が出ていったら彼女が全部やってくれるから心配はいらない。レナさんに見てもらうためのノートでもあるの。お前よりしっかりしてるんだぞ」
「だったら安心だわ。それより、あなたたちの関係はあるの?」
「はあ。なんてことを聞くんだよ」
「だって、もし不貞行為があるなら慰謝料の対象になるでしょ」
「どこまでも打算的だな」
「そりゃ、請求できるものはしたいわよ」
「俺らはきちんと正しい関係なんだ。結婚するまではそういうことはしない」
「いい年した大人がよく言うわ」
彼は離婚届を書いたかと尋ねた。私は置いてきたと答えた。
「だったらいい。俺が書いて速攻で出しておく」
翌日、彼はレナさんに電話していた。
「嫁は昨日出ていったよ。土日だし、今日か明日で引っ越してきちゃいなよ」
「部長、ごめんなさい。今引っ越しシーズンで業者さんの予約が取れないの」
「俺がトラック借りてきて運んでやるよ」
「お母さんの介護もあるのに、そんなことまで頼めないよ」
「遠慮することないのに。奥さんは素直に出ていったの?」
「もちろんだ。ちゃんと20年分の労をねぎらって、円満離婚だったよ」
「素敵。綺麗に別れられるって男の器量でしょ」
「まあな」
「すごいよ。下手に別れると私まで恨まれちゃうじゃん」
「その心配はいらないよ。レナちゃんは俺が守るから」
その会話を、私は後でレナさんからすべて聞かされた。
数日後、レナさんから連絡があった。
「あなたにすぐ連絡が来たのね。はい。心配しないわ。お母さんも今から移動する」
「わかりました。何も手伝えずすみません」
「あなたは同じ職場なんだし、休むと怪しまれるわ。予定通りにしてて」
「わかりました。また連絡します」
「こっちは任せてちょうだい」
彼女はそう言って電話を切った。
その日の夜、彼から連絡が来た。
「今仕事が終わった。病院はどこだ?」
「来る必要はないわ」
「一応息子なんだし、顔くらいは出しておかないと」
「お母さんのご機嫌取りに必死ね」
「そんなんじゃないけど」
「お母さんは足が不自由ではあるけど、頭はしっかりしてるわよね」
「まあ、そうだな。最近はあまり話してないけど」
「そのお母さんが、あなたには来て欲しくないと言ってるわ」
「なんでだよ」
「まず私を追い出したことを怒ってるわ」
「それは夫婦の問題であって、母さんが口を出すことじゃない」
「それでも私はお母さんを20年ずっと支えてきた。そのことを一番分かってくださってるの」
「俺だって感謝はしてる。でもしょうがないだろう。好きな女ができたんだから」
「彼女なら、一生待ったって引っ越してこないわよ」
「何言ってんだよ。今はちょっと引っ越し業者が見つからなくて遅れてるだけなんだ」
「違うわ。レナさんは元々あなたのことなんて好きじゃない」
「お前に何が分かるんだよ。彼女は私の味方だから」
私は静かに話し始めた。
「確かに。最初は連絡先すら知らなかったわ。でもある日、彼女が家を尋ねてきたの。『部長が複数の女性と不倫してます』と教えてくれたわ」
「え、いつのことだ?」
「半年くらい前だったかしら。『複数』ってことは、まあ遊びだろうなと思ったわ。私も介護に追われててあなたのことなんて見てる余裕もなかったし、遊びなら許そうと思った」
「そうだ。それでいいんだよ」
「でも彼女は違った。私より怒ってくれたの。レナちゃんが。『奥様に自分の親の介護をさせて、外では女作って遊んでるなんて許せない』って。泣いてたわ」
「なんで彼女が怒るんだよ」
「自分の父親が不倫して、お母さんとまだ高校生だったレナさんを追い出したそうよ」
「え、それは聞いてない」
「お母さんは相当苦労されたみたい。母子家庭で彼女を大学まで出してるんだもの。どれほど大変だったか、想像するまでもないわ」
「だからって、きっと父親とあなたが重なったんだと思う。私に話をしに来た時、尋常じゃない怒りを感じたわ」
「でもレナちゃんは俺のことを好きだって言ったぞ」
「だから、それが作戦なのよ」
「はあ?その証拠に体だけは許さなかったでしょ」
「それは結婚するまでは純潔を守りたいって言うから。今時そんな奥ゆかしい子がいると思うか?俺は信じた。彼女の内面に惚れたんだ」
「全て演技だったのよ。あの子はあなたのことなんて好きじゃないし、今後結婚して介護をしていくつもりもない」
「何のためにこんなことをするんだ」
「あなたがどん底に落ちて不幸になるところが見たかったんじゃないかしら。父親の代わりに復讐したかった。歪んでるし、間違ってると思う。でも、私の思惑と一致したから、協力関係になったわ」
彼は黙った。私は続けた。
「私がお母さんの介護で腰痛に苦しんで、マッサージ一つ行けない時に、あなたは若い女性と美味しいものを食べてホテルに行って楽しいことをしてたのよね」
「それは感謝はしてたって言ってるだろう」
「感謝されてるから頑張ろうとはならないのよ。私が欲しかったのは、ほんの少しの自由と、直接的な言葉と、物理的なサポートだった」
「今後はちゃんとする」
「今後があると思ってるの?離婚は撤回だ。戻ってきてくれていい?」
「何言ってんのよ。離婚できて清々してるのに」
「母さんはどうするんだよ。見捨てる気か」
「心配はいらないわ。待機してた施設に空きが出て、今日入居したわ」
「病院は怪我したんじゃないのか」
「全部嘘よ。あなたを試したの。心配するどころか、私に押し付けただけだったけど」
「で、施設の費用はいくらかかると思ってるんだ?」
「それはどういう意味?」
「俺が受け取る遺産が減るだろって言ってるようにしか思えないんだけど」
「違う。でも、ただじゃ入れないだろう。分かってると思うけど、お母さんにはそれなりの預金があるわ。そして家と土地もね」
「ちょっと待ってくれ。あそこ売ったら俺はどこに住めばいいんだ?」
「知らないわよ。アパートだって、マンションだって、河川敷だっていくらでもあるでしょ」
「いやいや、お父さんを失って15年経つけど、その間ずっと体が悪かったから、旅行や買い物で使うこともなかったでしょ。だって、相当お金は持ってるはずなんだよ」
「お母さんずっと言ってたわ。『早く施設に入れてくれていいのよ』って。でも私はお父さんとの思い出が詰まったこの家でゆっくりして欲しかったの」
「ちょっと一旦整理しよう」
「もう私たちは整理し終わってるのよ。あなたが話について来れてないだけ」
「いや、違う。話せば分かる。今どこだ?」
「言う必要はないわ」
「施設の手続きだって、息子の俺の承諾がいるだろう。今後医療行為とかあれば、その都度俺の同意がいる場面があるはずだ」
「だから問題ないと言ってるでしょ。私はお母さんと養子縁組をしたから」
「はあ?」
「私もお母さんも成人だから、あなたの許可はいらないわね」
「お前、金目当てでそこまですんのかよ」
「説明したでしょ。お母さんのお金は全て施設の費用に消えるわ。私にもいくらかくれると言ったけど、断った。あなたと浮気した数人から慰謝料をもらえるし、それで十分だからよ」
「え?」
「レナさんから情報を得た時点で探偵をつけて、すでに証拠は抑えてあるの」
「なんでその時に言わなかったんだ?」
「それはあなたを徹底的に地獄に落としたいという、レナさんと私の思惑が一致したからね」
「なんだよそれ。その時に言ってくれたら、ここまでダメージ受けずに済んだじゃねえか」
「私もここまでやるつもりはなかった。あとはレナさんと話してな」
数分後、彼はレナさんに電話をかけていた。
「レナちゃん、あいつから聞いたけど、本当なのか?俺を騙してたなんて、嘘だろ?」
「やっとこの日が来ましたね。長かった。あなたの臭い息を吸うのも、退屈な武勇伝を聞くのもこれで終わりです」
「なんでそんなこと言うんだよ。冗談なんだよな?」
「いいえ、奥様が言った通りです。私はあなたを貶めるために嘘をついて演技をしました」
「ふざけんなよ。訴えてやる」
「どうぞ。その覚悟はあります。まあ、自分の恥をさらすような行為ができれば、自由にしてくださいという感じですが」
「俺ら愛し合ってたよな。あの言葉は全部嘘だったって言うのか」
「はい。全て嘘です」
「違う。君の真っすぐな瞳は本物だった」
「ちょろすぎますね。というか、父と同じです。『運命の相手を見つけた』とか言って、平気で母を捨てましたよ」
「いや、君のお父さんと一緒にして欲しくはないな」
「どうでしょう?父は私が大学進学を控えてる大事な時だったのに、精神的にも金銭的にも崩壊に追い込みました。部長は奥様が介護で苦しんでる間に楽しんでた。どっちもどっちじゃないでしょうか」
「気持ちは分かるけど、うちのことは君の家庭のことと無関係だろ」
「はい。おっしゃる通りです。でも、私は奥様に会った時に母と重なりました」
「どうしてだよ。君の親とは無関係だろう」
「こんな言い方は大変失礼ですが、同じ年代の方と比べて疲れた顔が母と同じだったんです。おしゃれする余裕すらないように見えましたよ」
「そんないい年したおばさんが色気づいてどうするんだ」
「そういう風に思ってるから、平気で浮気なんかできちゃうんですよ」
「だってあの年であの見た目だぞ」
「女性はいくつになっても女性なんです」
「それは無理がある」
「だったら離婚すれば良かったじゃないですか」
「そうだけどさ」
「自分だけ外で美味しい蜜を吸って、面倒なことは妻に押し付けてただけですよね」
「君の言ってることはまあ正論ではあるけど、大人ってのはそう簡単なもんじゃないんだ」
「あなたのような方を大人だというのであれば、そんな大人にはなりたくないですね」
「生意気だな」
「はい」
「ただの部下のくせに、さっきから誰に向かって口を聞いてるんだ?地方に飛ばしてやってもいいんだぞ」
「あら、今度はパワハラですか?」
「人の気持ちを持て遊んだのはお前も同じだろ?」
「そうですよ。私も同罪です。どんな罰でも受けます。それでも、あなたの転落を見届けたかったんですよ」
「なんでだよ。俺は全てを失ったんだぞ」
「失うまで気づけないなんて。人はなんて哀れな生き物なんでしょうね」
「全部お前のせいだろうが」
「会社や家庭で偉そうにしてるあなたが、私の前ではニコニコ穏やかだった。そんな顔を奥様やお母さんに見せてあげていれば、今頃にはなっていなかったのに」
「うるさい。もう消えろ」
「言われなくてもそうします。さようなら」
彼女は電話を切り、私に連絡をくれた。
「みつ子さん、全部終わりました」
「お疲れ様。大丈夫?」
「はい。私のわがままに最後まで付き合ってくださり、ありがとうございます」
「こちらこそ、夫の女遊びの件、教えてくれてありがとう」
「いえ、車内でも随分と噂になっていましたし、気づくのも時間の問題だったとは思います」
「義母の介護に追われた20年だったわ」
「はい。本当にお疲れ様です」
「途中で投げ出すなんて考えたこともなかった」
「みつ子さん、それは違いますよ。投げ出すのではなく、バトンタッチするだけです」
「うん。そうね。お母さんも言ってくれたの。『これでもう気を使わなくて良くなったわ』って」
「お互いが苦しんでたんですね」
「今後は笑顔で施設に会いに行けそうよ」
「私ももう、父を恨むのはやめようと思います」
「それがいいわ」
「部長を見てて気づいたんです。ろくでなしはいずれ勝手に滅びるんだって」
「そうね。おっしゃる通りだわ。今、私の父がどこで何してるか知りませんが、きっと幸せなはずがない。そう確信してます」
その後、彼は仕事まで失った。彼が手を出していた女性たちは全員既婚者で、会社としても看過できず解雇となった。さらに彼女たちの夫から慰謝料を請求され、総額は900万円。老後のために貯めていた1000万円の貯金は、私への慰謝料で500万円に減り、それも一瞬で支払いに消えた。残りは借金して払ったらしい。
今や彼は引っ越しや宅配便のバイトを転々として生活しているという。
義母は施設に入って、明るくなった。友達もできて楽しくやっているようだ。
レナさんは夫から逆恨みされることを警戒し、職場を辞めて引っ越した。その後、素敵な恋人もできたようで、会うたびに素敵な笑顔を見せてくれるようになった。
私は居酒屋で接客をしている。楽しそうに自分の時間を過ごしている人たちを見ているだけで楽しくなれる。
人生を大きく変える決断は苦しいものだ。勇気もいるし、恐怖もある。それでもあの日、私の背中を押してくれたレナさんには感謝しかない。
この選択で良かったと、人生最後に笑えるよう、今日もビールジョッキを笑顔で運ぶ。



