「まだ産まれないの?さっさと産んでください」
陣痛に耐えながらスマホを開いた瞬間、私は固まってしまった。分娩室に入ってから十時間以上が経っている。なのに、夫の神兵から届いたLINEはこれだ。
「大事な話があるから早く電話出ろ」
「産んだらすぐ連絡しろよ」
私は命がけで子供を産んでいる。それなのに、この仕打ちは何なんだろう。
二時間後、ようやく落ち着いてLINEを返すと、返ってきたのはさらにひどい言葉だった。
「遅いんだよ」
「出産は病気じゃない」
「生きてるじゃん」
立ち合いどころか、病院にも一度も来なかった。それどころか、私が必死で産んだ直後に、彼は信じられない言葉を投げてきた。
「母親になった女に興味ないんだよ」
出産の疲れで頭が回らないまま、私は彼の言葉を聞いた。
「離婚で頼む」
何の冗談だろう。子供が欲しいと言い出したのは、確か彼の方だったのに。
「自分が子供欲しいって言ったんでしょ」
「悪いんだけど途中から気持ち悪くなっちゃって。腹が膨れ上がっていくことに恐怖を覚えたっていうかさ」
ありえない。彼もまた、そうやって母親の腹から生まれてきたのに。
「子供が欲しかったんじゃないの?」
「やっぱいいわ。買い物をキャンセルするみたいに言わないで」
私は泣くこともできず、ただスマホの画面を見つめていた。看護師さんたちが周りにいる手前、声を上げるわけにもいかない。
「養育費は払わないから」
「構成少々にして必ず支払わせるから」
「無駄だって。俺の知り合いでも結構養育費から逃げてるやつ多いぜ」
クズの友達はやっぱりクズなんだと思った。
「お互い分与する財産もないし、俺が浮気したわけでもないし、綺麗さっぱり終わりってことで後悔しないわね」
「しねえよ」
たったこれだけの会話で、私たちの結婚生活は終わった。私が産んだばかりの我が子を抱きながら。
三日後、義母の美佐子さんから連絡が来た。
「そろそろ落ち着いた頃かしら?赤ちゃんに会いに病院に伺ってもいい?」
私は正直に話すことにした。離婚することになったと。
「え、なんで急に?」
「出産直後にスマホを見たら夫からすごい数のLINEの通知があったんです。母親になった女に興味ないから離婚しようって」
義母は言葉を失っていた。
「あの子なりに心配してたのかと思ったわ」
「違ったんです。動けなくて誰にも相談できなくて、頭が回らなくて……面会もお断りしてしまってすみません」
義母は私の代わりに息子と話すと言った。
「私があの子と話してみる」
「でも今更心が戻ってくることはない気がします」
「本当に大きなお腹に嫌悪感を抱いたのか、他に原因があってそんな言い訳をしたのか。母親として知っておきたいの」
数分後、義母は息子に電話をかけた。
「神兵、あんた離婚するんだって」
「え、誰に聞いたの?」
「ルイさんに決まってるじゃない。口の軽い女だな」
「こんなこと隠してたっていつか分かることよ」
義母は神兵に言った。
「あそ、いいんじゃない?」
「え?てっきり怒られるかと思ったからびっくりした」
私は義母が味方してくれると思っていた。息子夫婦の仲を取り持つのではなく、離婚を認めるなんて。
それから義母は彼に問いかけた。
「本当の離婚原因は何なの?」
「あ、あいつに言った通りだよ。妊娠してまるまると太っていくことに恐怖を覚えた」
義母はその場では信じたふりをしていた。しかし、その後、彼の家に行き、手紙を送るために住所を聞き出した。
二週間後。神兵の元に、一通の封筒が届いていた。中に入っていたのは、探偵の報告書。
「なんだよこれ」
「見て通りよ。探偵の報告書。めちゃくちゃ隠し撮りされてんじゃん」
「2週間分だからたんまりあるわね」
「まさかこれを送るために住所を聞いたのか」
「その通り。肉も届かないし、おかしいと思ったんだよ」
私はその話を後日、義母から聞いた。
義母は言った。
「ルイさんがあまりにもかわいそうだからに決まってるでしょ」
彼は動揺した。
「俺の味方じゃなかったのか」
「そう思わせたら本当のことを話すと思ったのよ。ちなみに街中であんたとりえさんを見かけたってのもう嘘。脅しただけ」
そう。神兵は浮気をしていた。元カノの里恵と。
「でも俺と累はもう終わってる。だからこれは不倫にはならない」
「まだ離婚は成立してないじゃない。でも実質夫婦関係は破綻してた」
「それはあんたの理屈でしょ。法的にはルイさんはまだ妻なのよ。ってあんたと里恵さんに慰謝料請求できるわ」
義母は言い放った。
「息子を騙すなんてそれでも親かよ」
「まあびっくり。あなたが親の同技を語るなんて」
正直、私はその時、彼がここまで追い詰められるとは思っていなかった。
「それは母親になった女に興味がないとか取ってつけたような理由並べてそれで自分だけ幸せになれると思った。俺にだって色々あるんだよ。里恵さんも妊娠してるんだものね」
義母に促されて、彼は一緒に謝りに行くことになった。病院に。
「お母さんありがとうございます。神兵はともかくお母さんにまで土下座なんかさせてしまってすみません」
「こちらこそごめんなさい。あいつらの尻尾を掴むために本当のことをしばらく言えなかった」
私は義母に噛み締めて言った。
「私のことを思ってしてくれたことですよね」
義母は言った。
「本当に情けないったらありゃしないわ」
それから、離婚協議が始まった。養育費の話になると、彼はとんでもないことを言い出した。
「1万5000円で勘弁してほしい」
「は?だってしょうがないだろ。里恵も妊娠してて働けないし。これからの生活費でお金が飛ぶんだよ。俺の年収で2つの家庭を養うなんて無理に決まってるだろう」
「だから私と子供への責任を放棄して1万5000円で手打ちにしろってこと」
「お前は実家に帰れば親も手伝ってくれるんだろう。だったら金なんてかからないじゃん」
「誰が実家に帰ると言った?」
彼はさらに言い張る。
「慰謝料だって払うんだから毎月の負担くらい減らしてくれたっていいだろう」
「あのね、養育費と慰謝料は全く別の話よ」
「うちのこの養育費が減額される理由にはならないの。弁護士さんにもしっかり確認済みよ」
「でもない袖は触れないだろう」
「だったら袖を増やすなりなんなりしてもらうわ」
彼は怒り出した。
「俺にも新しい生活があるんだよ」
「知るか。勝手に浮気して外で子供作って。うちの子だけが割を食うなんて絶対に許さないから」
「じゃあ2万。これ以上は無理だ」
「年収500万で子供1人なら安くても月4万円」
「はあ。高すぎるだろ」
「払わないなら給料を差し押えることもできる」
最後に彼が言った言葉で、私は決心した。
「お前らより新しい家族が大事なんだよ」
「今ので気が変わった。最高額の6万を取りに行くわ」
彼は慌てた。
「やめてくれ。浮気して悪かった。嘘ついてごめんなさい」
「今更罪なんていらない。全部お金に変えてくれたらいい」
彼はまだ懇願する。
「そんなこと言うなって」
「ああ、そうだ。お母さんが言い忘れてたらしいんだけど」
彼は顔を上げた。
「何?」
「里恵さん他にも男の人がいたっぽいよ」
「え?本当にあなたの子なのかしらね」
彼の顔色が変わった。
「嘘だろ?俺新しい家族のためにマンションまで買ったんだぞ」
「私たちにはしてくれなかったこと。里恵さんには全部やるんだね」
彼は必死に反論する。
「彼女の何がそんなに良かったの?」
「なんていうかすごく褒めてくれるんだ」
「は、かっこいいとか仕事できるとか」
「それだけで良かったの?」
「自己肯定感が上がるっていうかさ。一緒にいて気分が良かったんだよ」
「まあ、お腹の子を育てるための財布目当てならそのくらいの嘘は平気でつくよね」
「嘘じゃない」
「だったら彼女を信じて幸せに暮らせばいいわ。DNA鑑定なんてする必要もないわね」
彼はハッとした。
「あ、なるほど。その手があったか。ありがとう。生まれたらやってみるわ」
私はそっけなく言った。
「ちなみに私が産んだ子はあなたそっくりよ。何の因果かしらってほど似てる」
「そうなんだ」
「一生合わせないけど血を分けた存在がこの世にその子には未来があるの。そのために養育費だけは頑張って払ってほしい」
「わかった。では養育費6万で請求します」
その後、七ヶ月後。里恵が産んだ子は、どう見ても欧米の血が入っていた。彼は「覚醒遺伝よ」と言い訳したが、里恵の母に確認したところ、何代遡ってもそのような血筋はないとのこと。やはり、父親の分からない子を生むために、再び神兵に近づいたというのが真相だったらしい。
さすがに騙されたと気づいた彼だが、マンションのローンや私への慰謝料と養育費で全く首が回らない状態。弁護士の相談や訴訟をする余裕もないとか。実の母親からも縁を切られて途方に暮れた彼は、驚きの行動に出た。
「実の我が子と暮らしたい。復縁して欲しい」
毎日LINEを送ってくるようになったのだ。鬱陶しいので、すぐにブロックした。
彼は今、家からは逃げたら地獄の果てまで追いかけると圧力をかけられているようで、仕方なく全く似ていない子供を育てるために休む暇もなく働いているらしい。
私も少し小さなマンションに引っ越し、子供を保育園に預けて働いている。義母だった美佐子さんも、よく遊びに来てくれる。神兵そっくりの孫にメロメロのようで、時折うっすらとお瞳が濡れていることがある。会えなくなった息子に何かを重ねているのかもしれない。
いくら我が子でも、間違いを指摘し、正しい道に導くというのは簡単なことではない。それをやってのけた美佐子さんを心から尊敬しているし、私もこんな素敵な母になりたいと思っている。



