ハワイの空港で、彼は私を置き去りにした。「俺だけ乗るわ」と言って、搭乗手続きで引っかかった私を残し、一人家に帰った。それから3ヶ月、一度も連絡はなかった。離婚届を突きつけられたのは、それからすぐのことだった。
だから、彼からの突然のLINEには腹が立った。
「よう、みさ、元気してた?ちょっと伝えたいことがあって」
「伝えたいこと?私は聞きたくないわ。あなたの言うことなんて、まともなものじゃないもの」
「あの件は、まあ俺も悪かったよ。でも大げさじゃねえか。飛行機の都合があったんだし、しゃあねえだろ。それよりさ、いい話があるから聞けよ」
いい話。3ヶ月も無視しておいて、今さら。
「で、要件は何?」
「お前の実家潰してアパート立てたぞ。儲けの1割やるから、管理は俺に任せろ。いいよな」
……
「何言ってるの?私に実家なんてないけど」
彼が言うには、私の祖母の家だという。しかし、祖母は10年前に亡くなり、家は売却済みで相続放棄している。今は他人の土地のはずだ。
「え、そうなの?一体どこの話をしてるわけ?」
「取り壊した家の番地と業者名を教えてくれる?確認したいから」
「LINE市、市場町1丁目だけど。業者はラ建設。契約書も全部俺名義だし、建設費も佐々木工事でちゃんとやってる」
「そう。詳しくありがとう」
彼は無邪気に全部喋ってくれた。彼の母親、浩子さんからも連絡が来た。
「ご無沙汰しています。相変わらずですね。お母さんですが、そもそもお礼を言うのはおかしな話です。私に実家はありませんし、祖母の家は売却済み。つまり他人の土地ですから」
「どういうことよ。コウジはあなたのためにわざわざ動いてあげたの。他人の土地に無断で建物を立てたんですよ。これってかなり大事ですからね」
「大事?大げさな子ね。そもそもあなたって結婚前からまともな実家もなかったんでしょ」
彼女は言った。私みたいな家の出の子が佐々木家に入れてもらえたことに感謝すべきだと。婚姻中の家計も自分が管理してあげていたと。援助してあげたと。
「援助の事実は確認していませんが。通帳も領収書も全部残っています。必要であれば開示しますよ」
「そ、それは……過去のことはいいです。何を言われても感謝しませんので」
「それより、あなたはことの重大性が分かっていらっしゃらないようですね。こちらは弁護士に相談しますので」
義母は激昂した。ご近所にはもう私のことを貧乏な家の出で図に乗っていると吹聴してある、と言った。お茶会の会長とも仲がいい、と脅してきた。
同時刻、私は親友に連絡した。
「あら、ちょっと助けてほしいの。コウジが他人の家を勝手に取り壊してアパート建てたって連絡してきたの」
「は?何それ?」
「私の実家だと思ってたみたい。義母も同じ勘違いしてるみたいで」
親友は言った。
「みさの祖母の家の住所、うちの祖母の家と同じじゃない?え、ちょっとこれマジどうしたの?」
「え?私が3年前に相続したやつ。土地自体は5年前に買ったって言ってたわ。もちろん売ってもないわよ。今も名義は私1人だけだし」
「誰かが勝手なことはしてないはず」
「嘘でしょ?結構大きな家だったはずよ。おばあちゃん、よく友達を呼んでお茶会とかしてたから。それが工事がさら地にして、アパートまで立てたっていうの」
親友の祖母が植えた、樹齢80年の桜。毎年春、二人で見に行っていた。あの木は、もうない。土地を買った時に一緒に植え替えていたから、と親友は言った。
「あの桜、まだ立ってると思う?」
「多分ないと思うわ」
私は決意した。
「許せない。あいつをこのままにしたくない」
「私も同じ。ずっと怒りを抑えてたけど、おばあちゃんの家が消えたって聞いて、もう抑えられない」
「一緒に戦いましょう」
「ありがとう。私1人じゃここまで動けなかった」
私は弁護士を立てた。
3日後、佐藤法律事務所の弁護士が、佐々木浩司のもとを訪れた。
「本日はあなたがLINE市の土地を取り壊し、建造物を建設した件でご連絡いたしました」
「元嫁の実家だろう」
「当該不動産は、私の祖母から私が相続した私個人の所有物です。みささんに所有権はありません。あなたは赤の他人の私有地に侵入し、無断で建造物を建設した。それが事実です」
「待て、話が違う。ブローカーが先の実家だって言ったんだ」
「その契約書は全て偽造です。あなたは詐欺に加担しています」
彼は「俺も騙されたんだ」と主張した。しかし弁護士は知っていた。彼が離婚成立から4日後にブローカーと接触し、1ヶ月でローンを組んで着工まで動いていたことを。それは、事前に準備していなければできないことだった。
「あなたは他人の土地に無断で侵入し、家屋を破壊し、建造物を立てた。騙されたかどうかに関わらず、それぞれ刑事罰の対象です」
「落とし入れたのか」
「あなたが勝手に地滅しただけです。私は何もしてませんよ」
翌日、彼から電話が来た。泣きつくように、縋るように。
「みさ、頼む。俺が悪かった。このままだと本当に破産するんだよ。せめてローンの半分だけでも……」
「断るわ。昨日まで感謝くらいしろって偉そうにしてた人が、今日は泣きついてくるのね。その切り替えの速さだけは本当にあなたらしいわ。感心するなあ」
「そんな言い方しなくてもいいだろう。俺たちの話なんだから」
「あなたと私の話は終わっているわ。3ヶ月前にね」
彼は逆上した。
「お前だって怪しいだろ。無関係な人間がそこまで確認するか。見逃してたなら共犯と同じだぞ。お前も道連れにしてやる」
「離婚した直後から、あなたとのやり取りは全部録音して保存してあるの」
「は?」
「詳しく聞いたのは証拠を固めるためよ。あなたが自分から全部喋ってくれた。今の脅迫、弁護士に転送するから」
弁護士からさらに連絡が入った。
「あなたが今住んでいる建物の101号室。電気も水道もあなたの個人名義ですよね。あなたには土地の権利も入居の許可も一切ありません。明日付けで立ち退き要求書を送ります」
「俺の金で立てたんだぞ」
「家賃の問題ではありません。他人の土地に勝手に立て、勝手に住んでいる。そのまま住み続けられるわけないでしょう」
しかも、彼はあの土地付きのアパートを売ろうとしていた。転売して現金化し、海外へ逃げるつもりだった。パスポートを更新し、長期滞在ビザの申請書類も用意していた。
義母の浩子さんにも弁護士から連絡が行った。
「お母さんが私に送ってきた最初のLINE覚えてますか?『嫁の実家を活用してあげたのに感謝くらいしなさいよね』。これです。あなたが工事が動いていることを事前に知っていた証拠です」
「違うのよ。工事から相談を受けて、背中を押してあげただけで……」
「ブローカーの紹介も資金の段取りも全部ご存知でしたよね」
「だって工事があなたの実家だって信じてたから、私もお母さんも確認しなかったのよ」
「だから共犯が成立します」
義母は、「私は騙されたのよ」と泣き喚いた。しかし、もう遅かった。
親子は互いを責め合った。
「こうなったのは全部母さんのせいだ。あの女から何か取り上げろってずっと言い続けたのは母さんだろう」
「何よそれ。あんたが離婚されたから可哀想で動いてあげたのに」
「可哀想?母さんだって自分の借金返したかっただけだろ。アパートの収益で返す気だったんじゃないのか」
「黙りなさい。そもそも誰のせいで離婚になったの?ハワイで嫁を置いてきたのはあんたでしょ」
「あれだって母さんが早く帰って来いってしつこく連絡してきたからだろう」
「みさの給料を当てにしろって俺に吹き込んだのは誰だよ」
「あんたのためを思っていったのよ」
2週間後、義母から泣きつくような電話が来た。
「お茶会の仲間に連絡しても、誰にも返事をもらえなくて。あなた何かしたんじゃない?」
「何のことでしょうか?私は何もしてないですよ」
「でも、お母さんのお茶会の会長さんって、私の母の高校の先輩ですよね。お母さんが『みさは貧乏な家の出』とあちこちに広めていたと聞きました。おかげで会長から母に連絡が行き、事実が全部伝わりましたよ。変なこと言いふらされているけど大丈夫かって」
私は最後に、こう伝えた。
「今回壊された家に、樹齢80年の桜の木がありました。私の親友の祖母が、80年前に自分で植えた木です。小さい頃は毎年春に二人で見に行って、笑っていた場所です。お金では絶対に戻らない。80年かけて育てたものが1日で消えた」
彼は会社を首になった。建設業界では、違法業者と取引した経歴のある人間は避けられる。月収のほとんどを差し押さえられ、ネットカフェを点々としていると聞いた。
その後、彼から最後の電話が来た。
「みさ、俺は……」
「あのさ、あの桜のことだけは絶対に許さない。知らなかっただけでしょ。知ろうとしなかっただけでしょ」
「みさ、俺……あの時は……」
「弁護士から伝言よ。示談には応じません。アパートの解体費を頑張って稼いでください。管理したかったんでしょ?頑張って借金の管理はしてね」
彼は自己破産を申請したが、不法行為の損害賠償債務は破産しても免除されない。現状回復費用約4200万円と、詐欺未遂・文書偽造・住居侵入・脅迫の刑事罰は、生涯残る記録となった。
義母は調査責任を問われ、年金を差し押さえられた。地域コミュニティからも追放され、ワンルームで「私だけ貧乏くじを引いた」と呟いているそうだ。
私は今、外資系IT企業の管理職として新しい人生を歩んでいる。
親友は祖母の家を再建し、庭に桜の苗木を植え直した。花が咲くのは随分先のことだけど、この桜は二人で守っていこう。そう約束した。



