「ハワイ行ってくるわね。留守番よろしく。」
義母が旅行会社のパンフレットをテーブルに置きながら、軽い調子でそう言った。
「あら、お母様。随分と景気がよろしいことで。」
私はコーヒーカップを置き、できるだけ平静を装った。
「そうなのよ。可愛い息子が親孝行で連れてってくれるらしいの。」
「へえ。その息子さんって私の夫なんですが、そんな話、聞いてないんですけどね。」
義母は鼻で笑った。
「別に、嫁ごときに言う必要ある?」
「家計のお金から出るなら、相談があってもいいのでは?」
「あなたと結婚してから、お金が余ってるらしいな。そのお金で連れてってくれるんだから、いいでしょ。」
私は手帳を開き、数字を読み上げた。
「私と生活費を折半してるからです。あと、余ってるんじゃなくて、貯金してるんですよ。」
「え、どこかで『酔い越しの金は持たない』って言うじゃない。」
「お母さんも息子さんも、埼玉生まれの埼玉育ちですよね。」
「え、どこの家でも同じよ。」
義母はパンフレットを指でトントンと叩いた。
「それで、冒頭の話題に戻るんですが、『留守番』とは一体どういうことでしょうか?」
「そのままの意味に決まってるじゃない?」
「私だけ行けないってことですか?」
「逆になんで行くつもりなのよ。」
「いや、結婚したので、家族になったのかなと。」
義母は声を上げて笑った。
「冗談やめてよ。婚姻届に名前書いただけの他人でしょ。」
「すごい矛盾パワーワードですね。」
「どうでもいいけど、夫と息子と娘夫婦の5人で行くから、邪魔しないでちょうだい。」
「お兄さんは行けるんですか?」
「もちろん。娘の大事な旦那様だもの。」
「私も竜一さんの大事な妻のはずですが、全然違うんですね。」
「結婚半年のあなたと、向こうを一緒にしないでよ。」
「何が違うのかわかりませんし、うちの貯金で旅行するんですよね。」
「それが何よ。」
「5人分のハワイ旅行に使えば、うちの貯金はあっという間に底をつきます。」
「別にいいじゃない。私たちが喜ぶんだから。」
「それに、夫は私を置いていかないと思います。」
義母は目を細め、勝ち誇ったように言った。
「すごい自信ね。」
「お互い好きで結婚したんですよ。大事にするって誓ってくれたんです。」
「そのことだけど、結婚自体を認めたわけじゃないわよ。」
「はい?」
「息子がどうしても結婚したいって言うから、しぶしぶ許したけど。あんたみたいな派遣社員の凡人とは釣り合わないのよ。」
「結婚後半年でそれを言うのは、どうかと思いますよ。」
「まあ、後継ぎな我家の一員になりたければ、たゆまぬ努力を続けなさい。」
「その『後継ぎ』って、何のことですか?」
「え、竜一から聞いてないの?」
「はい。何も。」
「うちのご先祖様は貴族なのよ。」
「そうなんですか。」
「ミク脈クと、その血を受け継いできたのが、夫と息子。」
私は口元を押さえた。
「ってことは、お母さんは後継ぎではないんですね。」
「は?」
「私と同じ、嫁だし、凡人じゃないですか。後継ぎな家に嫁いだ時点で、私も仲間でしょ。じゃあ、私も同じですよね。」
義母の顔がみるみる赤くなった。
「あんたは、まだその身分じゃないの!」
「理屈が全くわかりません。」
「とにかく、嫁としての修行が足りないってこと。」
「お母さん、嫁いびりとか今時流行らないので、やめておいた方がいいですよ。」
「流行りもなにもない!」
「とにかく、件については夫と話し合いますので。勝手にしないでください。」
私はそう言って、スマホを取り出した。
数分後。ダイニングに夫が帰ってきた。
「お母さんが私を置いて家族でハワイに行くって。うちのお金使うこと、聞いてないんだけど。」
夫はスマホを見たまま、軽く答えた。
「ごめんな。相談はして欲しかった。しかも、私だけ置いていくなんて、地味にこたえるよ。」
「コはオルス版、お願いするね。」
「え?」
「パパとママと、ねえね夫婦と5人で行くんだ。」
「えっと、ちょっと待ってね。1個ずつ片付けようか。」
「まず、パパとママって何?あと、ねえねって。」
「父と母と姉。」
「それは分かってるけど。そんな呼び方してたっけ?」
夫はようやくスマホを置き、私を見た。
「リコも一緒に連れていいかな?」
「キックやパンチをされてるの?」
「あら、なぜそう思うんですか?」
夫が実母に電話をかけ、そのままスピーカーにした。義母の甲高い声が部屋に響く。
「あら、なぜそう思うんですか?」
「そうなの?航空券とホテル代だけで130万使っちゃって、残り20万で現地を回るなんて無理なのよ。」
「ホテルというか、コテージみたいなところで雑魚寝してるの。」
「それはそれは。海までも遠いし、外食も高いから、結局私が料理するはめになって。」
「楽しそうですね。」
「とんでもないわ。だから、ご一緒できないかなって。」
「何か奢ってってことですか?」
沈黙が流れた。義母は何も言い返せず、プツッと一方的に電話を切った。
夫は深くため息をつき、私を見た。
「リコ。正直、親の言い分、おかしいと思う。お前を置いて行くなんて、ありえない。」
私は何も言わず、手帳を閉じた。
夫は続けた。
「行くなら、全員で行くか、俺も行かない。それが筋だ。」
その言葉に、私は少しだけ胸のつかえが取れた気がした。
翌週、夫は義実家に一人で出向き、母親と話をつけた。帰ってきた夫の顔は、どこか疲れていたが、晴れやかでもあった。
「旅行は、家族5人で行くことにした。俺と、お前と、娘夫婦と、親父。母さんは、しばらく実家で頭を冷やしてもらう。」
「お母さんは、何て?」
「『孫の顔を見せろ』って泣いてた。でも、もう決めたことだ。」
私は黙ってうなずいた。
ハワイの空の下、私は初めて、夫の家族の一員として、ちゃんとそこに立っていた。



