朝7時、駅前の大通りは通勤の車で渋滞していた。低ト銀行の支店の前だけ外壁の改修工事で道路の片側が塞がれ、誘導員が旗で車を交互に通している。旗を振っているのは白髪を刈り込んだ男。色あせた作業服に日に焼けた深いしわ。だが旗を持つ背筋は若い者より真っすぐだ。
構造65歳。この現場を受け持つ警備会社、大館警備保障の社長である。今日は熱を出した従業員の代わりに自分で穴を埋めていた。隣にはぶかぶかの制服の新人が立っている。広瀬翔太22歳。新人はベテランについて誘導を覚える決まりで、今日は構造の隣が持ち場だった。
車列が途切れた合間に、構造が横目で言った。
「翔太、旗が寝とるぞ。手首じゃない。肘から振れ」
「うす。こうすか?」
「そうだ。ドライバーはお前の旗しか見とらん。人の命を預かっとる腕だ」
「命の旗振りっすね」
翔太は高校を出てから仕事を点々とし、この会社でようやく3ヶ月続いた。隣の白髪の男が社長だとは知らない。時々現場に来る、旗の持ち方にうるさい応援のおっちゃんだと思っている。
十字の信号に構造の携帯が鳴った。専務の倉からだった。
「もしもし」
「社長、また現場に出とるんですか?来週は銀行さんへの挨拶が入っとりますよ」
「分かっとる。現場を知らんくなったら俺は終わりだからな」
「はいはい。創業から40年。そればっかりですな」
「若い頃、俺たち警備員は『立っとるだけの仕事』と笑われた。人間扱いされんかった時代だ。だから会社を作った。忘れたら終わりだろう」
「ええ、分かっとりますよ。誰よりもね。昼から代わりを回しますから。引き継ぎが済んだら戻ってくださいよ」
通話を切った構造の手に、使い込んだ旗があった。創業の年からの一本で、握りに巻いた布の上下から木肌が飴色に光っている。手が滑らないように、妻が布がすり切れるたびに新しく巻き直してくれた。最後に巻いてくれたのは5年前。その年に妻はこの世を去った。今も構造はこの布を変えずにいる。
隣の翔太がその旗に目を止めた。
「おっちゃん、それ年季入ってますよね。会社の倉庫にもっと新しいのあるのに」
「これはな、お守りだ。ほれ、休憩終わりだ。行くぞ」
昼前、支店の車寄せにタクシーが止まった。降りてきたのは仕立てのいいスーツの若い男だった。磨かれた革靴が工事現場の砂を嫌うようにつま先立ちで歩く。歩行者通路の入り口で男は構造の置いたカラーコーンを革靴の先で押しのけた。誘導の合図をした構造を、作業服の上から下までなぞるように見て鼻から息を抜く。
「なんすか、今の人。感じ悪いっすね」
「だが、ああいう歩き方をする奴は大体足元を見とらん」
男の名は波多野32歳。この支店に今日着任したばかりの融資担当だった。
数日後の午後2時前、構造と倉は低ト銀行の支店を訪れた。盆前の挨拶と追加融資の相談。それともう一つ、世話になった融資担当が春に転勤し、後任との顔合わせがまだ済んでいなかった。構造は午前の現場から直行で作業服のまま。倉はいつものくびれた鞄を下げている。
冷房の効いたロビーで受付に用件を告げ、2人は隅のソファーに腰を下ろした。10分が過ぎ、20分が過ぎる。約束の14時はとっくに過ぎていた。
「遅いですなあ。前の担当者さんの時はこんなことはなかったが」
30分が過ぎた頃、奥から若い行員が出てきた。手にした書類とロビーの客を見比べている。あの日、現場でコーンをどけていった男だった。男の視線が隅のソファーの2人を素通りし、戻ってくる。作業服の構造に歩み寄ってきた。
「失礼ですが、業者さんですよね。お打ち合わせでしたら搬入口は裏に回っていただけますか?ここはお客様の入り口ですので」
「い、いえ、業者ではなく客ですが。14時のお約束で、融資のご担当をお待ちしとるんです」
「融資の担当は私ですが……ああ、大館さんですか。失礼ですが、社長さんはご一緒ではない?」
「こちらが社長でございます」
「俺だよ」
波多野は手元のメモと作業服の構造を2度見比べた。
「え?あ、こ、これは失礼いたしました。いや、その作業服でいらしたもので。担当の波多野でございます。どうぞ、奥へ」
案内された応接室で名刺を交換する。波多野は両手で受け取ったが、目は名刺ではなく、構造の作業服の胸元を見ていた。
「うわあ、旗振りが社長ってマジで底辺じゃん」
「今なんと?」
「いえ、現場を大切になさる社長さんだなと」
「いやあ、ご立派なことで」
席払い一つで波多野は営業用の笑顔に戻った。
「改めまして、先週着任いたしました波多野でございます。この春までは本部で上場企業様ばかり担当しておりましてね。ええ、こちらへはその……まあ、勉強にというやつです。ただ、申し上げにくいのですが、前任の頃と今とでは情勢が変わっておりましてね。本部の方針で、地域のお取引先様との関係をその……見直す流れになっておりまして。ご要望にお答えできかねる場面も、これからは出てくるかと」
「ああ、それと、これは老婆心で申し上げるんですがね。社長さんご自身の現場の旗振り、ご年齢やお体のこともございますし、そろそろお若い方にお任せになっては。代表の方が現場に立っておられると、よほど人手にお困りなのかと余計な想像される方もいらっしゃいますので」
「え、私は思いませんけれど。もし」
「社長の現場主義はうちの創業以来の」
「ああ、なるほどなるほど。結構なことです。昭和のね、良き時代の」
波多野は腕時計に目を落とした。この応接に入って3度目だった。
「申し訳ありません。次の予定が詰まっておりまして。ご挨拶は確かに受け承まりました。追加のご用件の話はまた日を改めて、ゆっくりと」
「ええ、ゆっくりと」
構造は言い返さない。茶を一口飲み、音を立てずに湯のみを戻した。挨拶とも言えない挨拶が終わり、2人は応接室を出た。見送りはドアの前までだった。
帰りの車、ハンドルを握るのは倉だ。信号で止まるなり、せきを切ったように口を開いた。
「社長、私は40年お供して、今日ほど腹の立った日はありませんよ。お年齢やお体のことなどと、あれは心配の顔をした悪口です」
「うん」
「それに聞きましたか?『本部の方針で地域のお取引先を見直す』と。おかしな話ですよ。低ト銀行の頭取は先月、新聞で『これからは地域のお取引先と共に歩む』と大きく語ったばかりです。方針が逆さだ。あの若造、口から出任せを言うとりますよ。大方、本部から飛ばされてきた腹いせでしょうな。本人は『勉強に来た』と言いましたが、ありゃどう聞いても左遷ですよ。それで腐って、当たりやすい相手に当たっとる」
「はは、だろうな」
「担当変えてもらいましょう。なんなら柏木支店長に直接」
「よせ。ああいう手合いは初めてじゃない。それにな、嘘はいずれ全部、ついた本人に帰ってくる。ほっとけ」
1週間後の午前、構造と倉は再び支店の応接室に行った。今日は用件を改めて本題。機械警備を増やすための融資の追加融資の相談である。今回は待たされなかった。代わりに応接室にはスーツのいい中年の男が同席し、隅の椅子で手帳を開いていた。
「課長の江藤さんです。融資のお話ですから、課長さんにもご同席いただけるそうで」
「どうも」
江藤は名刺を差し出したが、すぐ手帳に目を落とした。額にはうっすら汗が光っている。テーブルの向かいで波多野はこの前と同じ営業用の笑顔だった。行儀よく膝をそろえ、両手をテーブルの上で組んでいる。
倉が鞄から事業計画書を出し、テーブルに広げた。
「ご覧ください。ご契約は年々伸びております。設備を先に整えれば雇用も増やせる。決算書も3期分を持参しました」
波多野は計画書を丁寧な手つきでめくった。だが途中でため息をつく。
「率直に申し上げて、厳しいですね」
「先月申し上げた通り、情勢が変わっておりますので」
「厳しいと言いますと、どの辺りが?」
「うーん、どの辺りと言われましても、全体的にですかね」
波多野がちらりと隅の江藤をうかがった。江藤は手帳から顔を上げない。それを確かめると波多野は背筋を伸ばし、腕を組んだ。
「そもそもですね、社長さん。機械警備に5億って、お宅の規模で回せるんですか?計画がちょっと夢見がちと言いますか」
「夢見がちって、あなた。数字は全部そこに書いてあります。うちはね、数字が全てなんですよ。数字が」
「で、その数字に魅力がない」
波多野はもう一度江藤に目をやった。手帳のページがめくられる音がしただけだった。波多野の背中が背もたれに沈んだ。肘が広がる。計画書の端を指の先でつまみ、めくりもせず押し返した。
「正直に申し上げてね。社長さんが作業服で旗振りをしているような会社にお貸しできる融資は、うちにはないんですよ。ご近所の信用金庫さんとかあるでしょう。ああいうところの方がお似合い」
「いやあ、そのお付き合いには規模の釣り合いというものがございますので」
「へえ」
「え、え、課長。課長はどのようにお考えで?」
「まあ、その担当は波多野君なので、私からは何とも。任せておりますので」
江藤は額の汗をハンカチで抑え、それきり口を閉じた。波多野の口の端が上がった。どこまで暴言が許されるのか、その答えをもらったと言わんばかりの顔だった。
その時、行員が応接室に顔を出し、波多野に耳打ちした。大口の取引先の常務が予定より早く着いたらしい。
「え、常務がもう?すみませんね。うちも忙しいもんで。今日のところは以上ってことで」
波多野は跳ねるように立ち上がった。部屋を出ると廊下の先に向かって腰が直角に折れる。
「常務、ようこそお越しくださいました。ささ、奥へどうぞ。ただいま冷たいものを持ってまいりますので」
砂糖のような猫なで声が廊下に響いた。応接室に残された江藤は気まずそうに手帳を閉じ、最後まで目を合わせないまま逃げるように出ていった。構造は広げたままの計画書を1枚ずつそろえて鞄に戻した。
「倉、行くぞ」
支店を出ると、車寄せで波多野が例の常務を最敬礼で見送っていた。構造たちへの見送りはドアの前まで、常務には車の外までだった。その車寄せの脇、工事現場の端では翔太が旗を持って立っていた。黒塗りの車を本線に送り出してから構造たちに気づいて頭を下げる。
車が走り去ると、波多野は腰を伸ばし、旗を持つ翔太に目を止めた。
「ねえ、君、ここの警備の子でしょ?君、いくつ?」
「え、22ですけど」
「22か。若いな。老婆心で言うけどさ、社長が自分で旗を振っているような会社。長い目で見てどうなの?いやいや、悪口じゃないよ。ただ、君みたいな若い子が時代遅れの船と一緒に沈むのはもったいないなあと思ってさ」
「あ、今の、おふれこね」
言うだけ言って、波多野はガラス扉の向こうへ消えていった。翔太の旗がすっと下がった。言い返す言葉は出ず、悔しさは旗の柄を握る指の白さに出た。聞くつもりがなくても届く声だった。構造は駐車場からその一部始終を見ていた。
その夜、本社の資材倉庫の前で翔太が旗と無線機を返していた。遅くまで残っていた構造が足を止める。
「翔太、昼間のこと気にしとるんか?」
「おっちゃん、見てたんすか?俺、この仕事好きなんすよ。初めて続けたいって思えた仕事なんす。なのに『沈む船』って言われて、言い返せなかった。悔しいっす」
「言い返す必要はない」
「え?」
「言葉で返すな。仕事で返せ。旗はな、翔太」
「寝ます。明日も肘から振れ」
「うす」
返事は夜の駐車場に響くほど大きかった。立っとるだけの仕事と笑われた若い日の自分と同じ顔を、あの子はしていた。
週明けの月曜、朝9時過ぎ。大館警備保障の本社事務所に銀行から電話が入った。受けたのは経理の倉だった。
「はい。はい。本日14時にご来店?……用件は伺えんのですか?……ああ、来てからですか?」
受話器を置いた倉は、そのまま社長室のドアを叩いた。
「銀行から呼び出しです。用件は『とにかく来い』と。おかしいですよ、社長。用があるなら担当が会社へ足を運ぶのが筋です。お客を銀行に呼びつけるなんて、この40年で初めてだ」
「うん」
「それにですな、嫌な感じがします。今日は確か柏木支店長が本部の会議で終日おられん日です」
「おお、よく知っとるな」
「長い付き合いですから。支店長の留守を狙って呼びつけるとは、ますます嫌な感じだ」
「行けば分かるさ。14時だな」
午後2時、支店の応接室。波多野は今日も入り口で丁寧に頭を下げた。
「お忙しいところ恐れいります。どうぞおかけください」
今日はソファーも進めた。茶も出た。それがかえって不気味だった。波多野はテーブルの向かいに座り、1枚の書類を差し出した。
「本日はこちらを渡すためにご足労いただきました」
書類の題は「融資方針の見直しについてのご通知」。倉が受け取り、目を走らせる。持つ指が途中で止まった。
「追加のご融資は見送り。既存のご融資10億円について、早期のご返済をお願いな。何ですか、これは?」
「書いてある通りです。先日来申し上げてきたでしょう。情勢が変わったと」
「お、お待ちください。融資には期限の利益というものがあります。期限まで返さんでいいという借り手の当然の権利だ。銀行のご都合で今すぐ返せなど通る話では?」
「ええ、おっしゃる通りですから、お願いなんですよ。強制などできるはずがない。ただ、お願いを聞いていただけないお取引先と、今後どうお付き合いするかはこちらの自由でしてね。ご本社の土地に担保の追加をお願いするか、ご利息の見直しをさせていただくか、まあ色々とね」
「そ、それは実質脅しじゃ」
「人聞きの悪いご相談です」
倉の顔が赤黒くなっていく。
「理由を聞かせてもらいましょう。うちの決算のどこにご融資を求められる理由があるんですか?」
「総合的な判断です」
「そ、総合的とは何ですか?決算書のどこの数字が悪いと?」
「総合的ですよ。それ以上でも以下でもございません」
どれだけ押しても同じ言葉が返ってくるだけだった。
「あ、あなたね」
「はあ。ご理解いただけないようですので、ま、平たく言えばこういうことですよ。底辺企業への融資停止です。今すぐ10億返済しろ。なんてね。はは、冗談です。書類の文言は丁寧でしょう」
構造は答えなかった。手をつけていない湯のみの茶が細く湯気を立てている。
「社長さん、お聞きになってました?それともご心配ですか?失礼ながら、交通誘導の旗振りの日当では、今すぐ返済は厳しいでしょうね」
構造が顔を上げた。
「本当に返済しますよ」
「はあ」
「早期の返済のお願いだろう。分かった。お受けしよう。明朝、全額をお持ちする」
波多野の口元から余裕が1枚剥がれた。だがすぐに張り直される。
「それはそれはご立派な覚悟だ。ですが、社長さん、10億ですよ。明日の朝までに10億、できるんですか?」
「お手数、ご心配なく」
構造は立ち上がり、通知を折って胸ポケットに収めた。
「ご通知、確かに受け承った。行くぞ、倉」
2人が応接室を出ると、波多野はソファーの背に持たれ、天井に向かって長い息を吐いた。
「はいはい。強がっちゃって。返せなきゃ担保。返せても回収。どっちに転んでも俺の実績。リストラ案件、一件上がり。これで本部に戻れるわ」
エレベーターの中、扉が閉まると構造は前を向いたまま一言だけ告げた。
「倉、金庫を上げてくれ」
「はあ?あ、あれはいざという時のための備えで。今がそのいざだ」
「あの銀行とは手を切る」
この人は我慢していたのではない。40年の付き合いを切るかどうか、考え抜いていたのだ。自分が気を揉んでいた間も、ずっとそこまで決めていた。
「ああ、承知しました。あとは軽車両の仕事です。明朝までに耳をそろえて10億、お任せください」
翌朝9時、開店と同時に低ト銀行の支店に倉が現れた。まっすぐ受付に向かい、名乗って告げる。
「大館警備保障です。ご担当の波多野さんに、昨日お願いしたご返済に参りましたとお伝えください」
内線を受けた波多野は口の端で笑った。
「はいはい。来た来た。どうせ『待ってくれ』のご相談でしょう」
応接室へ向かう廊下で、波多野は頭の中で算盤を弾いた。返せませんと泣いてきたら、担保を取って条件を締め直す。分割にしてくれと来たら、渋い顔で応じて利息はしっかり上乗せ。万一本当に返してきたら、回収完了。どれも実績。どう転んでも俺の勝ち。さて、どの泣き顔が見られるかな。
だが応接室で待っていたのは泣き顔ではなかった。テーブルに置かれた繰り上げ返済の申込書と振り替えの依頼書、判は全てそろっている。
「ほ、本気ですか?10億を全額」
「昨日社長が申し上げた通りです。うちの当座の口座から振り替えます。ああ、繰り上げの手数料もきっちりお支払いしますよ。お願いをお聞きするのに半端では失礼ですからな」
「え、いや、しかし、お宅の残高で10億は」
「残高ならご自分の端末でどうぞ。うちの決算書は魅力がないそうでしたから、せめて数字だけでも」
波多野は応接室を出て、自席の端末を叩いた。画面に大館警備保障の当座預金が映る。桁を数える波多野の唇が途中で止まった。
「嘘だろ?はったりだと思ってたのに。底辺の旗振りの会社が、なんでこんなに」
俺の見立てが外れた。
昼前、手続きは終わった。振り替え完了の伝票が発行され、10億円は貸し方の手元に戻った。窓口の奥がざわつき、ベテランの行員が恐る恐る波多野に声をかけてきた。
「あの、波多野さん。大館さんの融資回収したって本当ですか?大館さんって確か、うちの……」
「何ですか?今忙しいんで」
言いかけた言葉は波多野の睨みで引っ込んだ。伝票を手に、波多野は自席で黙っていた。数字の上では満点のはずなのに、勝った気がしない。ふと、さっきの行員の言葉が耳に戻ってきた。
「大館さんって確か、うちの……」
確か、なんだ?波多野の手が端末の取引先の資料に伸びかけた。そして止まった。
「やめだ。やめ。回収の済んだ案件を今さら調べてどうする?妙なものが出てきたら、かえって面倒だ」
そうだ。分かってる。表紙抜けしているだけだ。楽しみにしてた泣き顔が見られなかったから、不安になっているだけだ。
波多野は不安を押し込めば静かになった。胸を張って課長席へ向かった。
「江藤課長。大館の件、本日付けで全額回収完了です。貸し倒れ先の整理完了しました。本部への報告書は私の名前で上げておきますので」
「ああ、ご苦労さん。あ、待て。先方、揉めなかったのか。10億だぞ」
「それが、文句1つ言わずにニコニコお帰りになりましたよ」
「ちょろい」
「いえ、物のいいお客様でした」
「ニコニコね」
江藤は何かが引っかかる顔をした。だが書類の回収完了の文字を見て、手帳に目を戻した。
一方、その頃構造は銀行には行かず、本社で翔太の研修報告書に判をしていた。昼過ぎ、銀行から戻った倉が社長室のドアを開けた。
「終わりましたよ、社長。10億、手数料まで綺麗さっぱり。これであちらさんとはかかわりなしの他人同士です」
「ご苦労さん。それで、例の件はいつ切り出します?」
「契約の方は今月末が更新の期日ですが、こちらからは何も言わん。先方が気づくまで待つさ。何、長くはかからん」
異変は返済の翌日、昼過ぎに始まった。支店の電話が鳴った。本部の管財部からだった。応対した江藤の顔から見る見る赤みが失せていく。
「はあ。大館さんとの契約?ま、待ってください。大館さんって、うちの警備をやっとるあの大館さんのことですか?波多野君が整理したのが、その」
受話器から漏れる声が、江藤の返事を遮って大きくなった。フロアの行員たちが手を止めて課長席を見る。
「確認します。確認して折り返します」
「波多野君、波多野君」
呼ばれた波多野は報告書の続きを打ちながら顔だけを向けた。
「何ですか?私、本部への報告書で忙しいんですけど」
「お、本部の管財がな。大館さんとの契約はどうなっているのかと」
「おお、波多野君。大館さんはうちの警備をやっとる会社なのか」
「はあ?警備なんて知りませんよ。取引先の警備会社までいちいち。大体、警備って備品とか建物の部署でしょ?うちの融資案件に関係あります?」
「うわ、私が知るか。とにかくなんだか偉いことになっとるんだ」
「なんなんだよ。回収は満点の仕事だろ。ケチの付けようがないはずだ」
胸の奥で、昨日押し込めたはずの何かがまた頭をもたげた。波多野はそれをもう一度押し込めた。
夕方、支店長の柏木が月曜からの支店長会議から戻ってきた。留守は丸3日。波多野の仕事は全てその3日の間に行われていた。顔も洗わずに柏木は応接室へ波多野と江藤を呼びつけた。
「大館さんに、君が何をしたって」
「何って、貸し倒れ先の整理ですよ。本部の方針じゃないですか?地域の取引を見直せって」
「本部の方針?誰が出した方針だ?頭取が新聞で何と言われた。『これからは地域のお取引先と共に歩む』。真逆だぞ、君のやったことは」
「え、い、いや、でも収益の改善はどこの支店だって」
「では聞くが」
柏木は1枚の紙をテーブルに置いた。波多野が大館に渡したあの通知書の控えだった。
「この通知は誰の決裁だ?融資の引き上げを、担当1人の判断でやったのか?」
「そ、それは、か、課長も知ってし」
「知らん。私は『任せてる』と言っただけで、通知なんぞとらん」
「はあ?回収の報告書に判を押したじゃないですか」
「回収の後だ。事後だ。事後」
責任の擦り付け合いを、柏木が片手を上げて止めた。
「波多野君は、返す時何と言っていた?」
「せ、先方は納得してます。満々満です。文句1つ言わず、手数料までそろえて、その日のうちに。むしろ感謝してたくらいで」
「文句1つ言わず、か。40年お付き合いのある先が、急な融資のお願いをされて、翌朝黙って返した。それがどういう意味か分かるか?」
「え?」
「怒ってた。怒った人間はな、怒っているうちはまだ話が通じる。本当に見切った人間は、静かに笑って帰るんだ」
「え、いや、でも支店長、高が警備会社ですよ。旗振りのじいさんの会社が、うちに何が」
「君は自分が何を切ったのか、まだ分かっていないんだな」
その時、青い顔の行員が応接室にメモを差し出しに来た。
「支店長、本部からお電話が。その、頭取室からです」
「と、頭取室」
柏木は無言で立ち上がり、応接室を出ていった。戻ってきた柏木の顔は白かった。波多野を見もせずに机の電話を取り、外線の番号を押す。
「大館警備保障の増田社長、お願いします。低ト銀行の柏木です。町田さん、この度はうちの者が数々の……はいえ、本来こちらから伺うべきところを。承知いたしました。お待ちしております。明日の朝一番、応接室を開けておけ。増田さんがおいでになる。ご挨拶にだそうだ」
「挨拶」
机の上の内線電話がまた鳴り始めていた。
その夜、支店の2階店長室。柏木は波多野の前にファイルを置いた。この支店の取引先の管理ファイルだった。波多野が着任した日に目を通しておけと渡したものだ。
波多野が開いた後には、大館警備保障の欄。融資残高10億。その下に見慣れない欄が続いている。
「警送貴重品運搬警備業務の委託」「ATMの現金警備」「警備委託元:低ト銀行」「対象:県内全120店舗」
「警送……警送って何ですか」
柏木はすぐには答えなかった。
「銀行の現金を運ぶ仕事だ。窓口の金もATMの金も、銀行員が運んでいるんじゃない。専用の車両と国の認定を持った警備会社が運んでいる。この県でそれができるのは、大館さん一社だ」
「はあ。一社」
「大事な仕事なんで一社に。40年前、輸送車が狙われる事件が全国で続いた物騒な時代だった。仙台の頭取は、創業したばかりの大館さんの仕事ぶりを見込んで、うちの金を任せたいと自ら頭を下げに行かれた。分かるか、波多野君?一社しかないから頼んだんじゃない。頼み込んで、40年かけてそういう会社に育てていただいたんだ。以来、事故はただの1度もない。言っておくが、他社への切り替えには車両と拠点と人員と警備計画の届け出がいる。どんなに急いでも半年だ。契約の満了は今月末。来月から県内120店舗の現金輸送が止まる。ATMの補充も窓口の現金もだ」
「そ、そんな。銀行が潰れ」
「潰れはせんだがな。あの銀行は現金が回らんらしい。そんな噂が1つ立てば、客がどう動くか。信用で商売する銀行に、それがいくら響くか。そして何よりだ」
柏木はファイルの子を指で叩いた。
「代々からの40年の恩を、支店が踏みにじった。頭取の掲げる『地域と共に』の真逆をやったんだ。夕方の電話で、頭取は『私が直接お詫びに伺う』とまで言われた。それを断ったのは増田さんの方だ。『支店のお話ですから』と。分かるか、波多野君。これ以上の大事にせんでくださっとるのは、先方なんだぞ」
波多野の目の上を、ファイルの文字が滑っていった。
終わった。いや、待て待て待て。考えろ、波多野。そうだ。契約はまだ生きてる。月末までは。逆だ。逆に考えろ。俺がこの手で契約をつなぎ止めれば、引き止めた男になれる。
「支店長、明日、私に謝罪をさせてください。元はといえば私の不始末です。誠心誠意、この通り」
土下座に頭を下げる部下を、柏木は無言で見下ろした。その目に温情の色はなかった。
「増田さんはご挨拶に来られる。意味は分かるな。手切れの挨拶だ。私は頭を下げる。下げて済む話とも思えんがな」
翌朝9時、約束の時刻ちょうどに構造と倉は支店に現れた。構造は今日も作業服。手には何も持たず、書類の鞄は全て倉が下げている。ロビーの行員が手を止めて2人を目で追った。頭取室からの電話の噂はもう支店の隅々まで回っていた。
応接室では柏木と江藤、そして波多野が立って待っていた。2人がソファーに腰を下ろすのを待たず、柏木が動いた。
「増田様、この度は私の一存で数々のご無礼を働きました。誠に誠に申し訳ございませんでした」
腰が直角に折れる。昨夜のうちに何度も練習してきたかのような淀みのない謝罪だった。
「つきましては、融資のご融資のお話、改めてこちらからお願いをさせてください。決算書も改めて拝見しました。いやあ、お恥ずかしい。素晴らしい内容で」
「ほお。うちの数字には魅力がないのではなかったですかな」
「わ、私の不明の致すところで。金利も最優の条件をご用意します。でしたら、担当の交代も。現場に立たれる社長のご姿勢、あれこそ経営者の鏡とみんなで話しておりまして。ですから、その、今後とも末永くお付き合いのほど」
作業服が、人手が、規模の釣り合いが。知ってきた言葉が1つずつ逆さになって口から出てくる。構造は黙って聞いていた。倉も柏木も口を挟まない。壁時計の秒針だけがコチコチと鳴っている。
やがて波多野の言葉が尽きた。額に汗を浮かべ、不安げに構造をうかがう。
「終わったかな?」
「あ、はい。それで、あの、お返事を」
倉が鞄から1枚の紙を取り出した。テーブルの中央に向きをそろえて置く。
「警送運搬警備業務等契約更新見送りのご通知。今月末で満了となりますご契約、更新はいたしません。本日はこのご通知に上がりました。あなたの謝罪が始まるずっと前に決まっていたことです」
「なあ、波多野さん。あなたの謝罪は聞いとって、ようできとった。だがな、最初から最後まで、あんたの謝罪には自分しか出てこんかった。守ろうとしてるのは、うちの会社でもお宅の銀行でもない。波多野さんの椅子だけだ」
構造は立ち上がった。作業服の背中が、旗を振る時と同じようにまっすぐ伸びる。
「あんたは言ったなあ。『数字が全てだ』と。なら教えといてやろう。金を数えるのがあんたの仕事。その金を守るのが俺たちの仕事だ。どっちか欠けても銀行は回らん。あんたは数字ばかり数えて、最後まで人を見んかった。今のその謝罪もだ。それとなあ、うちの若い衆に『沈む船』と言ったそうだが、あの子らに2度とあんな口は聞かせん。メインバンクは変えさせてもらう。長い間、世話になりました」
深い礼だった。
波多野の目が、テーブルの通知書と柏木の白い顔を順になぞった。だめだ。契約も実績も本部も、首だ。俺は首だ。だったら、言いたいことを言ってやるよ。どうせ首になる。会社の今後なんか知ったこっちゃねえ。
「ふ、ふざけるな。こっちが誠意を見せてりゃ、いい気になりやがって。何様だ。日中の旗振りの分際で。お前らとの契約なんぞ、こっちから願い下げだ。はあ。何が40年の恩だ?何が警送だ?知るかよ。こんな銀行のことなんか」
「波多野」
雷のような一喝だった。
「下がれ。頭取への報告に、今の言葉も一言残らず加える。覚悟しておけ」
その場に波多野の膝が落ちた。抱えていた融資の資料が床に散らばる。
「私は止めたんです。全部、波多野君の独断で」
「君もだ、江藤課長。『任せる』と見て見ぬふりは、別のものだ。処分は本部と決める」
柏木は構造に向き直り、腰を直角に折った。
「増田様、当店の者が数々のご無礼を。申し訳ございませんでした。警備のご契約、どうかせめてお話し合いの席だけでも」
構造は一言だけ返した。
「怒鳴らない。勝ち誇らない」
旗を振る時と同じ真っすぐな背中で、構造は応接室を出ていった。柏木が慌ててその背中を追う。江藤も誰とも目を合わせないまま応接室を出た。残ったのは床に膝をついた波多野1人。開いたままのドアの向こうから、フロアの視線が刺さっていた。
波多野はよろよろと立ち上がり、乱れた前髪をかき上げて笑って見せた。
「ああ、転職先、どこにすっかな」
誰に向けられた強がりなのかは、自分でも分からなかった。散らばった書類を拾う指先が、小さく震えていた。
エレベーターホールまで柏木は追いかけてきた。
「増田さん、どうか、どうか警備のご契約だけは。頭取も改めて直接お詫びに伺いたいと申しております。この通りです」
白髪の混じった頭が深く下がる。ロビーの行員たちが息を詰めて見ていた。構造は下がった頭が上がるのを待ってから口を開いた。
「柏木さん、あなたに恨みはない。頭取にもだ。金は返したし、詫びももらった。この話はそれで終わりです」
「では、なぜ?」
「うちの仕事はな、命がけなんですよ。10億の現金を積んで走る。真夏の炎天下に立って車を止める。若い衆が体1つで取っとる。そういう連中の値打ちを作業服で測る銀行に、命がけの仕事は預けられん。あんたのせいじゃない。だがな、あんたの銀行が選んで、あの男に客を任せた。それも銀行の顔だ。そういうことです」
エレベーターの扉が開いた。構造と倉が乗り込む。
「ああ、柏木さん。最後に1つだけ」
「あ、はい」
「今度、現場で旗を振っとる人形を見かけたら、合図の1つもしてやってください。それで十分だ」
扉が閉まった。柏木は閉まった扉に向かってもう一度深く頭を下げた。
1週間後、支店のフロアの隅で波多野はダンボールに私物を詰めていた。処分は早かった。独断での融資引き上げ、顧客への暴言、そして銀行そのものへの暴言。頭取への報告書にはあの日の言葉が一言残らず載った。処分は山合の町の出張所勤務。融資の担当からは外された。首にはならなかった。よほどのことがない限り、銀行は人を解雇しない。代わりが左遷である。
「はあ、上等だよ。誰がこんな銀行にいてたまるもんか。次を決めて、見返してやる」
隣の島では江藤もダンボールを抱えていた。管理責任で減給の上、事務センターへの転出だった。誰も見送りには立たなかった。
夏の盛り。病の濃い日差しの中、数人の波多野が集金の鞄を下げて歩いていた。日陰はどこにもない。出張の仕事は年金の相談と集金と両替だった。上場企業は一社もない。炎天下に立つ人間を日当いくらと笑った男が、その炎天下を歩いている。Yシャツの背中に白く塩が浮いていた。
夕方、出張所の奥で所長が1枚の紙を机に置いた。人事考課の通知だった。評価の欄に「C」。
「ち、ちょっと待ってください。俺は本部で上場企業担当していた人間ですよ」
「それが何です?」
「数字だよ、波多野君。君の今期の数字がこれだ。数字が全てなんだろう」
数字だけで人を切ってきた男が、紙の上の数字1つで切られる側に立っていた。
「違う。俺はこんなもんじゃない。はめられた。はめられただけだ」
翌週、窓口に泥のついた長靴の老人が立った。日に焼けた顔に麦わら帽子。
「定期を作りたいんだが」
波多野の目が、癖のように長靴の泥を上から下までなぞった。
「どうせ年金の話でしょうに」
小声は静かな窓口ではよく通った。老人は何も言わずに帽子をかぶり直し、帰っていった。
数日後、町の農業法人の会長が、法人と一族の口座をまとめて隣町の信用金庫へ移した。麦わら帽子の老人だった。所長の怒鳴り声が出張所に響く中、波多野はただ同じ言葉を繰り返していた。
「お、俺は悪くない。今度もはめられただけだ」
夜、安アパートの部屋で波多野は転職サイトの画面を眺めていた。転職先、どこにすっかな。あの日の強がりを、この3ヶ月何度も口にした。鞄には書き上げた履歴書も入っている。あとは次を決めて、叩きつけるだけのはずだった。だが画面の応募履歴には「不採用」の文字だけが並んでいく。
金融の世界は狭い。10億の顧客を怒らせて銀行の信用を失った男の名前は、どこの人事部にももう知れ渡っていた。
「なんでだよ。俺を誰も」
見返す日は来ない。あれほど見下した山合の出張が、今の波多野を雇ってくれるこの世でただ1つの場所だった。
警送の車だけは、県外の大手が引き継ぐまでの半年、構造は臨時の契約で走らせ続けることにした。現金が止まって困るのは銀行ではなく、窓口とATMに並ぶ町の年寄りだからだ。
1ヶ月後、大館警備保障の本社に1台の車が止まった。降りてきたのは低ト銀行ではない。地元で1番大きな地方銀行の頭取だった。供も連れず、自ら車を降りて応接室まで。頭取は深々と頭を下げた。
「メインバンクのお話、是非うちにお任せください。それと機械警備の設備のご融資も、融資と言わず必要なだけお使いください」
「ほ、どこかの銀行さんとは偉い違いですなあ。倉さん」
そのやり取りを、装備を返しに来た翔太が廊下の窓越しに見ていた。
「ねえ、事務の姉さん。なんか偉そうな人がおっちゃんに頭を下げてるんですけど」
「偉そうな人じゃなくて、頭取さんね。で、頭を下げられてるのがうちの社長」
「ええ」
翔太の声は廊下の端まで響いた。旗の持ち方にうるさい応援のおっちゃん。入った日からずっとそう思っていた人は、この会社で1番偉い人だった。
数日後の朝、駅前の新しい工事現場。朝礼で構造は1枚の紙を読み上げた。
「広瀬翔太。本日より、この現場の誘導を任せる。1人だ」
「はい」
「返事はいい。旗は?」
「あ、ひ、肘から振ります」
「よし」
初めて1人で立つ現場で、翔太は朝から夕方まで旗を振り続けた。年寄りを渡らせ、子供を渡らせ、止まってくれた車に頭を下げた。その旗は1度も寝なかった。
そして季節が1つ変わった頃、翔太の隣には入ったばかりの新人が立っていた。
「おい、旗が寝とるぞ。手首じゃない。肘から振れ」
「ええ。こうすか」
「そうだ。ドライバーはお前の旗しか見てない。人の命を預かってるんだぞ」
受け売りの言葉を、翔太は少しだけ得意げに言った。その様子を通りの向こうから構造が見ていた。手の中の旗の柄、拾わせた布が朝日を受けて光っている。構造は口元だけで笑って、自分の持ち場へ歩いていった。
今日もこの町の朝を、旗が守っている。



