「出張中は絶対に電話してくるな」
夫の達也は電話口で突然怒鳴りました。
「急ぎだろうが何だろうが関係ないだろう。仕事中に何度も鳴らされたら迷惑なんだよ」
そこまで言われて、私も少し腹が立ちました。
「じゃあ、何があっても絶対に連絡しないから」
そう言って電話を切りました。
翌日、私のスマホには達也から30件を超える着信がありました。それでも私は出ませんでした。だって「絶対に連絡するな」と言ったのは達也自身ですから。
その直後、大学生の息子・優太から電話がかかってきました。
「母さん、大変だ。父さんが事故ったんだって」
私は立ち上がりました。でも優太は続けました。
「それだけじゃない。父さん、知らない女の人と一緒だった」
私の名前はさ子。45歳。達也とは結婚して20年になります。一人息子の優太はこの春に高校を卒業し、県外の大学へ進学しました。サッカーを続けるため一人暮らしです。
子育てもようやく一段落。私もこの春から地元企業の事務職員で働き始めました。夫の達也も同い年で、大手企業に勤め、少し前に部長へ昇進しました。
「45で部長なんてなかなかいないぞ」
最近はそんな自慢話をよくしていました。昇進してからは出張が増え、家にいない日も珍しくありませんでした。それでも私は「頑張っているんだ」と思っていたのです。
私たちが住んでいるのは、達也の実家の敷地内に建てた小さな離れです。義父の正さんと義母のかず子さんは、二人とも穏やかな人で、私たちの生活へ必要以上に口を出すことはありません。むしろ私が働き始めてからは「無理するなよ」と気遣ってくれるほどでした。
だから時々、家や土地のことで達也に確認しなければならないことがあります。あの日もそうでした。義母のかず子さんから「達也に確認してほしいことがあるの」と頼まれ、私は出張中の達也へ電話しました。
でも夫は電話に出ない。何度かけても出ない。ようやく夜遅くに折り返してきたと思ったら、あの怒鳴り声でした。
「出張中は絶対電話するな」
その時は「仕事で余裕がないのかな」と思いました。まさか電話に出られない本当の理由が、仕事ではなく女性関係だったとは。
その夜、優太からメッセージが届きました。
「母さん、今日父さん見たよ」
私は驚きました。優太は大学のサッカー部の合宿で、とある温泉地周辺に来ていたのです。
「女の人と腕組んでた。二人で同じ部屋に入っていった」
続いて送られてきた写真。遠目でしたが、間違いありません。夫の達也でした。隣には見知らぬ女性。
私はしばらく画面を見つめました。だから電話を嫌がったのね。仕事の邪魔になるからではない。浮気相手との時間を妻に邪魔されたくなかった。そういうことだったのです。
そして翌朝、達也から大量の着信が始まりました。一件、五件、十件、二十件。
「昨日は何があっても連絡するな」と言った人が、この着信。心配にはなりましたが、浮気旅行中の夫を私が助ける理由もありません。
その時、優太から電話が来ました。
「母さん、父さんが事故ったんだって」
「え?」
「女の人と車で出ていって、旅館の近くの山道でガードレールにぶつかったみたい。無事に二人とも病院へ運ばれて、命に別状はない。ただ足を強く打って入院になったらしい」
「どうしてそんなに慌ててたの?」
私が尋ねると、息子の優太は少し黙ってから言いました。
「女の人の旦那さんが旅館に来たみたい」
その時、全てが繋がりました。
夕方、病院からも電話がありました。入院の手続きや着替えを持ってきてほしいとのこと。
その夜、知らない番号から電話がありました。
「突然申し訳ありません。私、浩司と申します。ご存知かと思いますが、美沙の夫です」
美沙——達也と一緒にいた女性のことです。
不倫相手の夫である浩司さんも、一年ほど前から妻の行動を怪しみ、調べていたそうです。そして分かったことは、達也と美沙の関係が三年近く続いていたこと。お互いが出張と家族へ嘘をつき、何度も会っていた。
私は思わず笑ってしまいました。三年間、私は「昇進して忙しい夫を支えている」つもりでした。でもその間、達也は別の女性との時間を作るために忙しかったのです。
翌朝、私は義父母へ全て話しました。正さんはしばらく無言でした。
「俺は病院へ行く」
低い声で言いました。かず子さんも「私も行きます」と。私は着替えと最低限の日用品だけを持ち、三人で病院へ向かいました。
病室へ入った瞬間、達也が私を睨みました。
「遅い。昨日から何回電話したと思ってんだ?」
私は荷物を椅子に置きました。
「出張中は絶対に連絡するな。あなたが言ったんでしょう」
「だからなんだよ。電話かかってきたら出るだろ、普通」
私は首をかしげました。
「何があっても絶対に連絡するなって言ったわよね。私はあなたとの約束を守っただけよ」
達也が黙りました。その瞬間、後ろから正さんが言いました。
「おい、達也。随分立派な出張だったみたいだな」
達也の顔色が変わりました。
「違うんだ、父さん」
「何が? ちょっと相談に乗ってただけ? 相談相手と山沿いの温泉旅館に泊まるのか」
達也は目をそらしました。
そしてさらに最悪だったのは、優太が病室へ入ってきた時です。
「優太?」
達也は急に父親らしい顔をしました。
「お前まで来たのか? ちょうどいい。これは大人の問題だから、余計な口出しするなよ」
優太は父親をじっと見ました。
「父さん、俺のポジション知ってる?」
「は?」
「ポジション? サッカーのポジションだよ。俺、どこやってるか知ってる?」
達也は答えません。
「じゃあ背番号は? 高校最後の大会で俺たち何回戦まで行った?」
何も答えられない。
優太は笑いました。でも悲しそうな笑顔でした。
「やっぱり何も知らないんだ」
優太は俯き、沈黙が流れました。
「母さんは全部知ってるよ。俺がレギュラー外されて落ち込んだ時も、足痛めてやめようと思った時も、高校最後の試合で負けて泣いた時も、ずっと見てた」
私は何も言えませんでした。
「母さんは父さんをかばってた。父さんは仕事だから仕方ないって思ってたよ。でも違ったんだな。俺たちのこと見る時間はなくても、女の人と温泉行く時間はあったんだな」
達也の顔から完全に言葉が消えました。
そこへ松葉杖をついた美沙と浩司さんが来ました。浩司さんは達也を見て深く息を吐きました。
「よくもまあ三年間も俺たち二人を騙しましたね」
美沙は「私だけが悪いわけじゃない」と小さく反論しました。すると達也も「美沙に誘われて」と。
私は呆れました。さっきまで愛し合っていたはずの二人が、今度は責任の押し付け合い。それを見て、不思議なくらい気持ちが覚めました。
私は達也へ言いました。
「もう離婚しましょう」
「待てよ。事故ったばかりなんだぞ。今そういう話するか?」
「じゃあ、いつならそういう話すればいいの?」
達也は黙りました。
「女の人と一緒の時には邪魔だから連絡するな。事故を起こしたら着替えを持ってこい。そんな都合のいい妻、今日でやめます」
私は達也から一歩離れました。
優太も言いました。
「俺は母さんについていく」
「優太、お前まで何言ってるんだ? 俺は父親だぞ」
優太は静かに答えました。
「父親なら、頼むからもう少し俺のこと知っててよ」
その一言が一番効いたようでした。
帰り際、義父の正さんが達也へ言いました。
「離婚するなら、お前が離れを出ろ」
「は? 俺の実家から出ろってことか?」
「俺が? さち子さんは二十年間この家族を支えてきた。優太もここで育った。家族を裏切ったお前が、偉そうに残れると思うな」
達也は何も言えませんでした。
その後、私は達也と離婚しました。必要なことは専門家を通して整理しました。美沙夫婦も別々の道を選んだそうです。
私はその後も仕事を続けています。優太は大学へ戻り、サッカーに打ち込みました。離れて暮らしていますが、以前より話すことは増えました。試合の前には「母さん、今度出るかも」と連絡をくれます。
ある日、私は優太の試合を見に行きました。後半になると優太がピッチへ入ります。私は思わず立ち上がりました。
「優太、頑張れ」
こちらに気づいた優太が、ほんの一瞬笑ってくれました。その顔を見て、私は思いました。
家族って、同じ家に住んでいるだけでも、同じ苗字を名乗っているだけでもない。誰かの頑張りを見て嬉しい時には一緒に笑い、苦しい時にはちゃんとそばにいること。そういう時間の積み重ねなのだと。
あの日、達也は私に言いました。「何があっても連絡するな」と。まさかその言葉が、私が達也の人生から離れるきっかけになるなんて、あの人自身も思っていなかったでしょう。



