同窓会で、高校時代のサッカー部のエースだった男が、俺の顔に赤ワインをかけて高笑いした。「悪い悪い、手が滑ったわ」と。100人の前で、俺の年収を馬鹿にし、俺の会社を「聞いたこともない小せえところ」と笑った。俺は黙ってハンカチで顔を拭いた。すると、宴会場の扉が開き、黒いスーツの女性が入ってきて、俺の前で頭を下げた。「社長、お探ししました」と。その瞬間、会場の空気が凍りついた。あの男の顔が真っ青に…

同窓会で、高校時代のサッカー部のエースだった男が、俺の顔に赤ワインをかけて高笑いした。「悪い悪い、手が滑ったわ」と。100人の前で、俺の年収を馬鹿にし、俺の会社を「聞いたこともない小せえところ」と笑った。俺は黙ってハンカチで顔を拭いた。すると、宴会場の扉が開き、黒いスーツの女性が入ってきて、俺の前で頭を下げた。「社長、お探ししました」と。その瞬間、会場の空気が凍りついた。あの男の顔が真っ青に...

同窓会の会場で、相馬剣がワイングラスを掲げて高笑いした。その手が滑り、赤ワインが俺の顔にまともにかかった。前髪から顎まで赤い雫が滴り落ちる。白いテーブルクロスに赤い染みが広がった。会場が静まり返った。

「悪い悪い。手が滑ったわ」

誰も笑わなかった。俺はハンカチを取り出し、ゆっくりと顔を拭いた。慌てた様子はなかった。

「ゼフィールテクノロジーズね。で、どこの支社だ?」

相馬が鼻で笑った。「横浜支社だけど、それがどうした?」

その時、宴会場の扉が大きな音を立てて開いた。黒いスーツの女性が入ってきた。彼女は会場を見回すと、ワインで濡れた俺を見つけて一直線に歩いてきた。100人の視線がその背中を追った。

「社長、お探ししました」

その一言で、相馬の世界は音を立てて崩れ落ちた。

16年前、俺は高校で目立たない生徒だった。いつもパソコン部の部屋で、古い機械を相手に一人でゲームを作っていた。父は小さな会社で機械を作る技術者で、よく言っていた。「一人で作れるものなんて高が知れてる。チームワークが全てだ」と。

文化祭の日、同じクラスの早瀬千春だけが、俺の作ったゲームを最後まで遊んでくれた。「すごい面白いよ」と言ってくれた。その言葉を今も覚えている。

同窓会の案内が届いた時、迷った。自分を覚えている同級生がどれだけいるだろう。それでも、あの頃の仲間にもう一度会ってみたかった。俺は出席の欄に丸をつけた。

会場は地元で一番大きなホテルの宴会場だった。シャンデリアの下に100人ほどの同級生が集まっていた。俺は地味なスーツを着て、入口の近くに立っていた。幹事の村瀬が声をかけてきた。「朝倉、来てくれたんだな。久しぶりだなあ」

しばらくして、千春が近づいてきた。「もしかして朝倉君?」「ああ、山さんか。元気そうだな」「うん。元気だけが取り柄だから」彼女は看護師になりたいと言っていた。その夢を叶えて、今は救急で働いているという。

その時、会場の中ほどから大きな笑い声が上がった。相馬剣だった。高校のサッカー部でエースだった男だ。光沢のあるスーツに金の時計を光らせ、取り巻きの真ん中で自慢話をしていた。「これ、去年ドバイで買ったやつ。まあ庶民には一生縁はないだろうけどな」

相馬の目が俺に向いた。「あれ?お前朝倉じゃねえか?元気にしてたか?」「ああ、久しぶりだな」「うわ、何そのスーツ?コスパ重視?高校の時から何も変わってねえな。で、お前今何やってんの?まさかまだパソコンいじってんじゃねえだろうな」「まあ、そんなところだ。IT系の仕事だよ」「IT?どこの会社だよ。ああ、どうせ聞いたこともねえような小せえところだろう。しがないプログラマーってわけか。かわいそうにな」

相馬の取り巻きがどっと笑った。俺は顔色一つ変えなかった。「そうかもしれないな」

千春が一歩前に出た。「相馬君、久しぶりに会っていきなりそれはないんじゃない?」「おお、早瀬か。相変わらず正義感だけは一人前だな」相馬は鼻で笑って、また会場の中心へ戻っていった。

宴が進むにつれて、相馬の声はどんどん大きくなった。今度は仕事の自慢だった。「この前でかい契約を取ってな。相手は誰でも名前を知ってる大企業だよ。あれを一人でまとめたの。この俺なわけ」「マジですげえな」「そう。まあな、うちの支社の売上なんて半分は俺が作ってるようなもんだよ」

俺は少し離れた席でその自慢話を聞いていた。高校の頃の相馬は、こんな男だっただろうか。エースだったけど、周りにはいつも仲間がいた。今はどうなんだ?

千春が飲み物を取りに近くを通りかかった。相馬の目がその姿を捉えた。「よう、早瀬。さっきは随分偉そうだったな。で、お前今何の仕事してんだっけ?看護師だっけ?」「そうだけど」「看護師ってあれだろ?夜中まで働いて他人の世話して、それで給料いくらもらえんの?どうせ高が知れてるだろう。俺なんかうまいこと相手を持ち上げてハンコもらってくるだけだぜ。それでお前の何倍も稼ぐ。同じ働くなら頭を使った方がいいだろう」

千春はまっすぐに相馬を見返した。「相馬君はお金の話しかないんだね。私の給料が安いのはその通りかもしれない。でもね、夜中に運ばれてくる人の手を私は何度も握ってきた。お金のことなんて考える暇なんかない。目の前の人の命が助かるかどうかなんだから」

近くの同級生の何人かが小さく頷いた。だが相馬は鼻で笑うだけだった。「はいはい。綺麗事だ。そういうのは稼げないやつほど言うんだよ」

16年前、教室で看護師になりたいと話していた千春の横顔を覚えている。その夢を叶えた人間が今目の前にいる。気がつくと、俺の拳に力がこもっていた。落ち着け。ここで俺が怒鳴れば、千春に恥をかかせるだけだ。俺は一つ息を吐いて拳をほどいた。

宴は終盤に入っていた。帰り支度を始める同級生もちらほら出てきた頃、相馬がふらつく足で俺のテーブルへやってきた。「おお、朝倉、まだいたのかよ。お前、高校の時からそうだよな。教室の隅、部屋の隅、今日は会場の隅。筋金入りだな」

相馬は慣れ慣れしく俺に腕を回した。酒の匂いが鼻をつく。「教えといてやるよ。そういう生き方は時代遅れって言うんだよ。すみっこがお似合いのやつは一生すみっこなんだよ」「隅は意外といいぞ。落ち着くんでな」「はあ。負け惜しみだけは一人前かよ」

相馬は思い出したようにスマホを取り出した。「いや、お前の名前検索したことなかったわ。お前が有名人レベルなら検索したら名前出てくるかもな。朝倉直也っと」

相馬は画面を眺めて吹き出した。それから画面を周りに見えるように掲げた。「見ろよ。これ受けるわ。朝倉って打ったらよ、うちの支社が出てきたわ。同姓同名。ゼフィールテクノロジーズ代表取締役社長 朝倉直也だとよ」「えー、何それ?写真は?」「それがよ、うちの社長顔出しNGなんだわ。写真の一枚も出てこねえの。ま、どうせじじいだろうけどな」

相馬はスマホを俺の鼻先に突きつけた。「なあ、朝倉。同じ名前でもよ。片や大企業の社長様。片や名前も出てこねえ日陰者。ここまで差がつくかね。人生ってのはよ」「さあな。差がつくのかもしれないな」「え、肝心のお前はとほら、やっぱり何も出てこねえ。俺くらいのレベルになるにはまだまだだなあ」「有名になるのが仕事じゃないだろう」「はいはい。そういうことにしといてやるよ」

千春がたまりかねたように口を開いた。「相馬君、もうやめなよ。飲みすぎだよ」「うるせえなあ。俺は今朝倉と話してんだよ。看護師は引っ込んでろ」

相馬はテーブルをスプーンで叩いた。高い音が会場に響き、100人の視線が集まった。「みんなちょっと聞いてくれよ。いい機会だからよ。発表します。俺、今年年収1200万超えました」

会場が微妙にざわついた。拍手をする者はほとんどいなかった。だが相馬は構わず続けた。その目はまっすぐ俺に向いていた。「朝倉、お前はいくらなんだよ」「言う必要はないだろう」「ほら言えねえ。言えねえよなあ。だってよ、言ったら惨めになるだけだもんなあ」

相馬は俺の顔を覗き込んだ。「俺の年収聞いてビビったか?」

俺は静かに相馬を見ていた。「そうか。稼げるようになったんだな」その声には悔しさも入っていなかった。ただの感想だった。相馬の顔から笑いが消えた。「なんだよその顔。張り合いのねえ顔してんじゃねえよ。お前のせいで興ざめだろうが」

その瞬間、相馬の右手が跳ね上がった。ワインが俺の顔にまともにかかった。前髪から顎の先まで赤い雫が滴り落ちる。白いテーブルクロスに赤い染みが広がった。一瞬の静寂の後、会場のどこかでグラスの倒れる音がした。それから100人の宴会場から音が消えた。

「朝倉君!」千春が駆け寄ろうとしたが、相馬の取り巻きが遮った。相馬は肩で息をしながら、それでも勝ち誇った顔で俺を見下ろしていた。「悪い悪い。手が滑ったわ」

誰も笑わなかった。ワインの雫がカーペットに落ちる音さえ聞こえそうな静けさの中で、俺はじっと立っていた。誰も声を出さなかった。誰も動けなかった。相馬だけがその静けさに耐えられないように声を張り上げた。「どうした?どうした?みんなして俺が悪いってのか?先に白けさせたのはこいつですよ」

返事はなかった。相馬はちっ、と舌打ちすると、濡れた俺を見下ろして吐き捨てた。「大体よ、お前と俺じゃ住む世界が違うんだよ。俺はな、天下のゼフィールテクノロジーズで支社長やってんだぞ。分かるか?泣く子も黙る業界最大手だよ。お前みたいな名前も出てこねえ日陰者とはなあ」

その時だった。俺は胸ポケットからハンカチを取り出した。ゆっくりと額を拭く。頬を拭く。顎の先の雫を丁寧に抑える。その仕草には慌てたところがまるでなかった。100人が見つめる中で、俺はハンカチを畳み直し、顔を上げた。

そして口を開いた。「ゼフィールテクノロジーズね。で、どこの支社だ?」

「はあ?」会場が静まった。相馬の口が半開きのまま止まっている。「ゼフィールテクノロジーズの営業課長なんだろう。どこの支社だと聞いている?」「いや、横浜支社だけどよ」答え終えてから、相馬は我に帰ったように声を荒げた。「て、なんで俺がお前に答えてんだよ。意味わかんねえんだよ。なんでお前、あれか?ゼフィール受けて書類で落ちた口か?そうだろ?悪かったな。受かった側でよ」

相馬はのけぞって笑った。ただ、その笑い声に続くものはいなかった。会場のあちこちで同級生たちが顔を見合わせている。

千春が人をかき分けて駆け寄ってきた。手にはおしぼりをいくつも抱えていた。「朝倉君、これ。何なのよ、あいつ。酔っ払いにもほどがある」千春の声は途中から震えて言葉にならなかった。目の縁が赤くなっている。俺はおしぼりを一つ受け取ると、少しだけ笑って見せた。「大丈夫だ。安物のスーツで助かったよ」

村瀬も青い顔で飛んできた。「朝倉、すまん。大丈夫か。俺がもっと早く止めてれば」「村瀬のせいじゃない。気にするな」

その時、俺のポケットでスマホが震えた。取り出して画面を見る。会社からの着信だった。それも3件。俺は着信の名前をしばらく見つめてから、スマホをしまった。こんな夜に3件、何かあったな。

村瀬がマイクの前でぎこちなく咳払いをした。「えー、それでは皆さん、そろそろお時間となりまして」

その時だった。宴会場の扉が大きな音を立てて開いた。入ってきたのは黒いスーツの女性だった。髪を一つに束ね、走ってきたのか肩で息をしている。女性は会場を見回すと、ワインで濡れた俺の姿を見つけて一直線に歩いてきた。100人の視線がその背中を追いかけた。

「社長、お探ししました」

その一言が会場に落ちた。「お電話を3度差し上げたのですが、明朝の最終契約の件で今夜中に社長の決済が必要です。先方は海外で時差の関係で朝を待てません。それで直接お迎えに」「新藤さん、ここは同窓会だ」「承知しております。ですが、これだけは社長にしか決められませんので」

その言葉が波のように会場へ広がっていく。一番近くのテーブルの同級生が隣とささやき合う。その隣が隣へ。「今、社長って言ったよな。誰が?朝倉が」「いや、待てよ。さっき相馬が検索してたあれ。ゼフィールの社長。同姓同名だって笑ってた。あれ、さか」

ざわめきが波に変わった。「社長?朝倉君が?」

新藤はそこで初めて俺の顔をまともに見た。濡れた前髪、ワインの染みたスーツの襟。新藤の眉がぴくりと動いた。「社長、そのお顔は」「なんでもない。ちょっとぶつかってワインがかかっただけだ」「ちょっと」新藤は何かを言いかけて飲み込んだ。だが、その目は一瞬だけ会場の奥の相馬を捉えていた。

相馬が大声で笑い出した。「おいおいおい。なんだよこれ。ドッキリかよ。朝倉、お前いくら払ったんだよ、その劇団員によ」相馬は酔った足で手を叩きながらこちらへ歩いてきた。その袖を取り巻きの一人が引いて、耳元で慌てたようにささやいた。「相馬、みんな言ってるぞ。ゼフィールの社長じゃねえかって」「ほら、さっきの検索の同姓同名の」「ゼフィールの社長。こいつが?」

相馬は新藤に向き直った。「あのなあ、姉ちゃん。うちの社長はな、そんな安物のスーツ着ないんだわ。悪いけど、俺ゼフィールの社員なの。分かる?身内は騙せねえんだわ」「失礼ですが、あなたは」「新藤さん、いいから」

俺は短く言って新藤を止めた。それから村瀬の方へ頭を下げた。「村瀬、すまない。仕事の話が入った。少しだけ外させてもらう」

俺は新藤を連れて廊下へ出ていった。扉が閉まる。残された会場は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。「おい、どうなってんだよ。本物なのか?」「分かんねえよ。でもあの秘書さん、演技には見えなかったぞ」

取り巻きの一人が恐る恐る相馬の袖を引いた。「なあ、相馬。もし本物だったらやばくねえか、お前。さっきワイン」「わけねえだろう」相馬の声が裏返った。「そんなわけねえんだよ。あいつは朝倉だぞ。教室の隅でパソコンいじってた朝倉だぞ。あんなやつが社長なわけないよなあ」

相馬はスマホを取り出した。震える指で画面を叩く。ゼフィール、社長、顔。何度検索しても写真は一枚も出てこない。出てこないことがさっきまでは笑いのネタだった。今はそれがじわじわと首を絞めてくる。「なんでだよ。なんで写真がねえんだよ」

一方、廊下に出た俺は新藤の報告を聞いていた。「という条件で先方の役員が社長の承認を待っています。詳しい数字はこちらに」「ああ、後で目を通す」

新藤はタブレットを胸に抱えたまま頭を下げた。「社長、申し訳ありませんでした。急用とはいえ、無断でプライベートな場に踏み入れてしまいまして」「気にするな。新藤さんは仕事をしただけだから。おかげで助かった」

そう答えながら、俺は廊下の窓の外を見ていた。暗いガラスにワインの染みたスーツの男が映っている。耳の奥に今夜の相馬の得意げな声が蘇ってきた。「横浜支社の大きな契約。あれを一人でまとめたの。この俺なわけ」

横浜支社の大きな契約。役員会議のあの報告書だ。あれは6人のチームが半年かけてやっと取った仕事だ。俺がこのまま黙って帰れば、あの6人の手柄は盗まれたままだ。父の言葉が耳の奥で蘇った。「仕事ってのはチームワークが全てだ」

俺はネクタイの結び目に手をやり、締め直した。「新藤さん、決済の前に一つだけ片付けたいことがある」「はい」「10分だけ、社長として話をする」

新藤は驚いたように一瞬だけ目を見開いた。それから深く頭を下げた。「承知しました」

やがて廊下の扉が開いた。俺が戻ってきた。その足は自分がいた元の席へは向かわなかった。迷いのない足取りで会場を横切っていく。向かう先は相馬のテーブルだった。

俺は相馬の目の前で足を止めた。「相馬、一つだけ聞かせてくれ」「はあ?」「さっき自慢していたでかい契約の話だ。あれは本当にお前一人で取ったのか?」「はあ。ああ、そうだよ。俺が取ったんだよ。支社の連中なんてな、雑用しかしてねえんだよ。それがどうかしたかよ。どっかの社長さんよ」

相馬はわざとらしく両手を広げて見せた。取り巻きの笑いを待つように。だが、誰も笑ってはいなかった。

俺は目を閉じた。一呼吸。そして開いたその目から迷いが消えていた。「そうか。よく分かった」

俺は胸ポケットから使い込まれた黒の名刺入れを取り出した。一枚を抜き、相馬の目の前のテーブルの上に置いた。「朝倉直也。ゼフィールテクノロジーズ代表取締役社長。同姓同名じゃない、本人だ」

相馬は笑おうとした。だが口の端が引きつったまま動かなかった。「はは、同姓同名をいいことに、こんな偽物で適当なこと言いやがって」

言葉が途中で止まった。見覚えがあったのだ。白い紙、左上の青い会社のロゴ、裏返せば英語の表記。それは相馬自身が毎日客に配っている名刺と何から何まで同じものだった。紙の手触りまで同じだった。違うのはたった一つ。そこに刷られた肩書きだけだ。代表取締役社長。

「え、あの、これ」声がみるみる萎んでいった。名刺を持つ指先が小さく震え始める。測っていた顔から赤みが消えて土気色に変わっていく。

取り巻きの一人がこっそり覗き込んだ。「おい、相馬、どうした?顔真っ青だぞ」

相馬は答えられなかった。名刺から目が離せなかった。

「まだ信じられないか。なら、思い出させてやる。さっきお前がみんなに自慢していたでかい契約の話だ。知らないのか?社長のところにはな、全国の支社の報告書が毎月全部上がってくるんだ。もちろん横浜支社の分もな」

相馬の膝がテーブルの下でガクガクと震え始めた。「今年の4月10日、横浜支社営業2課、北斗運輸とのシステム一括契約。契約額8億3000万。どうだ?お前の自慢と合ってるかな」

「で、それはさっき、お前はうちの秘書を偽物だと笑ったな。俺はゼフィールの社員だ。身内は騙せないと。いい言葉だ。全くその通りだよ」

俺は一息置いて続けた。「身内は騙せないからなあ、相馬。お前の嘘も、この身内には最初から全部バレてたんだよ」

相馬の手から名刺が落ちた。ひらりと舞って、ワインの染みたカーペットの上に落ちる。拾おうと伸ばした手が空を掴んだ。そのまま椅子からずるりと崩れ落ちた。膝が床についた。立ち上がろうとして、立ち上がれない。さっきまで会場を支配していた男が、床の上で口をパクパクと動かしていた。

そのすぐ傍らで、千春は両手で口を覆ったまま立ち尽くしていた。村瀬はマイクを握りしめたまま石のように固まっていた。

「そう。俺が今夜どこで腹を立てたか分かるか?」「うわ、ワイン?」「違う。あんなもの洗えば落ちる。あれは許す。それも許しちゃいない。夜中に人の命を拾う仕事を金の物差しで笑ったんだからな。だが、それが一番じゃない」

「じゃあ、何だ?」

「雑用と言ったな。『支社の連中は雑用しかしていない』。お前はたった今、100人の前でそう言ったんだ。北斗運輸に半年間通い詰めた6人のことをだ。報告書の隅にはな、6人全員の名前がちゃんと書いてあった。俺は全員の名前を言える。今ここでだ。言ってやろうか」

「あ、うう」

「お前の1200万もな、そういう社員たちが汗をかいて稼いだ金から出てるんだ。その仲間の手柄を盗んで、名前を隠して、挙げ句に雑用と呼んで笑った。それだけは俺は絶対に許さない」

俺の声は大きくなかった。だが、その低い声は100人の会場の隅々にまで届いていた。「100人の前で自慢した嘘は、100人の前で返してもらうぞ」

「ま、待ってくれ。待ってください。そ、そうです。そうです。みんなで、みんなで掴んだ契約です。みんなの手柄です」

相馬は膝をついたまま会場の方へくるりと向き直った。「み、みんなすまん。俺が嘘をついてました。申し訳ない。この通りだ」床に額を擦りつける。それから弾かれたように顔を上げ、俺に向かって声を作った。「な、なあ、社長。これからも一生懸命働かせていただきますんで」

会場に流れていたのは、さっきまでの怯えた静けさとは違う、白けた静けさだった。100人の前で年収を自慢した男が、100人の前で床に額を擦りつけている。良いの回った変わり身の速さが、かえって惨めさを際立たせていた。

「変わり身だけは早いんだな」

「その謝罪が本物かどうか決めるのは俺じゃない。お前が雑用と呼んだあの6人だ。例の契約の経緯は改めて調査する。6人からも話を聞く。処分は会社の規定と手続きで決まる。覚悟だけはしておけ」

「そ、そんな」相馬はとだれた。もう作り笑いすら出てこなかった。

「最後に一つ。さっき『どこの支社だ』と聞いたな。あれはな、本当は聞くまでもなかったんだ」

俺は一息置いていった。「どこの支社だろうと、全部俺の支社だ」

相馬の目が見開かれたまま動かなくなった。

そこへ新藤が歩み寄ってきた。「社長、先ほどの海外との契約の件ですが、お時間です」「ああ」

新藤の差し出したタブレットを俺は受け取った。画面に目を走らせる。指先で署名欄に触れた。「この条件でいい。進めてくれ」「はい。320億円の最終契約、承認いただきました。先方に伝えます」

会場のどこかで「ひっ」と声が漏れた。320億。年収1200万を自慢した男は、床に座り込んだままその数字を聞いていた。

俺は村瀬の方へ向き直ると頭を下げた。「村瀬、騒がせてすまなかった。幹事、本当にお疲れ様」

村瀬はマイクを持ったまま何度も何度も首を横に振った。

俺は扉へ向かって歩き出した。ワインの染みたスーツのまま、背筋だけは伸びていた。後に残されたのは、倒れたグラスと床に座り込んだ男と、100人のざわめきだった。

ホテルのロビーを抜けて夜の車寄せに出たところで、後ろから声が追いかけてきた。「朝倉君、待って」

振り返ると、千春が息を切らせて立っていた。「もう、歩くの早いよ」「すまないね」「一つだけ聞いていい?」「ああ」「なんでずっと黙ってたの?社長さんだなんて一言も言わないで。あんなに言われて笑われて、言い返せばよかったのに」

俺は少しだけ考えてから答えた。「今夜ここに来たのは、社長の朝倉じゃなくて、パソコン部の朝倉としてみんなに会いに来たから。会社が大きくなったのは俺一人の力じゃない。一緒に走ってくれた仲間と社員のおかげだからな。肩書きを自慢する気にはどうしても慣れなくて。まあ、あそこまで絡まれるとは思ってなかったけど、俺の存在感も捨てたもんじゃなかったな」

俺はワインの染みをつまんで見せた。

「私が覚えてる朝倉君はね、文化祭でゲームの説明を一生懸命してくれた朝倉君だよ。今夜はっきり分かった。あの時のまんま、何にも変わってない」「そっちこそ、夢をちゃんと叶えてた」

千春はくすぐったそうに笑った。それからふと会場の方を振り返った。「相馬君、これからどうなるのかな?」「調査をして、規定通りの処分になる。それ以上でも下でもない。そこから先はあいつ次第ってところだろう」「あいつ次第」

「人はそう簡単には変わらない。だが、変われないと決まってるわけでもないと俺は思ってる」

車寄せに黒い車が滑り込んできた。運転手の窓から新藤が顔を覗かせる。「社長、お迎えしました」「ああ、今行く」

俺は千春に向き直った。「16年分の話は、また機会があったら聞かせてくれ」「ああ。今度はワインのかからない店がいいな」「うん。約束ね」

車が走り出した。窓の外をホテルの明かりが流れていく。「社長、お疲れさまでした」「ああ。久しぶりに長い夜だったな」

俺はシートに体を預けて目を閉じた。

同窓会から3日が経った。ゼフィールテクノロジーズ横浜支社に調査チームが入った。北斗運輸との契約について、営業2課の6人全員から話を聞いた。メールの記録も商談の議事録も訪問の履歴も調べた。出てくるのは同じ事実だった。契約を取ったのは6人のチームであり、相馬はその手柄を車内でも酒の席でも自分一人のものとして語っていた。報告書の主担当の欄には相馬の名前だけが載っていた。6人の名前は隅に小さく並んでいるだけだった。

1週間後、相馬は支社の会議室に呼ばれた。「相馬敬語、本日付けで課長職を解く。異議はありませんか」

机の上に小さな箱が置かれた。刷り直された新しい名刺の箱だった。相馬はその一枚を手に取った。ゼフィールテクノロジーズ、横浜支社。相馬敬語。肩書きがなかった。

あの夜、社長の名刺を偽物と笑った男の手の中で、肩書きの消えた自分の名刺がかすかに震えていた。

フロアに戻ると、視線が刺さった。課長から入口近くの窓際席へ。ダンボール箱一つ分の引っ越しは10分で終わった。誰も声をかけてこなかった。

その夜、一人残ったオフィスで、相馬は白い封筒に「退職願」と書いた。

支社の朝礼に、思いがけない客が来た。社長の俺だった。社長が支社に顔を出すのは初めてのことだった。「北斗運輸との契約について、改めて会社として報告する。あの契約は営業2課の6人が半年かけて取ったものだ。記録は正式に訂正した。6人とも、いい仕事だった。ありがとう」

社長が深々と頭を下げた。フロアがどよめいた。6人のチームの真ん中で、主任の江口が目を赤くしていた。

その様子をフロアの一番後ろで見ていた男がいた。相馬だった。ポケットの中の封筒を上着の上から握りしめながら。

朝礼が終わると、相馬はそのまま俺を追いかけた。「社長、お時間いただけますか?」

会議室で二人きりになった。相馬は封筒を差し出した。「退職願です。調査にも処分にも不満はありません。ただ、もうここにはいられません」

俺は封筒を見たが、受け取らなかった。「座れ、相馬。やめる前に一つだけ話をさせてくれ。うちの会社の根っこの話だ」

相馬は立ったままだった。俺は構わず話し始めた。「俺の親父は小さな機械の会社の技術者だった。何人かの仲間とチームを組んで、朝から晩まで機械を作ってた。相馬、その親父の隣に誰がいたか知ってるか?」「え?」「お前の親父さんだ」

相馬の目が見開かれた。「お、親父?」

「昔から付き合いがあるんだよ、俺たちは。親父たちの会社の夏祭りでな。覚えてないか?うちの親父とお前の親父さんには口癖があった。飯の席でも酒の席でも同じことばかり言ってた。『一人で作れるものなんて高が知れてる。チームワークが全てだ』ってな」

相馬の肩が小さく揺れ始めた。

「ゼフィールって社名も、俺がゼロから考えたんじゃない。親父たちのチームの人たちの呼び名だったんだ。『春風』という意味で、春を運んでくる風のこと。風の姿は誰にも見えない。それでも春が来たことはみんなが知ってるとかなんとか言ってたな。縁の下で機械を作り続けた親父たちの精一杯の洒落だったんだろうな。俺はこの会社を、あの人たちの背中を思い出しながら作った。だからうちの根っこには最初からあの言葉しかない。チームワークが全てだ」

その言葉が、相馬の中で何かの鍵を開けた。

中学のサッカーの試合で、相馬はハットトリックを決めた。得意になっていた。だが、見に来ていた父は帰り道、一言だけ言った。「敬語、点を取ったな。だがな、一人で点を取るな。チームで勝て」あの時は意味が分からなかった。むっとして返事もしなかった。

高校2年の冬、病室のベッドで痩せた父は相馬の手を握っていった。「敬語、母さんを頼むな」それだけ言って、父は少しだけ笑った。

その約束を守れなかった。父が亡くなってから、看護師の母は昼も夜も働いた。家に一人の夜が増えた。寂しさはいつの間にか怒りに変わった。母を泣かせて、サッカーをやめた。それでも就職を選んだのは、親父と同じチームで物を作る会社だった。技術がないから営業として。理由は自分でもうまく言えなかった。ただ、親父みたいになりたかったのだと。

気がつくと、声が漏れていた。「お、俺、サッカーでずっとチームでやってきた。知ってた。俺、本当は全部分かってた。一人で点を取るなんてない。チームで勝つんだって。親父に教わってたのに」

涙が後から後から溢れて落ちた。34歳の男が会議室の真ん中で、子供のように泣いていた。「親父みたいになりたくてこの会社に入ったのに、気づいたら真逆の人間に。同姓同名の社長がいることなんて入社した時から知ってたのに、まさかお前だなんて。親父たちのチームの名前の会社だなんて」

「俺は、ひどいことを。看護師を見てるとお袋を思い出して、ずっとイライラして。俺は最低だ」

俺は泣きじゃくる相馬の前に椅子を引いて腰を下ろした。「そうか。その退職願は受け取らない」「え?」「でも、やめるのは逃げじゃなくて、ただの逃げだ。やり直したいなら、場所はもうあるだろう。お前が名前を消したあの6人の隣だ。あの6人に決めてもらえ。お前ともう一度チームを組めるかどうかを」

相馬は袖で涙を拭って、何度も何度も頷いた。「1から、1からやり直させてください」

その日、フロアに戻った相馬は、平社員の島へ歩いていった。6人の前で深く頭を下げた。「申し訳ありませんでした。俺が皆さんの手柄を盗みました。こんな俺ですが、隣で1から勉強させてください」

長い沈黙の後、主任の江口が口を開いた。「顔を上げてください、相馬さん。言葉より仕事で見せてもらいます。見てますから。これからずっと」「はい」

その様子を廊下から見ていた俺は、誰にも気づかれないうちに支社を後にした。

同窓会から4ヶ月が過ぎた。季節は春になっていた。本社の社長室で、俺は新藤の持ってきた月報をめくっていた。横浜支社のページでその手が止まった。

「営業2課がまた大口を取りました。今度は医療機器メーカーのシステム一式です」

報告書の担当者欄には7人の名前が並んでいた。6人の名前の後に一つ増えている。相馬敬語。その名前は7人の一番最後に書かれていた。

「支社の話では、朝は誰よりも早く来て資料の準備をしているそうです。手柄の話は一切しなくなったと」

「そうか」

俺は月報を閉じた。口元が少しだけ緩んでいた。

その週末、俺は駅前の小さな定食屋にいた。テーブルの向かいには千春がいる。約束通りの16年分の話の続きだった。

「ここ、ワインもシャンパンもないから安心だね」「ああ。かかるとしても味噌汁くらいだな」「それはそれで嫌だよ」

千春は笑ってから、少しだけ声の調子を変えた。「これ、知ってる?相馬君から手紙が来たの」「手紙?」「うん。謝罪の手紙。便箋3枚ぎっしり。同窓会でやったこと、全部謝ってあった。それでね、最後の一行にこう書いてあったの。『お母さんにちゃんと親孝行します』って」「そうか」「看護師をしてるお母さんのこと、私全然知らなかった。ちゃんと届くといいな。あの手紙の分まで」

俺は頷いた。それ以上は何も言わなかった。言わなくても、届く場所にあの男はもう歩き出している。

「あのね、私もちょっとだけ変わったんだよ」「うん」「後輩がね、患者さんの家族に理不尽に怒鳴られてへこんでたの。前の私ならこう言ってた。『大丈夫。そのうちに慣れるよ』って。でも言ったの。『慣れちゃだめだよ』って」

千春は少しいたずらっぽく笑った。「誰かさんの受け売りだけどね」「いい先輩だな」

窓の外を春の夕方の光が流れていた。二人の前で定食の味噌汁が湯気を立てていた。豪華なものは何もなかった。それでも、16年分の時間が少しずつ解けていった。

金曜の夜10時。本社のオフィスに俺はいた。フロアの照明はもう半分が落ちている。あの夜の前と何も変わらない、いつもの日常だった。

その日の仕事を終えると、俺は席を立ち、窓を少しだけ開けた。夜の町から柔らかい風が吹き込んでくる。冬の冷たさはもうどこにもなかった。

「なあ、親父。あの春風は今日もちゃんと吹いてるよ」

姿の見えない風が、今夜もどこかで誰かの春を運んでくる。その風の名前を知る人は少ない。それでいいと俺は思う。肩書きでも年収でもない。誰かと組んで、誰かのために働く。その当たり前の尊さを、16年ぶりの同窓会は残していった。

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