第2部:ファントム・アーキテクトの反撃

思えば週一と共にこのITソリューションと総合商社を兼ねた会社を立ち上げたのは、まだ私たちが20代後半の右も左も分からない頃だった。
最初は六畳一間の隙間風が吹き込む古びたアパートを事務所代わりにし、毎日安売りのカップラーメンをすすりながら、来る日も来る日も電話帳を片手に営業の電話をかけ続けた。
週一は昔から口だけはうまく、人懐っこい性格だったため、接待で相手の懐に潜り込み、新規の顧客を見つけてくる才能にはたけていた。しかし彼には経営者として致命的な欠陥があった。実務能力と管理能力が、文字通り皆無だったのだ。
複雑な見積もり書の作成から法的に抜け穴のない契約書のリーガルチェック、さらには何百社にも及ぶ取引先の膨大なデータを一元管理するシステムの構築まで——裏方の業務は全て私が一手に引き受けた。
私は毎晩遅くまで独学でプログラミングの専門書を読み漁り、血を吐くような思いで独自のデータベースを組み上げた。週一が外で毎晩のように高級クラブで飲み歩き、「これも大事な接待だ。俺が会社を食わせてやってるんだ」と豪語して泥酔して帰ってくる間も、私は一人、システムのバグ取りと彼が適当に使った経費の計算に追われていたのだ。
「お前は本当に地味で華がないな。社長夫人なんだからもっと着飾って俺の横を歩けないのか。パソコンばっかり見てると吹けるぞ」
会社の規模が少しずつ大きくなり、まとまった利益が出始めた5年前くらいから、週一の態度はあからさまに変わり始めた。高級なオーダースーツに身を包み、何千万もする社用車を乗り回すようになった。彼は私服で黙々と仕事をする私を「会社の品格を下げる」と疎ましく思うようになっていった。
そして3年前、彼が「優秀な社長秘書」という名目で連れてきたのが、あの若くて派手なみさだった。彼女はパソコンの電源の入れ方すら怪しく、コピー機の使い方一つ覚えようとしなかったが、週一に媚びへつらい甘えることだけは天才的だった。
「奥様みたいに毎日暗い顔してパソコンと寝起きしてるだけの地味なおばさん、会社のイメージダウンにしかなりませんよ。私が受付で明るく微笑んでいれば、取引先の男の社長さんたちはみんなメロメロになって次々と契約書に判を押してくれるんですから。奥様のやってる地味な事務作業なんて、今時アルバイトにでもやらせておけばいいじゃないですか」
香水のきつい匂いを周囲に漂わせながら、みさは社長室でよく私にそう言い放った。週一もそれを止めるどころか、一緒になって嘲笑っていた。
そんな直接的な侮辱の言葉を浴びせられても、私は決して言い返さなかった。ただ無言で表情一つ変えずにキーボードを叩き続けた。
私が反論しなかったのは、決して彼女の若さに嫉妬したり、夫の権力に屈したりしたからではない。口で言い負かす価値すらないほど、あの二人がこの会社の本当の心臓部を理解していなかったからだ。
この会社を動かしている独自の物流ネットワーク、何十にもセキュリティがかけられた顧客データ、そして毎分毎秒変動する複雑な資金繰り。その全てが、私が何年もかけて組み上げたシステムと私自身の頭脳の中にしかないという決定的な事実を、愚かな彼らは完全に暴却していたのだ。
「さて、くだらない過去の感傷に浸るのはここまでね」
私は大通りでタクシーを拾い、「六本木ヒルズまでお願いします」と運転手にはっきりとした声で告げた。向かう先は、業界大手にしてフロントラインの最大のライバル企業であるグローバルイノベーション社の本社ビルだ。
実は1ヶ月前、私はこの会社のトップヘッドハンターから極秘に接触を受けていた。彼らはフロントラインの異常なまでの成長を根本で支えている完璧なバックオフィスシステムが、表舞台に立つ社長の週一ではなく、名もなき副社長である私の手によるものだと、正確なデータ分析によって見抜いていたのだ。
「現在の報酬の3倍、そして執行役員のポストをご用意しています。あなたのその卓越した才能を、無能な経営者の下で腐らせるのではなく、是非我が社で存分に発揮していただきたい」
ヘッドハンターの熱意ある言葉を思い出しながら、私はタクシーの窓から猛スピードで後ろへと流れていく東京の景色を静かに眺めていた。
30分後、私はそびえ立つ壮大なガラス張りの高層ビルに足を踏み入れた。受付で名前を告げると、うやうやしい態度で最上階にある重厚な役員専用の応接室へと案内された。
ふかふかの絨毯を踏みしめながら室内に入ると、最高級の革張りのソファに座って私を待っていた人物がゆっくりと立ち上がった。
「お待ちしておりましたよ。ようやくお会いできましたね」
静かに発せられたその声と、入ってきた人物の顔を見た瞬間、私は思わず小さく息を飲んだ。

そこに立っていたのは、全く予想もしていなかった、あまりにも意外な人物だったのだ。
「まさか……あなたがグローバルイノベーションの実質的なトップだったのですか?」
仕立ての良いスーツを着こなした白髪混じりの上品な紳士。彼はかつて週一が「あんな時代遅れの頑固なジジイ、適当に酒でも飲ませてやっておけばいい」と陰で侮辱し、結果的に激怒させて巨大な取引を打ち切られたはずの元大手銀行の頭取であり、業界の重鎮・オートリー氏だった。
「久しぶりですね。あの時、社長の無礼を知り、拭いをするために影で必死に火消しに奔走してくれたあなたの誠実さと圧倒的な優秀さは、片時も忘れていませんでしたよ」
オートリー氏は温かく、しかしビジネスマンとしての鋭い眼光で私をまっすぐに見据えて微笑んだ。
「さあ、積もる話は後にして、早速反撃の準備を始めましょうか。あちらの会社はあなたが抜けて、今頃どうなっていますかね?」
彼がそう言ってニヤリと笑った。
全くその直後だった。私のハンドバッグの中でマナーモードに設定していたスマートフォンが、けたたましいバイブレーションの音を立てて震え始めた。バッグから取り出して画面を見ると、そこには「週一」という文字が大きく映し出されている。
私が会社を出てからまだわずかな時間。早くも会社のシステムが完全に沈黙し、崩壊のカウントダウンがゼロになったことを知らせるパニックに陥った元夫からの着信だった。
完璧な防音設備が整い、静寂に包まれたグローバルイノベーション社の最高級応接室で、私のハンドバッグの中にあるスマートフォンが下品でけたたましい振動音を立てていた。
バッグから取り出し、画面に表示されている「週一」という二文字を、私はまるで路傍の石でも見るかのような冷やかな目で見下ろす。離婚届けと退職届けを叩きつけてからまだわずかな時間。予想通りすぎる展開に、呆れを通り越して笑いすら込み上げてくる。
目の前の特注の革張りソファに深くかけたオートリー会長は、「フォッホッホ」と低く楽しそうな笑い声を漏らしながら、真紅の美しいティーカップを傾けていた。芳醇なダージリンの香りが、春の陽光が差し込む室内にふわりと漂う。
「出なくてよろしいのですか? 元旦那様、随分と焦っておられるようですが。あなたのことだ、あの会社の心臓部であるシステムに何か面白い仕掛けでもしてきたのでしょうね」
オートリー会長は私の性格を知り尽くしているかのように、悪戯っぽい瞳で私を見つめた。
「仕掛けだなんて、そんな大それたものは何も。ただ私が私自身の生体認証で一元管理していた強固なセキュリティを解除せずに退職しただけです。会社のサーバーもシステム自体も正常に動いています。ただ彼らには中身が見えない。一切触れることができないというだけのことですよ」
私は淡々と事実だけを答えながら、スマートフォンの電源をゆっくりと切ろうとした。これ以上あの男の耳障りな声を聞いて、せっかくの新しい門出の気分を害したくなかったからだ。
しかしオートリー会長がそれを制するように手の動きで静止した。

「せっかくです。一度だけ電話に出てみませんか? 彼らが今どれほど滑稽で絶望的な状況に陥っているのか。直接声を聞いてみるのも悪くないでしょう。もしよろしければスピーカーホンにして、私にもその様子を聞かせてくれませんか?」
業界の重鎮であり、誰もが恐れる冷酷な経営者とは思えない。まるでいたずらを企む少年のように目を輝かせるオートリー会長の提案に、私は小さく息を吐いた。そして通話ボタンをスライドさせ、スピーカーモードに切り替えて、代理席のローテーブルの中央に置いた。
その瞬間、耳を劈くような週一の怒鳴り声が、上品で静かな応接室に容赦なく響き渡った。
「おい、てめえ、ふざけんなよ! 会社のパソコンが全部ロックされてて、何のデータも開けねえじゃねえか! お前、出ていく払いにうちのシステムを完全に壊しやがったな! この犯罪者め、警察を呼ぶぞ!」
電話越しでもはっきりと分かるほど、週一は完全にパニックに陥り、ゼーゼーと息を荒くしていた。どうやら会社のパソコンを片っ端から叩き壊すばかりの勢いで操作しているらしい。後ろからはみさの「嫌だ! もう私のマッサージの予約時間過ぎちゃうのに、パソコン治らないと今日の分の給料計算できないじゃないですか! 早くなんとかしてくださいよ、社長!」というこの期に及んで場違いに余った愚かな声も聞こえてくる。
私は一切の言葉を発さず、ただ無言でスマートフォンのマイクを見つめていた。私の絶対的な沈黙が、さらに週一の底知れぬ苛立ちと恐怖を煽っていく。
「おい、聞いてんのか! この口の利けない女! だんまり決め込んでんじゃねえぞ! お前みたいな誰でもできる事務作業しか取り柄のない底辺のババアが、会社の重要なデータに鍵をかけるなんて生意気なんだよ! さっさとパスワードを教えろ! 今すぐだ! じゃないと莫大な損害賠償でお前を訴えてやるからな! 一生かけても払いきれない額を請求してやる!」
凄まじい罵詈雑言を浴びせる週一の底の浅い侮辱の言葉の数々。15年間、私がどれだけの血の滲むような思いと努力をしてあのシステムを構築し維持してきたか。そしてあのセキュリティがキーボードでパスワードを入力して解除できるような安っぽい代物ではないこと。彼は全く理解していないのだ。
私が構築したフロントライン社のコアシステムは、私の網膜と指紋、さらに声紋認証の三段階をクリアしなければトップページにすらアクセスできない、完全なブラックボックス仕様になっている。誰にでもできる事務作業と言い放ったそのシステムが、実は世界最高峰のセキュリティ技術を応用した特注品であることなど、技術のイロハも知らない無能な彼らに理解できるはずもなかった。
私は依然として一言も発しない。オートリー会長は週一のあまりの愚かさと下劣な暴言に呆れたように小さく首を振り、無言のまま「一発、痛い目を見せてやりなさい」と鋭い視線で促した。
「おい、いい加減にしろ! 明日の朝一番に、あのオートリーグループの関連会社に絶対に納品しなきゃならない大事な設計データが入ってんだよ! あれが遅れたらうちの会社は一発で信用を失って巨額の違約金を払わされて倒産だぞ! お前、自分がどれだけ取り返しのつかないことをしてるか分かってんのか? 今すぐ土下座して泣いて謝るなら、会社に戻ってくることを許してやってもいい。だから早くこのロックを解除しやがれ!」
週一のその言葉に、私は思わず冷たい笑みをこぼしてしまった。
彼が今、顔面蒼白で血眼になって探している「オートリーグループ関連会社への設計データ」。そのオートリーグループの総帥であるオートリー会長本人が、今まさに目の前で週一の惨めなど怒鳴り声を聞きながら、哀れみすら浮かべた冷ややかな笑みで見下ろしているとも知らずに。
「ねえ、週一さん」
十分な沈黙の後、私はようやく静かに、絶対零度のように冷たい声で口を開いた。
「なんだよ。やっと喋ったか。さっさと解除の方法を……」
「みささんは優秀な社長秘書なんでしょう? 私なんかよりずっと若くて元気で最高に有能な女だって。先ほどご自身で豪語していらっしゃいましたよね。あなた方二人の素晴らしい経営手腕と若さがあれば、私の残したちっぽけなロックくらい、5分もあれば解除できるんじゃないですかな」
「お前、ふざけ……」

「私はもうあなたの会社の人間ではありません。部外者に機密情報の解除を求めるのは重大なコンプライアンス違反ですよ。ああ、それから」
私はそこで意図的に言葉を切り、目の前に座るオートリー会長と視線を合わせた。会長は不敵に笑い、私に全てを委ねるようにゆっくりと目を閉じる。
「明日の朝が納期のオートリーグループ関連会社の案件ですが、あなた、本当に自分の置かれている状況が分かっていないのですね」
「はぁ? なんだよ。一体何が言いたいんだよ」
「その案件、すでに別会社に引き継がれていますよ。あなたの会社にはもう1円の価値もありません」
私がそう告げた直後、電話の向こうでガチャーンという何かが床に激しく叩きつけられる音が響いた。週一の口からヒュッという情けない息を飲む音が漏れ聞こえてくる。
だが彼らの本当の地獄はこれから始まるのだ。
彼らがまだ気づいていない。このシステムに隠されたもう一つの恐ろしい仕掛けが発動するまで、あとわずか数時間——。
週一はまだ自分の状況を理解していなかった。大道銀行の黒田常務という「最強の後ろ盾」を信じ、私を犯罪者に仕立て上げようとさえしてきた。しかし、私が5年間密かに記録し続けていた裏金工作と脱税の証拠は、すでに金融庁と東京地検特捜部のサーバーへと自動送信されていた。
そして、週一が「緊急ライブ配信」で私とグローバルイノベーション社を糾弾しようとしたその瞬間、私が仕掛けたバックドアが起動した。
数百万人が見守る画面に、彼自身の生々しい録音データと裏帳簿が次々と映し出されていく。
特捜部が社長室に踏み込み、週一とみさは連行された。かつて私を見下していた男は、アクリル板越しに「助けてくれ」と泣き叫ぶだけの惨めな存在へと成り果てた。
私は会社の筆頭株主としてフロントラインを完全子会社化し、腐敗した幹部を一掃した。残った社員たちと共に、実力と誠実さだけが評価される新しい組織を立ち上げた。
春の終わり。桜の花びらが舞う中、私はもう「無能な妻」ではない。
自分の足で立ち、自分の言葉で語り、自分の意思で未来を切り開いていく、一人のプロフェッショナルだ。
「無能ならやめろ」と言った男がいた。
その言葉があったからこそ、私は本当の自分に出会うことができた。
さようなら、無能と呼ばれた私。
そして、初めまして——本当の私。


