朝の柔らかな光が差し込む台所で、私は手にしていた味噌汁の椀を落としそうになった。息子の嫁が放った言葉は、まさか自分の耳を疑うようなものだった。
「じゃあ、その年金全部置いて出て行ってもらえますか」
私は70歳。45年間、簡易食堂で店を切り盛りしてきて、ようやく穏やかな老後を迎えられると思っていた矢先のことだった。
事の発端は5分前。息子の克が重い足取りでダイニングに入ってきて、唐突に切り出したのだ。
「母さん、年金いくらもらってるの?」
何の前触れもない質問に戸惑いながらも、私は正直に答えた。
「月に15万円よ。でも、どうして急にそんなことを…」
すると、嫁の志保が割り込むように、あの衝撃的な言葉を口にしたのだ。年金を全部置いて出ていけと。私は耳を疑った。
「私たちも生活が大変なんです。お母さんには年金があるじゃないですか」
志保の目は氷のように冷たく、まるで私を邪魔者扱いしているようだった。さらに驚いたのは、息子の克も妻の言葉に頷いていることだった。
「母さん、俺たちも余裕がないんだ。年金があるなら、それを家に入れてもらわないと」
42年前、私の腕の中で泣いていたあの小さな赤ん坊が、今や母親を金ヅルとしか見ていない。私の心臓が早鐘を打ち始めた。
私が言葉を失っていると、志保はさらに畳みかけてきた。
「お母さん、年金があるんですから、私たちの生活に当てるのは当然でしょう。それに、食堂を45年もやってたんですよ。蓄えもあるはずです」
まるで私が何か悪いことをしているかのような言い方に、胸が締め付けられた。
「でも、私にも生活があるのよ。年金は私の老後のための…」
「もう70歳でしょう。これ以上、何にお金を使うんですか?私たちはまだ若いんです。子供の教育費だってかかるのに」
克も妻に同調するように口を開いた。
「母さん、俺たちも本当に大変なんだ。志保の言う通り、母さんには年金がある。でも俺たちは住宅ローンも残ってるし」
「ちょっと待って。克、あなた忘れたの?マイホームの頭金500万円は私が出したのよ。大学の学費だって800万円、全部私が…」
志保の顔色が変わった。
「それは過去の話でしょう。今は今です。お母さんが一緒に住んでるんだから、生活費を入れるのは当たり前じゃないですか?」
「そうだよ、母さん」と克が冷たく言い放った。「もう決めたことだから。年金は全額置いて、今週中に出て行ってくれ」
私は息子の顔を見つめた。そこにはもう、幼い頃の優しい面影はなかった。まるで他人を見るような冷たい目。45年間、朝から晩まで店で働き続け、全てを息子に捧げてきた私の人生は、一体何だったのだろう。志保の勝ち誇ったような笑顔が、私の心に深い傷を刻んでいく。
翌朝、私がリビングに入ると、克と志保がすでにテーブルに座って待っていた。二人の表情は昨日以上に冷たく、まるで裁判官のように私を見下ろしていた。
「母さん、昨日の話の続きだけど」と、克が事務的な口調で切り出した。「正直に言うよ。母さんはもう、俺たちにとってお荷物でしかないんだ」
お荷物。その言葉が私の胸に鋭く刺さった。45年も店で働いて得た年金が15万円。志保が軽蔑するような目で私を見た。
「情けなくないですよね。私の母なんて元教師で、年金25万円ももらってます」
「それに比べて…」
「私なりに一生懸命…」
「一生懸命?」志保が私の言葉を遮った。「結果が全てです。年金15万円なんて、生活保護とほとんど変わらないじゃないですか。恥ずかしくて近所の人に言えません」
私の目に涙が滲んだ。45年間、雨の日も風の日も店のカウンターに立ち続けた。お客様一人ひとりに心を込めて接客し、地域の人々に愛される店を作り上げてきた。その誇りを、こんな形で踏みにじられるなんて。
ふと、過去の記憶が蘇ってきた。克が小学校に入学した日、新しいランドセルを背負って嬉しそうに店に駆け込んできた姿。「母さん、今日ね、友達がたくさんできたよ」そう言って抱きついてきた温もり。中学の時、部活で怪我をして帰ってきた時も、私は店を閉めて病院に連れて行った。「母さん、ごめん。心配かけて」そう言って涙を流した息子を、私は優しく抱きしめた。高校受験の時は毎晩遅くまで一緒に勉強した。私も仕事で疲れていたけれど、息子の将来のためならと思えば、疲れなんて吹き飛んだ。合格発表の日、二人で抱き合って泣いた。
大学の学費800万円を工面するため、私は大切にしていた着物を何枚も売った。でも、息子の笑顔を見れば、そんな犠牲も惜しくなかった。結婚式の日、克は私の手を取って言った。「母さん、今まで本当にありがとう。これからは俺が母さんを幸せにするから」。その言葉を信じていた。そしてマイホーム購入の時、「母さん、頭金が足りないんだ」と相談されて、老後のために貯めておいた500万円を差し出した。「これで志保さんと幸せになってね」私はそう言って微笑んだ。
なのに、今。
「もう家族じゃないんだよ」と克が冷たく言い放った。「母さんは他人だ。血は繋がってるけど、もう家族としての関係は終わりにしたい」
「他人…?」私は呆然と聞き返した。
「そうです」と志保が追い打ちをかける。「私たちは家族。お母さんは部外者です。だから、年金を置いて今すぐ出て行ってください」
「でも、この家には私の思い出が…」
「思い出なんてどうでもいいんです」志保が声を荒げた。「お金もない。将来性もない。ただの老人と一緒にいても、私たちには何のメリットもありません」
克も頷いた。「母さん、絶縁しよう。もう会うこともない。連絡も取らない。完全に切るんだ」
私は立ち尽くしていた。38年間、全身全霊で愛し、育ててきた息子から絶縁を宣言された。しかも、年金を奪い取ろうとしながら。
「分かったわ」私は静かに言った。「出ていきます」
すると、志保が勝ち誇ったように笑った。
「やっと分かってくれましたか?じゃあ、年金の通帳と印鑑を置いて行ってくださいね」
私は何も答えず、階段へと向かった。階段を登りながら、不思議と涙は出なかった。ただ、心の奥底で何かが静かに、でも確実に変わっていくのを感じていた。
自室に戻った私は、クローゼットの奥から古い革のトランクを引き出した。埃を払いながら蓋を開けると、そこには私の人生そのものが詰まっていた。夫との結婚写真、克の誕生の記録、食堂の開店当時の写真、そして一番奥に大切にしまってあった茶色い封筒。私はそれを手に取り、中身を確認した。
「お望み通りにしてあげましょう」
私は独り言をつぶやきながら、静かに微笑んだ。この微笑みの意味を、息子夫婦はまだ知らない。
階段下から志保の声が聞こえてきた。
「早く荷物をまとめてくださいね。明日の朝には出て行ってもらいますから」
私は立ち上がり、もう一度リビングへ降りて行った。克と志保はすでに、私の年金で何を買おうかと楽しそうに話し合っている。
「月15万円もあれば、かなり楽になるわね」志保が電卓を叩いている。「車のローンも払えるし、旅行にも行けるな」克も嬉しそうだ。
「母さん?何?まだ用があるの?」克が面倒臭そうに振り返った。
「一つだけ確認させて。本当に私と絶縁するのね?」
「当たり前でしょう」志保が即答した。「お母さんみたいな貧乏人と関わってても、うちの子供に悪影響ですから。年金15万円の人なんて、恥ずかしくて親戚にも紹介できません」
「そうですか…分かりました。出ていきます」
私は静かに微笑んだ。その微笑みを見て、克が少し戸惑ったような表情を見せた。
「母さん、なんで笑ってるんだ?普通、泣くとか怒るとかするだろ?」
「いえ、なんでもないわ。ただ、すっきりしたのよ。ずっと迷っていたことがあったの。でも、あなたたちのおかげで決心がついた」
「迷っていたこと?」と克が怪しげに聞いた。
「ええ、でも、もう関係ないわね。私たちは他人なんだから」
私は振り返り、再び自室へと向かった。階段を登る私の後ろから、克の声が聞こえてきた。
「変な母さんだな。まあ、年金さえ置いて行ってくれればいいけど」
部屋に戻ると、私は携帯電話を取り出した。電話帳から、長年お世話になっている税理士の番号を探す。山田先生。父の代から我が家の資産管理をお願いしている方だ。
「もしもし、山田先生。堀内ですが」
「おお、堀内さん。お久しぶりです。どうされました?」
「実はご相談があって。例の件、動かす時が来たようです」
電話の向こうで、山田先生が息を飲む音が聞こえた。
「ついにですか?息子さんには…」
「ええ、まだ何も言っていません。というより、もう言う必要もなくなりました。絶縁を言い渡されましたから」
「えっ、絶縁?あの克君が?」
「ええ。私の年金15万円を奪って、追い出すそうです。貧乏な母親はお荷物だそうですよ」
山田先生は絶句した。しばらく沈黙が続いた後、怒りを含んだ声で言った。
「信じられません。堀内さんがどれだけの資産をお持ちか、知らないんですね」
「知らないままでいいんです。もう他人ですから」
「そうですか…分かりました。明日、事務所でお待ちしております。全ての手続きを進めましょう」
電話を切ると、次に不動産会社に連絡を入れた。
「佐藤不動産です」
「堀内と申します。以前からお話ししていた銀座の土地の件ですが」
「堀内様!お待ちしておりました。買い手の企業から、また価格交渉の連絡が来ています。現在の提示額は8億円ですが、もう少し待てば10億円まで上がる可能性があります」
「8億円で結構です。すぐに売却の手続きを」
「本当によろしいんですか?あと半年待てば…」
「いいえ、今すぐ動いてください。理由があるんです」
「分かりました。詳しいお話は明日伺います」
私は次々と必要な連絡を済ませていった。銀行、証券会社、そして弁護士。45年間、誰にも言わずに準備してきたことが、ついに動き出す時が来た。
実は、私の父は地主だった。戦後の農地改革でほとんどの土地を失ったが、銀座の一等地だけは商業地として残された。父は生前、その土地を私に相続させた。
「絹、この土地は最後の最後まで取っておけ。本当に大切な時が来るまで、誰にも言うな。そして、お前を本当に大切にしてくれる人にだけ、この財産のことを話せ」
父の遺言を、私は守り続けてきた。結婚した時、夫にだけは正直に話した。すると夫は言った。
「絹さんのお父さんの思いは大切にしよう。でも、俺たちは自分たちの力で生きていこう。その土地は、本当に必要な時まで忘れていよう」
夫と二人で食堂を始めた。朝から晩まで働いて、少しずつお客様を増やしていった。夫が亡くなってからも、私は店を守り続けた。克が生まれてからも、この秘密は守り続けた。息子には苦労を知って欲しかった。お金の大切さ、働くことの尊さを学んで欲しかった。だから、あえて質素に暮らし、食堂の収入だけで生活していた。
でも、まさか息子がこんな人間に育つとは。私の教育が間違っていたのだろうか。いや、違う。志保と結婚してから、克は変わってしまったのだ。
私は金庫を開け、中から数冊の通帳と書類を取り出した。三菱銀行の通帳、預金2億7000万円。水戸証券の定期預金1億5000万円。野村証券の運用報告書、株式評価3億2000万円。父から相続した都内のマンション3棟、年間収入4800万円。そして、銀座の土地の権利書、現在の評価額8億円。総資産、約15億円。
年金が15万円しかない貧乏な老人だと思っている息子夫婦。彼らの顔を思い浮かべると、自然と笑みがこぼれた。
翌朝、私は静かに家を出た。克と志保はまだ寝ている時間だった。3年前から同居していた息子夫婦の家。私が頭金500万円を出して買ったこの家にも、もう未練はない。タクシーで向かったのは、都心の高級ホテル、帝国ホテルだった。
「いらっしゃいませ。ご予約のお名前は?」
「堀内絹です。スイートルームを1週間」
フロントの女性が驚いたような顔を一瞬見せたが、すぐにプロの笑顔に戻った。
「堀内様、かしこまりました。最上階のインペリアルスイートをご用意しております」
1泊15万円。息子夫婦が欲しがっていた、私の月の年金と同じ金額だ。部屋に入ると、窓から東京の街が一望できた。私は深呼吸をした。
「これからが、本当の人生です」
午前10時、山田税理士の事務所を訪れた。
「堀内さん、昨日はびっくりしました。まさか息子さんがそんなことを…」
「もういいんです。先生、それより資産の整理をお願いします」
山田先生は書類を広げた。
「確認させていただきます。銀座の土地8億円で売却。マンション3棟は保有継続。証券口座の株式は一部売却して現金化。よろしいですか?」
「はい。それと、年金の受け取り口座も変更します。新しい口座を作りました」
「なるほど。息子さんには年金を渡さないということですね」
「当然です。他人にお金を渡す義理はありません」
山田先生は苦笑いを浮かべた。
「それにしても、15億円の資産をお持ちの方が、年金15万円で貧乏人扱いされるとは」
「年金は年金、資産は資産です。息子にはお金の本当の価値を教えるつもりでしたが、もう手遅れのようです」
事務所を出ると、次は弁護士事務所へ向かった。相続専門の田中弁護士が待っていた。
「堀内様、遺言書の作成でよろしいですね」
「はい。息子の克には、法定相続分の遺留分、つまり財産の4分の1だけを残します。残りは全て、児童養護施設と、和食の伝統を守る財団に寄付します」
「息子さんには最低限ということですか?」
「それすら惜しいくらいですが、法律ですから」
田中弁護士は頷きながら書類を作成していった。
午後2時、佐藤不動産を訪問した。
「堀内様、銀座の土地の買い手の社長が直接お会いしたいと」
応接間に通されると、大手デベロッパーの社長が座っていた。
「堀内様、お父様の代からあの土地を守って来られたと聞きました。私どもは、あの場所に日本の伝統工芸を紹介する複合施設を作る予定です。伝統工芸の施設…。堀内様が食堂を経営されていたことも存じています。是非、施設のアドバイザーになっていただけませんか?」
思わぬ申し出だった。私の食への思いを理解してくれる人がいる。
「ありがとうございます。喜んでお手伝いさせてください」
契約書にサインをし、8億円の小切手を受け取った。小切手1枚だが、これが45年間守ってきた土地の代償だ。銀行によって小切手を預けた。
「堀内様、これで残高は10億円を超えますね」と、係の女性が緊張した面持ちで言った。「ところで、プライベートバンキングサービスはいかがですか?資産運用のご提案を…」
「結構です。私はもう70歳。増やすより、使うことを考えています」
銀行を出ると、携帯電話が鳴った。知らない番号だったが、出てみると克だった。
「母さん、どこに行ったんだよ。年金の通帳が見つからないんだ」
「あら、もう起きたの」
「通帳はどこだ?」
「私の通帳は私が持っています。当然でしょう」
「何言ってるんだ?置いていく約束だろ?」
「約束?私は出ていけと言われただけです。年金を渡すとは一言も言っていません」
「ふざけるな。すぐに戻ってこい」
「無理ですね。私たちはもう他人でしょう」
電話を切った。これでいい。これで、本当の戦いが始まる。
夕方、食堂の常連客だった資産家の奥様から連絡があった。
「絹さん、お店を閉められたと聞いて心配していたの。今度お茶でもしましょう」
「ありがとうございます。実は、新しい人生を始めることにしたんです」
高級ホテルの部屋に戻ると、夜景が美しく輝いていた。私はワインを開けて、一人で乾杯した。
「さあ、明日はどんな顔をするかしら?」
私は微笑んだ。復讐は始まったばかりだ。
ホテルの部屋で優雅な朝食を取っていると、携帯電話が鳴り続けた。克からの着信が10回以上、志保からも10回。私は全て無視した。
午前9時過ぎ、ついに留守番電話にメッセージが入った。
「母さん、ふざけるな。年金の振り込みがされてない。口座を確認したら残高ゼロだ。どういうことだ?すぐに連絡しろ」
克の怒声。私は紅茶を飲みながら、次のメッセージを再生した。
「お母さん、生活費はどうするんですか?約束が違います。置いていくって言ったじゃないですか。今月の住宅ローンも払えません」
志保の金切り声。約束?そんなもの、私は覚えていない。
10時過ぎ、また電話が鳴った。今度は出てみることにした。
「もしもし」
「母さん、やっと出た。年金はどうした?」
「年金?私の年金がどうかしましたか?」
「とぼけるな。振り込み先を変えただろう。元に戻せ」
「ああ、そのことですか?当然でしょう。私の年金ですから、私の口座で受け取ります」
「何言ってるんだ?俺たちの生活費はどうするんだ?」
私は微笑んだ。
「あなたたちの生活費?なぜ私が他人の生活費を心配しなければならないんですか?」
「他人じゃない。俺は息子だ」
「あら。昨日は絶縁すると言ってましたよね。他人だって。私はお荷物で、一緒にいる価値もないって」
克が言葉に詰まった。横から志保の声が聞こえてきた。
「お母さん、住宅ローンが払えません。今月の支払いが18万円。お母さんの年金がないと無理なんです」
「それは大変ですね。でも、私には関係ありません。君たちで何とかしてください」
「関係ないって。お母さんが頭金500万円を出した家でしょう」
「ええ、500万円出しました。でも、名義はあなたたちでしょう。私の家ではありません。それに、その500万円ももう返してもらわなくて結構です。絶縁の手切れ金だと思えば、安いものです」
「手切れ金?そんな水臭いこと言わないでください」
「水臭い?昨日、私を追い出したのは誰だったかしら」
ところで、と私は話題を変えた。
「私、今、帝国ホテルにいるんです。スイートルーム、1泊15万円。ちょうど私の月の年金と同じ金額ね。朝食も素晴らしくて、1人前8000円もするんですよ。帝国ホテルのスイートルーム、とても快適です。これからエステの予約も入れました。1回5万円。それから銀座で買い物もします。ずっと我慢していた真珠のネックレスです。300万円のものを買うつもりです」
「母さん、気でも狂ったのか?そんな金、どこにあるんだ?年金15万円しかないくせに」
「あら、言ってませんでしたっけ?私、お金には困ってないんです」
沈黙が流れた。
「嘘だろ…」克の声が震えている。
「嘘ではありません。実は、私の父から相続した土地がありまして。銀座の一等地です」
「銀座?」
「ええ。昨日売却しました。8億円で」
電話の向こうで、何かが落ちる音がした。茶碗が床に落ちたようだ。
「は、8億?」
「正確には8億2000万円でした。デベロッパーがどうしても欲しいというので」
「嘘だ。母さんがそんな土地を持ってるわけない」
「なぜ、そう思うんですか?私の父は地主でした。戦後の農地改革で多くを失いましたが、銀座の商業地だけは残ったんです」
「でも、そんな話、一度も…」
「言う必要がありましたか?あなたたちには関係ない話でしょう」
「関係ないって、俺は息子だぞ」
「昨日まではそうでしたね。でも、もう絶縁したんでしょう」
志保が電話を奪い取ったようだ。
「お母さん、他に資産はあるんですか?」
「ええ、ありますよ。父から相続した都内のマンションが3棟。品川、目黒、世田谷にそれぞれ1棟ずつ。全部で48室、満室で、年間の収入は4800万円です」
「4800万円…」
「年間で、月にすると400万円ですね。あなたたちの月収の10倍です」
完全な沈黙。聞こえるのは、志保の荒い呼吸音だけ。さらに私は続けた。
「株式投資もあります。これも父から相続したものを、45年間運用してきました。現在の評価額は3億2000万円」
「さ、3億…」
「あとは銀行預金ですね。食堂の利益を貯めてきたものと、父からの相続分を合わせて4億2000万円」
「4億…」
「全部合わせると、およそ15億円ですね。正確には15億2000万円ですが」
「15億…」
克が再び電話を奪った。
「嘘だ。絶対嘘だ。母さんがそんな金持ちなわけない。いつも安い売品ばかり買って、服だってユニクロで…」
「それは、あなたに本当の価値を教えたかったからです。お金より大切なものがあると。でも、あなたは結局、お金でしか人を判断できない人間になってしまった」
「そんな…だって、母さんは貧乏な食堂の…」
「食堂も、実は大成功していたんです。45年間、地域の皆様に愛されて、純利益は2億円を超えました。お客様の中には、政治家の奥様や大企業の社長夫人もいらっしゃいました。ただ、私は贅沢をしなかっただけ」
「じゃあ、なんで言わなかったんだ?」
「あなたを試していたんです。試していた。ええ、お金がない母親でも大切にしてくれるか。愛情を持って接してくれるか。でも、結果は最悪でした。年金15万円の母親はお荷物、邪魔物、一緒にいる価値もない。それが、あなたたちの出した答えでした」
「違う!もし金があるって知ってたら…」
「知ってたら、優しくしてくれましたか?」私は静かに笑った。「それこそが問題なんです。お金があるから優しくする。それは愛情ではありません。打算です」
「母さん、そんなこと言わないで。俺たちが悪かった。悪かった」
「何が悪かったんですか?」
「全部だ。母さんをお荷物扱いしたこと、年金を奪おうとしたこと、追い出したこと」
「やっと分かりましたか?でも、もう遅いんです」
志保が泣きながら訴えてきた。
「お母さん、お願いです。助けてください。来月から住宅ローンが払えません。子供の塾代も、車のローンも…」
「あら、随分とローンがあるんですね」
「お母さんの年金を宛てにして組んでしまったんです」
「私の年金を宛てにして…」私は呆れた。「他人のお金を宛てにして生活設計するなんて、愚かとしか言いようがありません」
「お願いです。少しでいいから貸して…いえ、ください。あげる」
「冗談でしょう。昨日、私に何と言いましたか?お荷物は出ていけと。貧乏人と関わりたくないと。45年も働いて年金15万円なんて、情けなくないと」
「あれは、感情的になって…」
「感情的?違います。あれがあなたたちの本心です」
「お母さんに土下座します。だから…」
「顔も見えない電話で土下座されても。今から会いに行きます。ホテルに。お断りします。もう他人ですから」
「母さん!」克が叫んだ。「俺を見捨てるのか?」
「見捨てる?逆でしょう。あなたが私を見捨てたんです。お荷物だと言って」
「お願いだ。1000万…いや、500万でいい。貸してくれ」
「500万。ちょうど私が出した頭金と同じ金額ですね」
「そうだ。あれを返すと思って…」
「返す必要はないと言ったはずです。絶縁の手切れ金です」
「母さん、このままじゃ家を失う」
「それは困りましたね。でも、私には関係ありません」
「冷たい。母さんは冷たい人間だ」
私は静かに言った。
「冷たい?私が45年間働いて、あなたに全てを捧げた私が。学費800万、頭金500万。その他にも数えきれないほど援助した私が。その私をお荷物と呼んで追い出した、あなたたちの方がよっぽど冷たいと思いますが」
沈黙。
「お荷物にはお金はありません」
私は最後に言った。
「これが、昨日のあなたたちの言葉へのお返しです。さようなら」
電話を切った。すぐにまた鳴ったが、着信拒否に設定した。
3ヶ月後、私は都心の高級マンション最上階で、朝のコーヒーを楽しんでいた。購入したばかりの新居。窓からは東京の街が一望できる。月々の管理費は30万円。でも、年間の家賃収入が4800万円ある。今の私には何の負担でもない。
「これが、本当の自由です」
窓辺に立ち、私は呟いた。70歳にして手に入れた、誰にも縛られない生活。
昨日、山田税理士から連絡があった。
「堀内さん、息子さんから連絡がありました。お金を貸して欲しいと」
「お断りしてください」
「住宅ローンが払えず、家を差し押さえられそうだとか」
「自業自得です。私が頭金500万円を出した家でも、もう私には関係ない」
あの家で、私はお荷物と呼ばれ、追い出された。今更、情けをかける理由はない。
実は、先月、私立探偵を雇って息子夫婦の現状を調べてもらった。報告書を読むと、二人の生活は完全に破綻していた。住宅ローンを3ヶ月滞納。銀行から督促状が届いている。車は売却済み。それでも借金は残っている。志保は実家に援助を求めたが、断られた。克は頼み込んで金を借りようとしたが、誰も相手にしなかった。
「お母さんの年金を宛てにして、贅沢してたんでしょ。志保の実家の母親に、そう言われたらしい」
私は、新しく始めた和食教室の準備をした。銀座の土地を買った企業が作る伝統工芸施設で、週に2回、和食の魅力を伝える教室を開くことになった。受講料は1回10万円。でも、お金のためではない。45年間培った知識と技術を、次世代に伝えたいからだ。生徒さんは20代から80代まで幅広い。皆、私の話を真剣に聞いてくれる。
「堀内先生の知識は素晴らしいです。45年の経験は伊達じゃありませんね」
お荷物と呼ばれた私が、今は先生と呼ばれている。
午後、常連客だった資産家の奥様とランチをした。
「絹さん、本当に生き生きしてるわね」
「人生で、今が一番幸せかもしれません」
「息子さんとは…」
「絶縁しました。私を年金目当てで追い出したんです」
奥様は驚いた顔をした。
「まさか。絹さんほどの資産が…」
「向こうは知らなかったんです。年金15万円の貧乏な母親だと思っていた」
「なんと愚かな…」
「でも、おかげで目が覚めました。本当に大切なものが何か」
夕方、マンションに戻ると、管理人から伝言があった。
「堀内様、息子さんという方が訪ねて来られました。でも、面会リストにお名前がなかったので、お引き取りいただきました」
「ありがとうございます。今後も、その対応でお願いします」
部屋に入ると、留守番電話にメッセージが入っていた。
「母さん、克です。お願いだ。一度だけ会ってくれ。家を失った。仕事も辞めることになった。全部、俺が悪かった。本当に後悔してる。母さんしか頼れる人がいないんだ」
私は、削除ボタンを押した。今更、何を言っても遅い。
夜、私は遺言書を見直した。財産の4分の1は、法律上息子に残さなければならない。でも、残りの4分の3は私の意思で決められる。児童養護施設と、和食文化を守る財団に寄付する。これでいい。
ふと、昔のアルバムを開いた。克が赤ちゃんだった頃の写真。あの頃は、こんな結末が来るとは思わなかった。でも、後悔はしていない。人は誰しも、自分の行いの報いを受ける。息子夫婦は私をお荷物と呼び、年金を奪おうとした。その報いを、今受けているだけだ。
私は立ち上がり、夜景を眺めた。東京タワーがキラキラと輝いている。
理不尽には、屈してはいけません。私は同じような境遇にいる人たちに伝えたい。歳を取ったからと言って、我慢する必要はない。自分の尊厳を守る権利は、誰にでもある。45年働いた誇りは、誰にも奪わせない。食堂での日々は、決して無駄ではなかった。お客様に喜んでいただき、地域に貢献し、そして資産も築いた。それを情けないと言った息子夫婦。彼らこそが、情けない人間だった。
私の勝利は、お金があったからではない。自分の価値を信じ、不義理に立ち向かう勇気があったから。年金を奪われそうになった時、黙って従わなかったから。これからも、私は自分の人生を生きていく。70歳でも80歳でも、自分らしく、誇りを持って。
お荷物には、お金はありません。この言葉は、私の勝利宣言だ。お荷物と呼んだ息子夫婦への、最高の仕返しだった。



