「冬休み全部止まるから」――息子からの電話で聞こえたその言葉に、私は思わず箸を止めた。
夫の正一と二人、いつものように夕食を囲んでいた十二月の初旬のことだ。
「え、冬休み全部って…二週間以上よね」
私の声には驚きと戸惑いが混じっていた。
「そうだけど、まり子も子供たちも楽しみにしてるしさ」
裕介の声は、まるで当然のことを告げるかのように軽やかだった。
相談ではなく、決定事項を伝える口調。その響きに、胸の奥で小さな違和感が芽生える。
「でもうちは雪がすごく深くて、冬の準備も大変だし…」
私が言葉を続けようとした瞬間だった。
「大丈夫、大丈夫。雪見たいって言ってるし、観光もするからさ」
息子は私の言葉を遮るように話を続ける。
観光って…ここ、何もないわよ。それに、準備も――。
「母さん、何言ってんの? 親なんだから当然でしょ」
その一言が、電話越しに胸へ突き刺さった。
親なんだから当然――。私は箸を握る手に、じわりと力が入るのを感じた。
電話が切れた後、私はしばらく呆然と座り込んでいた。夫の正一が、心配そうに私を見つめている。
思い返せば、私たちは息子のためなら何でもしてきた。雪深いこの田舎で農業をしながら、必死に裕介を育てた日々。大学の教育費は総額六百万円。東京での就職、そして結婚式の援助に二百万円。親として当然のことだと、信じていた。
でも、最近の息子からの連絡は月に一度あるかないか。孫の顔を見たのも、もう半年ぶりだ。そして連絡が来るのは、決まってお金の援助を頼まれる時か、今回のように都合の良い時だけ――。
翌日、私は冬の準備について考え込んでいた。雪深い田舎の十二月。毎日の雪かき、灯油の確保、遠くまでの買い出し。六十七歳の私と七十歳の正一にとって、冬を乗り越えるだけでも大変な労力だ。それが二週間以上の長期滞在となれば、布団は四組、光熱費は倍以上、食費も十万円は超えるだろう。
「本当に大丈夫か? 俺たちの体力も限界があるぞ」
正一の言葉に、私は小さく頷いた。
「でも…息子が楽しみにしてるって言ってるし」
そう答えながら、心の奥で小さな疑問が膨らんでいくのを感じていた。
到着まで一週間を切った頃から、嫁のまり子からLINEが次々と届き始めた。
「子供の好き嫌いが多いので、メニュー考えておいてくださいね」
最初のメッセージを見た時、私はまだ優しい気持ちで受け止めていた。しかし、それは序章に過ぎなかった。
「Wi-Fi環境整えてください。仕事もありますので」
「観光スポットのリスト作っておいて。運転もお願いしますね」
「布団はフカフカの新しいものにしてください」
通知音が鳴るたび、スマホを開くたび、新しい要求が待っていた。私が返信する間もなく、次の要求が送られてくる。まるで、私の返事など必要ないかのように。
子供用のDVDプレイヤー、加湿器、空気清浄機。要求のリストは日に日に増えていく。まるでホテルのコンシェルジュに頼むような口調で、次々と要望が並んでいった。
「お願いしますね」――。ハートのスタンプと共に送られてくるメッセージ。その一つ一つが、私の心に小さな棘となって刺さっていくのを感じる。
私は画面を見つめたまま、深いため息をついた。
――この違和感は何なのだろう。孫のため、息子のため? そう思えば思うほど、心の奥底で何かが引っかかっていく。
その夜、夫の正一が険しい表情でスマホの画面を覗き込んでいた。
「これ、本当に全部やるのか?」
「でも…息子たちが楽しみにしてるって言ってるし」
私の弱々しい言葉に、正一は強い口調で言った。
「俺たちを何だと思ってるんだ? ホテルの従業員じゃないぞ」
「そうよね…でも、断ったら息子が…」
言葉を濁す私に、夫は真剣な眼差しを向ける。
「このままじゃ、俺たちが倒れる。六十代と七十代だぞ。俺たちは」
夫の言葉が、胸に重くのしかかった。これは、おかしい。頭ではそう理解していても、長年培ってきた母親としての責任感が、私の判断を鈍らせているのかもしれない。
そして、到着五日前の朝、裕介から電話がかかってきた。
「あ、母さん。荷物、先に送ったから」
朝食の片付けをしていた私は、手を止めて聞き返した。
「え、荷物?」
「スキー道具とか子供のおもちゃとか…ダンボール十箱くらい」
「十箱…? そんなに?」
私の驚きをよそに、裕介は続ける。まるで大したことではないとでも言うように。
「だって、いちいち持ってくの重いし。そっちで受け取っといて」
「でも、置く場所も――」
またしても、私は遮られた。
「別にいいでしょ。実家なんだから。じゃ、よろしく」
電話の向こうから、まり子の明るい声が聞こえてくる。
「お母さん、到着したら温かいご飯用意しといてくださいね。長距離運転で疲れますから」
裕介が続ける。
「そうそう。八時間かかるし、夕方六時くらいには準備しといて」
受話器を置いた私の手は、小さく震えていた。この感情が怒りなのか、悲しみなのか、自分でもよくわからなかった。
翌日、本当にダンボール十箱が届いた。玄関に積み上げられた山を見て、正一が呆れたように言う。
「これ、本当に二週間分か。引っ越しレベルだぞ。一体この荷物を、どこに収納すればいいんだ?」
「完全に、私たちの家を倉庫扱いしてるわね」
玄関が荷物で埋まっていく様子を見ながら、私の中で何かが静かに変わり始めていた。長年積み重ねてきた母親としての忍耐が、少しずつ、でも確実に、限界に近づいているのを感じる。
その夜、私たちは向かい合って座った。
「なあ、かずえ。本当にこれでいいのか?」
夫の真剣な眼差しを受け止めながら、私は長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「ねえ、あなた。思い切ったこと、してもいいかしら?」
「思い切ったこと?」
正一の表情に、驚きと期待が入り混じる。
「私たち、二十三日にはここにいないの」
正一の目が、大きく見開かれた。
「つまり…ドタキャンってことか?」
「いえ。ドタキャンというより…教育よ」
私の言葉に、夫はしばらく黙って考え込んだ。その沈黙の中で、私は自分の決意が揺らがないことを確認していく。
「いいだろう。俺も限界だった。親をホテル扱いする息子に、現実を教えてあげないと」
二人で顔を見合わせ、静かに微笑む。それは、長年連れ添った夫婦だからこそ分かり合える、無言の理解だった。
窓の外では、激しい雪が降り続いていた。白く染まっていく景色を見ながら、私は思う。この厳しい雪が、明日からの私たちの味方になってくれるだろう――。
その瞬間、私は決意したのだ。息子たちに、大切なことを教えてあげようと。これは仕返しではなく、教育。そう自分に言い聞かせながら、私の心に静かな覚悟が宿っていった。
翌朝、私と正一は静かに計画を立て始めた。いつもと変わらない朝食の時間でも、二人の間には新しい決意が流れている。
「まず、私たちの行き先を確保しないと」
コーヒーを飲みながら、私は落ち着いた声で言った。
「そうだな。温泉旅館はどうだ?」
正一の提案に、私の顔に久しぶりの明るい笑みが浮かぶ。
「いいわね。ゆっくりしましょう」
私たちはパソコンを開き、県内の高級温泉旅館を探し始めた。画面に映る露天風呂の写真、美しい庭園、豪華な料理の数々。どれも魅力的だ。
「これなんか、いいんじゃないか。一泊二食付きで二万円」
少し高いと感じたが、すぐに考えが変わった。
「息子に援助した分を、自分たちのために使いましょう」
「そうだな。俺たちだって、たまには贅沢していいよな」
予約ボタンを押す瞬間、心が軽くなっていくのを感じた。
もちろん、息子たちには一切伝えない。これは私たちだけの秘密だ。
「これは私たちの権利よ」
そう言いながら、私は確認メールを保存した。
午後になり、私は重要な作業に取りかかる。まり子から届いた全てのLINEを、一つ一つスクリーンショットで保存していった。子供の好き嫌いリスト、Wi-Fi環境の要求、観光プランの作成依頼、布団の指定。そして――裕介との電話も、実は録音していたのだ。
「親なんだから当然でしょ」「暇でしょ」「まだまだ元気じゃん」
これらの言葉を、私は静かに記録として残していく。後で何を言われても、大丈夫なように。
スマホの画面を見つめながら、私は正一に説明した。
「さすがだな」
夫の感心した声に、私は小さく微笑む。
そして、電話の向こうで聞こえた、この声も忘れていない。
「無料で泊まれてラッキー」――。その軽い調子の言葉が、今でも耳に残っている。
全ての証拠を整理し終えた時、私は深く息を吐いた。準備は完璧だ。もう、後戻りはできない。
十二月二十二日、息子たちの到着前日がやってきた。朝早くから、私たちは静かに荷造りを始める。家の中を片付けながら、必要最低限の暖房だけを残していく。
石油ストーブの灯油は、ほんの少しだけ。これで、少しは寒さが分かるでしょう。
そして、冷蔵庫の中身を全て段ボール箱に移していった。野菜も肉も調味料まで、一つ残らず持っていく。
正一が冷蔵庫の扉を開けて、空っぽの中を確認した。
「これで食材はゼロだな」
「ええ。買い出しがどれだけ大変か、分かるでしょう」
この雪深い田舎で、最寄りのコンビニまで車で三十分。しかも冬の雪道だ。私たちは、毎年それを乗り越えてきた。
玄関には、あのダンボール十箱がそのまま積まれている。
「この荷物、どうするか考えさせましょう」
私はそう言いながら、荷物の山を見つめた。
そして、玄関のテーブルに小さなメモを置く。シンプルな言葉で綴られたメッセージ――。
「所用ができました。いつ戻るか分かりません。かずえ・正一」
「シンプルが一番効くわね」
メモを見つめながら、私は静かに呟いた。
何も説明しない。何も言い訳しない。ただ事実だけを伝える。それが、最も強いメッセージになるのだ。
十二月二十二日の朝、私たちは家を出た。車に荷物を積み込みながら、正一が最後にもう一度訪ねる。
「本当にいいのか?」
「ええ。もう決めたことですから」
車のエンジンをかけ、ゆっくりと雪道を走り出した。バックミラーに移る自宅が、だんだん小さくなっていく。雪に覆われた屋根、玄関に積まれたダンボールの山――。全てが、白い世界の中に静かに佇んでいた。
「明日の夕方、あの家に着いた時の顔が楽しみね」
私の言葉に、正一が小さく笑う。
「俺もだ」
車窓から見える景色は一面の銀世界。激しく降り続く雪が、私たちの決断を後押ししてくれているようだった。
二時間ほど走り、やがて温泉旅館の看板が見えてくる。立派な門構え、美しく整えられた庭園、重厚感のある建物。全てが、私たちを優しく迎えてくれるようだ。
案内された部屋に入った瞬間、私は思わず声をあげていた。
「まあ、素敵…」
広々とした和室、大きな窓から見える雪景色、そして部屋に付いている露天風呂。全てが完璧だった。
二人でゆっくりと温泉に浸かり、豪華な夕食を味わう。新鮮な刺身、柔らかい和牛、丁寧に作られた小鉢の数々。どれも心を込めて作られているのが分かる。
「美味しいわね」
「ああ、本当に」
食事を楽しみながら、私たちは静かに微笑み合った。
部屋に戻り、私はスマホの電源を切る。正一も同じように、電源ボタンを長押しした。
「これで、完全に連絡が取れないわね」
「ああ。明日まで、ゆっくり休もう」
布団に入り、窓の外の雪を見つめる。明日の夕方、裕介たちはあの家に到着するだろう。そして、誰もいない、凍えそうな家を見つけるのだ。
――さあ、現実を学ぶ時間です。
そう、心の中で呟きながら、私は深い眠りについていった。
運命の十二月二十三日が、もうすぐやってくる。
十二月二十三日、夕方六時。裕介たちの車が、雪に覆われた私たちの家の前に到着した。もちろん、私はその場にいない。でも、後から聞いた話や想像するだけで、その光景が目に浮かぶようだ。
車から降りる裕介、まり子、そして疲れた様子の子供たち。
「やっと着いた。疲れた」
まり子の声が、静かな雪の中に響く。
「母さん、着いたよ」
裕介が玄関に向かって呼びかけるが、返事はない。
「あれ? 母さん?」
不思議そうに玄関のドアを開けると、そこに広がっていたのは暗く、そして冷え切った空間だった。玄関を塞ぐように積まれたダンボール十箱。そして、その奥に広がる静寂。
「え、何これ? 暗いし、寒いんだけど」
まり子の声に、困惑が滲んでいく。
そして、玄関のテーブルに置かれた小さなメモ。裕介がそれを手に取り、読み上げた。
「所用ができました。いつ戻るか分かりません……?」
二人は顔を見合わせ、言葉を失った。
「え、どういうこと?」
慌てて家の中を確認する裕介。リビングに入り、キッチンを覗き、全ての部屋を見て回る。
そして、まり子が冷蔵庫を開けた瞬間、絶望的な現実が突きつけられた。
「嘘でしょ? 何もない。空っぽ…」
空の冷蔵庫。野菜も肉も、調味料すらなかった。
「お腹空いた。ご飯は?」
子供たちの声が、静かな家に響く。
裕介は慌てて母の携帯に電話をかけるが、繋がらない。スマホを見ても、既読も付かない。
「どういうこと? 電話も繋がらないし、LINEも既読にならない」
まり子の声には、焦りと怒りが混じっていた。
暖房をつけようとするが、石油ストーブの灯油はほとんど空だ。
「灯油もない…」
外を見れば、激しい吹雪。雪はすでに腰の高さまで積もり、車も雪に埋まり始めている。
「ちょっと、これどうするの? 子供もいるのよ!」
まり子の叫び声に、裕介は答えることができなかった。
状況を整理する。食材はゼロ。暖房用の灯油もほとんどない。外は吹雪で、車は雪に埋まっている。そして最寄りのコンビニまで、雪道を車で三十分――。
「こんなの聞いてない! なんで教えてくれないの?」
まり子の怒りが爆発する。でも、誰に怒りをぶつければいいのだろう? ここには、私たちはいないのだから。
裕介は決断した。
「とりあえず、買い出しに行くしかない」
「早くして。子供が寒がってる」
車を雪から掘り出すところから始めなければならない。都会育ちの裕介は、雪かきに慣れていない。スコップを持つ手が、すぐに痛くなっていく。
三十分かけて、ようやく車を動かせる状態にした。息を切らしながら、裕介は雪道を慎重に運転していく。都会の道路とは違う、凍りついた雪道。ハンドルを握る手に、緊張が走る。
やっとの思いでコンビニに到着したが、そこで新たな現実が待っていた。
「え…これだけ?」
田舎のコンビニは、品揃えが都会とは全く違う。新鮮な食材など、ほとんどない。弁当、カップ麺、お菓子。それも、値段は都会の一・五倍だ。
仕方なく、限られた選択肢の中からできるだけ食べ物を買い込んだ。
さらに、灯油を求めスタンドに向かうが、そこでも問題が発生した。
「ポリタンクをお持ちですか?」
店員の言葉に、裕介は困惑した。
「ポリタンク? そんなの持ってない」
車では、灯油を購入できない。そんな当たり前のことすら、知らなかったのだ。
結局、灯油は買えないまま、往復で二時間半かけて家に戻った。
「これだけじゃ、ご飯作れないじゃない!」
まり子の怒りの声が、裕介を迎える。
「お腹空いた…」
泣き出す子供たち。仕方なく、カップ麺でその日の夕食を済ませることになった。
「信じられない…。温かいご飯が食べたかったのに」
まり子の落胆した声が、寒いリビングに響く。
夜になり、状況はさらに悪化した。灯油がないため、暖房が十分に使えない。石油ストーブは、最低限の温度でしか動かない。
「寒い…。なんでこんなに寒いの?」
まり子の悲鳴のような声。
「寒くて、眠れない…」
子供たちの訴えに、裕介は何度も起きて、石油ストーブの調整をしなければならなかった。
「こんなはずじゃなかった。理想の冬休みだったのに…」
まり子の後悔の言葉が、暗い部屋に漏れていく。窓の外では、吹雪が激しさを増していた。
そして――裕介は、初めて気づき始めていた。
「母さんたち…毎年、こんな中で生活してたのか…」
その言葉は、後悔と反省に満ちていた。
一方、温泉旅館では、私と正一が優雅な時間を過ごしていた。温かい布団、静かな部屋、そして心地よい安らぎ。
「きっと今頃、大変でしょうね」
私の言葉に、正一が静かに笑う。
「ああ。でも、これも勉強だ」
二人で温泉に浸かりながら、雪景色を眺めていた。これは仕返しではなく、教育なのだ。
翌朝、状況はさらに悪化していた。夜中に降り積もった雪が、玄関のドアを開けられないほどになっていたのだ。
「開かない…!」
裕介が必死にドアを押すが、ビクともしない。結局、窓から外に出て、二時間かけて玄関までの道を雪かきするはめになった。
都会では経験したことのない労働。腰が痛み、手が凍えていく。
「いつまでこんなことするの?」
まり子の不満が、さらに膨れ上がっていく。
家の中では、子供たちが退屈で不機嫌になっていた。
「つまんない。ゲームしたい」
「Wi-Fiも遅いし、観光も行けないし、最悪…」
まり子の声には、もはや怒りが滲んでいた。裕介は何度も母に電話をかけるが、一向に繋がらない。
三日目の朝、ついにまり子の我慢が限界に達した。
「もう無理! 帰る! こんなの、耐えられない!」
彼女の叫び声が、家中に響く。裕介も、もう反論する気力がなかった。
「…そうだな。帰ろう」
「やった! 帰ろう!」
子供たちの喜ぶ声が、皮肉にも響く。
二週間いるつもりで来たのに、わずか三日での撤退。裕介は、自分の甘さを思い知らされていた。
そして、最後の試練が待っていた。ダンボール十箱を、再び車に積み込む作業だ。雪の中、重い荷物を運ぶこと半日。まり子も手伝うが、二人とも疲弊している。
「なんで、こんなに荷物送ったのよ!」
まり子の怒りは、もはや裕介に向けられていた。
「…ごめん」
謝ることしかできない裕介。
全ての荷物を積み終えた時、二人はヘトヘトになっていた。
「もう二度と、冬に来ない」
「親に頼るんじゃなかった…」
後悔の言葉を吐きながら、十二月二十六日の朝、裕介一家は家を後にした。
「最悪の冬休みだった…」
車の中で、まり子が呟く。
「寒かった…」
子供たちの言葉にも、楽しかった思い出は一つもない。
裕介はバックミラーで、雪に埋もれた家を見つめていた。とてつもない後悔が、胸に広がっていく。
「母さんたちは…毎年、こんな中で俺たちを待っててくれたのか…」
まり子も、ようやく気づき始めていた。
「そうね…。私たち、親を都合よく使おうとしてたのかも…」
「おばあちゃんたち、どこ行ったの?」
孫の純粋な質問に、裕介は答えられなかった。
車が雪道を走り去っていく姿を、誰も見送る者はいない。ただ、静かな雪だけが、全てを包み込んでいった。
十二月二十七日、私たちは温泉旅館から帰宅した。
「さて、どうなってるかな?」
正一の言葉に、私は静かに微笑む。
「きっともう、いないわよ」
予想通り、家に着くと息子たちの車はなかった。家の中を確認すると、ダンボールは全て持ち去られている。
「やっぱりね」
そして、玄関のテーブルに、新しいメモが置いてあった。裕介の手書きのメモだ。
「母さん。急にいなくなるなんて、ひどいです。せっかく家族で来たのに。もう帰ります。裕介」
私はメモを読んで、静かに笑った。
「まだ分かってないわね」
「本当だな」
正一も、呆れたように首を振る。
「せっかく家族で来たのに…。私たちの都合は、一度も聞かなかったくせに」
これで終わりじゃないわよ。私はそう言いながら、メモを手に持ったままリビングに座った。
その夜、予想通り裕介から電話がかかってきた。スマホの電源を入れると、着信履歴が二十件以上。全て裕介からだ。
私は深呼吸をして、電話に出た。
「もしもし」
「母さん! どこ行ってたんだよ!」
電話の向こうから、裕介の怒りの声が響いてくる。でも、私はもう呑まれない。
「あら、裕介。温泉旅館よ。とても良かったわ」
わざと軽い口調で答えた。
「温泉…! 俺たちが行くって言ってたのに!」
「そうね。でも、あなたたちは私たちの都合を聞かなかったでしょう」
私の冷静な声に、裕介が言葉に詰まる。
「それは…でも、親なんだから…」
また、その言葉だ。
「親だから、何でも言うことを聞くと思った?」
私の問いかけに、裕介は答えられない。静かな沈黙が、電話の向こうに広がっていく。
「あなたたち、私たちの家をホテルか何かと勘違いしてたわよね?」
「そんなつもりじゃ…」
裕介の弱々しい声。
「二週間、一方的に泊まると通告して。あれこれ要求して。ダンボール十箱も送り付けて。私は、一つ一つ彼らがしたことを挙げていく。私たちの都合も、私たちの気持ちも――」
裕介は、もう何も言えなかった。
「ねえ、裕介。雪国の冬がどんなに大変か、少しは分かった?」
私の問いかけに、裕介の声が小さくなる。
「…うん。本当に、大変だった」
「毎日の雪かき、灯油の確保、買い出し。全部、私たちがやってきたことよ。あなたたちを迎えるために、どれだけ準備が必要か考えたことある?」
「…ごめん」
ようやく、裕介の口から謝罪の言葉が出てきた。
「それに…あなたたちは『親なんだから当然』って言ったわね。でもね、当然なのは、相手を尊重することよ」
私の言葉に、電話の向こうが静まる。
「親だって、一人の人間。都合もあれば、疲れることもある」
「母さん…本当にごめん」
裕介の声には、心からの反省が滲んでいた。
「まり子さんに、変わってくれる?」
「あ、はい」
電話が、まり子に変わる。
「お母さん…本当に申し訳ありませんでした」
まり子の声は、震えていた。
「まり子さん、分かってくれた?」
「はい…。私たち、本当に勝手でした。お母さんたちの大変さ、全然考えてなくて…」
彼女の声には、心からの後悔が滲んでいる。
「この冬は、観光気分で来る場所じゃないのよ。だから次からは、ちゃんと相談してね。私たちの都合も聞いて」
「はい。必ず、相談します」
そして、私は切り札を出した。
「それと――『親の家に無料で泊まれてラッキー』なんて、思わないことね」
まり子の驚きの声。録音されていたことに、ようやく気づいたのだ。
「そ…それは…」
「全部、記録してあるわよ」
私の冷静な声に、まり子は完全に言葉を失った。
「本当に…申し訳ありませんでした」
彼女の謝罪は、心からのものだった。
再び裕介に変わる。
「母さん。今度は、ちゃんとします。相談して、準備も手伝って」
「そうね。それが当たり前よ」
私は、ここで新しいルールを提示することにした。
「それと、今後のルールね」
「ルール…?」
裕介の驚いた声。
「滞在は最長四泊五日まで。それ以上は、私たちの体力が持たない」
「はい」
「食事は、自分たちで用意するか、外食。私は作らないわ」
「はい…」
「滞在費として、一泊一人五千円。光熱費と食費の負担よ」
「わかりました」
「事前に必ず相談。一方的な通告は、受け付けないわ」
一つ一つ、明確にルールを伝えていく。
「わかりました。全部、守ります」
裕介の声には、もう反論する余地はなかった。
「あなたたちも大人なんだから、親に甘えるのは、もうやめなさい」
「はい」
素直な返事が返ってきた。
電話を切った後、私は深く息を吐いた。
「うまくいったな」
正一が、満足そうに言う。
「ええ。やっと分かってくれたみたい」
二人で顔を見合わせ、静かに微笑む。
「これで、やっと対等な関係になれるわ」
私の言葉が、静かな部屋に響いていった。
こうして息子たちは、大切なことを学んだのだ。親の家はホテルではない。親も一人の人間で、尊重されるべき存在だということを。
年が明けて一月。私のスマホに、裕介から丁寧なメールが届いた。
「母さん、父さん、今年もよろしくお願いします。先日は本当に申し訳ありませんでした。今度、春に三泊四日で行ってもいいですか? もちろん、事前に相談して、食事も自分たちで用意します」
メールを読みながら、私の顔に自然と笑みが浮かぶ。
「やっと、ちゃんとした相談ができるようになったわね」
「ああ。これが本当の家族だな」
正一の言葉に、私は深く頷いた。すぐに返信を送る。
「もちろん、楽しみにしてるわ」
短い言葉だったが、そこには新しい関係への期待が込められていた。
息子たちは変わったのだ。親を尊重することを、ようやく学んでくれた。
「対等な関係が一番心地いいわね」
そう呟きながら、私は窓の外に広がる雪景色を眺めていた。
あの出来事から、私たちの生活も変わった。月に一度の温泉旅行を、新しい習慣にしたのだ。
「息子のためだけに生きるんじゃなくて、自分たちのために生きていいのよね」
温泉に浸かりながら、私は正一に言った。
「そうだな。俺たちの人生だ」
地域の趣味サークルにも参加し始めた。生け花や写真撮影。長年封印していた自分の楽しみを、少しずつ取り戻していく。
「かずえさん、最近生き生きしてるわね」
友人の言葉に、私は素直に答えた。
「ええ。やっと、自分の人生を取り戻した感じがするの」
月に一度の温泉旅行、週に二度の趣味サークル、友人との定期的な集まり、そして夫婦での散歩や買い物。どれも、以前の私には考えられなかったことだ。
親だって、自分の幸せを追求していい。そう思えるようになったのだ。
四月。約束通り、裕介一家が訪れた。今回は事前にしっかりと相談があり、食材も自炊し、滞在費もきちんと支払ってくれた。
「母さん、ありがとう。泊めてくれて」
「こちらこそ。ちゃんと相談してくれて、ありがとう」
玄関で迎えながら、私は心から笑顔になれた。
「お母さん、今回は私たちで食事作りますね」
まり子の言葉にも、心からの気遣いが感じられる。
「あら、ありがとう。助かるわ」
「おばあちゃん、これ手伝うよ」
「ありがとう。嬉しいわ」
孫たちも、今回は祖父母の手伝いをしてくれた。家族で楽しく過ごす時間でも、以前とは明らかに違う。それは――対等な関係に基づいた、本当の家族の絆だった。
「これが本当の家族だな」
正一の言葉に、私は深く頷いた。
「ええ。やっとね」
かずえさんの物語が教えてくれること。それは、親子であっても対等な関係が必要だということ。お互いを尊重し、思いやることの大切さだ。
あなたも、自分を大切にしてください。それは我儘ではなく、幸せに生きるための権利なのですから。



