「他人は立ち入り禁止なので、帰ってください」
その冷たい言葉を耳にした瞬間、せつ子さんは自分の耳を疑いました。五時間もかけて、息子夫婦の新築祝いに駆けつけた六十八歳のせつ子さんに向かって、嫁の夏美さんがそう言ったのです。
息子の健二さん夫婦の新居が完成したと聞き、せつ子さんは心を込めて五十万円のご祝儀を包み、はるばるやってきました。新築の豪邸の前で息を整え、嬉しい気持ちでインターホンを押した時のことでした。
「私は健二の母ですが」
せつ子さんが困惑しながらそう言うと、夏美さんは表情ひとつ変えずに答えました。
「家族ではないので、お引き取りください」
まさか自分の息子の家で、こんな非情な扱いを受けるなんて。せつ子さんは車に戻り、手にした五十万円のご祝儀袋を見つめながら、涙がこぼれそうになりました。私の気持ちは、こんなに軽く扱われるものだったの。
せつ子さんの頭には、息子のために尽くしてきた過去の記憶が蘇ってきました。十年前に夫を亡くしてから、それ以来、健二さんの幸せだけを考えて生きてきたのです。就職活動で苦労していた時は毎日励まし、夏美さんとの結婚が決まった時は結婚資金として三百万円を援助しました。近居を購入する際には頭金として五百万円を惜しみなく提供したのです。
健二の幸せのためなら、何でもしてあげたい。せつ子さんはいつもそう思っていました。結婚式の時も「困った時はいつでも頼ってちょうだいね」と優しく声をかけたものです。孫の誕生を心待ちにして、手編みの上着まで用意していました。
そして今日、息子夫婦の新築を心から祝福しようと、年金から奮発して五十万円を包んできたのです。五時間もかけて、疲れた体に鞭打って駆けつけてきました。私は一体、息子夫婦にとって何だったのかしら。せつ子さんの心は深い悲しみに包まれました。
これまでの献身的な愛情は、夏美さんにとって何の意味もなかったのでしょうか。自分が「他人」だと言われる理由が、せつ子さんには全く理解できませんでした。
気持ちを落ち着かせるため、せつ子さんは新居からすぐ近くにある小さなカフェに車を停めました。まだ心の整理がつかないまま、ぼんやりとコーヒーを注文したのです。
隣のテーブルでは、五十代くらいの主婦が二人、楽しそうに話していました。その時、せつ子さんの耳に信じられない言葉が飛び込んできました。
「ほら、高田さんのところ新しいお家を建てたでしょう。昨日から奥さんのご両親が来てるみたいなの。賑やかで楽しそうだったわ」
せつ子さんは思わず振り返りました。その主婦は続けます。
「新築祝いのパーティーをやってるみたいで、笑い声が聞こえてきてたの。ご家族水入らずで素敵よね」
せつ子さんの胸に鋭い痛みが走りました。夏美さんのご両親は昨日から来ているというのです。つまり、せつ子さんだけが排除されていたということになります。
急いでスマートフォンを取り出し、夏美さんのSNSを確認しました。そこには信じられない光景が広がっていたのです。豪華な新築パーティーの写真が何枚も並んでいました。夏美さんの両親と健二さんで乾杯している写真。立派な花束を前に記念撮影している写真。高級そうな料理が並ぶテーブルの写真。そしてその投稿には、こんなコメントが添えられていました。
「家族だけの特別な時間。新しいお家で素敵な思い出ができました」
家族だけの特別な時間。せつ子さんは画面を見つめたまま動けなくなりました。自分は家族ではないということなのでしょうか。
震える手で健二さんに電話をかけました。何度かコールが鳴った後、ようやく健二さんが出ました。
「もしもし」
「健二? 母さんよ。さっき伺ったんだけど」
「あ、母さん。今忙しいんだ。また後でかけ直すよ」
健二さんの声は明らかに素っ気ないものでした。そして電話越しに、夏美さんの声が聞こえてきたのです。
「お母さんまた連絡してきたの? さっき断ったのにしつこいわね」
その瞬間、せつ子さんの心は凍りつきました。健二さんは何も言わず、電話を一方的に切ってしまったのです。
せつ子さんは呆然としながらカフェを出て、もう一度息子の家の前に車を停めました。どうしても気になって、様子を見ようと思ったのです。しばらくすると、庭のガーデンテラスで夏美さんの母親がお茶を楽しんでいる姿が見えました。上品そうな格好をして、ゆったりとカップを傾けています。その時、会話が聞こえてきました。
「やっと邪魔物がいない平和な時間ね」
夏美さんの母親、千寿子さんの声でした。
「本当にそうなの? お母さんは空気が読めないから困っちゃうわ」
「うちの夏美が苦労してるのがよくわかるわ。ああいう人とは家庭が違うものね」
「お母さんも思ってたんだ。でも正直、ほっとしてるもの」
せつ子さんは車の中で、この会話を最後まで聞いてしまいました。邪魔物、家庭が違う。そんな言葉が次々と胸に突き刺さってきます。私って、そんなに恥ずかしい存在なの。
せつ子さんの目から、ついに涙がこぼれ落ちました。これまで健二さんのために尽くしてきた年月は、一体何だったのでしょうか。夏美さんの両親は昨日から大歓迎で迎えられ、豪華なパーティーまで開いてもらっている。一方、血のつながった息子の母親である自分は「他人」として門前払いされる。この理不尽な差別に、せつ子さんの心は深く傷ついていました。
これは偶然ではありません。計画的に、自分だけが排除されていたのです。そして息子もそれを知っていて、何も言わなかった。どうしてこんな仕打ちを受けなければならないの。
カフェで聞いた近所の主婦の話、SNSの投稿、電話での夏美さんの暴言、そして庭での会話。全てが繋がって、せつ子さんは真実を理解したのです。自分は最初からこの新築祝いに呼ばれていなかった。夏美さんにとって、せつ子さんは邪魔者だったのです。
その夜、せつ子さんは近くのビジネスホテルに宿泊することにしました。五時間かけて来たのに、その日のうちに帰るのは体力的にも精神的にも辛すぎたのです。
翌朝、せつ子さんのスマートフォンに健二さんから連絡が入りました。
「母さん、話があるんだ。明日会えないかな?」
「もう帰っちゃった。近くのビジネスホテルに泊まっているわ」
「分かった。じゃあ明日の十時にホテルのロビーで会えない? 俺が行くから」
せつ子さんは少しだけ希望を抱きました。もしかしたら健二さんが謝りに来てくれるのかもしれない。昨日の出来事を説明してくれるのかもしれない。いろんな淡い期待を胸に、ロビーで息子を待ちました。
約束の時間に現れた健二さんは、いつもとは違う厳しい表情をしていました。三十五歳になった息子の顔には、せつ子さんの知らない冷たさがありました。
「母さん、座って」
健二さんは遠慮がちに言うのではなく、命令するような口調でした。せつ子さんは不安を感じながらも、素直に座りました。
「昨日はごめん。でも正直に言うよ。俺は母さんとは距離を置きたいんだ」
その言葉を聞いた瞬間、せつ子さんの心臓が止まったような気がしました。
「距離を置いて? どういうこと?」
「夏美の両親は上品で洗練されてる。話していても楽しいし、教養もある。でも母さんは正直に言うと、田舎臭くて恥ずかしいんだ。友人にも紹介したくない」
せつ子さんは言葉を失いました。自分の息子から、こんな残酷な言葉を投げつけられるなんて、夢にも思いませんでした。
「健二、私はあなたのためにこれまで…」
「分かってる。でもそれとこれとは別だよ」
健二さんは母親の言葉を遮りました。
「夏美の両親は会社の経営をしてるし、海外旅行も頻繁に行ってる。話題も豊富で、一緒にいて刺激的なんだ。母さんの話はいつも同じような時代遅れの話ばかりだし、夏美もストレスを感じてるんだ」
時代遅れの話ばかり。せつ子さんは震え声で訪ねました。息子を心配するあまり、追金鏡を聞いてしまうことはありました。でもそれが愚痴に聞こえていたなんて。
「今後、我が家以外には来ないで。夏美のストレスになるから」
健二さんの言葉は、まるで人事のように冷たいものでした。
「お金の援助ももういらない。夏美の両親が十分にサポートしてくれるから」
せつ子さんは目を見開きました。これまで何百万円も援助してきた自分の立場は、そんなに軽いものだったのでしょうか。
「健二、あなたは私が何のためにここまで…」
「母さん、時代が変わったんだよ。もう俺に依存しないで。母さんも子離れしてくれよ」
依存。自分が息子に依存しているというのでしょうか。そして健二さんは最後の一撃を放ちました。
「夏美のお母さんの方が、本当の母親みたいに思えるんだ。話していて楽しいし、尊敬できる。ごめん、母さん」
その瞬間、せつ子さんの世界が崩れ落ちました。自分の血がつながり、育てた息子に、「本当の母親」という言葉を他の女性に対して使われたのです。
「健二、私…」
せつ子さんの声は震えていました。涙が込み上げてきましたが、必死に耐えました。
「本当の母親って? 私はあなたの本当の母親でしょう」
「血の繋がりは確かにあるけど、心の繋がりは別だよ。夏美のお母さんとは価値観が合うし、一緒にいて心地がいいんだ」
健二さんの言葉は、せつ子さんの心を完膚なきまでに打ちのめしました。
「分かったわ。もう来ないから」
せつ子さんは、やっとの思いでそう言葉を絞り出しました。
「ありがとう、母さん。そう言ってもらえると助かる」
健二さんは安堵の表情を浮かべて立ち上がりました。まるで厄介な問題が解決されたとでも言うように。
「それじゃあ俺は帰るよ。夏美のお母さんと昼食の約束があるんだ」
健二さんはそう言い残して、さっさとホテルのロビーを後にしました。せつ子さんは一人残され、ソファーに座ったまま動けませんでした。自分が三十年かけて育てあげた息子が、こんなにも冷たい人間になっていたなんて。私の人生は、一体何だったの。
せつ子さんの心の中で、何かが静かに音を立てて壊れていくのを感じました。しかし同時に、別の感情も芽生え始めていたのです。それは、これまで感じたことのない、冷たく鋭い感情でした。
ホテルの部屋に戻ったせつ子さんは、一晩中眠ることができませんでした。健二さんの冷酷な言葉が、何度も何度も頭の中で繰り返されるのです。
翌朝、せつ子さんは鏡を見つめながら自分自身に言い聞かせました。その瞬間、彼女は決意したのです。もう涙は流しません。悲しみは怒りに変わり、その怒りは冷徹な決意に変わっていました。息子が他人として扱うなら、せつ子さんも相応の対応をするまでです。
せつ子さんはまず、長年お世話になっている弁護士の上山先生に電話をかけました。上山先生は六十歳のベテラン弁護士で、せつ子さんの夫が生前から信頼していた法律のプロです。
「上山先生、お忙しいところ申し訳ありません。高田せつ子です。実は相談があるのですが」
「せつ子さん、どうされましたか? 何かトラブルでも?」
せつ子さんは昨日からの出来事を冷静に説明しました。上山先生は黙って聞いた後、こう答えました。
「なるほど。ひどい話ですね。これまでの援助金の返済要求ですが、法的に可能です」
「本当ですか?」
「ええ。特に住宅資金の援助は贈与として処理されていても、状況によっては取り消しが可能です。贈与者の意思に反する受贈者の行為があった場合、民法では贈与の取消しが認められています」
上山先生の説明に、せつ子さんの心に希望の光が差し込みました。
次にせつ子さんは、長年の友人で整理士をしている藤崎さんに連絡を取りました。藤崎さんは六十五歳で、せつ子さんの資産管理をずっと手伝ってくれている信頼できる専門家です。
「藤崎さん、私の資産の詳細を改めて確認したいのですが」
「せつ子さん、どうされたんですか? 随分と緊急を要する口調ですね」
せつ子さんが事情を説明すると、藤崎さんは資料を確認しながら答えました。
「せつ子さんの資産ですが、株式投資の評価額が現在約八百万円、定期預金が六百万円。それから…ご主人から相続した不動産があります。確か息子さんが家を建てた土地も含まれていたと思いますが…」
せつ子さんは息を飲みました。
「その土地は今でも私の名義になっているんですか?」
「ちょっと待ってください。登記を確認してみますね」
藤崎さんがパソコンで調べている間、せつ子さんの心臓は激しく鼓動していました。
「ありました。やはりせつ子さん名義のままです」
息子はおそらく、相続で自動的に自分の名義になると思い込んでいたのでしょう。まさかあの土地が私名義だったなんて。せつ子さんは驚きを隠せませんでした。夫の達郎さんが生前に購入した土地で、健二さんもそこに家を建てることを当然の権利だと思っていたのでしょう。
「現在の評価額はどれくらいでしょうか?」
「立地を考えると、約二千万円程度でしょうね。もし賃貸に出すとすれば、月額三十万円程度の賃料は妥当だと思います」
せつ子さんの目に、鋭い光が宿りました。これが決定的な切り札になるのです。
その日の夕方、せつ子さんは上山先生の法律事務所を訪れました。机の上にはこれまでの援助額を詳細に記録した資料と、土地の登記簿謄本が並んでいます。
「結婚資金三百万円、住宅頭金五百万円、合計八百万円の贈与取消が可能です。さらに土地については確実にせつ子さんの所有権です。息子さんたちは所有者に対して適正な賃料を支払う義務があります」
「ありがとうございます、上山先生」
「明日にでも息子さん夫婦にお話をしましょう。もちろん私も同席いたします」
その夜、せつ子さんはホテルの部屋で一人、冷静に計画を練りました。健二さんが他人として扱うなら、せつ子さんも法的に正当な権利を主張するまでです。今度はあなたたちの番ですね。せつ子さんの表情には、これまで見せたことのない冷徹な決意が浮かんでいました。
翌日の午後二時、上山弁護士の事務所の会議室に、健二さんと夏美さんが呼び出されました。「重要な話があるので、必ずお二人で来てください」というせつ子さんからの連絡に、健二さんは少し不安そうでしたが、まさか弁護士が同席するとは思ってもいませんでした。
会議室の扉が開き、健二さんと夏美さんが入ってきた瞬間、二人の表情が凍りつきました。せつ子さんの隣には、スーツを着た上山弁護士が厳しい表情で座っていたのです。
「母さん、これは一体…」
健二さんが困惑した声で尋ねました。
「土地の件でお話があります」
せつ子さんは感情を押し殺し、冷静に切り出しました。昨日までの悲しみや涙は、もうどこにもありません。
「土地って何のことですか?」
夏美さんが警戒心をあらわにして尋ねました。上山弁護士が書類のファイルを開きながら説明を始めました。
「こちらをご覧ください」
テーブルに置かれたのは登記簿謄本でした。
「この新築は私名義の土地に立っています。月額賃料三十万円をお支払いください」
せつ子さんの言葉に、健二さんと夏美さんは目を見開きました。
「そんなはずない。この土地は父さんの土地で、俺が相続したはずだ」
健二さんが慌てて叫びました。
「聞いてない。そんな話は聞いてません」
夏美さんも顔面蒼白になって反論しました。
上山弁護士が登記簿を二人の前に突きつけました。
「これが証拠です。登記上の所有者は高田せつ子さん。間違いございません」
健二さんは震える手で登記簿を見つめましたが、確かに母親の名前が記載されています。
「でも母さん、俺は知らなかった。父さんが亡くなった時、この土地は俺のものになると…」
「思い込みでした」
せつ子さんは冷たく言い放ちました。
「いや、でも話し合いでなんとか…」
健二さんが必死に食い下がろうとした時、せつ子さんが口を開きました。
「これまでの天金八百万円の返済も求めます。贈与取消しの手続きをしました」
「結婚資金三百万円、住宅頭金五百万円、合計八百万円です。受贈者による贈与者への背信行為により、民法第五百五十条に基づき贈与を取り消します」
夏美さんの顔から血の気が引いていきました。
「そんな…八百万円なんて今すぐには払えませんよ」
「それは私の知ったことではありません」
せつ子さんの声には、一片の情けもありませんでした。
「お母さん、お願いです。私たちにそんなお金はありません」
夏美さんが泣きそうな声で訴えましたが、せつ子さんは揺るぎません。
「それに賃料も月額三十万円です。来月分から払っていただきます」
健二さんが立ち上がって、母親にすがりつこうとしました。
「母さん、お願いだ。そんなことしないで。俺たちには払えないよ」
その瞬間、せつ子さんは昨日の健二さんの言葉をそのまま返しました。
「他人にお金は貸せませんから」
健二さんの動きが止まりました。自分が昨日言った「母さんとは距離を置きたい」という言葉を思い出したのです。
「母さん、それは…」
「あなたが昨日、私を他人だとおっしゃいました。他人同士の契約ですから、きちんと法的手続きに従っていただきます」
夏美さんが突然椅子から立ち上がり、せつ子さんの前で土下座をしました。
「お母さん、許してください。私が悪かったんです」
しかし、せつ子さんの表情は微動だにしませんでした。
「家族ではないとおっしゃいましたよね。他人にそんな風に頭を下げるのはおかしいのでは?」
夏美さんの土下座を見下ろしながら、せつ子さんは昨日の屈辱をそっくりそのまま返したのです。
「私は…私は家族だと思ってます。お母さんは大切な家族です」
夏美さんが必死に謝罪しましたが、せつ子さんは首を横に振りました。
「昨日『他人は立ち入り禁止』とおっしゃったのは夏美さんです。今更家族だと言われても、信用できません」
健二さんも膝をついて、母親に懇願し始めました。
「母さん、俺が悪かった。昨日のことは忘れてくれ。俺たちは家族だ」
「そうですね。でも昨日、あなたは『夏美のお母さんの方が本当の母親みたい』とおっしゃいました」
せつ子さんは健二さんの言葉を正確に覚えていました。
「それなら、その本当の母親にお金を借りればいいのではないでしょうか」
健二さんの顔が青ざめました。夏美さんの両親に八百万円もの借金を頼むなど、とてもできるものではありません。
「母さん、お願いだ。俺たちには本当に八百万円なんて払えない」
「私に関係のないことです」
せつ子さんは立ち上がりました。
「上山先生、後の手続きはお任せします」
上山弁護士が頷きました。
「承知いたしました。賃料の支払いと援助金の返済について、正式な書面を作成いたします」
健二さんと夏美さんは、茫然自失のまま動けませんでした。まさか昨日の出来事がこれほどの報復となって返ってくるとは、夢にも思わなかったのです。
「お母さん、最後にお願いです。もう一度だけチャンスをください」
夏美さんが最後の懇願をしましたが、せつ子さんは振り返ることもありませんでした。
「私を他人扱いした報いです。自分たちがしたことの責任を取ってください」
せつ子さんはそう言い残して、上山弁護士と共に会議室を後にしました。残された健二さんと夏美さんは、自分たちが犯した過ちの重大さをようやく理解し始めていました。しかし、もう全ては遅すぎたのです。会議室には、二人の絶望的なため息だけが響いていました。
あれから三ヶ月が経ちました。せつ子さんは住んでいた実家を売却し、以前から検討していた高級老人ホーム「サンセットヒルズ」に入居していました。広々とした個室には、夫の達郎さんとの思い出の写真や、趣味にしていた陶芸作品が飾られています。
「おはようございます、せつ子さん」
同じホームに住む友人の佐野さんが、明るく声をかけてきました。佐野さんはせつ子さんより二つ上の七十歳で、元教師という共通点もあってすぐに親しくなりました。
「おはようございます。今日もいいお天気ですね」
せつ子さんは穏やかな笑顔で答えました。その表情には、三ヶ月前のような悲しみや怒りの影は微塵もありません。
「今日の陶芸教室、楽しみですね。先生が新しい技法を教えてくださるそうですよ」
せつ子さんは週に三回、ホーム内の陶芸教室に参加していました。集中して土に向き合う時間は、心を穏やかにしてくれます。
一方、健二さんと夏美さんの生活は一変していました。月額三十万円の賃料と八百万円の返済という重い負担に、二人の家計は完全に破綻していました。夏美さんは慌ててパートの仕事を始めましたが、到底足りません。健二さんは夏美さんの両親に頭を下げて援助を求めましたが、千寿子さんの反応は冷たいものでした。
「そんな借金、うちにはありません。それに、あなたたちがお母さんにしたことでしょう。私には関係ありません」
夏美さんの両親との関係も悪化の一途を辿っていました。新築の豪邸は、今や重荷の象徴となってしまったのです。
そんなある日、せつ子さんのもとに健二さんからの手紙が届きました。
「母さん、本当にごめんなさい。僕が間違っていました。夏美も深く反省しています。どうかもう一度だけチャンスをください。僕たちは母さんなしでは生きていけません」
何枚にも渡って綴られた謝罪の言葉を読みながら、せつ子さんは穏やかな表情のまま、静かに手紙を机の引き出しにしまいました。
その日の午後、せつ子さんは陶芸教室の仲間たちとお茶を楽しんでいました。
「せつ子さん、息子さんから連絡はありませんか?」
佐野さんが心配そうに尋ねました。せつ子さんは事情を隠すことなく、仲間たちに話していたのです。
「手紙が届きました。でも…もう遅いのです」
せつ子さんは静かに答えました。
「私には新しい家族がいますから」
そう言って、せつ子さんは陶芸教室の仲間たちを見回しました。皆、せつ子さんを温かく受け入れ、尊重してくれる大切な仲間たちです。
「本当の家族とは、血の繋がりではなく心の繋がりなのですね」
せつ子さんの言葉に、仲間たちは深く頷きました。
「せつ子さんの勇気には、本当に感動しました。私も息子夫婦との関係で悩んでいたんですが、せつ子さんを見て自分の意思をはっきり伝える大切さを学びました」
鈴木さんが言いました。
夕方、せつ子さんは一人で庭を散歩していました。季節は初夏に移り変わり、バラの花が美しく咲いています。その時、ポケットの中で携帯電話が鳴りました。画面には「健二」の文字が表示されています。
せつ子さんは電話を見つめたまま、出ることはありませんでした。着信音が鳴り終わるまで、静かに待ちました。
「もう、終わったことよね」
せつ子さんは空を見上げながら、穏やかにつぶやきました。
その夜、せつ子さんは日記にこう書きました。
「今日で新しい生活が始まって百二十日目になりました。最初は寂しい気持ちもありましたが、今は心から充実した日々を過ごしています。健二からの手紙や電話もありますが、もう私の心は決まっています。真の家族とは、お互いを尊重し合い、支え合える関係のことだと分かりました。血のつながりがあっても、相手を傷つけ軽んじるような関係は家族ではありません。私は今、本当の家族に囲まれて幸せです。健二たちには、自分がしたことの意味を深く考えてほしいと思います。そして、人を大切にするということがどういうことなのか、学んでくれることを願っています。私は今、本当に自由で幸せです」
窓の外では、柔らかな月光が庭の花を照らしていました。せつ子さんの新しい人生は、まだ始まったばかりです。そしてそれは、彼女が長い間夢見ていた、穏やかで愛情に満ちた本当の家族生活だったのです。



