「パートで月20万程度。それでよく今まで生きてこられたな」…

「パートで月20万程度。それでよく今まで生きてこられたな」...

朝食の穏やかな時間が、一瞬で凍りついた。

43年間使い続けたコーヒーカップを手にしたまま、私は夫の顔を見つめていた。彼はいつもと同じソファに座り、いつもと同じように新聞を広げていた。でも、その口から出た言葉は、私が今まで一度も聞いたことのないものだった。

「お前がいると、俺の自由が奪われるんだ」

「何を言っているの?」

震える声で問いかけた私に、夫は新聞から目を離さずに続けた。

「定年後は自分の好きなように生きたい。お前がいたらそれができない」

銀行の重役室で何百人もの前で話すことに慣れている私でも、この瞬間だけは言葉を失った。朝の光が差し込むリビングで、43年間の時間が音もなく崩れ落ちていく気がした。

「離婚してくれ」

私の手からコーヒーカップが滑り落ち、畳に鈍い音を立てた。

「理由を聞かせて」

ようやく絞り出した声に、夫は新聞を畳み、初めて私の目を見た。その瞳には、見慣れない冷たさがあった。

「お前は知らないだろうが、俺はずっと息苦しかったんだ。朝起きてお前の顔を見て、同じような会話をして、同じような一日を過ごす。もううんざりなんだ」

「でも、それが夫婦でしょう」

「違う。それは俺の人生じゃない。お前の管理下で生きてきただけだ」

管理下。その言葉が胸に突き刺さった。

私は42年間、銀行で部長として働きながら、家事も完璧にこなしてきた。朝5時に起きて弁当を作り、夕食の準備をしてから出勤。帰宅後は掃除、洗濯、アイロン掛け。週末は夫の好物を作り、実家の付き合いも欠かさなかった。

「あなたのために、私は……」

「だから重いんだよ」

夫はうんざりしたように言葉を遮った。

「お前の“あなたのため”が、俺を縛りつけてきたんだ。定年後は釣りに行きたい。旅行もしたい。でもお前がいたら、また“あなたのため”で全部台無しになる」

私の頭の中に、この43年間の光景が走馬灯のように流れた。夫の還暦祝い、息子の結婚式、家族旅行。全て私が計画し、実行してきた。それが“重い”だったのか。

「私だって自由が欲しかった」

思わず口をついて出た言葉に、夫は鼻で笑った。

「お前に自由? パートくらいしかしてないくせに」

パート。夫は私の仕事をそう思っていたのか。毎日スーツを着て出かける私を、42年間もそう思い込んでいたのか。

離婚の話が出てから3日後、夫は行政書士を家に呼んだ。

若い女性の行政書士は、慣れた手つきで書類を広げながら説明を始めた。

「財産分与についてですが、こちらの資産表をご覧ください」

私は表を見て息を飲んだ。そこには、驚くほど少ない金額が記されていた。

「これだけ? 夫の退職金の一部と……慰謝料がわずか?」

「奥様は専業主婦でいらっしゃいましたから、ご主人の退職金の一部と若干の慰謝料ということになります」

専業主婦。

私は夫を見た。彼は知らん顔で窓の外を眺めていた。

「妻は働いていました。42年間も」

「パートだろう?」

夫が振り返った。

「月20万程度。それも家計の足しにした程度だ」

行政書士は困ったような顔で書類を見返した。

「奥様の収入証明などはございますか?」

私は言葉に詰まった。

確かに、夫には本当の収入を知らせていなかった。銀行の給与は別口座に入れ、そこから一部だけを家計に入れていた。夫のプライドを傷つけないように、ずっと隠してきたのだ。

「やっぱりパートだ」

夫が勝ち誇ったように言った。

「貯金だって、100万もないだろう」

私の個人貯金は3億を超えていた。しかし、それを今言うべきかどうか、迷っていた。

その夜、息子の健一と嫁の美咲がやってきた。

「母さん、話は聞いたよ」

健一は気まずそうに切り出した。35歳になった息子は、父親そっくりの顔をしていた。

「お父さんの気持ちも分かるんだ。定年後は自分の時間を持ちたいって」

「健一まで……」

「でも現実的に考えて、お母さんが一人で生活するのは難しいんじゃないですか」

美咲が口を挟んだ。

「年金だってまだ先だし。実家に戻るか、それとも……」

「私たちの家には来ないでくださいね」

美咲がきっぱりと言った。

「子供たちの教育にも影響しますから」

教育に影響。私の存在が孫たちに悪影響だというのか。

「母さんが父さんを縛ってきたのは事実だろう」

健一の言葉は容赦なかった。

「いつも父さんの行動を監視して、友達との飲み会も制限して……」

「それは家計のことを考えて……」

「また言い訳か」

美咲が声を上げた。

「お母さんはいつもそう。自分は正しくて、相手が間違っているっていう顔をする。私、ずっと我慢してたんです。お母さんのその上から目線。私たちの育児にも口出しして……」

「美咲さん、私は心配で……」

「心配? 監視の間違いでしょう」

部屋の空気が凍りついた。

私は3人の顔を見回した。夫、息子、嫁。みんな同じような表情をしていた。私を厄介者として見る目だった。

「とにかく」

夫が話を締めくくった。

「俺の貯金なんて大したことないんだから、慰謝料は最低限で十分だ。これからの生活費は、お前が考えることだ」

「そうですね」

健一も同意した。

「母さんもそろそろ現実を見た方がいい」

現実。彼らの言う現実とは、私を無価値な存在として切り捨てることだった。

翌日、夫は友人たちを家に招いた。リビングからは楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

「いやあ、ようやく決心したんだな」

「そうなんだよ。もう我慢の限界でね」

「奥さん、きつかったもんな。束縛の塊だよ。朝から晩まで管理されて」

私は台所で夕食の準備をしながら、その会話を聞いていた。

「定年後は南の島にでも移住するかな?」

「いいね。独身貴族の最高だ」

「財産分与は大したことないよ。あいつ、パートしかしてなかったから」

男たちの笑い声が響いた。

43年間連れ添った夫が、友人たちの前で私を“あいつ”呼ばわりし、笑い者にしている。

涙が頬を伝った。でも、その涙は悲しみだけではなかった。怒りと、そして静かな決意の涙だった。

私は包丁を置き、エプロンを外した。

もう、この家で夕食を作ることもないだろう。

離婚協議が始まって1週間後、夫は新たな要求を突きつけてきた。

朝食のテーブルで、彼は一枚の紙を私の前に置いた。

「今後の生活費についてだ」

そこには、月々の支払い計画が記されていた。

「離婚が成立するまでこの家に住むなら、家賃を払ってもらう。月8万円」

「家賃? 自分の家なのに」

「名義は俺だ。それに光熱費も折半。食費は各自」

私は書類を見つめた。まるで下宿人扱いだった。

「年金はどうするの?」

「年金は俺のもの。お前の分は、パートなんかじゃ大した額じゃないだろう。月5万もあれば十分だ」

月5万。

彼は本気でそう思っているのか。

その日の午後、美咲が子供たちを連れてきた。7歳の孫の正太と5歳の孫娘の美優は、久しぶりに会う祖母に対して妙によそよそしかった。

「おばあちゃん」

正太が突然口を開いた。

「ママが言ってた。おばあちゃんはもうすぐいなくなるんでしょう」

「正太!」

美咲が慌てたが、正太は続けた。

「だって事実でしょう。子供たちにも心の準備が必要です」

「いなくなるって、どういう意味だ?」

「お金もないし、仕事もないし、じゃあ住むところもないでしょう。ママが言ってた。おばあちゃんは何もできない人だって」

私の心臓が締めつけられた。孫たちまでもが、私をそんな風に見ているのか。

「実家に帰るしかないでしょうね」

美咲が冷たく言った。

「ご両親はもう亡くなってるんでしたっけ? じゃあ、施設とか」

施設。65歳の私を、もう施設送りにする気なのか。

その時、夫が部屋に入ってきた。

「ああ、ちょうどいい。みんな集まっているな。家族会議だ」

30分後、全員がリビングに集まった。まるで裁判のような雰囲気だった。

「母さんの今後について話し合おう」

健一が口を切った。

「現実的に考えて、一人暮らしは無理だ」

「そうね」

美咲が頷いた。

「私たちも子育てで手いっぱいだし」

「実家もないだろう」

夫が確認するように言った。

「貯金も100万程度。施設を探すのが一番現実的かと」

健一が結論づけた。

「安いところなら、月10万くらいで……」

「私の意見は?」

私はようやく口を開いた。

「意見?」

夫が鼻で笑った。

「お前に選択肢なんてあるのか?」

「母さん、現実を見てよ」

健一が諭すように言った。

「パートの収入じゃ生活できないでしょう。第一、もう65歳。今更就職なんて無理ですよ」

「お前の人生設計の甘さが招いた結果だ」

夫が断言した。

「俺に依存してきたツケが回ってきただけだ」

依存。その言葉に、私の中で何かが切れた。

「そういえば」

美咲が思い出したように言った。

「お母さんの荷物、整理しておきました。必要最小限のものだけ残して、あとは処分していいですよね」

「荷物を勝手に?」

「だって施設に持っていけるものは限られてますから」

彼女は当然のような顔をしていた。

「母さんの部屋、俺の書斎にするから」

健一が言った。

「どうせ出ていくんだし」

まだ離婚も成立していないのに、もう私の居場所はないということか。

「ああ、そうそう」

夫が書類を取り出した。

「これ、遺言書の作成を頼みたいんだ。どうせ大した額じゃないが、手続きが面倒でね」

遺言書。つまり、私の全財産を勝手に処理する気なのか。

「サインして」

夫が促した。

「これで君も楽になれる」

「楽に?」

「そう。何も考えなくていい。俺たちが全部決めてやる」

「施設の手配も、荷物の処分も」

正太が言った。

「もううちに来なくていいよ。ママが言ってた。貧乏は遺伝するって」

その瞬間、部屋の空気が変わった。

さすがの美咲も慌てた。

「正太、そんな言い方……」

でも、もう遅かった。子供は正直だ。家で日常的に、そんな会話がされていることがよく分かった。

「とにかく」

健一が話を戻した。

「今月中に施設を探して、来月には出て行ってもらう。それでいいね、父さん」

「ああ、それがいい」

夫が頷いた。

「俺も新しい人生を始めたいからな」

新しい人生。43年間共に歩んできた妻を捨てて始める人生が、そんなに素晴らしいものなのか。

夫が差し出す書類に、私は静かに立ち上がった。

「お手洗いに」

廊下に出て、私は深呼吸をした。怒りで手が震えていた。でも、今はまだその時ではない。

鏡に映った自分の顔を見た。確かに65歳の顔だ。でも、その目にはまだ光があった。銀行で42年間戦い続けてきた女の目だ。

施設。遺言書。私は小さく笑った。

彼らは、私の何を知っているというのか。

リビングに戻ると、皆が待ちくたびれたような顔をしていた。

「で、サインは?」

夫が苛立って聞いた。

私は静かに席についた。そして、はっきりと言った。

「もう少し考えさせてください」

「考える? 何を」

健一が呆れたように言った。

「他に選択肢なんてないでしょう」

「あるかもしれません」

その一言に、家族全員が顔を見合わせた。

「母さん、現実を見てよ」

健一が繰り返した。

「貯金もない。仕事もない。実家もない。年金もまだもらえない」

「どうやって生きていくつもり?」

美咲が付け加えた。

私は微笑んだ。それは、彼らが見たことのない種類の笑顔だったはずだ。

「それは、私が考えることです」

「頑固な女だ」

夫が舌打ちした。

「だから離婚したいんだ」

でも、私の心は決まっていた。もう十分だ。十分すぎるほど、彼らの本性を見た。

明日、私は動く。42年間の仮面を脱ぎ捨てる時が来た。

翌朝、私は普段より早く家を出た。夫はまだ寝ていた。最近は私の顔を見るのも嫌なのか、別室で寝るようになっていた。

銀行への道のりは、いつもと違って見えた。42年間通い続けた道なのに、今日は特別な意味を持っていた。

「中西部長、おはようございます」

受付の山田さんが、いつものように挨拶した。

「おはようございます、山田さん」

エレベーターで最上階へ。役員フロアに着くと、秘書の田中さんが驚いた顔をした。

「部長、今日は在宅勤務の予定では……」

「予定変更よ。専務にお会いしたいの」

30分後、私は専務室にいた。

「中西さん、どうされました? 顔色が優れませんが」

専務の斎藤は、私の入社時からの同期だった。互いに切磋琢磨してここまで登ってきた戦友でもある。

「実は、個人的な相談があります」

私は離婚の話を簡潔に伝えた。斎藤は黙って聞いていたが、その表情は次第に厳しくなっていった。

「ご主人は、あなたが銀行の部長だということを知らないんですか?」

「知りません。42年間、ただのパート務めだと思っています」

「なぜ隠していたんです?」

「夫のプライドのためです。私の方が収入が多いと知ったら、彼は耐えられなかったでしょう」

「それであなたは42年間も……」

私は頷いた。

「朝5時に起きて家事をこなし、7時にパートに行くと言って家を出る。実際は銀行の重要な会議に出席し、億単位の融資を決裁し、部下50人を束ねていました。年収は現在2000万円です。貯蓄は、個人資産が約3億2000万円」

斎藤は頭を振った。

「そんな資産がありながら、月5万円で施設に? 冗談でしょう」

「向こうは、そのつもりのようです」

「中西さん」

斎藤は身を乗り出した。

「もう隠す必要はないでしょう」

私は少し考えてから答えた。

「もう少し、このままでいさせてください」

「なぜです?」

「見極めたいんです。彼らが私をどう扱うのか、最後まで」

斎藤は複雑な表情を見せたが、最終的に頷いた。

「わかりました。ただし、これだけは準備させてください」

彼は内線でホームを呼んだ。

「離婚に関する法的アドバイスが必要です。うちの最高の弁護士を」

その後、私は都心の高級マンションを訪れていた。

不動産業者の案内で、最上階の部屋を見て回った。

「こちらは先日完成したばかりで、セキュリティも万全です。リビングからは東京の景色が一望できます」

「すぐに入居可能ですか?」

「はい。中西様のご要望通り、銀行へのアクセスも良好です」

「契約します」

私は即決した。担当者は驚いたが、すぐに契約書を用意した。

支払いは一括で。私は銀行の定期貯蓄の解約手続きも済ませていた。もう、隠す必要はない。

夕方、私は行きつけの美容院に寄った。

「奥様、今日は特別なご予定でも?」

「ええ。人生の再出発です」

髪を整え、久しぶりに上等なスーツに袖を通した。鏡に映る姿は、もう夫の“パート妻”の影ではなかった。銀行の部長、中西和代がそこにいた。

家に戻ると、不機嫌そうな夫がソファに座っていた。

「遅いじゃないか」

「夕飯は外で済ませてきました」

「は? 俺の分は?」

「ご自分でどうぞ。もう私の役目ではありませんから」

夫は驚いた顔をした。

「なんだその態度は?」

「離婚するんでしょう? なら、もう他人です」

私は自室に向かった。背後で夫が何か叫んでいたが、もう関係なかった。

部屋で、私は大切な書類を整理した。通帳、委任状、証券、保険証書。全て、銀行の金庫に預ける準備をした。

携帯が鳴った。健一からだった。

「母さん、さっき父さんから聞いたよ。急に態度が変わったって」

「別に変わってないわ。現実を受け入れただけよ」

「それならいいんだけど。ところで、施設の件だけど、いくつか資料を送るから」

「結構よ。自分で探すから」

「でも、一人じゃ大変でしょう」

「心配無用よ」

電話を切ると、次は美咲から連絡が来た。

「お母さん、急にどうしたんですか? お父さんが困ってます」

「あら、どうして?」

「夕食の用意がないって」

「料理くらいできるでしょう。65歳にもなって」

「でも今まではお母さんが……」

「今まではね」

私は微笑んだ。

「これからは違います」

その夜、私は日記を書いた。

『明日、真実を告げる時が来る。42年間の嘘を終わらせる時が。彼らがどんな顔をするか、今から楽しみだ』

ペンを置いて、私は窓の外を見た。明日の今頃、私はもうこの家にはいないだろう。新しいマンションで、新しい人生を始めているはずだ。

65歳。まだまだこれからだ。本当の中西和代の人生が、やっと始まる。

離婚協議から3週間後の朝、私は最後の朝食を作った。

いつものように味噌汁を温め、卵焼きを焼き、炊きたてのご飯を茶碗によそった。ただし、今日は一人分だけ。

夫が起きてきて、テーブルを見て眉をひそめた。

「俺の分は?」

「ありません」

「なんだと?」

「今日で出ていきますから。最後の朝食は、自分のために作りました」

夫は一瞬言葉を失い、それから怒りをあらわにした。

「まだそんな強がりを。施設の手配もできていないだろう」

私は静かに微笑み、バッグから一通の封筒を取り出した。

「離婚届です。私の署名と印鑑は押してあります」

夫は封筒を受け取り、中身を確認した。確かに、私の署名があった。

「本気か?」

「ええ。あなたが望んだことでしょう」

玄関のチャイムが鳴った。

「あら。もう来たのね」

私が玄関に向かうと、夫も後を追ってきた。

ドアを開けると、そこには引っ越し業者が立っていた。

「中西様ですね。お荷物を運ばせていただきます」

「荷物?」

夫が素っ頓狂な声を上げた。

「何の荷物だ?」

「私の荷物です」

作業員たちが次々と入ってきて、私の部屋からダンボール箱を運び出し始めた。

「ちょっと待て!」

夫が慌てた。

「どこに行くつもりだ?」

「新居です」

「新居? 冗談だろう。金もないのに」

私は夫の顔をまっすぐに見た。そして、42年間で初めて真実を告げた。

「私、パートなんかしていません。三菱東京UFJ銀行の執行役部長です。年収は2000万円」

夫の顔から、血の気が引いていった。

「嘘だ……」

「社員証をご覧になります?」

私は社員証を見せた。そこには確かに“執行役員 国際部長 中西和代”と記されていた。

その時、また玄関のチャイムが鳴った。今度は健一と美咲だった。

「父さん、どうしたの?」

慌てた電話で駆けつけた健一は、引っ越し業者を見て固まった。

「母さん、これは……」

「引っ越しよ。今日で出ていくから」

「でも、施設の手配は……」

「施設?」

私は笑った。

「なぜ私が施設に行く必要があるの?」

美咲が口を挟んだ。

「だって、お金もないし、仕事もないし……」

「さっき夫に話したばかりだけど」

私は振り返った。

「私は銀行の部長なの。年収2000万円」

健一と美咲の顔が凍りついた。

「部長? 42年間……あなたたちには内緒にしていたけどね」

「待てよ」

夫が震え声で言った。

「じゃあ、今までの給料は……」

「個人口座に貯めていました。現在の資産は、約3億2000万円です」

3人は言葉を失った。美咲が最初に口を開いた。

「3億……」

「驚いた? でも、あなたたちは私を施設に送ろうとしていたわよね」

「それは……」

健一が言葉を濁した。

「知らなかったから」

「知らなかった?」

私は顔を上げた。

「私の価値を、金額でしか測れないの?」

引っ越し業者の責任者が近づいてきた。

「中西様、お荷物は全て積み込みました」

「ありがとうございます。先にマンションへお願いします」

「マンション?」

夫が聞いた。

「ええ。港区の新築マンションを購入しました。最上階です」

その時、健一の携帯が鳴った。画面を見て、彼の顔色が変わった。

「銀行から……」

電話に出た健一の表情が、次第に青ざめていった。

「はい……はい……母が……申し訳ありません」

電話を切った健一は、震える声で言った。

「母さん、まさか……」

「ああ、言い忘れていたわ」

私は思い出したように言った。

「あなたの住宅ローン。私が連帯保証人だったわよね。それが、保証人を降りる手続きをしました。銀行から連絡があったでしょう」

健一の顔面が真っ青になった。

「でも、それじゃローンが……」

「新しい保証人を見つけるか、一括返済するか。どちらかね」

美咲が悲鳴を上げた。

「一括返済? そんなお金ないわよ!」

「あら、私みたいな価値のない人間に頼るわけにはいかないでしょう」

「待ってくれ、和代」

夫が割って入った。

「待ってくれ。話し合おう」

「話し合い?」

私は首を振った。

「もう十分話し合ったじゃない。私は“お荷物”で“自由を奪う存在”なんでしょう」

「それは言いすぎた……」

「いいえ。本音でしょう。だから、望み通り自由にしてあげるの」

私はバッグを手に取った。

「あ、そうそう」

振り返って、付け加えた。

「家の件だけど。この家、実は私の名義なのよ」

爆弾発言に、3人は凍りついた。

「嘘だろ……」

夫がつぶやいた。

「結婚した時、私の両親が援助してくれたでしょう。あれ、全額じゃなかったのよ。足りない分は、私の貯金から出したの。私は書類のコピーを見せた。確かに、登記簿には中西和代の名前があった」

「だから、離婚が成立したら、出て行ってもらうことになるわね」

「出ていく……俺が?」

「そうよ。もちろん、適正な家賃を払ってくれるなら住み続けてもいいけど。家賃、月30万円くらいかしら。相場を考えると」

「母さん、そんな急に言われても……」

健一が慌てた。

「私に施設に行けと言った時、あなたたちは急だったの?」

美咲が取り繕おうように言った。

「お母さん、誤解です。私たちはお母さんのことを心配して……」

「心配?」

私は彼女を見据えた。

「“貧乏は遺伝する”って、正太に教えたのは誰?」

美咲の顔が真っ赤になった。

私は腕時計を見た。

「もう行かなくちゃ。今日は重要な会議があるの」

「会議?」

夫が呆然と聞いた。

「ええ。50億円の融資案件よ。私が最終決済するの」

玄関に向かう私を、健一が呼び止めた。

「母さん、お願いだ。保証人の件、考え直してくれ」

「どうして?」

「だって……家族じゃないか」

「家族?」

私は振り返った。

「さっきまで私を厄介者扱いしていた人たちが、よく言うわ」

私は最後に3人を見回した。夫は呆然と立ち尽くし、健一は青ざめ、美咲は泣きそうな顔をしていた。

「43年間、ありがとう」

私は静かに言った。

「でも、もう演技は終わりです」

「演技?」

「そう。献身的な妻。従順な母親。都合のいい義母。全部、演技だったの」

私はドアを開けた。外には、春の日差しが満ちていた。

「じゃあ、お元気で。私は自由になります」

「和代!」

夫が叫んだ。

「話し合おう! やり直そう!」

でも、私は振り返らなかった。

タクシーに乗り込み、運転手に告げた。

「丸の内の本社ビルまで」

車が動き出すと、携帯が鳴り続けた。夫から。健一から。美咲から。

私は電源を切った。

これから始まるのは、本当の中西和代の人生。65歳。部長職。資産3億。自由で、誰にも縛られない人生が、今始まった。

新しいマンションの大きな窓から、東京の街並みを見下ろしながら、私は優雅にコーヒーを楽しんでいた。

引っ越しから半年。私の生活は劇的に変わっていた。

朝6時に自然と目が覚める。もう誰かのために朝食を作る必要はない。ヨガマットを広げ、朝日を浴びながらストレッチ。その後、ゆっくりとシャワーを浴び、お気に入りのスーツに袖を通す。

銀行では、私の正体が明らかになってから、周囲の反応が面白いほど変わった。

「中西部長、42年間も旦那様に内緒だったなんて。女性の鏡ですね」

秘書の田中さんが感心したように言った。

「でも、もう隠す必要はありませんよ」

確かに、その通りだった。今の私は、堂々と自分の地位と実力を示している。

ある日の昼休み、銀行のカフェテリアで後輩の女性行員たちに囲まれた。

「部長、どうしてそんなに長く隠していられたんですか?」

「夫のプライドを守るためよ。でも、それが裏目に出たわ」

「ご結婚されてたんですか?」

「今は、していないわ」

私は少し考えてから答えた。

「でも、後悔はないわ。その経験があったから、今の自由の価値が分かるの」

週末は、新しく始めた趣味のピアノレッスンに通う。子供の頃から憧れていたけれど、家族のために諦めていた夢だった。

「中西さん、センスがいいですね」

講師の野口さんが微笑んで褒めてくれた。

「65歳から始めるなんて、遅すぎると思っていたけど……」

「音楽に、遅すぎるなんてありませんよ」

月に一度は、学生時代の友人たちと豪華なレストランでランチを楽しむ。

「和代、本当に生き生きしてるわね」

親友の明子が感心したように言った。

「離婚してから、10歳は若返ったみたい」

「自由になったからよ。初めて、自分のためだけに生きているの」

そんなある日、銀行に一本の電話がかかってきた。

「中西部長。個人的な電話ですが……元ご主人様からです」

私は少し迷ったが、電話を取った。

「……和代か?」

電話の向こうの夫の声は、以前とは別人のように弱々しかった。

「どうしたの?」

「実は……家を売ることになった」

「あら、どうして?」

「一人じゃ維持できない。それに、健一も……」

「健一?」

「聞いてないのか? 住宅ローンの保証人問題で、家を手放すことになった。今、離婚協議中だ」

「苦労してるのね」

「和代……もう一度、やり直せないか」

私は静かに答えた。

「あなたは、私の何を愛していたの?」

「それは……」

「答えられないでしょう。あなたが愛していたのは、都合のいい家政婦としての私。本当の私じゃなかった」

「違う! 俺は……」

「いいのよ。もう、過去のことだから。お元気で」

電話を切った後、不思議と心は穏やかだった。恨みも、怒りもなかった。

その週末、私は講演会に招かれた。テーマは「人生100年時代の女性の自立」。

会場には、様々な年代の女性たちが集まっていた。

「皆さん、私は65歳で初めて本当の自由を手に入れました」

マイクを持って話し始めると、会場中の視線が私に集まった。

「42年間、夫に自分のことを隠して生きてきました。銀行の部長であることも、年収も、全て秘密にして」

会場がざわついた。

「なぜそんなことを、と思われるでしょう? でも、当時はそれが夫婦円満の秘訣だと信じていたんです」

私は自分の経験を率直に話した。献身的に尽くしても、最後はお荷物扱いされたこと。子供たちからも、価値のない人間として見られたこと。

「でも、気づいたんです。自分の価値を、他人に委ねてはいけないって」

若い女性が手を挙げた。

「でも、夫婦は支え合うものでは?」

「もちろんです。でも、支え合うことと、自分を殺すことは違います」

別の女性が質問した。

「後悔はありませんか?」

「もっと早く真実を話していれば、と思うこともあります。でも、言っても仕方ありません。大切なのは、今この瞬間から自分らしく生きることです」

講演後、多くの女性たちが私の元に来た。

「勇気をもらいました。私も自分の人生を見直してみます」

その中に、一人の若い女性がいた。

「中西さん、私、銀行に就職したいんです。女性でも部長になれるって、希望が持てました」

「もちろん、なれるわよ。でも、自分を隠さないで。最初から堂々としていてね」

帰り道、私は充足感に満たされていた。

夜、自宅でワインを楽しんでいると、孫の正太から手紙が届いた。

『おばあちゃんへ

あの時はひどいことを言ってごめんなさい。ママから聞きました。おばあちゃんはすごい人だったんですね。僕も頑張って勉強します。いつか会いに行ってもいいですか?』

私は返事を書いた。

『正太へ

手紙ありがとう。もちろん、いつでも会いに来てください。でも、私がすごいのではないの。誰でも自分の力で生きていけるということを、おばあちゃんは証明しただけ。あなたも、自分の力を信じてね』

窓の外には、東京の夜景が輝いていた。

私は今、本当に幸せだ。経済的にも、精神的にも、完全に自立している。誰かの妻でも、母でもなく、中西和代という一人の人間として生きている。

65歳。まだまだこれからだ。

人生は何歳からでもやり直せる。自分を信じる勇気さえあれば。

熟年離婚は、終わりではなく始まりだった。本当の自分として生きる、新しい人生の始まりだった。

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