6月の雨は容赦なく、窓ガラスを叩く音を聞きながら、松崎公平は目を覚ました。眠れていたわけではない。ただ布団の中で目を閉じていただけだった。午前5時10分。木曜日。それだけで十分すぎるほど憂鬱だった。
彼は68歳だった。千葉県の海沿いの町、目立たない団地の一室でひっそりと生きていた。痩せた体に、いつも同じベージュのウインドブレーカーを羽織っていた。首回りがすり切れて白くなっていた。長年の相棒だ。
目は細くて鋭い。しかし、その目が他人の顔を正面から捉えることはほとんどなかった。視線を上げれば誰かと目が合う。目が合えば頭を下げなければならない。それが彼には難しかった。
不安な夜に、無意識に右手の甲を左手の指で擦り合わせる癖があった。コンビニで買い物をする時は、頭の中で自動的に消費税10%を計算した。波数が合わないと苛立った。
ここに越してきたのは4年前のことだった。定年後の家賃が重くなり、埼玉から移ってきた。月々4万2000円の団地の一室。近所付き合いは最低限にとめていた。丁寧すぎる言葉遣いは、相手との距離を保つのに便利だった。
友人はいなかった。家族と呼べる存在は1人だけいた。息子の柴田譲る。38歳になる。結婚してから妻の姓に変わり、今は横浜に住んでいる。最後に声を聞いたのは5年前、息子が家を買った時に金のことで揉めた時だった。それ以来、電話もなければ会うこともなかった。
彼はスーパーの夜間倉庫係として週5日働いていた。夜11時から朝7時まで。夜間の倉庫は静かで、作業中に話す相手もいない。それが彼には合っていた。
木曜日の夜明け前、午前7時15分に仕事が終わった。雨はまだ降り続いていた。傘を差し、スーパーから徒歩で20分の道を歩く。コンビニの前で足が止まった。胃が鳴っていた。財布を開けると1000円札が1枚と効果が数枚入っていた。
コンビニに入ると、見切り品コーナーに幕の内弁当が1つ残っていた。元490円に半額シールが貼られている。税込みで269円。歩きながら計算し、100円玉を3枚、10円玉を2枚カウンターに並べた。店員は何も言わずに釣りを返した。
団地への道を歩きながら、自分の胸の入り口が見えてきた時、彼は立ち止まった。玄関ドアの郵便受けの隙間に、白い封筒が挟まっていた。右上に太い赤いスタンプが押されていた。差出人は住宅管理局。
鍵を回して部屋に入り、靴を揃え、ウインドブレーカーを脱いでハンガーにかけた。封筒を持ったまま今に入り、茶ブ台の前に座った。中には2枚の紙が入っていた。
1枚目は通知書だった。書いてあることがすぐには頭に入ってこなかった。ようやく飲み込めたのは、こういうことだった。
保証人である坂口県一郎が、先月の5月12日に亡くなったこと。それに伴い、身元保証を親族に更新する義務が生じたこと。更新に必要な書類は一親等の親族による署名夏を得た保証書であること。提出期限は通知の授業から15日以内。期限内に更新がなされない場合、賃貸借契約を解除する手続きに移行すること。
松崎公平は書面から目を離した。坂口が死んだということは知らなかった。坂口とは、埼玉の会社に務めていた頃の同僚だった。定年後にこちらへ引っ越すと決めた時、保証人を頼める人間が他に思い当たらず、連絡を入れた。坂口は2つ返事で引き受けてくれた。それ以来、ほとんど連絡は取っていなかった。
一親等の親族という言葉を、頭の中で繰り返した。親か子だ。彼には親はもうない。子は1人いる。横浜にいる息子。
2枚目の書類には、必要書類のリストが並んでいた。その中に、民間保障会社の利用も可能であるという一文と、小さな文字で「費用が発生します」と書いてあった。その言葉で胃が締め付けられた。
松崎公平は通知書を丁寧に折り直し、封筒に戻して引き出しにしまった。それだけだった。弁当を電子レンジに入れることも、テレビをつけることもしなかった。ただ茶ブ台の前に戻って座り込んだ。
15日。その数字が頭の中で転がった。今日が13日。期限は28日。
5年間連絡を取らなかった。こちらから連絡しなかったのと同様に、向こうからも来なかった。今更それを崩すことはできない。松崎公平はそこで思考を止めた。
5日が経った。梅雨の雨はやむ気配を見せなかった。彼はその5日間をほとんどいつも通りに過ごした。夜に働き、朝に帰り、買ってきた見切り品の食べ物を食べ、布団に入る。引き出しの中の封筒があることは、皮膚で感じていた。開けることも捨てることもしなかった。ただ、指が止まらなかった。
6月18日木曜日の夜、倉庫に新しい商品が大量に届いた。その夜、同じシフトにクワ原という21歳の男がいた。この春から入ってきたアルバイトで、返事はするが作業は遅かった。仕訳けミスが多発した。
午前2時過ぎ、クワ原がフォークリフト用のパレットを雑に置いてその場を離れた。パレットの上に積まれていた飲料ケースが不安定になり、松崎公平が体を使って支えた。その時クワ原が戻ってきて、倒れかけたケースを支えている松崎公平を見た。しかし、謝るでも手を貸すでもなく、軽く舌打ちをして通りすぎながら言った。
「ちゃんと積んどけよ。俺が積んだのに倒れたみたいじゃないか」
松崎公平は何も言わなかった。午前4時を回った頃、クワ原はスマートフォンをいじりながら作業してまたミスをした。松崎公平が黙って直すと、クワ原は「すみません」と言ったが、声に申し訳なさはなかった。続けて誰に言うともなく呟いた。
「年寄りって細かいよな」
聞こえていた。耳の奥まで届いていた。だが顔には出さなかった。出してはいけない。この職場で感情を出してはいけない。黙って頭を下げている方が最終的には得だと、長年の経験が教えていた。
午前7時、勤務が終わった。外はまた雨だった。雨の中を歩き始めて3分ほどで、彼は立ち止まった。気がつくと足が団地の方ではなく、駅前の方向へ向いていた。引き出しの中の封筒のことが頭にあった。
保証会社には費用がかかる。15万円。通帳の残高は5万円を少し超えたところだった。もう1つの選択肢――息子に頼むこと。しかし、それもできない。
駅前のロータリーを過ぎた辺りで、緑色の公衆電話ボックスが見えた。松崎公平はそこで足が止まった。彼は携帯電話を持っていた。しかし、今日はその携帯を使う気になれなかった。携帯の画面に発信履歴が残ることが嫌だった。公衆電話なら番号が相手側に表示されない。
ボックスの中に入り、樹機を持ち上げるとツーという発信音がした。財布から10円玉を4枚取り出した。7桁の番号を彼は覚えていた。5年間1度もかけなかったが、忘れたことはなかった。呼び出し音がなり始めた。
3回目の呼び出し音の途中で、電話が繋がった。男の声がした。低くなっていた。早口なのは変わっていなかった。
「もしもし。誰ですか?」
ゴ尾が少しぶっキラボで、朝の忙しい時間帯に知らない番号からかかってきた電話に出た人間の声だった。背後の方で、子供の声と女性の声が混じっていた。
松崎公平は唇を動かした。何かを言おうとしたが、声が出なかった。
「もしもし。いたずらですか?」
譲るの声に、わずかに苛立ちが滲んだ。その時、後ろで女性の声が大きくなった。牛乳だの保育園の連絡だのという言葉が、樹き越しにはっきり聞こえた。
譲るが一瞬「ちょっと待って」と言い、電話に戻ってきた。
「もしもし。誰ですか? 要件があるならはっきり言ってください」
今度はもう少し強い調子だった。松崎公平は深く息を吸った。
「俺だ」
1秒か2秒か、電話の向こうが沈黙した。
「え?」
「いや。なんでもない。掛け間違えた」
それだけ言って、樹を置いた。ガチャという音がボックスの中に響いた。返金校を確認すると、10円玉が2枚戻ってきた。松崎公平はそれを拾ってポケットに入れた。
しばらく動けなかった。電話ボックスの中に立ったまま、外の雨を見ていた。皆がどこかへ向かっていた。誰も電話ボックスの中の男を見なかった。
俺だと言った。5年ぶりに息子の声を聞いた。そして5年ぶりに自分の声を息子に届けた。それだけだった。保証人のことは一言も言わなかった。あの女の声が聞こえた瞬間に、何かが止まった。朝の忙しい台所に、自分が割り込んで「保証人になってくれ」と言うことができなかった。できなかったのではなく、したくなかった。
団地に戻り、部屋に入って茶ブ台の前に座った。引き出しには触れなかった。今日電話した。電話して何も言えなかった。残りは10日だ。松崎公平は右手の甲を左手で擦すり始めた。
10日目の朝、松崎公平は区役所へ行くことに決めた。決めたというより、もう他に動ける方向がなかった。残りの5日間で自分1人でできることをやるとすれば、行政の窓口へ行くしかなかった。
バスで20分。古いコンクリートの建物の中に入ると、総合案内の若い男性職員に住宅の保証のことを尋ねた。自分でも気づかないうちに、声が小さくなっていた。
番号札を取って待合いスペースに入った。プラスチックの椅子が並び、半分ほどが埋まっていた。白髪の老人が多かった。空気は生暖かく、人の体温と古い髪の匂いが混じっていた。
30分ほど待って、番号が呼ばれた。2番窓口の前に立つと、30代前半の女性職員が座っていた。通知書をトレーに置くと、彼女は慣れた速さで目を通した。
「坂口健一郎さんが保証人でいらっしゃったんですね」
「はい。5月に亡くなられて」
「親族の方はいらっしゃいますか?」
松崎公平は1秒だけ間を置いた。
「息子がおりますが、遠方に住んでおりまして」
「息子さんに保証人になっていただくのが1番スムーズなのですが、それは難しい状況でしょうか」
「事情がありまして」
それ以上は言わなかった。女性もそれ以上は聞かなかった。
「あとは民間の保証会社をご利用いただくという方法があります」
彼女は引き出しから紙を取り出した。3者の名前と電話番号が印刷されていた。
「費用の目安はどのくらいになるでしょうか」
「各社によって異なりますが、一般的には初回で15万円前後、年間の更新費用がかかることが多いです」
15万円。松崎公平はその数字を聞いた瞬間、表情を変えないようにした。通帳の残高は5万円を少し超えたところだった。今月の給料が入っても、家賃と光熱費と食費を引けば手元に残るのは4万円あるかないかだ。
「低所得者向けの支援制度のようなものはございますでしょうか」
「住民税非課税世帯に該当される場合は、費用の一部を補助する制度がございます。ただし、この補助申請には、扶養義務のある親族の方が経済的支援を行えない状況であるということを証明していただく必要がありまして」
「証明と言いますと?」
「息子さんなど一親等の親族の方に書面で署名夏をいただく必要があります。扶養が困難であるという確認書ですね」
また息子だった。どの道も、息子のところへ繋がっていた。息子に連絡するには、5年間の沈黙を自分から崩さなければならない。どこへ行っても、同じ場所に戻ってきた。
「分かりました」
書類を受け取り、封筒に戻した。立ち上がった瞬間、右肘が机の上の湯みに当たった。女性職員が自分の横に置いていた法音の茶色い湯みだった。中の茶が床に広がった。
時間が止まったように感じた。待合いスペースの人々の視線が一斉にこちらへ向いた。女性職員は立ち上がり、割れていないことを確かめてから湯みを拾い上げた。
「大丈夫ですよ。お気になさらず」
声は穏やかだったが、少し素早く機種を取り出して床の茶を吹き始めた。松崎公平は「申し訳ございません」と言った。そのまま立っていた。何もできなかった。周囲の視線がまだ残っていた。沈黙の中に、自分の形が映っているような気がした。窓口の前で書類を抱えて立っている老人の姿が、周囲の人間にどう見えているかを、初めてはっきりと想像した。
保証人を頼める人間が1人もいなくて、15万円も出せなくて役所へ来ても出口が見つからない老人の姿を。
松崎公平は書類を胸に抱えて待合いスペースを横切り、外へ出た。梅雨の晴れ間は終わっていた。空に雲が広がっていた。
残り3日。延長申請書を出せば、期限は7月5日になる。だが延長しても、根本的な問題は何も変わらなかった。
松崎公平は倉庫の主任に頼んで、昼の補充作業の仕事も入れることにした。睡眠はさらに削られた。横になると、すぐ電話ボックスでのあの数秒間が蘇った。俺だといった声が、耳の中で繰り返した。
12日目の昼、スーパーの売り場補充の仕事中だった。卵のコーナーを補充してほしいという指示が来た。バックヤードに、Mサイズの卵が10個入りのパックで5段、計25トレーがカゴ台車に積まれていた。松崎公平は台車をゆっくりと押し始めた。
バックヤードから売り場へ出る扉のところに、床の継ぎ目があった。台車がその段差を超える時、全体がわずかに揺れた。通路の途中に、片付け忘れられた台が置いてあった。右側に寄せながら台車を押した時、床の継ぎ目に車輪が引っかかった。ほんの一瞬、台車の動きが止まった。
止まった反動で、1番上の段に積まれていたトレーが滑り落ちた。乾いた鈍い音。プラスチックの蓋が外れ、中の卵が転がった。10個入りのトレーが5つ。合計50個。割れた卵と、割れずに転がった卵がタイルの床に広がった。黄身が飛び散り、白身が広がり、殻の破片が混じった。
松崎公平はその場に立ち尽くした。周囲の客が振り返った。モップと雑巾を取りに行き、バケツに水を入れて戻ってくると、売り場主任の田中が来ていた。40代半ばの男だった。松崎公平より20歳以上若い。
田中は怒鳴らなかった。声を荒げなかった。それよりも低い抑えた声で言った。
「これどうなってんすか?」
松崎公平は頭を下げた。田中は周囲に客がいることを確認してから、声を落とした。しかし、声を落とすことで言葉の密度が上がった。
「昼間の補充に入ってもらってから、もう3回目ですよ。天の飲み物の沈列もそうだし、昨日の値引きシールの張り忘れもそうだし。うちのスーパーでロスが出たら数字に響くんです。卵1パックいくらか、ちゃんと計算してもらえますか?」
松崎公平は頭を下げたまま返事をしなかった。
「年配の方に来てもらうのはいいんですけどね。もう少し動きを早くしてもらえませんかね。若い子と同じスピードとは言わないですけど、集中して仕事してもらわないと」
声は落ち着いていた。感情的でもなかった。だからこそ、一言一言がはっきりと届いた。
「申し訳ございません」
声が少しかれた。田中はそれ以上は言わず、別の店員を呼んで後片付けを手伝わせた。松崎公平はモップで床を拭いた。膝をついて雑巾で細かい殻の破片を拾った。空の円が指先に当たった。黄身の匂いが鼻についた。隣で若い店員がバケツの水を変えていた。その店員は何も言わなかった。しかし、何も言わないことが、そこにある空気を全部語っていた。
後片付けが終わった。手を洗っても、生卵の匂いが指の間に残っているような気がして、もう1度洗った。
歩きながら、田中の言葉を反芻していた。反論できる部分はなかった。田中の言ったことは事実だった。昨日の値引きシールの張り忘れも、先週の陳列のミスも、今日の卵も、全部本当のことだった。集中が足りていなかった。睡眠が足りなくて、頭の奥に霧がかかっていた。できていない自分を、20歳以上若い男に低い声で指摘された。怒鳴られたのではない。暴言を吐かれたわけでもない。その方がどこかへ怒りをぶつけることができた。田中は正しかった。正しいことを丁寧に言われた。それが一番どこにも持っていけなかった。
団地の敷地に入ると、また雨が強くなった。胸の入り口で傘を閉じ、エレベーターに乗って3階へ上がった。廊下を歩くと、305号室のドアに何かが貼り付けてあった。白い紙だった。近づくと、それは住宅管理局からの書面だった。赤い文字で、住宅明け渡しを視野に入れた正式な手続きとして契約解除の準備を開始すると書かれていた。延長申請が受理されたことと、最終期限が7月5日であることも記されていた。
松崎公平は紙を剥がした。のりがドアに少し残った。指で触れるとベタッとした感触があった。
部屋に入り、靴を脱ぎ、ジャケットを脱いだ。今に入った。電気をつけなかった。窓から入る雨の日の薄い光だけが、部屋の中にあった。
茶ブ台の前に座った。しばらくそのままでいた。それから、ウインドブレーカーのポケットから折りたたみ式の携帯電話を取り出した。電話帳を開いた。登録件数は少なかった。スーパーの代表番号、内科の番号、近くのコンビニの番号。そして一件だけ、個人の名前があった。
柴田譲る。息子の名前だった。自分の息子が、妻の姓を名乗っている。最初に知った時、何も言わなかった。言える立場ではなかった。
松崎公平の目がじわりとうるんだ。気がついた時、すでに視界が歪んでいた。泣くつもりはなかった。泣くことは自分には許していなかった。68年生きてきて、人前で泣いたことは数えるほどしかなかった。妻が死んだ時も、葬儀の最中はずっと表情を保っていた。
しかし今、誰も見ていなかった。暗い部屋の中で1人だった。頬を伝うものがあった。1筋、また1筋。温かかった。声は出なかった。おえつもなかった。ただ目から水が出た。それだけだった。68年分が溜まって、今日の今、床に広がる卵を見ていた時から少しずつあふれ始めて、今ここで静かに滲み出ているような、そういう感じだった。
松崎公平は携帯電話の画面をもう一度見た。柴田譲るという名前があった。電話を閉じた。ポケットに戻さず、茶ブ台の上に置いた。窓の外の雨が、部屋に打ち付けていた。低く単調な音が続いていた。
7月5日が来た。朝の5時に目が覚めた時、松崎公平はすでに自分が何をしなければならないかを知っていた。数えるべき残り日数が、もうなかった。
前の晩は仕事を休んだ。スーパーに電話して体調不良だと告げた。嘘ではなかった。目の奥に鈍い重さがあり、食欲がなく、胃がずっと締め付けられていた。
その夜、松崎公平は荷物をまとめた。スーパーのバックヤードからもらってきたダンボール箱を3つ並べた。1つ目の箱に衣類を入れた。下着が7枚、靴下が5速、シャツが4枚、ズボンが2本、セーターが1枚。それが全てだった。2つ目の箱に台所の道具を入れた。茶碗、皿、箸、鍋、フライパン、包丁、まな板、電気ケトル。3つ目の箱に残りのものを入れた。通帳と印鑑と保険書類の束、折りたたみ式の携帯電話と充電器、常備薬、読みかけの本、置き時計。
3つの箱を並べてガムテープで封をした。部屋を見渡した。茶ブ台、座布団、テレビ、ダンボール箱。これらは置いていく。退去後に管理会社が処分することになる。
押入れを開けた。ハンガーにグレーのジャケットがかかっていた。区役所へ行った時に着ていったジャケットだ。迷った末に、3つ目の箱の上に置いた。
それから、茶ブ台の横の引き出しを開けた。最初の封筒があった。3週間以上前に届いた住宅管理局からの通知書。その後に届いた明け渡し予告通知も、延長申請書の控えも、区役所でもらった書類の束も全部そこに入っていた。松崎公平はそれを見て、全部取り出した。
ゴミ袋に入れた。封筒の表には「松崎公平様」と印刷され、赤いスタンプが押されていた。住宅管理局の名前があった。捨てた。
ゴミ袋の口を結んで、玄関の脇に置いた。
朝、管理会社に電話した。退去する旨と、荷物と残置物の件を伝えた。担当者は事務的に手続きの書類を後日送ると言った。鍵の返却についても話し、今日退去時に郵便受けに入れておくように指示された。
電話を切った。鍵を持って、部屋の中を一周した。台所、風呂場、押入れ。どこも、人が抜けた後の静けさがあった。換気扇の周りが悪いと思い続けていたことを、今頃になって思い出した。直してもらおうと思って、ずっと言い出せなかった。言い出せば、管理会社に電話して、職人が来て部屋の中を見られる。それが面倒で、結局4年間そのままにしていた。
部屋に戻った。茶ブ台の前に、最後にもう1度座った。4年間この部屋にいた。4年間この窓から外を見た。それだけのことを積み重ねて、今日で終わる。感傷的になるつもりはなかった。しかし、立ち上がるのに少し時間がかかった。
立ち上がると、ダンボール箱3つをスーパーで借りてきた台車に積んだ。靴を履き、ドアを開けた。廊下の空気が入ってきた。6月の湿った空気とは少し違う。7月の、もう少し重い空気だ。
鍵を抜いて、ドアを閉めた。もう1度ドアの表面を見た。305号室という金属のプレートが張ってあった。数字の「5」の塗装が少しはげていた。4年間毎日見ていたプレートだ。
鍵を郵便受けの口から落とした。金属の小さな音がした。
台車を押して廊下を歩き、エレベーターに乗って1階へ降りた。団地の共用出口を抜けると、外だった。空は厚い雲に覆われていた。雨は降っていなかったが、降り出しそうな重さが空気にあった。
駐輪場の前を通りすぎた。自転車置き場に、古い自転車が何台か止まっていた。その中に松崎公平の自転車もあった。移住先のシェアハウスまでは電車で行く。自転車は持っていけない。廃棄の手続きを取る時間もなかった。置いていくことになった。自転車を一度見た。それから視線を前に戻して歩いた。
団地の敷地内に小さな公園があった。砂場と滑り台とベンチが2脚だけの狭い公園だ。朝の早い時間帯で、人はいなかった。その公園のそばを通りすぎる時、反対側から人が来た。若い夫婦だった。30代前後。2人が傘を差して、子供を真ん中に挟んで歩いてきた。子供は小学校1年生か2年生くらいで、黄色いランドセルを背負い、水色の傘を自分でさしていた。母親が子供に何か言っていた。父親が子供の肩に触れて笑っていた。
3人が松崎公平の前を通りすぎた。誰もこちらを見なかった。子供が何かを言い、父親がまた笑った。その笑い声が朝の空気の中に短く響いた。松崎公平は台車を押しながら、その背中を見た。3人は公園の角を曲がって見えなくなった。笑い声の余韻だけが、少し遅れて消えた。
駅まで歩いた。台車の荷物の重さで、車輪がアスファルトの継ぎ目でガタガタとなった。駅の改札の前でダンボール箱を1つずつ下ろした。台車は畳んで駅の脇の壁に立てかけた。スーパーには後で取りに来てほしいと電話するつもりだったが、今日できるかどうかは分からなかった。
切符を買った。移住先のシェアハウスの最寄り駅まで電車で40分ほど。乗り換えが1回ある。
ホームに出ると、電車を待つ人が数人いた。スーツ姿の男性、大きなトートバッグを持った女性、イヤホンをつけた若い男。誰も互いを見ていなかった。
松崎公平はホームの端のベンチにダンボール箱を置いた。電車を待ちながら、ウインドブレーカーのポケットに手を入れた。携帯電話があった。取り出して画面を開いた。
着信履歴を見た。3日前の夜、1件だけ着信があった。柴田譲るという表示だった。午後7時17分。松崎公平はその着信を知っていた。あの晩、4つ目の仕事の帰り道でポケットの中で携帯が震えた。画面を見て名前を確認して、そのまま震えが止まるのを待った。留守番電話のランプが点滅したが、再生しなかった。
3日間、再生していなかった。今、ホームのベンチに座って、その着信履歴を見ていた。
電話を折りたたもうとして止まった。留守番電話の再生ボタンを押した。機械音声が秒数を告げた。23秒。雑音の後、息子の声がした。
「あの……俺です。先週知らない番号から電話があって、多分父さんだと思って。何かあったなら電話してください。こちらからもかけます。以上です」
それだけだった。23秒の留守番電話はそこで終わった。
松崎公平は携帯電話を閉じなかった。画面を見たままベンチに座っていた。「以上です」という言葉が耳に残った。感情を抑えた、ぶっきらぼうな終わり方だった。しかし、その前に少し迷っているような間があった。あの間に何が詰まっていたのかを、松崎公平は考えた。
電車の接近を知らせるアナウンスが流れた。遠くで線路が鳴り始めた。
電話をかけ直すということが頭に浮かんだ。今ここでかければ、繋がるかもしれない。繋がれば、話せるかもしれない。話せれば、保証人のことを言えるかもしれない。言えれば、息子が何か動いてくれるかもしれない。かもしれないが重なって、その先に家があるかもしれない。
電車がホームに入ってきた。風が吹いた。ウインドブレーカーの裾がはためいた。松崎公平の頭に、さっきの若い家族の姿が戻ってきた。子供の黄色いランドセル、父親の笑い声。あの朝、3人はどこで何をしているだろうか。譲は今日も会社へ行くはずだ。妻は子供を保育園へ連れて行くだろう。朝の台所で牛乳の場所を確認していた声が、公衆電話越しに聞こえた。あの朝のように、そこへ電話をかける。5年間姿を見せなかった父親が、金の話で連絡してくる。そういう話になる。5年前に金の話で揉めて、それ以来黙っていた父親が、また金の話でかけてきた。そういう形で、譲るの朝の台所に自分が入り込む。
電車の扉が開いた。乗客が降りてきた。スーツの男性、学生、老人。ホームに流れ出てきた人の波が、松崎公平の脇を通りすぎた。
松崎公平は携帯電話を見た。着信履歴の「柴田譲る」という名前をもう1度見た。それから、ゆっくりと操作した。着信履歴を開き、「柴田譲る」の番号を選んだ。メニューを開いた。「発信する」という選択肢と、「削除する」という選択肢が並んでいた。電車の扉が閉まるまであと少しだった。乗り込む人が減ってきた。
松崎公平は、「削除する」を選んだ。確認画面が出た。「この番号を削除しますか?」「はい」「失敗しました」。着信履歴から、柴田譲るの名前が消えた。
電話帳を開いた。「柴田譲る」という名前を選んだ。メニューから「削除」を選んだ。確認画面。「この連絡先を削除しますか?」「はい」「失敗しました」。電話帳から、名前が消えた。
松崎公平は携帯電話を閉じて、ポケットに戻した。立ち上がった。ダンボール箱を1つ抱え、1つを脇に挟み、1つを手で持った。体勢を確かめてから、電車の扉に向かって歩いた。駆け込み乗車を知らせるブザーが鳴り始めた。
松崎公平は電車に乗り込んだ。扉が閉まった。電車が動き始めた。釣り革を掴んだ。ダンボール箱が足元に並んでいた。車内は混んでいて、周囲に人の体温があった。誰も松崎公平を見なかった。
窓の外に、ホームが流れていった。さっき自分が座っていたベンチが後ろへ遠ざかっていった。駅の屋根が終わり、外の空が広がった。厚い雲の下を、電車は走り始めた。
松崎公平は釣り革を両手で掴みながら、窓の外を見た。線路沿いの風景が流れていった。古いアパート、駐車場、コンビニ、工場の壁、金属フェンス。どれも見覚えのないものではなかった。この4年間、何度か通ったことのある路線だ。しかし今日は、どれも少し遠く見えた。
釣り革の輪が、電車の揺れに合わせて静かに揺れた。松崎公平の手が、その輪を握り続けていた。乗り換えの駅まで20分、終点まであと40分。電車はカーブに差しかかり、車体が傾いた。足元のダンボール箱がわずかにずれた。松崎公平は片足でそれを軽く抑えた。
窓の外の景色が変わり続けた。松崎公平はそれを見続けた。どこかへ向かっているのか、どこかから離れているのか。もう区別しなかった。電車は動き、風景は流れ、そして時間が過ぎていった。



