血の混じった痰を吐き出す時、人間は自分の命がどこまで続くのかを初めて考える。黒川竜之助は凍結倉庫の裏壁に手をつき、胃の底から上がってくるものを吐いた。透明なよだれの中に赤黒い筋が何本も混じっていた。それを見下ろしながら、72歳という数字がひどく遠いものに感じられた。まるで他人の話のように。
深夜2時を回った頃、竜之助は冷凍倉庫の第3区画に立っていた。零下18度の空気が肺の奥まで刺さってくる。息を吸うたびに胸の芯が軋むような感触があったが、それは今に始まったことではなかった。40年近く市の清掃局で働き続けた体は、もうずっと前から限界のどこかに来ていた。懐中電灯の光を倉庫の壁に当て、こびりついた霜を払い落とす。光が届く範囲はせいぜい3メートル先まで。その先は暗く、冷気だけが壁のように立ちかかっている。
竜之助は左足を引きずりながら棚の列を確認して回った。左足の不具合は、ゴミ収集車の踏み台から飛び降りる作業を何千回と繰り返した末に来た関節症だ。医者には軟骨がすり減っていると言われたが、手術費も通院費も出せず、ただ引きずり続けてきた。
倉庫の仕事は警備の名目だったが、実際には荷物の確認と温度計の記録が主な業務だった。時給は820円。最低賃金を20円上回るだけの金額だ。それでも竜之助には必要だった。年金は月に6万円しか入らない。家賃と光熱費と食費を引けば、残るのはほんの少しだった。だから72歳になった今もこうして夜の倉庫に立っている。
記録用のバインダーを取り出しながら、竜之助は自分の手を見た。皮膚は何十年もの洗剤と水仕事で分厚く日焼けし、指の腹には消えない皹が残っている。かつてはそれが誇りだった。汚れた仕事をやり遂げてきた証だと思っていた。今はただ、置き去りにされた道具の痕跡にしか見えなかった。
温度計の数値をバインダーに書き込んでいる時、胸の奥から波が来た。最初は小さな咳だった。それが見る見るうちに膨れ上がり、竜之助は手袋をつけた手で口を抑えながら体をくの字に折った。咳は何度も重なり、一息つくたびに次の波が来る。喉の奥が熱い。吐き気がこみ上げる。そしてようやく収まった時、手袋の内側に湿ったものが残っていた。
手袋を外すと手のひらに赤黒いものがついていた。竜之助はしばらくそれを見つめた。驚くよりも先に、ひどく疲れた気分になった。病院に行くべきだということは分かっている。しかし、健康保険証の裏に書いてある自己負担額のことを考えると、足が動かなかった。今月はすでに食費を削って薬代を捻出していた。これ以上削れるものは何もなかった。
午前6時を少し回った頃、竈之助は倉庫から外に出た。夜が明け切っていない空が鈍い灰色に染まっている。駅に向かう途中、コンビニの前でホットコーヒーの自動販売機を眺めたが、買わずに通り過ぎた。130円という値段が、今の竜之助には簡単に出せるものではなかった。
高架の下の細い路地を抜け、見慣れた建物が見えてくると竜之助は少しだけ息をついた。築40年のこのアパートは外壁のペンキが剥がれ、廊下の手すりは錆びていたが、竜之助にとっては30年近く住み続けた場所だった。妻が生きていた頃から住んでいる。妻が逝って11年が経つが、引っ越しは一度も考えなかった。引っ越す理由も引っ越す余裕も、どちらもなかった。
鍵を取り出しながら玄関のドアの取っ手に手をかけた瞬間、竜之助は止まった。ドアの向こうから物音がする。物が動くような音。誰かがいる。息を潜めて耳を澄ます。気のせいかと思った次の瞬間、鍵を回してドアを開けた。部屋の中央に男が立っていた。
黒川大樹。竜之助の息子。45歳。最後に顔を見たのは5年前だった。その時も金の話だった。
大樹の右の頬に青紫色の痣があった。片方の目の下も腫れている。唇の端が切れていて、乾いた血がこびりついていた。スーツは着ているが、ひどくシワが寄っていて、何日も同じものを着ていることが分かった。部屋の隅に黒いボストンバッグが置いてあった。
竜之助は息子の顔から視線を外し、部屋の中をざっと見渡した。盗られたものがないか確認するのが先に来た。それがどういう父親かを示しているとしても、そうせずにはいられなかった。大樹は何も言わなかった。ただそこに立っていた。
竜之助は濡れたジャンパーを脱ぎながら息子に背を向けた。
「何しに来た。」
大樹がテーブルに何かを置く音がした。竜之助が振り向くと、一枚の書類が置いてあった。細かい文字が並んでいる。ローン会社の名前が見えた。聞いたことのない会社だった。
「保証人になってくれ。」
大樹の声は低く乾いていた。謝罪も前置きもなかった。竜之助はジャンパーを椅子の背にかけ、テーブルに近づいた。書類を手に取らずに上から見下ろす。金額の欄に数字が並んでいる。150万。借入先は消費者金融ではなく、住所の書いていない会社名だった。
「金はない。」竜之助はそれだけ言った。
「金を貸してくれと言ってるんじゃない。保証人になってくれと言ってるんだ。」
「同じことだ。」
大樹の顎の筋肉が動いた。
「親父の名前があればいい。それだけでいい。」
竜之助は息子の顔を見た。頬の痣は殴られたものだ。それは分かる。目の腫れ具合から見て2日か3日は経っている。大樹がこういう顔をして現れる時、状況はいつも同じ方向から来ていた。金の問題。逃げ場のなくなった金の問題。
「会社はどうした。」竜之助が聞いた。
大樹は少しの間床を見ていた。
「潰れた。3ヶ月前だ。」
竜之助は椅子に座った。座ってから、立ったままの大樹を見上げた。息子は目を合わせようとしなかった。視線は壁のどこかに向いていた。
「嫁は離婚した。子供を連れて実家に帰った。」
大樹の声に何かが混じった。感情なのか、別のものなのか。竜之助には判断がつかなかった。竜之助は両手を膝の上に置いた。置いた手が夜中の冷気をまだ帯びていた。
「それで俺のところへ来た。」
「返すあてはある。もう少し時間があれば立て直せる。今この場をしのげばいい。保証人になってくれれば、それだけでいい。」
「その会社はどこだ。」
「知らなくていい。」
「書類に住所がない。」
「親父には関係ない話だ。名前だけ貸してくれればいい。それだけだ。」
大樹は初めて竜之助の方を向いた。目に苛立ちが浮かんでいる。それは懇願ではなく、追い詰められたものが持つ、針のような圧力だった。
竜之助は書類をテーブルに置いたまま立ち上がり、台所へ向かった。薬缶に水を入れて火にかけた。それだけのことをしながら、頭の中で言葉を整理しようとした。5年。5年の間、電話一本なかった。孫の顔も見ていない。息子がどこで何をしているかも知らなかった。それが今日、こういう形で現れる。書類を持って、痣をつけて、前置きもなく。
湯が沸き始める前に、大樹が後ろからついてきた。
「無視するのか。」
竜之助は振り向かずに言った。
「お前の会社が潰れたのはお前の責任だ。俺には関係ない。」
「親父には子供を助ける気はないのか。」
「助ける金はない。保証人になる気もない。」
大樹の息が荒くなるのが分かった。気配が変わった。台所は狭い。振り向けば顔と顔が近いくらいの距離だった。
「親父、聞いてるか。俺は死ぬかもしれないんだぞ。」
竜之助は湯の沸く音を目を細めて聞き、ゆっくり息子の方を向いた。大樹の顔が近かった。汗と疲労の匂いがした。
「その痣は誰につけられた。」
「答えなかったな。取り立てか。」
息子はまた視線を外した。それが答えだった。竜之助はそのまま息子の顔を見た。かつてこの顔は幼かった。小学校に上がった最初の日、ランドセルが体より大きく見えた。妻と二人で送り出した。その記憶は今も消えていない。だが、今ここにいる45歳の男は、その子供とはもう別のものだった。顔の作りは似ていても、目の奥にあるものが違う。
竜之助は台所を出て、今度はテーブルに戻った。
「帰れ。」
大樹が後を追ってきた。
「帰れというのか。俺が死んでもいいのか。」
「俺には助ける手段がない。」
「この部屋がある。親父名義の部屋がある。これを担保に入れれば金は借りられる。俺が返す。それだけだ。」
竜之助は足を止めた。担保。その言葉が頭の中で一度静かに落ちた。振り向かずに言った。
「ここを担保に入れたら、俺はどこへ行く。」
「一時的なことだ。返したらまた取り戻せる。」
「返せなかったら。」
「返さないよ、返して見せる。」
「返せなかったら、俺はどこへ行くと聞いている。」
大樹は少しの間黙った。その沈黙が答えだった。
竜之助はテーブルの前に立った。息子の書類がまだそこにある。細かい文字が並んでいる。どこかに連帯保証人という文字が見える。印鑑を押せば、この部屋が他人の手に渡る道が開く。そのことを大樹は分かった上で来ている。
「72になった親父が、この先どれだけ生きると思ってるんだ。それだけの年数、この部屋が必要か。」
大樹の声が変わった。やや低くなり、言い聞かせるような口調になった。
「俺が立て直せれば、ちゃんとした場所を用意する。今はそれしかないんだ。親父に俺を見殺しにしろというのか。」
竜之助は息子の言葉を聞きながら、自分の体を感じていた。ジャンパーを脱いだ下の作業着がまだ冷凍倉庫の冷気を帯びていた。夜通し歩き回った足が重かった。胸の奥にさっきの咳の残りがまだある。
見殺し。その言葉は刺さるように来た。だが、刺さると同時に竜之助はその言葉の構造を見ていた。見殺しにするのは、息子を危機に追い込んだ人間だ。竜之助ではない。だが、今この部屋ではその構造は意味を持たない。息子は竜之助を唯一の出口として立っている。
「お前の借金は俺が作ったのではない。」竜之助は静かに言った。
「分かってる。だから保証人だけ頼んでいるんだ。」
「その会社が取り立てに来た時、俺に何かできるか。」
「来ない。」
「お前がそれを保証できるか。」
大樹は答えなかった。竜之助が答えを出そうとした時、大樹が動いた。素早い動きだった。テーブルの上の竜之助の鍵束を、大樹が手でさっと引き寄せた。竜之助が反応するより早く、大樹は鍵束をジャケットのポケットに押し込んでいた。
「何をしている。」竜之助の声が低くなった。
「この中に金庫の鍵が入ってる。印鑑と通帳はそこにある。それだけもらっていく。」
「返せ。」
「返さない。」
大樹はまっすぐ竜之助を見た。感情のない目だった。
「俺が死んだら親父の後悔になる。そうなる前にやってる。」
竜之助はテーブルに手をついた。体が揺れた。胸から咳が来そうで、それを堪えるために力を使った。息子はその様子を見ていた。見ていて動かなかった。
「金庫を開ける気か。」
「もう開けた。3時間ここで待ってた。」
竜之助は押入れの方を見た。押入れの下の段の奥に小型の金庫を置いていた。扉が少し開いている。中に入っていたのは年金手帳と印鑑、それから封筒に入れた緊急用の現金だった。大樹はジャケットの内ポケットを叩いた。
「全部入ってる。」
竜之助は長い時間、押入れの開いた金庫を見ていた。何も言えなかった。言葉を探したが見つからなかった。大樹はボストンバッグを持ち上げ、玄関の方へ向かいながら言った。
「数日したら連絡する。それまで少し待ってくれ。」
「待てというのか。」竜之助がようやく声を出した。「お前は今、俺から何を盗んだか分かっているのか。」
大樹は玄関で靴を履きながら振り向かなかった。
「盗んだんじゃない。借りてる。」
「印鑑を持っていったら、お前は俺の名前で何でもできる。」
「分かってる。」
「分かっていてやっているのか。」
大樹はドアを開けた。廊下の光が差し込んだ。息子の輪郭が逆光になった。振り向いた顔には謝罪も後悔も見えなかった。見えたのは、もうここには返す言葉がないという疲れ果てた表情だった。ドアが閉まった。
竜之助は部屋の中に一人残った。薬缶は火の上で冷えていた。テーブルには息子が置いていった書類だけが残っていた。しばらくの間、竜之助は動かなかった。部屋は静かだった。窓の下の細い路地から車の音が遠く聞こえる。朝の光が古いカーテンの隙間から入ってくる。
竜之助は椅子に腰を下ろし、両手を膝の上に置いた。体が重かった。夜中の倉庫の仕事が体の中にまだ残っていた。そこに、さっきのことが積み重なっていた。年金手帳がなければ来月の年金が降りない。印鑑がなければ何の手続きもできない。封筒の現金は今月の薬代のために取っておいたものだった。前回処方された吸入薬も咳止め薬も、どちらも切れかけていた。
竜之助は開いたままの金庫の方を向いた。空の金庫が、部屋の薄暗がりの中でぽっかりと口を開けていた。息子はいつからこうなったのかと思った。しかしすぐに、そういう問いは意味がないと気づいた。いつからではなく、今こうなのだ。45歳の男が72歳の父親の金庫を開けて印鑑を持っていった。それが今日起きたことだ。
かつて竜之助はこの仕事を恥ずかしいと思ったことがなかった。ゴミを集める仕事は、誰かがやらなければならない仕事だ。町を走るゴミ収集車の後ろに立ち、路地から路地へ回り続けた。夏は汗と排気の中で、冬は手がかじかみながら。それで息子を学校に通わせた。私立ではなく市立だったが、ちゃんと卒業させた。就職もした。結婚もした。それが今日、こういう形で戻ってきた。
竜之助は深く息を吸った。ノドの奥で何かが詰まる感触があった。咳になりそうなのを堪えた。今は咳をしていられなかった。テーブルの上の書類をゆっくり引き寄せた。連帯保証人の欄の下に借入金額が書いてある。150万円。返済期間は記載がない。金利の欄には数字があるが、計算する気になれなかった。
竜之助は書類をテーブルの隅に押しやった。窓の外で鳥が鳴いた。朝が来ている。昨夜から続いた時間がどこかで区切りを迎えようとしていた。しかし竜之助には、その区切りがどこにあるのか分からなかった。息子が持っていった印鑑は、今日どこかへ運ばれ、どこかで使われるかもしれない。それを止める手段が、竜之助には今のところ何もなかった。
椅子に座ったまま竜之助は天井を見上げた。シミが一つある。妻が生きていた頃からあるシミだ。雨漏りの跡だった。修繕費が出せず、シミだけが残った。こういうものだ、と竜之助は思った。修繕できないまま残るものが、人間の人生には多すぎる。
3日後の昼過ぎ、竜之助が倉庫の夜勤から戻って布団に横になっていると、玄関のドアが音を立てた。鍵を持っていない。そう思った瞬間、鍵の差し込まれる音がした。竜之助はゆっくり起き上がった。大樹がキャリーケースを引きずりながら入ってきた。黒いキャリーケースが2つ。それから肩に大きなバッグをかけていた。右手には竜之助が知らないスペアキーを持っていた。
「合鍵を作ったのか。」竜之助は立ち上がりながら言った。
「管理会社に頼んだら、緊急連絡先が息子だって言ったらすぐ対応してくれた。」
大樹はケースを部屋の隅に押しやり、肩のバッグをテーブルに下ろした。それだけのことをやり終えてから、初めて部屋を見渡した。自分の居場所を確認するような目つきだ。
「ここで何をする気だ。」
「しばらく世話になる。年老いた親の面倒を見る。それの何が悪い。」
大樹は窓を開けた。カーテンを左右に引いた。まるで自分の部屋であるかのように。竜之助は息子の背中を見ていた。5年間会っていなかった男が、今ここに荷物を広げようとしている。面倒を見るという言葉の意味を竜之助は考えた。面倒を見られるのは竜之助ではない。この部屋が必要なのだ。場所が必要なのだ。
「出ていけ。」竜之助は静かに言った。
「嫌だ。」大樹は振り向かずに答えた。「ここは親父の部屋だ。今俺が管理している。文句があるなら警察でも呼べばいい。息子が親の面倒を見に来た。それだけのことだ。どの警官も追い出せない。」
その言葉は正確だった。竜之助にはそれが分かった。法的な意味で大樹は間違っていない。同居する家族を追い出す手続きは、それだけで何ヶ月もかかる。そしてその間、竜之助には弁護士を雇う金もない。竜之助は椅子に腰を下ろした。大樹が荷物を解いていく音を、黙って聞いていた。
その日の夕方、大樹はテーブルに年金手帳と印鑑を並べた。竜之助が3日間ずっと取り返そうとしていたものがそこにあった。竜之助は立ち上がった。
「返せ。」
「返さない。俺が管理する。」
大樹はテーブルに両肘をついた。
「親父、正直に話す。俺は今でも借金取りに追われている。もう一度金が必要だ。親父の年金を担保に使う。それだけだ。」
「俺の年金は月に6万しかない。」
「知ってる。でもそれで回せる。」
「6万から家賃を引いたら、残りは2万もない。食費も薬代も出ない。」
「薬は後回しでいい。食事は俺が何とかする。親父は仕事だけしていれば、俺がやりくりする。」
竜之助はポケットへしまわれた手帳を見送った。あの中に40年間の年金記録が入っている。自分が何年かけて積み立ててきたかが刻まれている。それが今、息子のポケットの中にある。
「やりくりとはどういう意味だ。」竜之助は言った。
「生活費を管理するということだ。無駄遣いをなくす。」
「俺は何も無駄遣いをしていない。」
「親父の判断は信用できない。老人は詐欺師に狙われる。俺が管理した方が安全だ。」
大樹の言い方は滑らかだった。怒鳴るわけでもなく、謝るわけでもなく、ただ整理された言葉を並べた。それが却って竜之助には不気味に感じられた。こういう言い方をする人間は、もう何かを決めてしまっている人間だ。
「俺が自分の通帳を管理できないというのか。」
「そういうことだ。」大樹はためらわずに言った。
竜之助は息子の目を見た。目の腫れはほぼ引いていた。頬の痣も薄くなっていた。体は回復している。しかし目の奥にあるものは3日前と変わっていなかった。何かに追われているものの目。それは消えていなかった。
夕食は大樹がコンビニで買ってきた弁当だった。一つだけ。大樹自身の分だ。竜之助の分はなかった。
「俺の分は冷蔵庫に昨日の残りがあるだろう。」大樹は弁当の蓋を開けながら言った。
冷蔵庫には竜之助が3日前に買った豆腐の残りと安売りの卵が3個あった。それが竜之助の夕食になった。卵を1個炒め、豆腐に醤油をかけた。醤油は残り少なかったが、補充する余裕があるかどうか分からなかった。
テーブルは一つだった。大樹は竜之助の正面に座り、スマートフォンを操作しながら弁当を食べた。画面に何が映っているのか、竜之助からは見えなかった。二人の間に言葉はなかった。食事が終わると大樹は弁当の容器をそのままテーブルに置き、ソファへ移動した。竜之助が10年使ってきた二人掛けのソファに、大樹は寝転がった。スマートフォンの画面を天井に向けて操作し続けた。
竜之助は台所で食器を洗った。シンクに湯を張って卵の皿を洗いながら、この部屋が変わったことを感じていた。空気が変わった。重心が変わった。30年近く一人が使ってきた場所に、別の人間の存在が入り込んでいる。それは物理的な圧迫感として体に伝わってきた。
「親父、明かりを落とせ。眩しい。」
ソファから大樹の声がした。竜之助は台所の照明を見た。蛍光灯一本。これを消したら台所が暗くなる。
「まだ皿を洗ってた。もう少しかかる。」
「早くしろ。」
竜之助は残りの皿を急いで洗い、照明を消した。部屋はソファの辺りだけが大樹のスマートフォンの光で薄く明るく、後は暗かった。竜之助は布団を引き出し、畳に横になった。天井を見上げるとシミがある。いつものシミだ。今日はそのシミが嫌に目についた。
翌朝、竜之助が目を覚ますと大樹はすでに起きていた。スーツに着替え、玄関口でスマートフォンに向かって低い声で話していた。竜之助が耳を澄ますと、数字が聞こえてきた。「10万」「50万」「月末」という言葉が断片的に入ってきた。竜之助は布団の中で動かなかった。聞くつもりはなかったが、部屋が狭いために聞こえてしまう。大樹の声は最初低く、途中で少し高くなり、また低くなった。誰かに何かを説明しているような声だった。頼み込んでいるのか、条件を交渉しているのかは分からなかった。
十分ほどして電話が終わった。大樹は台所へ行き、竜之助の買ってあったインスタントコーヒーを使いを明けて自分のカップに注いだ。竜之助の分は作らなかった。
「今日は出かけるのか。」竜之助は布団から起き上がりながら言った。
「ああ。」
「いつ戻る。」
「分からない。飯は自分で何とかしろ。冷蔵庫のものを使っていい。」
竜之助は言いたいことがあったが、大樹はすでにジャケットを手に取っていた。出ていく気配が出ていた。言葉をぶつけるタイミングを失った。
「財布を返せ。薬が切れている。」
「何の薬だ。」
「吸入薬と咳止め薬だ。以前から処方されている。」
「いくらかかる。」
「吸入薬は3000円ほど。咳止め薬は1000円ほどだ。」
大樹はポケットから1000円札を1枚取り出し、テーブルに置いた。
「これで我慢しろ。」
「吸入薬だけで3000円かかる。」
「今日はそれしかない。次の年金が入ったら考える。」
大樹はドアを開けた。ドアが閉まった。テーブルに1000円札が残った。竜之助はそれを手に取り、しばらく見ていた。薄汚れた1000円札だった。吸入薬がなければ、夜の倉庫仕事で発作が来た時に対処できない。しかし3000円は今の竜之助には出せない。1000円でできることを考えた。咳止め薬の一番安いものを薬局で探す。吸入薬の代わりに何とかなるものがあるか考える。何ともならないことも分かっていたが、考えること以外にできることがなかった。
その夜の夜勤から竜之助が戻ったのは翌朝7時過ぎだった。駅から歩いて帰る途中、体が重かった。薬なしで夜を過ごした。胸がいつもより締め付けられる感じがした。ゆっくり歩いた。アパートの外廊下に出た時、隣の部屋の住人とすれ違った。60代の女性で、長年ここに住んでいる。彼女はいつも朝早く仕事に出かける。
「昨日、業者の人が来ていましたよ。」彼女は行き過ぎながら言った。「大きなものを運び出していた。息子さんでしょうか。一緒にいました。」
竜之助は礼を言い、部屋のドアを開けた。最初に気づいたのは、テレビがないことだった。テレビ台だけが残り、その上に何もなかった。次に台所を見た。電子レンジがなかった。シンクの横に置いていたはずの場所に、コンセントだけが残っている。竜之助は部屋の中を確認した。洗濯機は廊下側の窓の下に置いていた。そこへ行くと、排水ホースだけが床に伸びていた。洗濯機本体はなくなっていた。
3つ。テレビ、電子レンジ、洗濯機。全部なくなっていた。
竜之助は椅子に座った。空になったテレビ台を見た。あのテレビは、妻が元気だった頃に二人で選んで買ったものだった。15年以上使っていた。画質は今の基準では荒かったが、壊れていなかった。部屋の中に大樹の姿はなかった。荷物はまだあった。キャリーケースが2つ、壁際に置かれたままだ。出ていったわけではない。
竜之助はしばらく動かなかった。動き方が分からなかったというより、動いて何かが変わるとは思えなかった。電話をかけることも考えたが、印鑑を返せという話が先にある。電話をかけて大樹に怒鳴られるだけになるかもしれない。それよりも先に現実的な問題があった。洗濯機がなければ作業着を洗えない。コインランドリーを使うとすれば1回300円から400円かかる。週に2回は洗わなければならない。夜勤の仕事に、これからどうするのか。
昼過ぎに大樹が戻ってきた。
「何をした。」竜之助は立ち上がった。
「売った。2万円になった。」大樹はジャケットを壁のフックにかけながら振り向かなかった。
「俺に断りもなく。親父のものじゃない。この部屋のものだ。」
「この部屋は俺が管理している。」
「ここは俺の部屋だと言った。法的にはそうだ。でも俺が管理している。売ったものは売った。帰ってこない。」
大樹はソファに座り、足を組んだ。落ち着いた顔をしていた。疲れているのかもしれなかったが、それを見せない顔をしていた。
「洗濯機がなければ仕事着が洗えない。テレビがなければ夜の時間が何もなくなる。レンジがなければ温め直しができない。お前は俺の生活を壊している。」
「壊してない。不要なものを整理した。」
「誰にとって不要だ。」
「この状況でそういう贅沢は言えない。俺は今、生きるか死ぬかのところにいる。」
竜之助は息を吐いた。生きるか死ぬかという言葉を、大樹は何度か使った。最初に来た日もそうだった。その言葉が出るたびに、竜之助は判断を迫られる。信じれば飲み込まれる。信じなければ鬼になる。
「その2万円はどこへ行った。」
「借金の返済に当てた。」
「全部か。」
「全部だ。」
「来月の家賃は出るか。」
大樹は少し間を置いた。
「何とかする。」
「何とかするとはどういう意味だ。」
「親父の年金が入る。それで払う。」
竜之助は止まった。6万円の年金から家賃を払えば、残りは1万5000円前後だ。食費も薬代も光熱費も、その中に収めなければならない。それで大樹が言う。「やりくり」になる。
「俺の薬代は後回しか。」
「仕事があるなら死物語っていろ。飯はコンビニで何か買ってくる。それで我慢しろ。親父は仕事から帰って寝るだけでいい。俺に任せておけ。」
任せるとはどういう意味か。任せた結果が今日の状態だ。竜之助はそれを言いたかったが、言葉が出てこなかった。怒鳴り合いになれば体力を使う。体力は今夜の夜勤のために必要だった。
竜之助は台所へ行き、薬缶に水を入れた。コーヒーもなくなっていた。インスタントコーヒーの瓶が空になっていた。昨日大樹が使った残りだろう。お湯を沸かし、湯のみに注いでそのまま飲んだ。お茶もなかった。ただの湯だった。
その夜の夜勤が始まる前、竜之助は荷物をまとめて出かける準備をした。作業着を切り替える。靴下を履く。黄ばんだジャンパーを取る。そのジャンパーに昨日の汗の匂いが残っていた。洗濯機がなくなってから、夜ごとに来る匂いだ。
倉庫までの道を歩きながら、竜之助は頭の中を整理しようとした。今の状況を並べてみた。年金手帳と印鑑は大樹が持っている。合鍵が大樹にある。テレビ、電子レンジ、洗濯機が売られた。薬が切れている。吸入薬がない状態で夜勤をしている。どれ一つとして、自分の力で解決できるものがなかった。
区役所に相談することを考えた。しかし3日前にはっきりと断られた。息子が同居しており、不動産がある。保護の対象にならない。その言葉は正確だった。今日改めて言っても、状況は変わっていない。むしろ家財道具が減った分、審査はもっと難しくなるかもしれない。
警察という選択肢もあった。しかし何を訴えるのか。息子が同居している。息子が家財を売った。それは法律的にどちらに問題があるのか、竜之助には分からなかった。弁護士に聞けば分かるかもしれないが、弁護士に相談するにも金がかかる。
倉庫の入り口で夜勤の担当者と引き継ぎをした。相手は30代の若い男で、竜之助が黙っている時に気にする様子もなく、鍵を渡して帰って行った。竜之助は懐中電灯を手に第三区画へ向かった。零下の空気が来た。今夜は特に冷える気がした。いや、気温は変わっていないかもしれない。体の方が変わっているのかもしれなかった。吸入薬なしで過ごしてから3日目だった。胸の奥に何かが詰まっているような感触がずっとある。
棚を確認しながら歩く時、竜之助は自分が40年間やってきた仕事のことを考えた。ゴミ収集の仕事は汚く見られることが多かった。自分でも若い頃はもっと違う仕事をしたいと思ったことがある。しかし家族があり、生活があり、続けていくうちにそれが自分の仕事になっていった。誇りという言葉を使えるほど大げさなものではなかった。ただ続けてきたというだけのことだ。その続けてきた時間が今どこにあるのかが分からなかった。年金手帳の中の記録は息子が持っている。作業着は汚れたまま洗えていない。薬はない。部屋は息子のものになりつつある。
棚の橋で竜之助は止まった。胸から波が来た。小さな咳が始まり、大きくなろうとするのを堪えた。冷気の中で咳をすると、次が来るまでの感覚が短くなる。口元に作業手袋を当て、息をゆっくり吐いた。収まった。今夜はこれで済んだ。竜之助は帳面に数値を書き込んだ。数字は変わらない。今夜も昨夜も温度は同じだ。ここにある荷物は外の事情を知らない。それがいくらか竜之助には楽だった。
倉庫の夜勤を終えて外に出ると、朝の光の中に薄い霧が漂っていた。竜之助は駅に向かう前に一つ寄り道をすることにした。区役所の福祉窓口は9時に開く。まだ30分あったが、待ってでも行く気になっていた。3日前に断られたことは分かっている。しかし今回は状況が違う。息子が家財を売ったことを話す必要がある。
区役所の待合いに並んだ時、竜之助の前には4人がいた。車椅子の老人、若い母親と子供、背中を丸めた中年の男。それぞれがそれぞれの事情を持ってここに来ている。番号を呼ばれ、窓口へ向かった。担当は若い女性だった。3日前とは違う人間だった。竜之助は状況を説明した。息子が押しかけてきたこと、通帳と印鑑が手元にないこと、家電が無断で売られたこと。担当者は丁寧に話を聞いた。途中でメモを取った。竜之助が話を終えると、少し待って席を外した。5分ほどして戻ってきた担当者は、別の書類を手に持っていた。
「ご状況は受け承りました。ただ、現在の制度では同居の親族がいる場合、まず家族間での解決を求めることになっています。息子さんとの間に財産上のトラブルがあるとすれば、それは民事の問題になりますので、法テラスへご相談されることをお勧めします。」
法テラスとは、法的な相談を無料で受けられる機関だ。ただし予約が必要で、最短でも2週間後になる。2週間。竜之助はその数字を頭の中で繰り返した。2週間の間に何が起きるか想像したくなかった。
「今すぐ使える制度はないのか。」
担当者は申し訳なさそうな顔をした。しかしその顔の後ろに、これ以上の話は難しいという意思があるのが見えた。
「現状では、緊急の生活保護申請が通るには収入と資産が一定以下であること、身内からのサポートが見込めないことが条件になります。今のところ、息子さんという身内の方がいらっしゃる。」
「その身内が俺から金を奪っている。」
担当者は少し黙った。
「それが証明できる書類があれば、判断が変わるかもしれません。ただ、書類の準備には時間がかかります。今すぐには…」
竜之助は立ち上がった。頭を下げた。礼儀として頭を下げた。そして区役所を出た。外の空気は冷たかった。薄い霧がまだ残っていた。竜之助は歩き始めた。足が重かった。夜通し仕事をしたからだ。でも今、また一つ重さを加えた。
アパートに戻ったのは昼前だった。玄関のドアを開けると、部屋の中からタバコの匂いがした。竜之助はタバコを吸わない。妻が喘息だったため、この部屋では一度も吸ったことがなかった。大樹がソファに座り、窓を少し開けてタバコを吸っていた。灰皿はなく、空き缶の蓋を代わりにしていた。
「タバコは禁止だ。俺は肺が悪い。」竜之助は言った。
「窓開けてる。」
「すぐ消せ。」
「うるさい。」大樹は短くそう言い、またタバコを口に運んだ。
竜之助は窓を大きく開けようとした。大樹が窓を抑えた。
「寒くなる。」
「タバコを消せ。」
「もうすぐ終わる。少し待て。」
二人は窓の前で止まった。大樹の手が窓枠を掴んでいる。竜之助がもう一方の手で窓を引いている。力では竜之助は勝てない。それは最初から分かっていた。竜之助は手を離した。大樹はタバコを数回吸い、空き缶の蓋に押し付けて消した。窓を少し閉めた。部屋にタバコの匂いが残った。
竜之助は台所へ行き、湯を沸かした。昨日も今日も食べていない。区役所へ行く前に何か食べるべきだったが、財布に残っているのは500円玉1枚だった。それを使うべきかどうか判断できなかった。
「区役所へ行ってきた。」竜之助は薬缶を見ながら言った。ソファから返事はなかった。「俺の状況は保護の対象にならないと言われた。息子がいるからという理由だ。お前がいることで、俺は制度の外に出された。」
しばらくしてから大樹の声がした。
「それがどうした。」
竜之助は振り向いた。大樹はスマートフォンを操作したまま視線をこちらへ向けなかった。
「それがどうしたとはどういうことだ。」
「俺がここにいることで親父が制度を使えないというなら、俺がここにいる間は俺が責任を持つということだ。だから問題ない。」
「責任を持つとはどういう意味だ。今日の食事は何だ。薬はどこから出る。洗濯はどうする。」
大樹はスマートフォンを置き、初めて竜之助の方を向いた。顔に何かがあった。怒りでも謝罪でもなく、計算のようなものだった。
「親父、今月中に状況が変わる。俺に話が来ている。それが動けば金が入る。それまでの辛抱だ。」
「今月中とは何日先だ。」
「2週間ほどだ。」
「2週間、薬なしで生活しろということか。」
「仕事をしながら乗り越えろということだ。」
竜之助は薬缶の音を聞いた。湯が湧いてきた。コップに注いだ。それを両手で持ち、少し飲んだ。喉が乾いていた。それだけは湯で解決できた。
その夜勤の前に2時間だけ横になった。眠れなかった。天井のシミを見ていた。40年間、このシミより長く生きてきた。このシミは雨漏りでできた。壁が染みた。修繕できなかった。それでも暮らしてきた。息子のことを考えた。大樹が幼かった頃のことを、今日また思い出した。7歳の頃、大樹は水族館へ行きたいと言った。竜之助は休みの日に連れて行った。大樹は水槽のガラスに顔をくっつけて魚を見ていた。帰り道に肩車をした。小さな体だったが、肩の上で手を広げてバランスを取ろうとしていた。その感触を覚えている。あの子供が今日、タバコを吸いながら窓を抑えた。
竜之助は目を閉じた。この部屋で自分はあとどれくらい生きるのかという問いが来た。72歳の体に、吸入薬なしの夜が続いている。仕事は続けている。しかしいつまで続けられるか、体に聞いても分からない。大樹は2週間と言った。2週間後に状況が変わると言った。その言葉を信じるべきかどうか、竜之助には判断がつかなかった。信じてきた言葉がこれまでいくつあって、いくつが外れたかを数えれば、信じない方が正しいかもしれない。しかし信じなければ、今夜どうするのかという問題は何も変わらない。信じても信じなくても、今夜竜之助は倉庫へ行く。明日も行く。体が動く間は行く。それしかない。
竜之助は目を開けた。天井のシミがある。この先がどうなるかはまだ分からなかった。ただ今日一日が過ぎた。それだけは確かだった。
その朝、竜之助は夜勤明けの足で区役所へ向かった。倉庫から出た足で駅を二つ乗り過ごし、福祉の窓口へ並んだ。体が重かった。作業着のまま来たことが待合室の中で少し目立った。隣に座った老人が一度こちらを見て、それから視線を外した。番号を呼ばれ、窓口の椅子に腰を下ろした。今日の担当は40代の男性だった。前回とも先々回とも違う人間だ。竜之助は最初から話した。息子が同居していること、通帳と印鑑を奪われていること、家財道具が無断で売られたこと、薬が切れていること。担当者は竜之助の話を聞きながら端末に何かを入力した。顔は画面の方を向いていた。竜之助が話を終えると、担当者はキーボードから手を離し、一枚の書類を取り出した。
「ご状況は理解いたしました。ただ、現状では黒川さんには成人した息子さんがいらっしゃいます。同居されている。資産として登録されているお部屋もある。これらの条件が揃っている以上、生活保護の申請を受理することが制度上難しい状況です。」
「息子が俺の年金を管理している。俺の手元に金がこない。」
「それが事実であれば、民事上の問題になります。地域の法律相談窓口をご案内できます。」
担当者は引き出しから一枚のチラシを出し、竜之助の方へ滑らせた。
「法テラスという機関がございまして、無料で弁護士に相談できます。予約が必要ですが…」
「前回も同じことを言われた。予約は2週間待ちだと。」
「状況によっては早まる場合もございます。」
竜之助はチラシを見た。電話番号が大きく印刷されている。その下に相談時間と予約方法が書いてある。このチラシを持って帰っても、電話をかけても結果が出るまでに時間がかかる。その間にも月の支出は続く。薬は切れたままだ。
「今すぐ使える制度はないか。緊急の医療費の補助など。」
担当者はまた端末を見た。
「緊急小口資金という制度はございますが、申請から審査まで時間がかかります。また、今の状況では息子さんが扶養義務者として審査に影響が出る可能性があります。」
扶養義務者。その言葉が頭の中で引っかかった。大樹がいることで、竜之助は支援の対象から外れる。大樹がいることで、竜之助は追い詰められている。その二つが同時に成立している。竜之助は立ち上がった。チラシを受け取り、頭を下げた。
「分かりました。」
区役所の自動ドアを抜けると、外は風が出ていた。手の中のチラシが風に揺れた。竜之助はそれをジャンパーのポケットに押し込んだ。アパートの外廊下に差しかかった時、竜之助は足を止めた。部屋のドアの前に男が3人立っていた。全員スーツだった。黒いスーツ。首元まで詰まったような印象で、一人は首筋に入れ墨が見えていた。3人ともこちらを向いた。竜之助が近づくと、真ん中の男が一歩前へ出た。
「黒川さんですか。」声は低く丁寧な言葉遣いだったが、余分がなかった。
「そうだ。」
「少しよろしいですか。息子さんのことで。」
竜之助はドアを開けようとした。鍵を差し込んだ瞬間、中から音がした。鍵はかかっていない。大樹がいるのか、それとも大樹が出ていく時に鍵を締め忘れたのか。ドアを押すと開いた。部屋の中に大樹がいた。ソファに座っていた。顔が青白かった。3人の男たちがドアの外に立っていることを知っていたのかもしれない。それとも今初めて気づいたのか。大樹の目が入り口の方を向き、3人を確認した。表情が一瞬固まった。
真ん中の男が部屋に入ってきた。後の2人も続いた。誰も許可を求めなかった。
「大樹さん、お話の続きをしましょう。」
大樹は立ち上がろうとしたが、男の一人が手を肩に置いた。大樹はまた座った。竜之助は玄関口に立ったまま動かなかった。真ん中の男はテーブルの橋に腰を下ろした。座るというより、乗り上げるような姿勢だった。残りの2人は部屋の両側に立った。
「先週約束した分が入っていませんでした。大樹さん。」
「もう少し待ってほしい。話が動いている。」
「毎回そう言っている。もう4回目です。」
男はテーブルの上に書類を置いた。
「今日は別の話をしに来ました。」
男は竜之助を見た。
「息子さんの借金は、今元本と利息合わせて1500万を超えています。大樹さんには返済できる見込みがない。そこで、お父さんに相談させていただきたい。」
竜之助は男を見た。年齢は50前後だろうか。顔に表情がなかった。疲れているのか、元々そういう顔なのか。判別がつかなかった。
「俺には関係のない話だ。」竜之助は言った。
「そうは行きません。」
男は書類を竜之助の方へ向けた。
「このご自宅を売却していただければ、うちが仲介して相場価格で買い取ります。売却代金のうち1000万をいただければ、大樹さんの借金はそれで終わりにします。残りはお返しします。」
竜之助は書類を手に取らなかった。
「ここを売ったら、俺はどこへ行く。」
「それはご自分でお考えください。」
「俺に売る理由はない。」
男は少し首を傾けた。
「理由はあります。息子さんの借金は、連帯保証人なしでは回収できません。しかし、息子さんの家族、つまりお父さんには扶養義務があります。法的に直接請求はできませんが、我々にはいくつかの方法があります。」
言葉は丁寧なままだった。しかしいくつかの方法という部分の言い方が、他と少し違った。大樹がソファの上で身を縮めていた。頭を下げているわけではなかったが、体が小さくなっていた。竜之助はそちらを見た。大樹は視線を外した。
「息子の借金を俺が払う義務はない。」竜之助はもう一度言った。今度は男ではなく、大樹に向かって言った。大樹は答えなかった。
男はテーブルから書類を取り、自分のポケットへ入れた。
「今日は初回です。ゆっくり考えていただいて構いません。また来ます。」
立ち上がり、他の2人に目配せをした。3人は玄関へ向かい、靴を履いて出ていった。ドアが静かに閉まった。部屋に竜之助と大樹だけが残った。しばらく二人とも何も言わなかった。大樹はソファに座ったまま床を見ていた。竜之助は玄関口から動かなかった。ジャンパーも脱いでいなかった。
「1500万か。」竜之助が先に口を開いた。大樹は返事をしなかった。
「あの男たちは何者だ。」
「金融業者だ。」
「闇金か。」
「グレーだ。」大樹はやっと口を開いた。声が低かった。「法的にはギリギリ問題ない。そういう会社だ。」
「1500万を、お前はどうやって作った。」
「何度も借金をした。返すために借りた。そのうちに膨らんだ。」
竜之助はジャンパーを脱ぎ、椅子にかけた。椅子に腰を下ろした。膝に手を置いた。体が疲れていた。夜通し働いて、そのまま区役所へ行き、今ここにいる。あの男たちが言った。いくつかの方法とは何だ。大樹は答えなかった。
「俺に危害が及ぶ可能性があるか。」
大樹はようやく顔を上げた。
「分からない。」
「分からないのか。」
「あいつらは直接は出さない。でも嫌がらせはする。近所に噂を流すとか、郵便受けに何かを入れるとか。そういうことはする。」
竜之助は天井を見た。
「俺の年金が月6万で、お前の借金が1500万だ。俺が100年生きても返せない計算になる。」
「分かってる。」大樹の声が小さくなった。
「それでお前は、俺にここを売らせようとしていた。」
「違う。」大樹は首を横に振った。「俺は親父に保証人になって欲しかっただけだ。最初からそれだけだった。家を売れとは俺は言っていない。」
「しかしあの男たちは家を売れと言った。」
大樹はまた黙った。竜之助はしばらく息子の横顔を見ていた。この45歳の男の顔に、今日初めて別のものが見えた。怒りでも開き直りでもなく、行き詰まったものが持つ疲労だった。それは竜之助自身が鏡を見た時に感じるものと形が似ていた。しかし同じ立場と状況は別のことだ。竜之助は自分にそう言い聞かせた。
「お前はこれからどうするつもりだ。」竜之助は聞いた。
「分からない。」大樹はソファの背に預けた。天井を見た。
「分からないのか。」
「本当に分からない。もう全部、積んでる気がする。仕事もない。金もない。家族もいない。借金だけある。」
竜之助は息子の言葉を聞いた。これが本当のことであれば、大樹は今本当に追い詰められている。しかし竜之助には、これが本当かどうかを確かめる方法がなかった。大樹はこれまでも言葉で人を動かしてきた。今の言葉もその延長かもしれない。
「仕事を探したか。」
「ハローワークには3回行った。俺の年齢と経歴で雇う会社はない。」
「やってみなければ分からない。」
「親父には分からない。45で会社が潰れた人間を、どこが雇うか。」
大樹の声に少しトゲが混じった。
「親父は40年同じ仕事通してきた。転職というものを知らない。」
竜之助は反論しなかった。それは事実だからだ。竜之助は清掃局の仕事を辞めたことがない。会社が潰れた経験もない。45歳で履歴書を持って面接に行く経験もない。大樹の言葉はそこだけは正確だった。しかし正確であることと、だから仕方がないということは別のことだ。
「それでも俺には、ここを売る気はない。」竜之助は言った。
「分かった。」
その返事が簡単すぎた。竜之助には何かが引っかかった。しかし追い打ちをかける気にもなれなかった。体が疲れていた。今夜もまた夜勤がある。
3日後、竜之助が郵便受けを開けると封筒が一通入っていた。差出人の名前がなかった。切手だけがあった。封を切ると中に一枚の紙が入っていた。手書きではなかった。プリンターで印刷した文字だった。内容は短かった。「黒川さん、息子さんの借金のことはご存知ですか。詳しいことはこちらまで。」電話番号が一つ書いてあった。竜之助は紙を丸めてポケットに入れた。廊下で隣の女性と目があった。女性は会釈をして自分の部屋へ入っていった。
部屋に戻ると大樹はいなかった。最近は昼間に出かけることが増えていた。どこへ行っているかは言わなかった。竜之助も聞かなかった。聞いて帰ってくる答えが、また別の問題を呼び込む可能性があった。竜之助はポケットから紙を取り出し、テーブルに置いた。電話番号を見た。かけるつもりはなかった。この手紙があの男たちから来たものかどうか、あるいは別の誰かから来たものかも分からなかった。ただ、こういうものが来るようになったということは、大樹が言っていた嫌がらせが始まったということだ。竜之助は紙をテーブルの引き出しにしまった。証拠として取っておく気持ちが少しあった。何かの役に立つかどうかは分からなかったが、捨てるよりはマシだと思った。
夕方、仕事へ出かける前に1階の管理人室の前を通った。管理人の老人が廊下の掃除をしていた。70代後半の男で、この建物に10年以上いる。竜之助とは何度か言葉を交わしたことがある。
「最近、息子さんがいらっしゃるようですね。」管理人は箒を動かしながら言った。
「ええ、少しの間。」
「さようで。届け出をお願いできますか。入居者以外の方が常時いる場合は、規約上届け出が必要でして。」
竜之助は止まった。合鍵を作ったのは息子の方で、私は聞いていなかった。管理人は箒を止めた。
「そうでしたか。少し間を置いた。もし何か困ったことがあれば、管理会社の方へ連絡していただければ。ただ、家族の問題については我々には手が出せないのですが。」
「分かっています。」
「最近お顔の色が悪いように見えます。お体は大丈夫ですか。」
竜之助は少し考えた。
「大丈夫です。」それが正確な答えかどうかは自分でも分からなかった。しかし他に言える言葉がなかった。管理人は会釈をしてまた箒を動かし始めた。竜之助は建物を出た。
その夜の倉庫はいつもより気温が低かった。温度計の数値を見ると、外気温が平年より3度低いと書いてある。倉庫の中は変わらないが、道中の冷気が体に入り込んでいた。竜之助は懐中電灯を持って第3区画を確認し始めた。最初の2列は問題なかった。3列目に入った時、胸の奥から波が来た。今日の波は違った。いつもは小さく始まる。今日は最初から大きかった。喉の奥が急に閉まるような感触があり、息を吸ってもうまく入ってこなかった。竜之助は棚に手をついた。懐中電灯が床に落ちた。光が転がり、壁を照らした。息が白い。冷気の中で発作が来ると、こういうことになる。吸入薬があれば5秒で収まる。しかしそれが今、手元にない。竜之助はゆっくり口を開けて息を吐き出した。吐き出してからゆっくり吸い込む。ゆっくり。急いではいけない。急ぐと余計に閉まる。それは40年で覚えたことだった。2分ほどかかった。波が少し引いた。完全には収まっていなかったが、歩けるくらいにはなった。竜之助は床の懐中電灯を拾い上げた。手が少し震えていた。棚の残りを確認し、帳面に記録をつけた。数字を書く手が止まった。いつもより時間がかかった。
休憩室に戻り椅子に座った。自動販売機の前に温かいお茶が一本あった。120円。竜之助はズボンのポケットを探った。小銭入れに100円玉が2枚あった。120円出すと残りは80円になる。しかし今は飲まないといけないと思った。お茶を飲みながら、手の震えが止まるのを待った。今夜はあと3時間ある。体が持つかどうか、正確には分からなかった。
午前6時に倉庫を出た。帰り道に薬局の前を通った。シャッターが降りていた。開くのは9時からだ。竜之助は立ち止まり、シャッターを見た。開いていれば吸入薬を買えた。しかし手元にある80円では買えない。アパートに戻ると大樹はまだいた。ソファで横になり、ジャケットを上にかけていた。竜之助はそのまま大樹の肩を揺った。大樹が目を開けた。最初は何が起きたか分からない顔だった。次に竜之助が見えた。眉が寄った。
「何だ。朝一番にその話か。」
「朝早くてすまない。薬を買う金をくれ。」
「いくらだ。」
「3000円あれば吸入薬が買える。」
「3000円はない。」
「昨日どこへ行っていた。金が動いた可能性があるか。」
大樹は首を横に振った。
「動いていない。むしろ減った。」
竜之助は立ったまま大樹を見た。
「昨夜、発作が来た。倉庫の中で、薬がなければ対処できない。今夜も同じことが起きたら、倒れるかもしれない。」
大樹はしばらく黙った。竜之助の顔を見ていた。何かを計算しているような目つきだった。
「今日、何とかしてみる。夕方までに連絡する。」
「夕方まで待てるか分からない。朝から薬局は開いてない。夕方まで待つしかない。」
「それまで無理に倉庫へ行くな。今日は休め。」
「休んだら金が入らない。」
「1日くらい休んでも死なない。」
大樹はジャケットを顔の上に引き寄せた。会話を終わらせる動きだった。竜之助は台所へ行き、薬缶に水を入れた。火を点け、湯のみに注いだ。立ったまま飲んだ。体が温まることを待ちながら、今夜の夜勤のことを考えた。休むことは実際には難しい。シフトを無断で休めば、次のシフトがなくなるかもしれない。あの仕事は代わりがすぐに見つかる。竜之助の年齢では、次の仕事を見つけることの方が難しい。休むわけにはいかなかった。
昼過ぎ、大樹が戻ってきた。手に何かの書類を持っていた。竜之助はテーブルで茶を飲んでいた。
「親父に話がある。座って聞いてくれ。」
竜之助はすでに座っていた。大樹はテーブルの向かいに座り、書類をテーブルに広げた。
「今日、不動産の人間に会ってきた。この部屋の査定をしてもらった。」
竜之助は書類を見た。
「俺は売らないと言った。」
「聞いてくれ。」大樹は手で書類を抑えた。「このまま行けば、あいつらはここへまた来る。今度は書類だけじゃない。俺もそれは分かってる。で、一つ考えた。売却して、別の安い場所を借りる。二人で引けば、引っ越し先の敷金礼金は俺が出す。それで借金の一部を片付けて、あいつらの圧力を減らす。」
「俺が今の家賃以下の部屋に引っ越せる保証があるか。」
「ある。もっと郊外に行けば、家賃3万以下の部屋はいくらでもある。」
「郊外に引っ越せば、今の仕事場まで来られない。仕事を失う。」
「仕事は別のを探せばいい。」
「俺は72だ。倉庫の夜勤でさえ、今の職場が俺を雇ってくれている。別の仕事が見つかるとは限らない。」
大樹は書類を抑えたまま黙った。竜之助は書類の数字を見た。査定額が書いてある。この部屋の価値として出された数字だ。30年近く住んだ部屋に、今こういう数字がついている。それ自体は事実だ。しかし数字が正しくても、売ることが正しいかどうかは別の話だった。
「お前、引っ越し先の部屋に俺は何年住めると思っているか。」
大樹は答えなかった。
「俺の体は今、倉庫で発作が来る状態だ、と言っただろう。医療費がかかる可能性がある。安い部屋に移れば、その分が遠くなる。お前はそれを考えているか。」
「考えてる。」大樹の声は小さかった。「でも俺にはもう選択肢がない。」
「俺の選択肢を奪うという言葉か。」
大樹は黙った。その沈黙は長かった。テーブルの上の査定書が、二人の間に置かれたままだった。竜之助は立ち上がった。
「今日の薬はどうなった。」
大樹は目を伏せた。
「今日は無理だった。明日には何とかする。」
「昨日も、今日には何とかすると言った。」
大樹は答えなかった。竜之助は台所へ向かった。今夜の夜勤の準備をする時間だった。ジャンパーを着て靴下を変えて懐中電灯の電池を確認した。電池はまだ生きていた。それだけは今日問題なかった。
大樹が夕方にまた出かけた後、竜之助は一人でテーブルに座り、査定書を手に取った。部屋の間取りが印刷されている。玄関、台所、6畳の居間。間取りは正確だった。この部屋を初めて見に来た日のことを思い出した。妻と二人で内見した。狭いが日当たりがいいと妻が言った。実際に住んでみると日当たりはそれほどでもなかったが、妻は文句を言わなかった。妻は11年前に逝った。胃の病気だった。発見が遅れた。あの時早く病院へ連れていけていたら、と今も思う。しかし当時の竜之助には残業と休日出勤で手が回らなかった。後悔してももう変わらない。
査定書の数字を見た。この部屋をお金に変えることはできる。しかし変えた先に何があるか、大樹の言葉からは見えてこなかった。郊外の安い部屋。それで本当に落ち着くのか。借金がなくなるのか。あの男たちが来なくなるのか。分からなかった。竜之助は査定書を元通り畳み、引き出しにしまった。手紙の横に入れた。証拠として、あるいはただの記録として、そこに置いておいた。時計を見た。夜勤の開始まであと1時間半あった。ジャンパーを着て部屋を出た。今夜は発作が来ないことを。竜之助はただそれだけを願った。願いがどこへ届くかは分からなかったが、他にできることがなかった。
翌日の昼、竜之助が夜勤から戻って横になっていると、ドアをノックする音がした。大樹はいなかった。竜之助は起き上がり、ドアを開けた。先日と同じ3人が立っていた。
「本日は具体的なご提案を持って参りました。」真ん中の男が言った。「入っていいですか。」
竜之助はドアを大きく開けた。3人が入ってきた。今日は全員テーブルの方へ向かった。男は鞄から書類を取り出した。今日の書類は分厚かった。
「売買契約書の雛型です。ご確認ください。」
竜之助は書類を受け取った。ページを開くと、細かい文字が並んでいる。売り主の欄に自分の名前が印刷されていた。
「俺はこれにサインする気はない。」
「まあ読んでから判断してください。条件は悪くない。」
「読まなくていい。売る気がない。」
男はテーブルの上に両手を置き、竜之助の顔を見た。
「黒川さん、息子さんはもう限界です。今週中に一部でも返済がなければ、我々は次の段階へ進みます。次の段階とは何か、今は言えません。しかしお父さんのご生活に支障が出る可能性はある。」
竜之助はその言葉の意味を考えた。具体的なことは言わない。しかし何かが起きることを示唆する。こういう言い方をする人間は、大抵何かを持っている。
「俺は売らない。」竜之助はもう一度言った。「お前たちが何をしてくるとしても、それは俺が対処する。しかしここは売らない。」
男は書類を回収した。立ち上がった。
「残念です。また来ます。」
3人は出ていった。今日もドアは静かに閉まった。竜之助は一人でテーブルに座った。また同じ場所に戻ってきた。一人で静かな部屋に。手の中に何もなかった。書類は持っていかれた。薬はない。金もほとんどない。大樹は出かけている。男たちはまた来ると言った。それでも竜之助はこの部屋を売る気にはなれなかった。なぜかと言われれば答えに詰まる。しかし言った後の自分がどこにもいない気がした。部屋を失えば、自分の場所がどこにもなくなる。それが怖いというよりも、それがただの事実として体のどこかに刻まれていた。時計が動いている。窓の外を鳥が横切った。今日も一日が過ぎようとしていた。
夜勤明けの朝、竜之助がアパートに戻ったのは午前6時半だった。階段を登りながら、体の重さが足の裏から頭の後ろまで均等に広がっているのを感じた。昨夜は発作は来なかったが、胸の奥に詰まったものがずっとあった。倉庫の冷気の中で息を浅くしながら歩き回った何時間かが、そのまま体に残っている。廊下に出ると、自分の部屋のドアが少し開いていた。鍵はかかっていない。大樹が出かける時に締め忘れたのか、それとも中にいるのか。竜之助は足を止め、耳を澄ませた。中から声がした。大樹の声だ。電話をしている。竜之助はドアを静かに押して入った。大樹はソファに座り、スマートフォンを耳に当てていた。竜之助が入ってきても振り向かなかった。声は低く早口だった。聞き取れた言葉は、「今週中に」「それ以上は無理だ」「分かった。考える」という断片だった。通話が終わると、大樹はスマートフォンをソファの横に置き、両手で顔を覆った。その姿勢のまま、しばらく動かなかった。
竜之助は台所へ向かい、薬缶に水を入れた。背中で大樹の気配を感じながら火をつけた。
「親父。」大樹が声をかけてきた。
「なんだ。」竜之助は薬缶を見たまま答えた。
「話がある。今日、時間があるか。」
竜之助は振り向いた。大樹の顔から手が外れていた。顔色が悪かった。ここ数日でまた頬がこけたように見えた。目の下に隈がある。
「座るか。」竜之助は椅子に腰を下ろした。大樹は立ち上がり、テーブルへ来た。二人は向かい合って座った。大樹はテーブルの上に両肘をつき、指を組んだ。
「あいつらから最後通告が来た。今週金曜日までに返済の目途を示さなければ、次の段階に進むと言ってきた。次の段階とは何か、具体的には言わなかった。ただ、今度は親父に直接来ると言っていた。」
竜之助は薬缶の揺れる音を聞いた。湯が湧きかけている。
「俺に直接来て。何をする気だ。」
「分からない。しかしこの部屋に何かするつもりだと思う。鍵を変えるとか、荷物に触れるとか。法的にはできないが、やってくる可能性がある。」
「それを止める手段はあるか。」
大樹は指を組み直した。
「一つある。」
竜之助は火を止め、湯のみに注いだ。両手で持ち、席に戻った。
「この部屋を売る。今週中に手続きを始めれば、あいつらへの返済の目途になる。それで金曜日をやり過ごせる。」
竜之助は湯のみを置いた。
「その話は3日前にも聞いた。答えは変わらない。」
「今回は状況が違う。期限がある。」
「俺が売らないと言えば、期限が来て、お前はどうなる。」
大樹は答えなかった。その沈黙の形が、答えを含んでいた。
「お前は俺に、お前の身を守るためにここを手放せと言っている。」竜之助は静かに言った。「3日前も同じことを言った。1週間前も、最初に来た日も、形を変えて同じことを言い続けている。」
「違う。状況だ。」
「同じことだ。」竜之助は湯のみを手に取った。「俺の答えは変わらない。」
大樹は立ち上がった。テーブルから離れ、窓の前に立った。外の景色を見た。高架の下の路地。車が一台通り過ぎた。
「親父は俺が嫌いか。」
唐突な問いだった。竜之助は湯のみを置いた。
「何の話だ。」
「嫌いだから助けないのか。それとも本当に助ける気がないのか。」
竜之助はしばらく大樹の背中を見た。50代に近い男の背中が、今は妙に細く見えた。ジャケットが体に合っていないのか、それとも体が縮んだのか。
「嫌いではない。」竜之助は言った。「しかし助けられない。この部屋を売ることは、俺自身がどこにも行けなくなることだ。72歳の俺が新しい部屋を借りようとしても、保証人もいなければ収入の証明も弱い。郊外の安い部屋というのも、今の仕事場からは通えない。仕事は別に探せると言っただろう。72の人間を雇う職場がどれだけあるか。お前は調べたことがあるか。」
大樹は窓の外を向いたまま黙った。
「お前の借金のために俺がここを出れば、俺は行く場所がなくなる。それが現実だ。俺を切り捨てる代わりに、生き延びろと言っているなら、それはできない。」
しばらく沈黙が続いた。外で鳥が啼いた。大樹が振り向いた。目が赤かった。泣いているわけではなかったが、何かが滲んでいた。
「俺には選択肢がなかった。親父に来る前にもう全部やり尽くした。仕事を続けようとした。金を返そうとした。でも全部うまくいかなかった。それで親父のところへ来るしかなかった。」
竜之助はその言葉を聞いた。本当のことかもしれないと思った。しかし本当であることと、それが正当な理由になるかは別のことだ。
「お前が追い詰められているのは分かる。しかし俺もお前に追い詰められている。」竜之助は静かに言った。「二人が同時に追い詰められている時、どちらかがどちらかを救える状況ではない。」
大樹はまた窓の方を向いた。返事はなかった。
金曜日の昼前、竜之助が夜勤から戻って横になっていると、ドアのノックがあった。今日は鍵をかけていた。ノックが続いた。止まらなかった。竜之助は起き上がり、ドアを開けた。先日と同じ3人だった。しかし今日は後ろにもう一人いた。4人になっていた。新しく来た一人は若く、30代前半に見えた。大きな鞄を持っていた。
「今日は手続きのためにお邪魔しました。」真ん中の男が言った。「中に入っていいですか。」
竜之助はドアを開けたまま動かなかった。大樹はいない。
「今日はお父さんに直接お願いしたいことがあります。」
竜之助はドアを大きく開けた。4人が入ってきた。テーブルの周りに立った。若い男が持ってきた鞄をテーブルの上に置いた。チャックを開けると、中に書類の束が入っていた。
「今日はご署名をいただきに参りました。」真ん中の男は書類をテーブルに広げ始めた。「売買契約書。それから所有権移転の同意書です。今日サインしていただければ、来週には手続きが動き始めます。」
「俺はサインしないと言った。」
男は竜之助の向かいの椅子に座った。他の3人は立ったままだった。
「黒川さん。息子さんは今週、返済の目途を示せませんでした。我々は次の段階に進みます。ただ、今日ここでご署名いただければ、その必要はなくなります。」
「次の段階とは何か。」
男は少し間を置いた。
「この部屋への出入りを制限させていただくことになります。具体的には、我々が管理会社に連絡を取り、入居契約の問題を指摘します。息子さんが無届けで同居しているという事実がありますので。」
竜之助はその言葉の意味を整理した。管理会社への連絡。それは管理人がすでに話していたことと重なる。息子の無届け同居。規約違反として取り上げられれば、退去勧告が来る可能性がある。
「それ以外には、ご近所への周知も考えています。」
周知という言葉は柔らかかったが、意味は明確だった。近所にこの部屋で何があるかを広める。竜之助の30年近いこの場所での生活に、別の形で傷をつけることになる。竜之助は書類を見た。署名欄が何箇所もある。印鑑を押す場所がある。印鑑は大樹が持っている。サインだけがあればいいのか。それとも印鑑も必要なのか。
「印鑑は息子が持っている。俺の手元にない。」
男は若い部下の方を向いた。何か目配せをした。若い男が書類をめくり、一枚を取り出した。
「実印でも構いません。」
実印。竜之助はその言葉を聞いた。署名と印鑑があれば、印鑑証明がなくても手続きが進む場合がある。それを彼らは知っている。
「俺にはサインも印鑑も押す気はない。」竜之助は言った。
男の顔から何かが消えた。感情ではなく、余裕のようなものが消えた。
「分かりました。では、今週中に我々の方で別の手続きを進めます。その際、黒川さんのご生活に影響が出る可能性がありますが、それはご承知おきください。」
「承知した。」
男は立ち上がった。書類を鞄に戻した。4人は玄関へ向かい、靴を履いて出ていった。ドアが閉まった後、部屋が静かになった。竜之助はテーブルに両手をついた。立っていた。手に力が入っていた。実印を押せと言われた瞬間、何かが体の中で硬くなった。そこで押さなかったことが正しかったのかどうか、今は分からなかった。ただ、断った。それだけだった。
大樹が戻ってきたのは夕方だった。竜之助は台所で米を研いでいた。今日初めての食事の準備だった。
「何かあったか。」大樹は竜之助の背中を見て言った。
「あの男たちが来た。今日は4人だった。書類を持ってきた。署名を求めた。断った。」
大樹は黙った。ジャケットを脱いで椅子にかけた。テーブルの前に座った。
「断ったのか。」
「断った。」
しばらく何も言わなかった。竜之助は米を炊飯器に入れ、水を加えてスイッチを入れた。炊飯器のランプがついた。
「近所への周知と、管理会社への連絡をすると言っていた。」竜之助は大樹の方を向かずに言った。「それがどういう結果になるか、お前の方が詳しいか。」
大樹は少し考えてから答えた。
「管理会社への連絡は、俺の無届け同居の問題を指摘するつもりだろう。規約違反として処理されれば、管理会社から退去勧告が来る。ただ、それはすぐには動かない。法的な手続きが必要だから。近所への周知は、それは法的にはグレーだ。ただ、実際にやってくる可能性はある。チラシを配るとか、直接話しかけるとか。」
竜之助は流しで手を洗った。
「それが来た時、俺にできることはあるか。」
「ほとんどない。」大樹は正直に言った。
竜之助は手を拭いた。タオルが薄くなっていた。洗濯機が売られてから手洗いをしている。タオルは何度も洗って薄くなってきた。
「お前は今日どこへ行っていた。」
「仕事の面接に行った。」
竜之助は振り向いた。
「どこの面接だ。」
「倉庫の仕分け作業だ。正社員ではなく日雇いの仕事だが。結果は来週、もう一度来てくれと言われた。」
竜之助はそれを聞いた。日雇いの仕分け作業。それが大樹にとってどういう転落なのか。竜之助には想像がついた。会社を起こして失敗した人間が、日雇いの仕分け作業を受けに行くまでに至った経緯を、竜之助は聞いていなかった。聞くつもりもなかった。ただ、言ったということは事実だ。
「来週、結果が出るか。」
「出る。でも、それが、あの人たちの返済に間に合うかどうかは、別の話だ。」
「間に合わないのか。」
「ああ。」
翌朝、竜之助が郵便受けを確認すると、また封筒が入っていた。今度は3通だった。一通は電力会社からの請求書だった。先月分の電気代。金額は3200円。今月の残金では払えなかった。一通は差出人のないものだった。前回のものと同じ形式だった。開けると、今度は文章が少し長かった。「黒川さんのご自宅に、多額の借金を抱えた方が同居されているようです。近隣の方のご安全のため、詳しいことはこちらまでご連絡ください。」電話番号が書いてあった。三通目は管理会社からの書面だった。「入居契約に関するご確認のお願い」という題名だった。内容は、無届けの同居者がいるという通報があったため状況を確認したいという内容だった。来週中に管理会社に連絡するか訪問するようにと書いてある。
竜之助は3通をまとめて持ち、部屋へ戻った。テーブルに並べた。三つの問題が同時に来ていた。電気代。嫌がらせの手紙。管理会社。大樹はまだ起きていなかった。ソファから寝息が聞こえていた。竜之助は電気代の請求書を手に取った。3200円。この金額をどこから出すか。今月の年金はすでに大樹に管理されている。残っている小銭を全部集めても3000円には届かない。管理会社の書面を見た。来週中に連絡。これは無視できない。管理会社に状況を説明すれば、大樹の同居の問題が正式に取り上げられる。しかしそれは、ある意味で竜之助にとっても両刃の剣だった。大樹が退去を求められれば、大樹はここを出ていく。しかし大樹が出ていけば、あの男たちは竜之助に直接来るようになるかもしれない。何も良い方向がなかった。竜之助はソファの大樹を見た。ジャケットを上にかけて体を丸めている。その姿を見て、竜之助はこの男を子供の頃から知っているという事実をまた意識した。
大樹が目を覚ましたのは昼近くだった。起き上がりながら、テーブルに並んだ封筒を見た。
「なんだこれ。」
竜之助は3通の内容を順番に説明した。大樹は途中で管理会社の書面を手に取った。読みながら、顔が少し変わった。
「管理会社に連絡が行ったか。」大樹は呟くように言った。「あの男たちが言った通りのことが来た。」
「対応しなければいけないのか。」
「無視したら退去勧告になる。管理会社に行って、説明した方がいい。ただ、俺が行くより親父が行った方がいい。俺が行けば、不法同居者として話が進む。親父が行って、息子が一時的に身の回りの世話に来ているという形で説明すれば、まだ交渉の余地がある。」
竜之助はそれを聞いた。一時的に身の回りの世話に来ている。その説明が事実と反対であることは、二人とも知っている。しかし今はその形で話を進めなければ、状況が動く。
「それを俺に言わせるのか。」
「親父、言えばいい。俺は同行する。俺から話す。」
「お前が行けば、不法同居者になると言ったばかりだろう。」
「俺は外で待つ。親父が中で話す。俺についての説明は、親父がする。」
竜之助は窓の外を見た。空が曇っていた。この話が管理会社でうまくいくかどうかも分からなかった。しかし行かなければ、来週中に退去勧告になる可能性がある。退去勧告になれば、竜之助がここに住み続けることができなくなる。それだけは避けなければならなかった。
「分かった。明日行く。」
翌日の午後、竜之助は管理会社のビルへ向かった。大樹は近くの公園で待つと言った。管理会社の受付は2階にあった。エレベーターが故障中で、階段を登った。受付に名前を告げると、担当者が出てきた。30代の男性だった。会議室へ通された。
「この度は近隣の方から通報をいただきまして。」担当者は書類を開いた。「黒川さんのお部屋に、契約者の方が長期に渡って同居されているとのことでしたが。」
竜之助は説明した。息子が体調を崩した。自分の様子を心配して来ていること。一時的なことであること。今後は規約に沿った手続きを取りたいこと。担当者は書き留めながら聞いた。
「息子さんが同居される場合、入居者として追加する手続きが必要になります。その場合、息子さんの収入証明や身分証明の提出が必要です。」
「それは用意できる。」
担当者は少し言葉を選んでいた。
「ただ、今回は近隣の方から複数の通報が来ておりまして。内容が、一般的な同居のご事情とは異なるものでして。借金の取り立てと思われる方が出入りしているというご指摘もございまして。」
竜之助は黙った。複数の通報。借金の取り立て。それも隣人の目に入っていた。
「それについては、私の方から対処します。」竜之助は言った。
「具体的にはどのような対処を考えていらっしゃいますか。」
竜之助はすぐに答えられなかった。具体的な対処。それがあれば、今頃こうなっていない。担当者は少し間を置いた。
「黒川さん。正直に申し上げますと、今回の状況は管理会社として看過できないレベルに来ています。他の入居者の方への影響も出始めていますし。もし今後も同様のことが続くようでしたら、退去のお願いをせざるを得なくなります。猶予は2週間です。その間に、状況を改善していただく必要があります。」
2週間。またこの数字が来た。竈之助はその数字を聞くたびに、何かが一段ずつ下がっていく感覚を覚えた。
「分かりました。」竈之助は頭を下げた。
管理会社を出ると、大樹が公園のベンチに座っていた。竈之助が近づくと立ち上がった。
「どうだった。」
「2週間の猶予だ。それ以上続けば、退去勧告が来る。」
大樹は黙った。ベンチの横に立ったまま遠くを見た。
「お前の面接の結果が出るまで、あと何日だ。」
「来週の初めに連絡が来る。」
「それが仮に決まっても、最初の給料が出るまでに時間がかかる。その間に2週間が来る。」
大樹は答えなかった。竈之助も答えを求めていなかった。ただ状況を声に出して並べておく必要があった。そうしなければ、自分でも把握できなくなる。
その夜、倉庫に着いた竈之助はシフト担当の管理者に呼ばれた。30代後半の男で、竈之助とは半年一緒に仕事をしている。
「黒川さん。少しいいですか。」
会議用の小部屋へ通された。畳んだ椅子が2つある部屋だった。
「先日の夜、第3区画で体調が悪くなったとのことですが。」管理者は手元のメモを見た。「翌朝の引き継ぎ記録に、通常より時間がかかったという報告がありまして。」
「問題なく業務は完了した。」
「それは分かっています。ただ、冷凍庫内での体調不良は、安全管理上報告していただく必要があります。お医者さんの診断書などはありますか。」
竈之助は答えを探した。診断書。薬を処方されたのは1年前だ。今の状況で病院に行けていない。診断書の更新もしていない。
「しばらく行けていない。」
管理者は少し困った顔をした。
「黒川さん。率直に言います。72歳で冷凍倉庫の夜勤というのは、会社としても安全面でリスクが高い。これまでは問題なく続けていただいていたのでお願いしていたのですが。」
竈之助は管理者の顔を見た。続きがある顔をしていた。
「今後もし体調に問題が生じた場合は、業務を続けていただくことが難しくなる可能性があります。一度健康診断を受けていただいて、問題がなければ継続、ということでいかがでしょうか。」
健康診断。それも費用がかかる。しかしこれを断れば、次のシフトがなくなる可能性がある。
「分かりました。近いうちに受けます。」
「よろしくお願いします。来月初めまでに結果をいただければ。」
竈之助は頭を下げ、小部屋を出た。廊下を歩きながら、体の中で何かがまた下がった感覚があった。健康診断。その結果次第では、この仕事がなくなる。第3区間へ向かいながら、竈之助は手元の懐中電灯を握り直した。
夜中の2時を過ぎた頃、竈之助は休憩の間に倉庫の裏口から出た。夜の空気は冷たかったが、中の冷気とは違う種類の冷たさだった。体に入ってくるが、刺さらない。72年間生きてきて、今の自分の状況を整理すれば、どこにも出口がなかった。年金手帳は息子が持っている。薬が切れている。仕事は健康診断の結果次第でなくなるかもしれない。部屋は退去勧告が2週間以内に来るかもしれない。郵便受けには嫌がらせの手紙が来ている。電気代が払えていない。これらが全部、息子が来てから3週間以内に起きたことだった。
竈之助は空を見上げた。雲が出ていて星は見えなかった。この町の夜空はいつも明るすぎて星が見えにくい。今夜は特に暗かった。妻が生きていれば、と思った。しかしすぐに、妻が生きていたとしてもこの状況は変わらなかっただろうと気づいた。大樹の問題は、妻が元気なうちから始まっていた。就職してすぐに会社を辞め、転職を繰り返し、独立すると言い出したのは35の頃だった。妻はその度に心配していた。竈之助は仕事に追われて深く関われなかった。今更それを後悔しても何も変わらない。変わらないことを考え続けることは時間の無駄だと竈之助は思った。しかしそれ以外に、今夜この壁に寄りかかりながらできることが何もなかった。
扉の向こうから同僚の若い男が顔を出した。
「黒川さん、寒いですよ。中に入りましょう。」
「ああ。もう少ししたら入る。」
同僚は中へ戻った。竈之助はもう一度空を見た。曇っていて、何も見えなかった。見えなくても星はある。見えないだけである。それは確かなことだ。それ以上のことは、今夜分からなかった。
夜勤明けの朝、アパートに戻ると大樹がキャリーケースを引き出していた。
「出ていくのか。」竈之助は玄関口で聞いた。
大樹は振り向いた。
「知り合いのところへしばらく厄介になる。ここにいると、あいつらがまた来る。それが親父に迷惑をかけている。少し距離を置いた方がいいかもしれないと思って。」
竈之助はジャンパーを脱いだ。椅子にかけた。
「それで、借金はどうなる。」
「俺が動く。少し動き方を変えてみる。具体的には、まだ入れる段階じゃない。」
竈之助は息子の顔を見た。昨夜考えたことが頭に残っていた。この3週間で起きたことを、これ以上ここに置いておいていいのかという問いが昨夜からある。しかし大樹が出ていったとして、それが状況を改善するとも言えなかった。
「とにかく、年金手帳を返せ。」竈之助は言った。
大樹はキャリーケースのチャックを閉めながら、少し止まった。
「返せ。お前が出ていくなら、俺が持っておく必要がある。」
大樹は立ち上がり、ジャケットの内ポケットを探った。年金手帳と印鑑を取り出し、テーブルに置いた。竈之助は立ち上がり、テーブルへ行った。年金手帳を手に取った。1ヶ月近くになかったものが戻ってきた。薄い冊子が、今日は妙に重く感じた。
「金庫の場所は変えていない。自分で入れておけ。」竈之助は言った。
大樹はキャリーケースを持ち、ボストンバッグを肩にかけた。玄関へ向かいながら、途中で立ち止まった。振り向かずに言った。
「親父。悪かった。」
竈之助はその言葉を聞いた。悪かった。どこまでの範囲の話か分からなかった。この3週間のことか、それ以前のことか。しかし今聞き返すことでもなかった。大樹はドアを開け、出ていった。キャリーケースのキャスターが廊下を転がる音が聞こえた。その音が遠ざかり、やがて消えた。部屋が静かになった。
竈之助は年金手帳と印鑑をまとめて手に持ち、押入れの前に立った。金庫を開けて中に入れた。扉を閉めた。鍵をかけた。鍵を手の中で握った。3週間前に失ったものが戻ってきた。しかし3週間で変わったこともあった。テレビはない。電子レンジはない。洗濯機はない。健康診断を来月初めまでに受けなければ、仕事がなくなるかもしれない。電気代が払えていない。管理会社への対応が2週間以内に必要だ。吸入薬がまだない。竈之助は鍵をポケットに入れ、椅子に座った。部屋は広かった。大樹が使っていたソファの端が少しへこんでいた。テーブルの上に何もなかった。しばらく竈之助はただそこに座っていた。体が疲れていた。頭が疲れていた。しかし眠れる気がしなかった。今夜もまた夜勤がある。それは変わらない。
大樹が出ていった翌朝、竈之助は初めて一人で目を覚ました。カーテンの隙間から光が入っていた。いつもと同じ光だったが、部屋の感触が違った。静かだった。ソファに誰もいない。台所に誰もいない。自分の部屋が自分だけのものになった。その感触が体に戻るまでに少し時間がかかった。
起き上がり、台所へ行った。薬缶を手に取ると水が残っていた。火にかけた。電気の請求書がまだテーブルにあった。3200円。払えていない。電気が止まれば、この薬缶も使えなくなる。湯すらも。竈之助は押入れの金庫を開けた。年金手帳と印鑑がある。この2週間ほど、ここにないことが当たり前になっていた。今また戻っている。それを確認して、扉を閉めた。湯のみに湯を注ぎ、テーブルに座った。部屋を見渡した。テレビがない場所に壁がある。電子レンジがない場所にコンセントがある。洗濯機がない場所に、排水ホースが床に横たわっている。大樹が来る前からあったものが、大樹が持っていったものの痕跡として残っている。
竈之助は一口飲んだ。今日やるべきことを頭の中で並べた。管理会社への対応、電気代の支払い、吸入薬の調達、健康診断の予約。どれ一つとして、金がなければ動かない。今月の年金は来週入る。しかし大樹が持ち出した金のうち、何がどこへ消えたかは分からなかった。通帳の中身を確認する必要があった。銀行に行かなければならない。
午前中、竈之助は銀行へ向かった。3週間以上、自分の口座を確認できていなかった。ATMの前に立ち、通帳を差し込んだ。記帳ボタンを押した。紙が出てきた。竈之助はそれを手に取り、数字を見た。残高は2342円だった。予想はしていた。しかし数字として目の前に出ると、別の重さで来た。2342円。今月の家賃は6万2000円だ。電気代が3200円。吸入薬が3000円前後。食費、1週間で3000円から4000円。次の年金が入るまであと6日ある。引き出し履歴を見た。3週間分の引き出しが並んでいた。大樹が来た翌日から、毎週のように引き出しがある。金額はバラバラだった。1万円、2万円、5000円。そういう数字が並んでいる。大樹が竈之助の印鑑と通帳を使って引き出したものだ。総額でいくら引き出されたか。竈之助は数えた。7万8000円。今月の年金とその前の月の金を合わせた額が、ほぼ消えていた。竈之助はATMの前を離れた。通帳をジャンパーのポケットに入れた。外に出ると空が白く曇っていた。風が出ていた。2342円。それが今の手元にある全てだ。
銀行から戻った午後、竈之助は管理会社に電話をかけた。先日あった担当者につないでもらい、状況を報告した。息子は出ていった。今後同様のことは起きない。しかし電気代の支払いが一時的に遅れている。家賃については、来週の年金が入り次第すぐ払う。担当者は少し間を置いてから言った。
「息子さんが出られたのであれば、同居の問題は解決ということで記録します。ただ、取り立てと思われる方の出入りについては、今後も続くようであれば改めてご連絡をお願いします。家賃については、来週中であれば今回だけ猶予を設けます。」
竈之助は礼を言った。電話を切った。一つ片付いた。しかし片付いたのは形式の上だけ。問題の中身は変わっていなかった。大樹が出ていったことで、あの男たちが次に何をしてくるかは分からない。大樹がいなければ、直接竈之助のところへ来るかもしれない。そのことを考えながら、竈之助は台所に立ち、冷蔵庫を開けた。卵が1個。豆腐の残り。醤油は底だった。これで今日と明日をやり過ごせるかどうか。
夕方、竈之助は近所の薬局へ行った。吸入薬を3週間切らしていた。夜勤で発作が来るたびに、体の力でやり過ごしてきた。しかしそれにも限界があることは分かっていた。薬局のカウンターで、処方箋なしで買えるものを聞いた。薬剤師の女性が棚を確認し、処方箋なしで買える気管支拡張薬は、症状によっては対応できると言った。竈之助は症状を説明した。金額を聞いた。1800円から2500円の範囲だという。竈之助は財布を出した。小銭入れに1000円札が2枚と小銭があった。合計で2300円ほどある。1800円の薬であれば買える。棚から出してもらったものを手に取り、裏の成分表示を見た。見慣れた成分が一つ入っていた。処方されていたものと同じではないが、似た系統のものだ。これで夜を乗り越えられるかもしれない。レジで1800円を払った。残りは500円になった。薬局を出た時、空は暗くなりかけていた。今夜の夜勤まであと3時間ある。帰って少し横になる時間はある。
アパートに戻ると廊下が薄暗かった。電球が一本切れていた。以前から切れかけていたものだ。管理会社に連絡すれば交換してもらえるが、今日電話したばかりでまた別のことを頼むのは気が引けた。部屋に入り、電気をつけた。部屋の電気はまだ生きていた。支払いの猶予があるらしかった。ただ、いつ止まるかは分からない。布団を引き出し、横になった。天井を見た。シミがある。いつものシミだ。大樹が去ってから2日が経つ。電話は来ていない。あの男たちも今日は来なかった。静かだった。静かすぎて、却って何かが落ち着かない感じがした。嵐の前の静けさ、という言葉を竈之助は思い出した。目を閉じた。眠れるかどうか分からなかったが、体を横にする必要があった。今夜の夜勤は6時間ある。立ちっぱなしの6時間を、買ってきた薬を持って乗り越えなければならない。
しばらくしてうとうとし始めた頃、電話が鳴った。液晶画面に番号が出た。大樹の番号だった。竈之助は少し見ていた。3回鳴った。4回目が鳴り始めた時、手に取った。
「もしもし。」
「親父。」大樹の声だった。
「なんだ。今、大丈夫か。」竈之助は天井を見たまま答えた。「夜勤の前だ。少し休んでいる。」
「あいつらから連絡が来た。今週中に親父の部屋に来ると言っている。」
「今度は何の用だ。」
「分からない。ただ、直接来ると言っていた。」
竈之助は目を閉じた。
「そうか。」
「何か気をつけた方がいいことがあればと思って。」
「気をつけることは何もない。来たら来たで対処する。」
大樹は少し黙った。それから言った。
「面接の結果が出た。採用になった。」
「そうか。」
「日雇いだが、来週から始まる。」
「それは良かった。」
「また連絡する。」大樹の声が少し詰まった。
「ああ。」竈之助は答えた。
電話が切れた。天井のシミが目の前にあった。竈之助はスマートフォンを胸の上に置き、また目を閉じた。大樹が仕事を見つけた。それは一つの事実だ。しかしそれが竈之助の状況を変えるかどうかは別の話だった。来週から日雇いで働いても、最初の給料が出るまでに時間がかかる。その間に、あの男たちが来る。眠れなかった。ただ横になったまま、時間が過ぎるのを待った。
夜勤に向かう途中、駅の構内で竈之助は鏡に映った自分を見た。通り過ぎながら一瞬だけ目に入った。年老いた男が歩いていた。ジャンパーを着て、左足をわずかに引きずって歩いている。それが自分だと認識するまでに、少し時間がかかった。倉庫に着くと、今夜の担当者から声をかけられた。来月初めの健康診断の件を、具体的な日程で申し込んで欲しいと言われた。竈之助はメモを受け取り、ポケットに入れた。第3区画へ向かった。今夜の気温は先週より低かった。温度計が示す数字は変わらないが、体が感じる寒さに今夜は芯があった。懐中電灯を手に棚の列を確認していった。1列目、2列目、問題なし。3列目に差しかかった時、足元に何かを踏んだ。見下ろすと、棚の下に崩れかけた小さな箱が一つ落ちていた。竈之助はそれを拾い上げ、元の場所に戻した。それだけのことに、思ったより力が必要だった。自分が弱っているのかもしれないと思った。弱っているという言葉を使うと、認めることになる気がして、これまで使ってこなかった。しかし今夜は、そう感じた。4列目を確認している時、胸から波が来た。今夜の波は最初から中くらいの大きさだった。竈之助はポケットから買ってきた薬を取り出した。説明書に書いてあった通りに使った。2分ほどして波が引いた。完全ではなかったが、動ける程度に収まった。薬が効いた。それだけで、今夜の残りが少し変わった。帳面に記録をつけながら、竈之助は自分の字を見た。以前より少し乱れている気がした。夜勤明けに書くと、こういう風になる。それが続いているから、乱れが増えているのかもしれない。しかし誰もその乱れを問題にしなかったので、竈之助もそれ以上考えなかった。
翌朝6時過ぎ、倉庫から出て帰り道を歩いているとスマートフォンが鳴った。番号に心当たりがなかった。しかし出た。
「黒川さんですか。」聞き覚えのある声だった。あの男たちのうちの一人だ。
「そうだ。」
「今日の午前中に伺います。10時頃、いらっしゃいますか。」
竈之助は少し考えた。夜勤明けで、10時まで2時間もない。帰宅してすぐに来ることになる。
「いる。」竈之助は答えた。
「ありがとうございます。では、後ほど。」
電話が切れた。竈之助は歩きながら、今日来る理由を考えた。大樹が出ていったことは、あの男たちはもう知っているかもしれない。大樹への圧力がこれ以上効かないと判断して、竈之助に直接来る。何を持ってくるか。また書類か、別の何かか。考えても分からなかった。帰って待つしかなかった。
アパートにつき、ジャンパーを脱いで椅子にかけた。台所で薬缶に水を入れた。お湯を沸かしながら、部屋を一度見渡した。大樹がいた3週間の痕跡が、少しずつ消えかけていた。ソファのへこみがわずかに残っている。それだけだ。10時を少し過ぎた頃、ドアをノックする音がした。竈之助はドアを開けた。今日は2人だった。先日来た4人のうちの真ん中にいた男と、若い男だ。
「今日はよろしくお願いします。」真ん中の男が言った。
竈之助はドアを開けた。2人が入った。テーブルの前に立った。今日は鞄が小さかった。書類の束ではなく、薄いファイル1冊だった。男はファイルを開いた。一枚の紙を取り出した。先日の売買契約書ではなかった。別の書類だった。債権譲渡通知書と書いてある。
竈之助にはその言葉の意味が分からなかった。
「説明します。」男は言った。「息子さんの借金について、我々は別の会社に債権を譲渡しました。つまり、今後の取り立ては別の会社が行います。我々の役割はここで終わりです。」
竈之助は書類を見た。どういう意味か整理するのに少し時間がかかった。借金の権利を別の会社に売った。そういうことか。
「俺にはどういう関係がある。」竈之助は聞いた。
「直接の関係はありません。ただ、お父さんにも一応通知を、ということで参りました。今後、別の会社から息子さんに連絡が行くかもしれません。ご家族への連絡が来る可能性もあります。その点だけ、ご承知おきください。」
竈之助は書類を見た。会社名が書いてある。知らない会社名だった。
「今後、お父さんのところへは来ませんか。」
「我々は来ません。ただ、別会社がどう動くかは分かりません。」
男はファイルを閉じた。立ち上がった。若い男も立った。
「お父さん。一つだけ。」男は玄関へ向かいながら、振り向かずに言った。「息子さんは日雇いで仕事を始めると聞きました。それ自体は別に関係ありませんが。借金の額からすれば、焼け石に水です。その点は、ご理解ください。」
2人は出ていった。部屋に一人残った。ドアが閉まった。竈之助はテーブルに置かれた債権譲渡通知書を手に取った。細かい文字が並んでいる。法的な効力があるのかどうか、竈之助には判断できなかった。ただ、あの男たちは来なくなるという。それだけは分かった。問題が消えたわけではない。別の会社に移っただけだ。しかしとりあえず、今日あの顔たちは来なくなった。書類を引き出しにしまった。他の書類と一緒に。引き出しの中が、この3週間で随分増えた。
来週になり、年金が入った。竈之助は銀行で通帳を確認した。6万200円が入っていた。その足で電力会社の窓口へ向かい、電気代を払った。3200円。残りが大きく減った感覚はなかったが、数字として確認すると、また体に来るものがある。次に家賃を振り込んだ。6万2000円を超える金額が消えた。残りは数千円になった。帰り道に薬局により、処方箋を持って吸入薬を正規に買いたいと聞いた。処方箋がなければ出せないと言われた。病院に行く必要がある。しかし初診料と処方料を合わせると、3000円近くかかる。今の残金では厳しかった。竈之助はひとまず薬局を出た。先日買った市販薬がまだある。それで今週は凌げるかもしれない。来月の年金が入ったら病院に行く。そういう順番で考えるしかなかった。
帰宅して椅子に座った。残金を手帳の端に書いた。食費をどう計算するか。一日何円に抑えるか。計算しながら、竈之助はこれがこれから毎月繰り返すことだと気づいた。大樹が来る前も似たようなことはしていたが、今は余裕がさらに減っていた。倉庫の管理者から指定された健康診断の指定病院に電話した。来月の初めに予約が取れた。費用は会社が負担してくれることを改めて確認した。それは助かった。電話を切ってから、竈之助は手帳を閉じた。今月の問題は一つずつ、形の上では動いている。管理会社への対応は済んだ。電気代は払った。家賃は払った。健康診断の予約は取れた。薬は来月、病院へ行く。しかし大樹の借金は別の会社に移った。いつ連絡が来るか分からない。大樹が日雇いで働き始めたとしても、1500万の借金が消えるまでに何十年かかるか、竈之助には計算できなかった。できないことは考えても仕方がない。今日できることを今日やる。それだけだ。竈之助は手帳をテーブルに置いた。窓の外を見た。空が少し明るくなっていた。今日は珍しく晴れそうだった。
洗濯機がない生活が続いていた。手洗いで済ませるか、コインランドリーへ行くかのどちらかだ。今週は手洗いにした。コインランドリーの300円が惜しかった。台所のシンクに湯を張り、作業着を沈めた。手で揉みながら洗う。洗剤は節約のために少量にした。指の腹に力を入れて汚れを落としていると、40年間の仕事のことが思い出された。ゴミ収集の仕事では、手を洗うことが癖になっていた。一日に何十回も洗った。休憩のたびに洗った。それでも汚れと匂いは完全には落ちなかった。同僚の一人が、この仕事をしていると皮膚が丈夫になると言っていた。竈之助の手は確かに丈夫になった。しかし今は、その丈夫な手で自分の作業着を手洗いしている。すすいで絞って、ハンガーにかけた。窓の近くに吊るした。今日は晴れているから、夕方には乾くかもしれない。シンクを洗いながら、竈之助は今の自分の生活の細部を確認した。電気はある。水はある。食べ物は少しある。薬は一時的なものがある。仕事はある。部屋はある。全部ある。と言えば、今日は昨日より少し良い。
夕方、作業着が乾いたかどうか確認しようとして廊下に出ると、隣の女性がちょうど仕事から帰ってきたところだった。
「お疲れ様です。」竈之助は言った。
「お疲れ様です。」彼女は会釈した。少し立ち止まった。「息子さん、もう戻られないのですか。」
「出ていきました。しばらくは一人です。」
「そうですか。」
彼女は少し間を置いた。
「最近、変な手紙が来ていまして。差出人のない封筒で。」
竈之助は止まった。
「あなたのところにも届いたのですか。」
「ええ、先週。黒川さんのところの息子さんについて書いてあるような内容で。捨ててしまいましたが。すみませんでした。」
「ご迷惑をかけました。」竈之助は頭を下げた。
「いえ。」彼女は首を横に振った。「ただ、捨てたので気にしていないのですが。他の方にも行っていると思って、お知らせしようかと思いました。」
「ありがとうございます。」
彼女は自分の部屋へ入っていった。竈之助は廊下に残った。手紙が複数の部屋に届いていた。それが何件かは分からない。あの男たちが言っていた周知というのが、こういう形で動いていた。しかし今は債権を譲渡した後だ。あの男たちはもう来ない。手紙も止まるかもしれない。止まらないかもしれない。それも分からなかった。作業着を確認した。まだ少し湿っていた。もう1時間もすれば乾く。
夜勤の前に横になった。眠れなかった。天井のシミを見ていた。72年間のことを順番に思い返すことを、竈之助はしなかった。そういうことをする人間が映画や小説にはよく出てくるが、竈之助にはそういう習慣がなかった。過去を振り返るより、今日食べるものと明日の仕事のことを考える方が性に合っていた。しかし今夜は少し違った。この3週間に起きたことが、頭の中を静かに流れた。大樹が来た朝。金庫が開けられていた朝。テレビがなくなっていた朝。区役所の窓口で断られた日。男たちが4人で来た日。管理会社に呼ばれた日。健康診断の話をされた日。大樹がキャリーケースを持って出ていった朝。2342円という通帳の残高。こういうことが、72歳の人間に起きた。
竈之助はこれを誰かのせいにしたいかどうか、自分に聞いてみた。大樹のせいにしたいか。あの男たちのせいにしたいか。区役所のせいにしたいか。答えはどれも完全にはならなかった。大樹のせいではある。しかし大樹だけのせいではない。あの男たちは確かに問題を大きくした。しかしそもそもの借金は、大樹が作った。区役所は制度の通りに動いた。それを責めるのは難しい。では誰のせいでもないのか。それも言いきれなかった。竈之助は目を閉じた。誰のせい、という言葉で考えることをやめた。起きたことは起きた。これからどうするかの方が、誰の責任かよりも大事だった。
これからどうするか。年金が月6万円入る。倉庫の夜勤が、健康診断の結果次第で続くかどうか決まる。大樹は日雇いで働き始めた。借金は別の会社に移った。部屋はまだある。72歳の人間が倉庫の夜勤をしながら、一人でこの部屋で生きていく。それが今の答えだった。華やかさも誇りもない答えだったが、今日の竈之助が出せる答えはそれだった。目を開けた。天井のシミがある。これからもこのシミを見ながら眠り、起きて仕事へ行く日が続くだろう。それがいつまで続くかは分からない。体が続く間は続ける。それだけのことだ。時計を見た。夜勤の開始まで30分を切っていた。起き上がり、作業着に着替えた。昼間手洗いしたもので、今日は乾いている。ジャンパーを羽織った。懐中電灯の電池を確認した。問題なかった。玄関で靴を履いた。立ち上がった時、ふと部屋を振り返った。テレビのない壁。電子レンジのないカウンター。洗濯機のない窓際。ソファの端のわずかなへこみ。それだけが残っている。しかし部屋はある。仕事はある。今夜の仕事がある。竈之助はドアを開けた。廊下の電球がまだ切れたままだった。暗い廊下を歩いた。階段を降りた。外に出ると、夜の空気が来た。冷たかったが、今夜は風がなかった。歩き始めた。左足を少し引きずりながら、駅へ向かった。空を見上げた。今夜は雲が少なかった。星がいくつか見えた。この町では珍しかった。竈之助は歩きながら、それを少しの間見ていた。見える時はある。それだけのことだ。だが今夜は見えた。竈之助は前を向いて、歩き続けた。


