会場のシャンデリアの光が眩しく降り注ぐ中、その言葉はまるで刃のように響いた。
「貧乏人には継職で十分だろうなあ」
地元最大のホテルのグランドボールルーム。大手取引先のパーティーで、高級スーツを着た男たちがグラスを傾けている。しかし、その男のテーブルにだけ、明らかに格の違う粗末な小皿が置かれていた。
「君、この場がどういう場か分かってるか?ここにいる方々は皆、それなりの実績を持った経営者ばかりだ。社員10名の会社が来る場所じゃない」
その男はパンを静かにテーブルに置いた。ナプキンで口元を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
「おい、まさか怒ったのか?10人の会社が起こってもな。黒木、小さいことは気にするなよ。いいか、君の会社の規模じゃ、潰れても業界の誰も困らない。それが現実というものだ」
会場の空気が一瞬にして凍りついた。その男はまっすぐ、静かな声で言い放った。
「それはあなたの会社も同じでしょう」
「何?私が誰だか知っていて言っているのか?」
「ええ、もちろん。大手建設会社の大沢社長」
「なんだ?強がりか。潰れても困らないと言ったことが、そんなに嫌だったか」
「ええ、そうですね。やはり22年前からあなたは何も変わっていない」
「22年前?何のことだ」
「いえ、思い出さなくて結構です。俺は今日これを言いに来ました。あなたの会社を潰します」
一瞬の静寂の後、大沢は腹を抱えて笑い出した。
「聞いたか?黒木。10人の会社がうちを潰すとよ」
「これは傑作だ。社長、今夜一番の冗談ですよ」
「どうぞ。どうぞ。せいぜい、頑張ってみなさい」
周囲からも笑い声が漏れた。男の口元に静かな笑みが浮かんだ。彼は振り返ることなく、テーブルを離れ、会場を後にした。背中に大沢の笑い声が追いかけてくる。
「おい、見たか?あの男の顔。面白いものを見せてもらったよ」
男は振り返らなかった。ホテルのロビーに出た瞬間、冷たい夜の空気が頬を打った。霧島正司、40歳。彼はゆっくりと冷たい空を見上げた。22年間ずっと、この日を待っていたのだから。
翌朝、東京都内の雑居ビル3階。統制交産のオフィスは静まり返っていた。社員10名の小さな法人である。正司がドアを開けると、秘書の津田涼子がすでにデスクについていた。彼女は36歳で、父の工場時代から正司を知る幼馴染みでもあった。
「おはようございます。昨夜のうちに確認を進めました」
正司はコートを脱ぎ、黙って椅子に腰を下ろした。涼子がファイルの一つを開き、正司の前に滑らせる。
「大沢建設の下請けのリストです。現在、大沢建設が使用している下請け会社は12社。そのうち、何社がうちと繋がっている?」
「4社です。統正鋼業、統正テクノ、三和精工、丸山製作所。この4社が統正工業と直接取引関係にあります」
統正工業。それは正司が父から引き継いだ、19年間かけて育て上げた精密部品メーカーだ。年商2000億の業界では知られた存在だが、地元ではメディア取材を一切断ってきた。昨夜の懇談会に統制交産の名刺だけを出したのもそのためだ。
「大沢建設の現場を支えている鉄骨部、精密ボルト、特殊溶接剤のかなりの数量が、回り回って統正工業グループから供給されています」
「大沢社長はこの事実をご存知ない?」
「直接取引しているのは下の4社であり、その先の供給元まで確認する習慣がありません」
「そうだろうな。三代目の遺産で今の地位についたあの男は、自分の足元を見ない」
正司はコーヒーを一口含んだ。涼子はファイルをもう一つ開いた。
「統正鋼業と統正テクノの契約更新は来月に控えています。条件の見直しを通知する場合、今週中に書面を出す必要があります」
「わかった。それから、荒川会長にご連絡を入れますか?」
「頼む。明日にでも会いたい」
涼子は頷き、すぐに電話へ手を伸ばした。荒川文彦は正司の父の代からの取引先であり、先日の懇談会の主催者。正司の本当の立場を知る唯一の人物である。
「荒川会長と明日の午後、都内の料亭でお会いできるとのことです」
「了解した」
涼子はメモを取り終えると、少し間を置いてから静かに口を開いた。
「お父様が見ていたら、何と言うでしょうね」
正司は答えなかった。ただ窓の外を静かに見つめ、湯気の立つカップをゆっくりと口元に運んだ。
目を閉じると、今でも旋盤の音が聞こえてくる。油の匂いがする。22年前の冬のことだ。正司はまだ18歳だった。学校が終わると毎日工場に顔を出し、父の手伝いをするのが当たり前になっていた。
ある日の午後、工場の前に黒塗りの高級車が止まった。降りてきたのは背の高い、貫禄のある男。大沢建設の三代目社長、当時40歳の大沢竜三である。父の霧島健一は、その男に事務所へ連れ込まれた。
「うちはもっと大きな会社と組むことにした。お前んとこじゃ話にならん」
壁越しに響く怒鳴り声に、正司の手が止まった。
「10年以上のお付き合いですよ。そんな急に約束が違います」
「約束?そんなもん知らん。うちは前に進むんだ。足手まといはいらん」
「せめて猶予いただけませんか?3ヶ月あれば新しい取引先を」
「甘えるな。今日で終わりだ」
一方的な取引の打ち切りだった。30分後、事務所から出てきた父の顔は蒼白だった。唇が震え、拳を握りしめたまま、健一はしばらく立ち尽くしていた。
その夜、壁越しに父が必死で電話をかけている声が聞こえた。
「はい。はい。わかりました。どうかもう一度だけお願いできませんか?うちの職人は本物です。絶対にご期待に答えます」
声がかすれていた。電話が切れた後も、父はしばらく動かなかった。
翌朝、健一は何も言わず旋盤の前に立ち、黙って手を動かし始めた。その背中を正司は直視できなかった。
「親父、悔しくないのか?」
正司はどうしても我慢できずに尋ねた。健一は旋盤の前に立ったまま、視線を外さずに答えた。
「悔しいさ。だったらどうする?悔しいからって手を止めるわけにはいかん。工場を回さなきゃ、みんなの給料が出ない」
少しして、健一が口を開いた。
「鉄は叩かれるほど強くなる。人間も同じだ。踏まれた分だけ根が深くなる。根の深い木は、嵐が来ても倒れない」
「よくわからないよ」
「そのうち分かる時が来る」
大沢建設の取引打ち切りは連鎖を引き起こした。信用不安が広がり、他の取引先も相次いで契約を中止。統正工業の資金繰りは急速に悪化していった。
3年後、健一は過労で倒れた。病院のベッドで、健一は息子の手を握った。油と鉄の匂いが染みついた職人の手だった。
「いいか、正司。本物の仕事は言い訳をしない。嘘もつかない。どんな時でもちゃんとそこにある。お前がそういう仕事をし続ければ、それがお前の答えだ。それだけで十分だ」
それが最後の言葉だった。健一は52歳で息を引き取り、正司は21歳で工場を引き継いだ。父の言葉と背中を胸に刻んだまま、19年間手を動かし続けてきた。
懇談会から4日後、大沢建設の本社ビルに異変が起きた。経理部から大沢の社長室に直接報告が上がったのである。
「社長、下請け4社の動きがおかしいんです。契約更新の条件が厳しいものに戻されたという通知が、立て続けに届いています」
「なんだと?どういう意味だ?」
「4社とも同時期です。偶然とは思えません」
「黒木、すぐに調べろ。何が起きてる?」
2時間後、黒木が社長室に戻った時、その顔は真っ青だった。
「全部、統正工業の関連会社です」
「統正工業だと?」
「年商2000億の精密部品メーカーです。下請け各社の主要取引先であり、うち2社は統正工業が筆頭株主になっています」
大沢の顔が固まった。
「そして、その統正工業の代表が個人で別会社を持っています」
「別会社?」
「統制交産です。社長の名前は霧島正司」
大沢の顔がみるみる青ざめていった。
「まさか、あの時のあの男が統正工業の社長だというのか」
「そのようです」
しばらく沈黙が続いた。大沢の額にじわりと汗が滲んだ。
「お前が全部確認しておくべきだったんだ。統制交産の一枚の名刺だけ見て判断するとは何事だ?2000億の会社の社長を貧乏人扱いしたんだぞ。しかもあの場には、荒川会長もいた」
その言葉を口にした瞬間、大沢は自分の失態の大きさを痛烈に自覚した。
翌日、大沢と黒木は統制交産のオフィスがある雑居ビルへ直行した。3階のドアを開けると、受付の社員が静かに応接室へ案内した。
「霧島はただいま別の対応中です。しばらくお待ちください」
待たされた。10分、20分、30分。大沢は革張りのソファーに座ったまま、何度も腕時計を見て貧乏ゆすりを繰り返していた。
40分が過ぎた頃、ようやくドアが開いた。正司が静かな表情のまま入り、大沢の向かいに腰を下ろした。
「霧島さん、先日の件は申し訳なかった。あれは冗談のつもりだったんだ。笑って流してもらえないか」
正司は何も答えなかった。ただ静かに大沢を見据えている。その視線には怒りも軽蔑も浮かんでいない。ただ、事実を見つめているだけである。
「取引の条件の件も考え直してもらいたい。今後はうちも誠意を持って対応する。なんなら条件面で譲歩もする」
「大沢さん」
正司がゆっくりと口を開いた。声は穏やかだが、その底に鉄のような芯が通っていた。
「22年前の冬のことを覚えていますか?あなたが黒塗りの車で、小さな町工場に乗り付けた日のことです」
大沢の表情が揺れた。
「統正工業。私の父、霧島健一の工場です」
大沢の口が半開きになった。椅子の上で体が硬直し、両手が膝の上で握りしめられている。
「あの日、あなたは30分で帰りました。10年以上の付き合いを、『足手まとい』の一言で終わらせて」
「そ、それは当時の経営判断でやむを得ず」
「その判断が父の人生を変えました。連鎖的に取引先が離れ、うちの工場は資金繰りに行き詰まった」
「しかし、当時はそこまでの影響があるとは」
「影響がないと思ったのですか?取引を一方的に打ち切って、影響がないと」
大沢は答えられなかった。
「その夜、父が泣いていました。壁越しに聞こえていました。声がかれるまで、何度も頭を下げていた。あの声は今でも耳に残っています」
「そ、それは」
「父は3年後に亡くなりました。52歳でした。過労でした」
正司の声がわずかに低くなった。膝の上で静かに拳が握られる。
「あなたは今日まで何も知らずに生きてきた。うちの父が何を失ったか、俺が何を背負ってきたか。19年間、一度も」
「本当に知らなかったんだ。申し訳なかった。本当に申し訳ない。取引を戻してほしい。条件は何でもいい。頼む」
大沢が椅子から身を乗り出し、すがりつくように言葉を並べる。しかし、正司は何も答えなかった。静かに右手を上げた。それだけで大沢の言葉が止まった。
「謝罪はいりません。一つだけ聞かせてください」
「何でも答える」
「もし俺が今も社員10名の小さな会社の経営者のままだったら、あなたは今日ここに来ましたか?」
大沢の口が動いた。しかし、声が出なかった。視線が宙を泳ぎ、どこにも着地できない。
「それがあなたの答えです。親父が味わった苦しみを、しっかりと噛みしめてください」
正司は静かに立ち上がった。胸の奥で父の言葉が響いていた。鉄は叩かれるほど強くなる。踏まれた分だけ根が深くなる。19年分の重みを背負ったまま、正司は部屋を出た。
廊下に出た瞬間、正司の足が止まった。壁に手をつき、深く息を吐く。肩が小さく震えていた。19年間ずっと胸の奥に押し込めてきたものが、少しだけ溶けていくのを感じていた。
涼子はその背中をそっと見つめた。手を伸ばしかけて止めた。今は何も言わなくていい。そう思った。
「車を回してあります」
「ああ」
それだけだった。二人は黙ってエレベーターに乗り込んだ。言葉にしなくても伝わるものがあった。19年間ずっとそうやってきた二人だった。
その後、業界内に情報が静かに広がり始めた。荒川会長が業界紙の取材に、静かにしかし明確に答えたのである。
「私が霧島さんをあの懇談会にお招きしたのは、今回のメインスポンサーだったからです。統正工業のご支援がなければ、あの会は成立しなかった。最も丁重にお迎えすべき方が、最も軽く扱われた。それだけのことです」
翌日、業界紙にその内容が掲載された。記事は業界全体に波紋を広げた。大沢建設の主要取引先から、立て続けに契約見直しの申し入れが届き始めたのである。
「率直に申し上げて、大沢建設との関係が弊社の信用に影響を及ぼす可能性を懸念しています」
「取引先の選定基準を見直す時期に来ていると考えています」
どの取引先も、丁寧な言葉の裏に明確な意思を込めていた。黒木が必死に食い下がるが、流れは止まらない。
地元商工会でも緊急理事会が招集された。
「知らなかったことが問題なんです。小さな会社の経営者だったとしても、侮辱していいことにはならない。大沢さん、辞任届を出していただけますか?」
「待ってくれ。霧島さんには直接お詫びに行った」
「関係ありません。もうすでに遅いんです。何もかも」
大沢の崩壊は静かに、しかし止めようのない速度で進行した。取引先の離脱が連鎖し、資金繰りが急速に悪化したのは、懇談会から2ヶ月後のことである。
ある夜、大沢が帰宅すると、妻が子供たちを連れてリビングに座っていた。テーブルの上に一通の書類が置かれている。
「なんだこれは?」
「離婚届です」
「何を言っている?会社のことは必ず立て直す」
「会社の話じゃないんです。あなたが人前であんなことをする人だと、私は知らなかった。子供たちも、学校で何を言われているか、もう限界です」
「子供たち、お前たちも同じ気持ちなのか?」
子供たちは答えなかった。ただ母親の隣で俯いたまま動かなかった。その沈黙が何よりも重かった。
全てが終わっていた。大沢は誰もいない会議室に一人で座っていた。長いテーブルに両手をつき、自分の手を見つめていた。この手で何かを作ったことがあるだろうか。祖父が起こし、父が育てた会社を、ただ受け取っただけだった。自分の手で積み上げたものは、何一つなかった。
「親父、俺は何をやってたんだ?」
誰もいない会議室に声が反響して消えた。
一方、正司は事務所で涼子から大沢建設の状況報告を受けていた。
「大沢建設は事業の縮小に入ったようです。黒木専務も辞任したとのことです」
「そうか」
「商工会の役職も辞任。主要取引先の離脱は7社に達しました」
「終わりましたね」
「ああ、全て終わった」
正司は窓の外を見つめていた。肩の力が抜けていくのを感じた。胸の奥で22年間張り詰めていた糸が、ゆっくりと溶けていく。窓の外の空が、少しだけ広く見えた。涼子はそれ以上何も聞かなかった。正司の横顔に浮かんでいたのは、勝利の喜悦でも復讐の達成感でもなかった。ただ静かな安堵だけがそこにあった。
半年後の春。統正工業の本社で記者会見が開かれた。正司と荒川が並んで壇上に立ち、「鋼物づくり財団」の設立を発表したのである。地元の工業高校生や若い職人への技術支援と奨学金給付を目的とした財団で、統正工業の工場を月に一度、見学体験の場として開放する取り組みも含まれていた。
「かつて理不尽に潰されかけた工場が、今度は若い職人を育てる場所になる。これほど嬉しいことはありません」
「父が残した工場から始まったことです。次の世代に手渡すのが、自分の仕事だと思っています」
記者会見の後、オフィスに戻った正司のデスクに涼子が近づいた。
「奨学金の応募が予定の3倍を超えました。工場見学の申し込みも、来月の枠はすでに埋まっています」
「そうか」
涼子は報告書をデスクに置き、少しだけ間を置いた。
「お父様が見たら、何と言うでしょうね」
涼子が同じ言葉を口にしたのはこれで二度目だった。前回は答えなかった。しかし今日、正司は少し間を置いてから口を開いた。
「怒りはしないと思う」
涼子は小さく頷いた。そして、静かに続けた。
「私、覚えているんです。正司さんが21歳で工場を引き継いだ日のことを。誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰って。一度も弱音を吐かなかった」
「そうだったか」
「お父様の旋盤、正司さんが毎朝磨いていましたよね。誰にも言われずに、ずっと」
正司は答えなかった。ただ窓の外を見つめていた。
「あの頃から、いつかこういう日が来ると思っていました」
涼子の声がわずかに揺れた。目元が光っている。いつも冷静な涼子が、19年間で初めて涙をこぼした。
数日後、一通の手紙が届いた。工場見学に参加した地元工業高校の生徒からである。正司は封を開けた。丁寧だが、少し不慣れな字でこう書かれていた。
「旋盤の前に立って、初めてやりたいことがわかりました。統正工業で働くことが、今の私の夢です」
「いい手紙ですね」
「親父が聞いたら、照れくさそうな顔をしていたと思う」
正司はその手紙を静かに折り、胸のポケットに入れた。
本物の仕事は言い訳をしない。嘘もつかない。どんな時でもちゃんとそこにある。お前がそういう仕事をし続ければ、それがお前の答えだ。
復讐は終わった。正司は胸のポケットに手を当てたまま、窓の向こうの空を見上げた。春の光が工場の屋根を温かく照らしていた。



