「ひ雪、お父さんが息を引き取ったわ」
電話の向こうで妻のひろ子が泣きそうな声で言った。受話器を握る私の手は、なぜか汗ばんでいた。
「間に合わなかったか。仕事があったからな。仕方ないだろう」
「お父さんも、あなたたちと一緒に暮らせただけで幸せだったと思うわ」
「そうだな。とりあえず病院には向かうよ」
そう言って電話を切ろうとしたとき、ひろ子が言った。
「それと、これからのことを話し合っておきたいの」
「ごめん。まだショックが大きすぎて」
「そんなことを言ってる場合じゃないだろう。父さんのためにも、俺たちがしっかりしないと」
私はそう返した。だが、その時の私はまだ気づいていなかった。これから始まるのは、家族の形を根底から覆す争いだということに。
葬儀の準備を進める中で、母は静かに言った。
「それが終わったら、遺産の話をちゃんとしような」
「遺産? そんなの話し合うことじゃないでしょ。私たちで分けるんだし」
私がそう言うと、父はまるで昔から知っていたかのように冷笑した。
「やっぱり母さんはそう思い込んでたんだな」
「何それ?」
「父さんから俺は遺言書を預かってたんだ。大事に保管しておいてくれって」
「どうしてあなたなの? 私は何も聞いてないわ」
「大事な遺言書だからね。信頼できるやつに預けたんだよ」
「ちょっと待って。私が何をするって言うの?」
「父さんが残した遺産を独り占めするつもりだったんじゃないか」
「バカを言わないで。私がそんなことするわけないでしょ」
「でも実際に父さんは俺に遺言書を預けてくれた。その中身も教えてもらってる」
「なんて書いてあるの?」
「遺産の全てを俺に相続させる、ってさ」
その瞬間、台所の時計の音だけがやけに大きく聞こえた。母の顔は一瞬で色を失った。
「な、どうしてお父さんはそんなことを?」
「これが父さんの正直な気持ちだったってことだろ。今まで散々父さんを食い物にしていい暮らしをしてきたんだから。遺産くらいは俺たちに渡してくれよ」
「そんなことしてないわ。私はお父さんと二人で支え合ってやってきたのに」
「そう思い込んでたのは母さんだけってことだ」
「嘘よ」
「とりあえず葬儀だけはちゃんとやってくれよ。遺産がもらえないからって適当にするなんて許されないからな」
「そんなこと言われても……」
「金で動くような人間にはなるなよ」
「私はお父さんのことをちゃんと天国に送り出したいと思ってる。だから葬儀はちゃんとやるわ。でも、遺言書のことについては、またゆっくりと話をさせてもらうから」
「金に執着するなよ」
「お金じゃないわ。気持ちの話をしてるのよ」
その後の葬儀は、重い空気のまま進んだ。参列者の中に、父と長年親交のあった藤田さんの姿があった。母は喪主として、久しぶりに会う藤田さんに頭を下げた。
「藤田さん、お久しぶりです。実はつい先ほど、夫が天国へと旅立ちました」
「え、達彦さんが入院をされてたとは聞いてましたが……お悔やみ申し上げます」
「生前、夫と仲良くしてくれて、本当にありがとうございました」
「いえ、それはこちらこそです。妻の私にも、達彦さんはいつも優しく接してくださいました。引っ越してきたばかりで知り合いもいなかった私には、達彦さんの存在はとても大きかったんです」
母はそれを聞いて、少しだけ心が揺れるのを感じた。夫が実は家族以外の人にも、とても大事に思われていたということ。それが、今の状況の中での小さな救いのようだった。
「正直、まだショックから立ち直れていないんです。色々と知りたくもないことを知ってしまったので」
「そうなんですか」
「はい。これは夫婦のことですから、もちろん深く聞いたりはしません。ただ、これだけは伝えておきます。達彦さんは、いついかなる時も奥様に対して感謝の気持ちを持っておられましたよ」
「本当でしょうか。私はもう、夫の気持ちが分かりません」
「本当です。私の前では、会うたびに奥様のお話をされてましたし」
「ありがとうございます。そう言っていただけると、嬉しいです」
「実は、藤田さんに連絡したのは、夫からの要望だったんです」
「そうだったんですか」
「『あの世に言った後のことは、藤田さんに任せておけばいいから』と」
「なるほど。そういうことだったんですね。……奥様は、聞いてらっしゃらなかったんですか?」
「何でしょうか?」
「十年前に、達彦さんが今回とはまた別の大病を患われたことは覚えてますか?」
「もちろんです。あの時も私は夫との別れを覚悟しました。手術がうまくいって回復しましたが」
「その時に、達彦さんからあるものを預かっていたんです」
「あるもの?」
「おそらく、その達彦さんは言いたかったのでしょう。詳しい話は、葬儀を終えてからにしましょう。まずは達彦さんを天国に送り出さないと」
「そうですね。では、明後日が通夜で、その翌日が葬儀となっておりますので」
「分かりました。必ず参列させてもらいます」
葬儀が終わり、一週間が過ぎた。私は母に連絡を入れた。
「母さんか。通夜も葬儀も終わったんだし、話し合いをしよう」
「話し合いなんて必要ないよ。遺産は全て俺たちのものになる。家も金も、全部俺のものだ。遺言書にはそう書いてあるんだよ」
「あんたに遺言書は渡したはずだぜ」
「やっぱり、あの遺言書には納得できないのよ。親戚やお父さんの仕事仲間と話して、確信したの。お父さんが私を排除するようなことをするはずないって」
「じゃあ、その遺言書は何なんだよ。俺は直接父さんから渡されたんだぞ」
「他に何か話は聞いてないの?」
「あなたに遺産を全て渡す理由があるの? あるとしたら、あんたに一文も渡したくないってことだと思うぜ」
「そんなはずは」
「だから、もうその家は俺たちのものだ。部外者はさっさと出て行ってもらえるか」
「え、私を追い出すつもりなの?」
「当たり前だろ。父さんが死んで遺産も手に入ったし。ババアは不要だよ。さっさと出ていけ。縁も切るから」
「どうしてそんなひどいことを言うの? 私のことをババアなんて言ったことなかったでしょ」
「腹の中ではずっと思ってたんだよ。さっさとお前ら二人と縁を切りたいってな。父さんがあの世に言ってくれたから、あとはあんたと縁を切れば、俺は晴れて自由のみだ。親という風がなくなって、ようやく人生を謳歌できるぜ」
「あなた、そんな風に思ってたの?」
「そうだよ。親父があの世に行くのを心待ちにしてたんだ。そのために実家に帰ってきたんだから」
「お父さんのことを心配して帰ってきてくれたんじゃなかったの?」
「そんなわけねえだろ。本当なら十年前にあの世に言ってたはずなのに、生きながらえやがって。まあその分、資産も溜まってるだろうから、よしとしてやるか」
「お父さんが亡くなったのを喜ぶみたいな言い方しないで」
「実際に喜んでるんだから、仕方ないだろう。とにかく、その家はもう俺たちのものだから、さっさと出ていけよ」
「なんで私が……」
「まあでも、さすがに俺もいきなり追い出すようなことはしねえよ。新しい家が見つかるまでは、そこにいていいぜ。特別に許可してやる。ただし、期限は俺とひろ子が海外旅行から帰ってくるまでだ」
「海外旅行に、なんて行くの?」
「そうだよ。親父が亡くなったお祝いでな。これから大金も家も手に入るし、バーッと遊ぼうって話してたんだ」
「最低。お父さんはいつまでもあなたたちのことを思っていたのに」
「そんなの関係ない。それじゃ、俺たちはもう空港に向かってるから、さっさと引っ越し先を見つけておいたほうがいいぜ」
「それがあなたたちの本音ってわけね」
「そうだよ。今まで猫を被ってたのに、疲れたわ」
「分かった。あなたたちの好きにしたらいいわ」
「そうか。じゃあ、さっさと出て行ってくれよ」
「後悔しないでね」
「ねえよ」
その五日後、私の家に一通の電話が入った。
「お母さん、家を出る前に、その家を掃除して綺麗にしてもらっていいですか?」
「なんで私がやらないといけないのよ」
「今まで散々その家にお世話になったんでしょう? 単なる専業主婦なのに、いい家に住ませてもらって。その感謝とかないんですか?」
「だとしても、あなたたちに言われる筋合いはないわ」
「お知らずのお母さんなら、さっさと出ていきそうだなと思ったので、言ってあげたんですよ。そんなの不要よ。家を出る時はゴミは全て捨てておいてくださいね。お母さんの私物なんて、一つも残さないでください。私たちがこれから生活する上で、不必要なものがあるとすごく不快なんで、そこはお願いしますよ」
「……ああ、そう。分かったわよ。綺麗に掃除をしておいてあげるわ」
「ありがとうございます。それじゃあ、もう二度と私たちに関わらないでくださいね」
「ええ、そうさせてもらうわ」
母は静かに電話を切り、その日から三日かけて家の中を全て整理した。何かを決心したかのように、黙々と。
二週間後、海外旅行から帰ってきた私を待っていたのは、更地だった。
「おい、これはどういうことだ?」
私はその日のうちに母に電話をかけた。
「何よ、いきなり」
「家はどうした? 海外旅行から帰ってきたら、家がなくなって売り地になっていたぞ」
「そうそう。家を解体して更地にしたのよ。そうしないと買い手がつかないって、不動産屋さんに言われたからね」
「はあ? なんでお前がそんな勝手なことをするんだ? あそこは俺の家だぞ」
「何を言ってるの? 違うわよ」
「相続したら、俺のものになるんだよ」
「バカねえ。本当にあんたは何も知らないんだから」
「どういうことだ?」
「あの家は私のものなのよ。お父さんが十年前に大病を患った時に、私に名義変更をしていたの。『これからは私が管理をすることになるからね』って。だからあれは相続の対象じゃないの」
「そんなの聞いてないぞ」
「そりゃ、いちいち言う必要ないもの。名義人が誰であろうと関係ないと思ってたから。でも、言わなくてよかったわ。じゃないと本気で奪われた可能性もあるからね」
「これからこの家はどうなるんだ?」
「家はもうないじゃない。土地は誰かが買ってくれるわ。私はもう不動産屋さんに売ってるから、それである程度のお金をもらってるわ」
「なんでそんな勝手なことをするんだよ」
「元々老朽化も激しくて、リフォームするかどうか悩んでいたのよ。でも、あなたたちに奪われそうになったから、それならもう壊して売っちゃったほうがいいと思ったの」
「そこまでしなくてもいいだろう」
「家の名義は自分にあるって説明すれば済む話よ。それであなたは納得した? 無理やりにでも私から家を奪おうとしたんじゃない? 私は身の危険を感じたから、家を処分して別のところに引っ越したの。もちろん、どこにいるかは絶対に教えないわ」
「ふざけるなよ」
「ちなみに、あなたたちの荷物は全てトランクルームに預けてあるからね。鍵が必要になったら、藤田さんに連絡をして。連絡先は私が教えるわ」
「藤田って、父さんが仲良くしてたあの男か?」
「そうよ。手続き関係のこととかは、藤田さんが代理人となってやってくれるから」
「なんでそいつが相続の手続きをやってんだよ」
「だから、相続周りのことは全部任せてあるからよ。それが大事でしょ」
「分かったよ。とりあえず、そいつの連絡先を教えてくれ」
その五分後、私は藤田さんに電話をかけた。
「トランクルームの鍵をくれよ。母さんから話は聞いてるだろう」
「ああ、分かった。トランクルームの住所を送ろう。そこで鍵を渡すよ」
「それと、相続のことなんだけど、いつになったら俺は金を受け取れるわけ?」
「お金? 父さんの資産だよ。全額、俺のものになるんだ」
「残念だけど、そういうわけにはいかないんだ」
「はあ? どういうことだよ」
「君は、遺言書を捏造したね。それは絶対にやってはいけないことだよ」
「捏造だと? どこにそんな証拠があるんだよ」
「私が、本物の遺言書を管理してたからだよ」
「なんだと?」
「十年前に達彦さんが病気で入院された時に、私は直接『遺言を預かっておいてくれ』とお願いされたんだ。おそらく、その時に死を悟ったんだろう。ただ、無事に直って元気になられたんだけど、遺言はずっと私が管理していた。だから、君が達彦さんから渡された遺言書は、確実に偽物なんだ」
「あの親父、先に書いてやがったのか……」
「そうだね。中には、『遺産は君と奥さんで半々にするように』としっかり書いてあった。だから君が全額もらえるというのは、ありえないんだよ」
「マジかよ」
「それだけじゃない。まだ伝えないといけないことがある」
「もういいよ。半分でもいいから、さっさとしてくれ」
「ちょっと待ってくれ」
「黙れ。これ以上、あんたと話すことなんてない。さっさと俺の口座に半分の金を振り込め。それでこの話はもう終わりだ」
翌日の昼下がり、私のスマホに一通のメッセージが届いた。ひろ子からだった。
「お母さん、お願いがあるんです。一度、私と会ってくれませんか?」
そのメッセージを見て、私は何かがおかしいと直感した。ひろ子が、あんなに嫌っていた母に、自分から会おうなんて、ありえない。私はすぐに、母の新しい住所を調べるために、藤田さんに問い合わせようと思った。だが、その前に、ひろ子が母に送ったというメッセージの内容を、私はもう一度読んでみた。
「え? なんでよ。あなたとも縁を切ったんじゃないの?」
「あんなの本気で言ってるわけないでしょ。私はお母さんのことを心から大切だと思ってるんですよ。一緒に住んでる時も、本当にお世話になったと思ってるんですから」
「じゃあ、なんであんなことをしたのよ」
「ひろ子から命令されたんです。『生活費を減らさないといけない』って言われて、私は本当にちゃんと抵抗をしたんですよ。でも、そんな話を誰が信じるって言うのよ。命令されてたにしては、随分ひどいことを言ってきたわよ。あれが演技だとしたら、あなたは今すぐに女優になったほうがいいわ。そっちのほうが普通に稼げると思うから」
「お母さん、私は真剣に言ってるんです。私はあなたたちに関わりたくないわ。ひろ子が何をしてくるか分からないもの。身を守るためにも、距離は置かせてもらいたい」
「分かりました。じゃあ、二人だけで会いましょう。私も正直、あいつが怖いんです。遺産が全額もらえないって分かってから、すごく不機嫌になってて、今、私たちはホテルで生活してるんです。そこのレストランで落ち合いましょうよ。ひろ子は仕事中なので、安心して会えますよ。住所を送りますね」
そういうやり取りを見て、私は確信した。ひろ子は母と裏で繋がっていたのだと。いや、もしかすると、ひろ子の方が母を利用しているのかもしれない。そのどちらにせよ、私はもう全てを信じることができなかった。
結局、ひろ子は母と会うことができなかった。母が、ひろ子の借金のことを知ってしまったからだ。父の家を解体した際、トランクルームに預けていた荷物を整理していると、ひろ子の消費者金融からの催促状の束が出てきたのだという。母はそれを見て、ひろ子に悟られないようにしている。ただ、ひろ子には「貸すつもりはない」と伝えた。
「どうしてですか? 遺産も入ってきたし、家を売ったお金だってあるんでしょ? それで片付けくらいしてくれてもいいでしょ?」
「いやよ。赤の他人のために、どうしてそんなことをしないといけないの?」
「必ず返します。だから、とりあえず貸してください」
「返せるの?」
「当てがあるんです」
「そうだったら、直接伝えたほうがいいわ」
「どういうことですか?」
「家を解体する直前くらいに、取り立ての人がうちにやってきたのよ。あなたが返済をしないから、直接取り立てに来たみたい。それで事情を話して、連絡先だけ交換しておいたの。その人に、あなたの止まってるホテルの住所を送っておいたわ。だから、詳しい話はその人としてよ」
「……なんで、そんなことをするのよ」
「返せるんでしょ? だったら、私じゃなくて、まずは借りてる会社に返すべきよ」
その三日後、私は藤田さんからの電話を無視し続けていた。そんな私に、母が直接電話をかけてきた。
「ねえ、藤田さんの連絡をどうして無視するの?」
「もう、あいつと話すことなんてねえんだよ」
「遺産のことは、ちゃんと話してないんでしょ?」
「したよ。半分しか受け取れないんだろう。あのバカ親父が。なんで半分しかくれないんだよ」
「そういうルールだから、仕方ないのよ」
「マジで、しょうもねえな。親父がちゃんとしたことをしなかったんだから、せめて遺産くらいは全部くれよ」
「何を言ってるの? お父さんは、あなたのためにできることをやったわ」
「あいつが金持ちだったら、俺は仕事もせずに楽して生活ができたんだ。そんな環境くらい用意しろって言ってるんだよ」
「バカを言わないで。そんなに金持ちになりたいのなら、自分で努力すればいいだけでしょ」
「そういうのは、めんどくさいんだよ」
「もういいわ。あんたなんて、息子でも何でもないんだから。好きなようにしなさい」
「そうさせてもらうよ。あと、さっさと半分の遺産を俺によこせ。投資でもして金を増やすつもりなんだ。早くしろよ」
「どうしてあんたが遺産を受け取れるのよ」
「はあ? 俺は息子だぞ。縁を切ったから受け取れないとか思ってるの? 法律を勉強しろ」
「法律を勉強しないといけないのは、そっちよ。『相続欠格』って知らないの?」
「なんだよ、それ」
「遺言書を捏造したり偽造したりした人間は、相続権を失うっていう法律よ。あなたは、まさにそれをやったでしょ。だから、あなたは遺産を受け取る資格はないの」
「は? バカなことを言ってんじゃねえよ」
「バカじゃないわよ。藤田さんはこのことをあなたに伝えようとしてたの。なのに、全然取り合ってくれないから、仕方なく私が伝えさせてもらったわ」
「嘘をつくな。そうやって遺産を独り占めするつもりか」
「ふざけないで。そんなわけないでしょ。ルールに乗っ取ってやってるだけ。あんたは自ら遺産を受け取るチャンスを失ったの。そのことを自覚しなさい」
「いや、ちょっと待ってくれよ。俺、金がねえんだって。遺産が入ると分かったから、海外旅行でかなり羽目を外しちゃったんだよ。もう、それで貯金がなくなってるんだ」
「そんなの知らないわよ。バカなことをするから悪いんでしょ」
「頼むよ。母さんのほうでなんとかしてくれ。半分は俺にくれよ。じゃないと、マジでピンチなんだ」
「私がそんなことするわけないでしょ」
「なんでだよ。息子だぞ。家族じゃないのか」
「あんたは、その家族であるお父さんが死んだことを喜んでたでしょ。そんな人間を、私は許すつもりはないから」
「私だって最初は、遺産に手をつけるつもりはなかった。あなたたちと一緒に暮らしてるんだから、あなたたちが好きなことに使っていいと思ってた。私はもう、家があってあなたたちと一緒にいられたら、それでいいと思ってたからね。お父さんだって、きっとそういう気持ちがあったと思う。でも、あんたたちは、そんな私たちの気持ちを踏みにじった。そんなことをする人間を、手助けしたりなんてしないわ」
「頼むよ。見捨てないでくれ」
「いやよ。これでお別れよ。あんたたちという風がなくなったから、これから私は人生を謳歌するつもりでいるの。お願いだから、邪魔だけはしないでね」
母はそう言って、電話を切った。
その後、ひろ子と私は離婚した。ひろ子には多額の借金があったことが知られ、私は借金を理由に見捨てる形で離婚を選んだ。それから私は一人暮らしを始め、昼夜働き詰めでお金を稼いだ。だが、手元にお金ができると、返済もせずにギャンブルに注ぎ込んだ。少しでも早く失った遺産を取り返したかったのだ。
結局、私は遺産を受け取ることはできなかった。相続欠格という法律が、私の相続権を完全に奪っていたのだ。さらに、私は投資で一攫千金を狙い、怪しい仮想通貨に手を出して、最終的に貯金もすべて失った。
母は新しい家で新生活を始めた。息子夫婦を失い、夫も亡くなったが、それでも一人で強く生きていた。夫がどんなに辛い状況でも、決して挫けずに立ち向かっていた姿を思い出しながら、母は笑顔で暮らしていた。
その話を風の噂で聞いた時、私は初めて、自分が捨ててしまったものの大きさに気づいた。父は私のために、できる限りのことをしていた。母は私とひろ子と一緒に暮らせることが、ただただ幸せだった。なのに、私は全てを自分の手で壊してしまった。
もう、戻れないことを、私は深く噛み締めた。



