「リストラされた。俺なんてもう生きてる意味がない。」
真剣な顔でそんなことを言う夫に、私はただ驚くことしかできなかった。
「本当なの? 」
「こんな嘘つくか。」
彼は同期5人のうち自分だけがリストラを告げられたと言った。5年間必死に働いてきたのに、他の4人よりも遅くまで働き、結果も出してきたのに。
「なんで俺なんだよ。あの4人より絶対に俺の方がやってきたのに。」
「仕事頑張ってたの私知ってるよ。理由は聞けなかったの? 」
「人事部の判断としか言われなかった。」
その日はたまたま、私が受けていた宅地建物取引士試験の合格発表の日だった。
「そういえば今日合格発表じゃなかったか? 」
「ああ。うん。気を使わなくていいよ。」
「受かったんだな。おめでとう。」
「ありがとう。」
私は合格していた。会社に登録すれば資格手当てが月5万円つく。そんな私に、彼は言った。
「お祝いにどっかご飯でも食べに行くか。焼肉とか寿司とかどうだ?

」
「いや、いい。少し一人になりたい。」
「ちゃんと帰ってくるよね。」
「ああ、大丈夫。」
数日間、彼は引き継ぎのために会社へ出社し、その後は有給休暇を消化するだけだと言った。私はできる限りのことをしようと思った。
1週間後、彼は部屋にこもったままだった。お風呂にも入らず、ご飯もほとんど食べていない。
「少しは部屋から出てきたら? お風呂も入ってないし、ご飯も食べてないでしょ。」
「ほっといてくれ。」
「辛いのは分かるけど、体を壊したら倒れちゃうよ。」
「は? 俺が体を壊して働けなくなったら価値がないって言いたいのか? 」
「飛躍しすぎだよ。誰もそこまで言ってないじゃん。」
「お前にはリストラされた俺の気持ちなんて分かるか。」
「ごめん。しばらく休んで、私は仕事に行ってくるね。」
「勝手にしろ。」
私は何も言えなかった。彼が少しでも落ち着くのを待つしかないと思っていた。
それから1週間後、私は彼の同期の妻である香織さんから連絡を受けた。彼女の夫・琢磨さんについて相談したいと言うのだ。
「実は琢磨なんですけど、すごく落ち込んでて、食事もほとんど食べてなくて。」
「リストラされたって言ってたから、当然ですよね。」
「ちょっと待って。リストラって何?
」
「同期5人のうち自分だけがリストラを勧告されたって、すごく落ち込んでて。」
「いや、違いますよ。あいつ、自分から辞めたんです。上司も引き止めたけど、意志が硬かったみたいで。送別会もしましたよ。今でも仲間だと思ってます。」
「本当ですか? じゃあ、なぜあんな嘘を? 」
「分からないけど、夫婦の間で嘘は良くないですね。俺が代わりに問い詰めてやりましょうか? 」
「いえ、大丈夫です。とりあえず、このことは聞かなかったことにしていただけませんか?
」
「そうしましょう。何か分かったら教えてください。」
「はい。お忙しいのにすみませんでした。」
「いや、こちらこそ。何かあったら相談して。」
私は会社から帰って、彼に問い詰めることにした。彼はまだ部屋にこもっている。
「しばらく実家に帰るわ。」
「どうして? 」
「お前じゃ癒されないから。」
「私はどうすれば良かったの? 部屋にこもってばかりで、話もできないじゃない。」
「そうやって俺を攻めることしかできねえのかよ。」
「そういうあなたは、何か私に隠してることないの? リストラされたってこと以外、何も聞いてないのよ。どういう経緯で何があったのか、少しは教えてよ。」
「お前に言ったところで理解できるわけないだろ。」
「分からないと寄り添えないじゃない。」
「だからもういいって言ってるんだよ。母さんのカレーを食べた方が元気が出るわ。」
「私だって心配してたのに。」
「距離を置くべきだ。また連絡する。」
彼はそう言って、実家へ帰っていった。私はただ茫然とその背中を見送ることしかできなかった。
1ヶ月後、香織さんから連絡があった。彼女の夫・琢磨さんが辞めた本当の理由が分かったという。
「かおりちゃん、あいつが辞めた理由、分かったわ。」
「どういうことですか?
」
「同期4人で上司を誘って飲みに行って、いろいろ聞いてみたらびっくりするような内容が聞けたの。」
「起業するって言ってたらしいの。何の業種かは分からないけど、もう何をするか決まってるような口ぶりだったみたいよ。」
「私は何も聞いてないです。せめて相談して欲しかった。これはちょっと…」
「念のため、家のお金とかは守っておいた方がいいよ。」
「そうですよね。」
そして、1週間後。彼が突然、実家から戻ってきて、とんでもないことを言い出した。
「お前の宅建資格を勝手に使って起業したわ。」
「は? 何の冗談? 」
「不動産で開業することにしたんだよ。」
「私の資格を使うって、何言ってるの? 」
「夫婦なんだから共有財産だろ。黙って協力しろ。」
「私は会社で登録するために資格を取ったんだよ。他の人に取らせればいいじゃん。お前は落ちたことにしとけ。受験費用も会社の費用で払ってもらったの。そんなことできるわけないでしょ。」
「リストラされて再起しようとしてるのに、お前に邪魔する権利があるのかよ。いつまで被害者面するつもりだ?
」
「よくそんなこと言えるね。私が何も知らないと思ってるの? 」
「何を知ってるんだよ。」
「言わないわ。」
「は? ハッタリかけてるだけだろ。」
「あなたが隠し事するからでしょ。とにかく、私の新しいスタートの邪魔をするな。」
「する気もなければ、応援する気もないわ。」
「お前はそれでも嫁か。」
「もう嫁じゃなくなるかもね。」
「なぜだよ。」
「平気で隠し事した上に、人の資格を使って起業するとか、訳の分からないことを言うようなアホだとは思わなかったからよ。」
「分かってないのはお前だ。お前は会社を辞めて、俺の作る新しい会社に入社するんだよ。」
「勝手に決めないで欲しいんだけど。」
「自分が言ったんだろ。私にできることがあったら言ってって。今がその時だ。」
「アホらしい。リストラなんて嘘だって、もう分かってるのよ。」
「……分かってたのか? 」
「あなたの同期の方に聞いたのよ。自分から辞めたんだってね。本気で心配してたのに、よくそんな嘘がつけるわね。」
「傷ついてるふりをしてお前の同情を引いて、宅建資格を使わせようとしたんだろ。」
「何それ。人の気持ちを軽く見すぎでしょ。」
「騙したのは悪いけど、今後は成功していい思いさせてやる。それより、なんで嘘だって分かったんだ?
」
「あなたの同期の方に聞いたのよ。」
「どいつだ? 」
「言えない。」
「俺の成功が羨ましくて嫉んでるんだな。」
「まだ成功どころか、着手もしてないのにすごい自信ね。」
「そもそも資金はどうするのよ。事務所や備品も必要になるはずよね。」
「その件で文句があるなら、お前の通帳から使わせてもらうからな。」
「怪しいと思ったから、こっちも対策しておいただけよ。口座のお金は私が守っておいたわ。」
「仕方ないから、実家を事務所にする。1階のばあちゃんの部屋を譲ってもらった。」
「おばあちゃんはどこで寝るの? 」
「2階の俺の部屋。」
「80歳超えているおばあちゃんに、毎日階段の上り下りをさせるっていうの? 年寄りも子供も甘やかすから弱るんだ。」
「もう好きにして。」
数日後、私は会社で先輩から驚きのことを聞かされた。
「かおりちゃん、今日有給だっけ?
」
「はい。実家の法事です。」
「会社辞めるの? 」
「先輩、何言ってるんですか? 辞めませんよ。」
「だよね。宅建受かって今からって時だもんね。」
「はい。あの、なぜそんなことを言うんですか? 」
「退職願が会社に届いてたから。部長もびっくりしてたよ。お前、何かあったのかって。」
「私は出してないです。そんなもの書いた覚えもないです。あり得るとしたら、夫しかいない。」
「夫?
リストラされたって言ってたんじゃないのか? 」
「それが、実は自分から辞めただけだったんです。起業するとか言って、私の宅建資格を貸せって言ってるんです。」
「旦那、大丈夫か? 」
「やばいです。アホすぎて泣きそうです。とにかく退職届は無効にしてもらえますか? 」
「ああ、分かった。部長には俺から、いたずらだったって言っておくわ。」
「助かります。ありがとうございます。先輩、ちょっと面倒をかけてすみません。」
「気にするな。ただ、これは冗談で済まないレベルだぞ。いろいろ気をつけた方がいい。」
彼に電話をすると、彼はあっさり認めた。
「随分なことしてくれたわね。」
「何がだ?
」
「勝手に退職願を会社に送るなんて、何やってるの? 調べたら、お前がその会社の社会保険に入ってたら、うちの会社で登録できないらしいんだよ。」
「私は今の会社を辞める気はないって言ってるよね。」
「俺と働いた方が楽しいに決まってるだろ。」
「それは私が決めることだから。そもそも、お前の新しい会社は、出した申請が通らないんだよ。」
「なぜだ? 」
「宅建の登録には、事務所に専任の宅建士がいる必要がある。お前は名義だけ借りるつもりだろうけど、それも違法よ。私は通報したわ。あなたがやったことは文書偽造で違法よ。」
「ちょっと待てよ。名義だけ貸すってのも違法かもしれないが、お前は俺の妻だろうが…」
「もういいわ。あなたとはやってられない。」
その日、私は離婚を決意した。
数日後、彼は同期たちと飲みに行ったらしい。その帰り、久しぶりに彼から連絡が来たわけではなく、香織さんからだった。
「かおりちゃん、大変なの。琢磨が同期と大喧嘩したらしくて。しかも、どうやら炎上してるみたい。」
「炎上? 」
「SNSで、『自宅で無登録の不動産会社を経営しようとしている』って拡散されてるの。」
「それ、事実だよね…」
「でも、どうやってバレたんだろうね。あの子、自分のことを完全に隠してたつもりだったみたいなんだけど。」
私は思った。あのバカは、ネットに名義貸しの業者を募集する投稿をしていた。それに乗った自称宅建士が、実は資格もない詐欺師だったらしい。そして、その人物が開業後も動向を追っていたのだろう。
さらに後日、彼は実家に追い出されたと香織さんから聞いた。
「ばあちゃんが階段から落ちて、骨折したんだって。治療費100万円を請求されて、さらに実家に看板を設置して営業しようとしたから、近所からも苦情が来て。」
「そりゃそうなるわよね。」
「で、今は行くところがないんだって。同期にも全員断られたって落ち込んでたわ。」
1週間後、彼から最後の連絡があった。
「すまん。もう終わりだ。全部無駄だった。」
「そうね。」
「お前は最後まで俺の味方だったのに、俺は…」
「あなたは自分で選んだ道でしょ。私はただ、自分が間違ってない道を歩くだけよ。」
「また、やり直せるかな?
」
「私には分からない。でも、あなたはまた同じことを繰り返すと思う。自分が正しいと思い込む限りは。」
「そうかもしれないな。」
その通話を最後に、私たちは正式に離婚した。私は会社に残り、宅建士として正式に登録された。資格手当てもつき、仕事はますます充実している。
あの人は、自分の嫉妬とプライドで、全てを失った。同期との絆も、妻との関係も、家族からの信頼も。
私は思う。大切なのは誰かを見返すことじゃない。自分が納得できる場所で生きること。それに気づけたことが、せめてもの救いだった。


