「何この匂い?なんかカビ臭くない?」
その言葉を聞いた瞬間、私は台所で手を止めました。リビングから聞こえてきたのは、息子の嫁・美玲の声。しかも「特にお母さんが通った後は、古い匂いがするのよね」と言っているのです。
まるで私がそこにいないかのように。私は安藤キヌ子、68歳。陶芸家として26年間作品を作り続けてきました。この家で家族のために尽くしてきたつもりでした。でも今聞こえた言葉は、私の存在そのものを否定するかのようでした。
「もしかして、お母さんの部屋がカビてるんじゃない?」
美玲の言葉に息子の優馬は曖昧に返事をするだけ。夫の数夫も新聞を読みながら何も言いません。誰も私をかばってはくれない。その静寂が胸を締め付けるように苦しかった。
私が陶芸を始めたのは42歳の時。最初は趣味のつもりでした。でも幸運なことに、私の作品は徐々に評価されるようになり、気づけば26年。地元では知られた陶芸家になりました。個展は年に2回、26年間で計52回。作品の平均単価は8万円。年間40点ほどを販売し、さらに陶芸教室も運営。生徒は15名で月謝は1万円。年間の収入は約680万円。26年間で総額1億5000万円を超える収入を得てきました。
そしてそのお金は全て家族のために使いました。優馬の大学費用450万円。優馬と美玲の結婚式200万円。新婚旅行のハワイも。2人のマンション購入時の頭金には800万円を出しました。息子への援助額は1500万円を超えます。
今の私の扱いはあまりにも冷たい。カビ臭いと蔑まれ、自分の家なのに居場所がないのです。長い間家族のために尽くしてきたのに、この報いは何なのでしょう。
あの日から美玲の態度は日に日にひどくなっていきました。翌朝、私が使った食器を美玲が別のスポンジで洗っていることに気づきました。私が触った調味料の瓶を消毒スプレーで拭いているのです。
「優馬、お母さんの服は別で洗ってね」
「え、でも別にそこまでしなくても…」
「だって匂いが移るでしょう。見た目も気になるし」
美玲の声には、反論を許さない強さがありました。数夫も隣で様子を見ていましたが、何も言いません。私は自分が家族の中で異物扱いされていることをはっきりと感じました。
1週間が過ぎた頃、状況はさらに悪化しました。美玲が友人を家に招いたのです。私は工房で作品の手入れをしていましたが、階段を降りようとした時、会話が耳に入ってきました。
「もう本当に限界なの。古い人と一緒に住むって想像以上に大変で」
「わかる。匂いとかになるよね」
「そうなのよ。もう耐えられなくて。早くどこかに行ってほしいって毎日思ってる」
私は階段の途中で立ち尽くしました。胸が痛くて息が詰まりそうでした。
さらに数日後、決定的な出来事が起こります。工房から戻ると、美玲が私の作品を勝手に触っていました。20年かけて作り上げた大切な花瓶。
「美玲さん、それは…」
「あ、これもう使ってないガラクタかと思って、片付けようと思ったんです」
ガラクタ。その言葉が胸に突き刺さります。
「これ、古臭いデザインですよね。今時こんなの誰が買うんですか?」
私の人生そのものである陶芸を、彼女は簡単に否定しました。怒りと悲しみで言葉が出てきません。
そして10日後、ついに決定的な瞬間が訪れました。優馬と美玲が「話がある」と私を呼んだのです。数夫も同席していました。
「母さん、実は俺たち考えたんだけど…」
「はっきり言いますね。お母さんには出て行ってもらいたいんです」
私の頭が真っ白になりました。
「おばあちゃん、正直一緒に住むのが苦痛なんです。もう我慢できません」
「優馬、あなたもそう思ってるの?」
息子の顔を見つめると、優馬は目をそらすだけ。
「美玲も大変だと思うし…」という曖昧な返事。それが息子の答えでした。
「数夫、あなたは…」
「若い2人のためには、その方がいいんじゃないか」
私は絶望しました。家族全員が私の敵に回ったのです。
「それにお母さんの作品、もう売れてないんでしょう?だったらなんで家にお金を入れないんですか?」
「それは自分の老後のために貯めていて…」
「やっぱり!こっちは家のローンを払ってるのに、自分のお金ばっかり溜め込んで」
「でも私、頭金で800万円出したでしょう?」
「え、それ姑さんが出したって聞いてますけど」
「まあ、夫婦の金だから同じようなものだろ」
数夫がごまかすように答えました。私の貢献が、こうして簡単に消されていく。26年間の努力が、家族への献身が、まるで存在しなかったかのように。
その夜、私は一睡もできませんでした。
翌朝、ドアをノックする音が聞こえました。返事を待たずに開いたドアの向こうには、ダンボール箱を抱えた美玲が立っていました。
「早く出て行ってもらいたいので、荷造りのお手伝いをしますね」
彼女は笑顔すら浮かべています。まるで何か良いことをしているかのように。
「美玲さん、勝手に私の部屋に…」
「だってお母さん1人じゃ時間がかかるでしょう。こっちも早く片付けたいんです」
美玲は私の返事を待たず、クローゼットを開け始めました。大切にしまっていた服を次々とダンボールに詰め込んでいく。
「ちょっと待って…」
「それは古い服ばっかりですね。全部捨てちゃえばいいのに。引っ越し先で場所取るだけですよ」
私の大切な思い出の品々が、ゴミのように扱われていきました。優馬に話しかけても「仕事です。お母さんのために休めるわけないでしょう」と美玲が遮ります。もうこの家には私の居場所がないのだと、改めて思い知らされました。
午後になって数夫が帰ってきました。最後の望みをかけて夫に話しかけます。
「あなた、本当にこれでいいの?」
数夫は新聞から顔を上げません。
「仕方ないだろう。俺だって優馬たちと住み続けたいし」
「じゃあ、あなたも一緒に出ましょう。2人で新しい場所を探せばいい」
「俺が出る理由なんてないだろう」
「理由?私が出ていくならあなたも一緒じゃないの?夫婦でしょう」
「大げさに考えるなよ。近くにアパートでも借りればいいじゃないか。そんなに遠くに行くわけじゃないんだから」
この人は本当に何も分かっていない。長年支え合ってきたと思っていた夫婦の絆が、こんなにもろかったなんて。
「今までずっとあなたを支えてきたのに」
「だから感謝してるって言ってるだろう。でももう時代は変わったんだよ。息子夫婦の時代なんだ」
時代。その言葉で全てを片付けようとする夫の姿が、急に小さく見えました。
翌朝、私は荷物をまとめました。長年住んだこの家を出る日です。玄関に立つと、美玲と優馬が見送りに出てきます。でも数夫の姿はありません。
「お父さんは?」
「部屋にいる。ちょっと気まずいんだと思う」
気まずい。その言葉で済ませられるのでしょうか。
「じゃあ鍵を返してください」
鍵。その言葉に一瞬耳を疑います。
「当然でしょう。もうここはお母さんの家じゃないんですから」
美玲の手が私の前に差し出されます。私は震える手でポケットから鍵を取り出しました。何十年も毎日使っていた鍵。この冷たい金属が、私とこの家をつなぐ最後の絆だったのです。鍵を美玲の手に渡した瞬間、何かが音を立てて崩れていくのを感じました。
「優馬…」
「ごめん、母さん」
優馬は小さく謝ります。でもそれだけでした。
「でも美玲も大変だから…俺は…」
優馬の言い訳が虚しく響きます。
「あ、それと」と美玲が付け加えます。「今後は連絡も控えてくださいね。正直お母さんとは関わりたくないので。優馬も忙しいですし、連絡されても困るんです」
家を追い出されるだけでなく、家族との繋がりまで断たれる。これほどの屈辱が他にあるでしょうか。私は何も言わず玄関を出ました。後ろでドアが閉まる重い音が聞こえます。振り返ることなく私は歩き出しました。
タクシーに乗り込み、近くのビジネスホテルへ向かいました。車窓から見える町の景色が、いつもと違って見えます。今まで当たり前だと思っていた日常が、一瞬で消え去ったのです。
ホテルの部屋で、ようやく1人になれました。ベッドに座り込み、深く息を吐きます。涙は出ませんでした。悲しみを通り越して、何か別の感情が湧き上がってきたのです。それは、冷たく静かな決意でした。
バッグの中から通帳を取り出します。メインバンクの普通預金500万円、定期預金2500万円。そして家族が知らない別の銀行口座に1000万円。合計4000万円。26年間コツコツと貯めてきたお金です。家族のために使おうと思っていました。でも、その必要はもうありません。
通帳を見つめながら、私の中で何かが決まっていきます。明日、私は銀行に行く。そして全てを変えるのです。
カビ臭いと蔑まれ、家を追い出された私。でも彼らはまだ知りません。本当に恐ろしいのは、これからだということを。
翌朝、私は早く目を覚ましました。鏡の前に立ち、自分の顔を見つめます。昨日までの私とは何かが違う。目に強い光が宿っているのです。クローゼットから、普段着ない上等なスーツを取り出しました。紺色の仕立ての良いスーツ。陶芸家としての公式行事のために、数年前に誂えたものでした。丁寧にメイクをし、髪もきちんとセットします。鏡に映る自分の姿を見て少し驚きました。そこにいたのは、カビ臭い老女ではありません。26年間プロフェッショナルとして生きてきた、凛とした女性の姿でした。
「さあ、行きましょう」
ホテルを出て、私は26年間通い続けた銀行へ向かいました。作品が売れる度、教室の月謝が入るたび、必ずここに貯金してきました。いつか家族のために使う日が来ると思って。息子の将来のために、孫ができたらその教育費のために。そう信じてコツコツと貯めてきたお金です。でも今日は違います。今日は私自身のためにこのお金を使う日なのです。
窓口で定期預金も含めて全て解約したいと伝えると、行員は明らかに驚いた様子を見せました。やがて支店長が現れます。
「安藤様、これはこれはお久しぶりです」
「支店長、本日は全額解約に参りました」
「全額ですか?それは…3000万円全てということでしょうか?」
「ええ、そうです」
「何か当行のサービスにご不満な点でも…」
「いいえ、そういうわけではありません。ただ、使い道ができたので」
手続きが進む間、支店長は私に話しかけてきました。
「安藤様の陶芸作品、私の妻も大変なファンでして。先月の個展にも妻と一緒に伺わせていただきました。新作の花瓶、本当に素晴らしかったです」
私の作品をそんなに評価してくださっていたのですね。心の中で少しだけ、嬉しさが湧きました。
手続きを終え、銀行を出ます。バッグの中には現金が入っています。でも不思議と重さは感じませんでした。むしろ、心が軽くなったような気がするのです。もう1つの銀行へ向かい、そこにある1000万円も全て引き出しました。26年間家族のために貯めてきたお金。でも今日から、これは私だけのものになる。私の自由のための、私の未来のための資金になるのです。
ホテルに戻ると、携帯電話が鳴り始めました。優馬からです。でも私は出ません。次に美玲から。それも無視します。数夫からも電話がかかってきました。着信は止まりません。メッセージも次々と届きます。でも私は全てを無視しました。彼らが何を言いたいのか想像がつきます。きっと銀行から連絡があったのでしょう。私が全額引き出したことを知り、慌てているのです。でももう遅い。私はもう戻りません。
その日の夕方、ホテルの部屋でお茶を飲んでいると、携帯電話が再び鳴り始めます。優馬から5回目の着信です。でも私は画面を見るだけで出ることはありません。彼らが今どんな状況に陥っているのか想像するだけで、不思議と心が落ち着いていきます。
実は私が毎月振り込んでいた15万円。あれは優馬たちのマンションのローンの一部だったのです。でも彼らはそのことをあまり意識していませんでした。当然のように受け取り、感謝の言葉もありません。その援助が今日から止まる。銀行口座も全て空になっている。きっと今頃、青ざめているはずです。
翌日の午前中、ホテルのフロントから内線がかかってきました。
「安藤様、お客様がお見えです。息子さんとそのご家族だとおっしゃっていますが…」
ついに来たか。でも慌てる必要はありません。私は鏡の前で髪を整え、凛とした表情を作りました。準備は整っています。
エレベーターでロビーに降りると、優馬と美玲が立っていました。2人とも疲れきった顔をしています。
「母さん…」
「どうしたの?何か用事?」
私は穏やかに、でも冷たく尋ねました。
「お母さん、どうしてこんなことを?」
「こんなこと?何のことかしら?」
「4000万円も引き出すなんて。銀行から連絡があったんです」
「私のお金を引き出して、何か問題でも?」
2人は言葉を詰まらせます。
「でも家族なんですから、急にそんな…」
「家族?あら、もう家族じゃないんじゃなかったかしら」
私の冷たい視線が美玲を射抜きます。彼女の顔がみるみる青ざめていきました。
「母さん、俺たち本当に困ってるんだ」
「困ってる。それは大変ね」
「ローンが払えないんだ。母さんが毎月振り込んでくれてた15万円。それがないと…」
私は小さく笑いました。
「そう、私が毎月15万円も援助していたこと、ようやく気づいたのね。だからそのお金を…」
「貸してほしい」
私が先回りして言うと、優馬は小さく頷きました。
「お断りします」
「なんでですか?親なのに!」
「カビ臭いと言った私にお金を頼むんですか?」
その言葉に、美玲の顔から血の気が引いていきます。
「それは言いすぎました。本当にごめんなさい」
美玲が頭を下げます。でもその謝罪に誠意は感じられません。困っているから謝っているだけなのです。
「それに、関わりたくないとおっしゃいましたよね。鍵も変えさせたじゃないですか。もう家族じゃないんでしょう」
私の言葉が、容赦なく2人を追い詰めていきます。
「母さん、俺が悪かった。だから…」
「今更ですね。お願いです。このままじゃ家を手放すことになるかもしれないんだ」
「それは残念ですね。でも、私には関係ありません」
「お母さん、冷たすぎます!」
美玲が涙を浮かべながら叫びます。
「冷たい?あなたに言われたくありませんね。私をカビ臭いと蔑み、家から追い出したのは誰ですか?」
「もう謝りました」
「謝れば済むと思ってるんですか?今までずっと家族のために尽くしてきた私を、あなたたちはゴミのように扱ったんですよ」
私の声は低く静かです。でもその怒りは確かに伝わっているはずです。
「母さん、本当に悪かった。だからお願いだから…」
優馬が土下座しようとします。でも私はそれを制しました。
「やめなさい。そんな見苦しい真似は」
「じゃあ、せめて半分だけでも…」
「1円足たりとも出しません」
優馬と美玲は立ち尽くします。
「本当に何もしてくれないんですか?」
「あなたたちが私にしたことを、よく考えてみてください」
そう言って、私はエレベーターに向かって歩き出しました。背後から優馬の声が聞こえます。でも振り返ることはしません。エレベーターに乗り込みボタンを押します。ドアが閉まる直前、2人の呆然とした顔が見えました。
部屋に戻ると、また電話が鳴り始めます。今度は数夫からです。ためらいながらも、私は電話に出ることにしました。
「キヌ子、頼む。家に戻ってきてくれ」
「お断りします」
「俺が悪かった。謝る。だから…」
「今更ですね」
「お前がいないと家がうまく回らないんだ。優馬たちも困ってる」
「それはあなたたちの問題でしょう」
「夫婦じゃないか。そんな冷たいこと言うなよ」
私は深く息を吸います。
「その長年の絆を、あなたは一瞬で裏切ったのよ。美玲が私をカビ臭いと言った時、あなたは何をしたの?私が追い出される時、あなたはどこにいたの?あなたは私より息子夫婦を選んだ。それがあなたの選択だったのよ」
「キヌ子…」
「もう電話しないでください。これ以上話すことはありません」
そう言って私は電話を切り、着信拒否の設定をしました。もう彼らの声を聞く必要はありません。
その後、様々なところから情報が入ってきました。元生徒からの連絡で知ったのですが、優馬と美玲は本当に家を手放すことになったそうです。ローンが払えず、結局は競売にかけられました。2人は小さなアパートに引っ越したそうですが、そこでの生活も順調ではないようです。お金のことで喧嘩が絶えず、離婚の危機だと聞きました。
数夫も美玲に嫌われたそうです。何の役にも立たないと言われ、結局は別のアパートで1人暮らしを始めたとか。優馬が時々顔を見せるそうですが、お金の無心をして断られているそうです。
因果応報。まさにその言葉がぴったりでした。人を蔑み、軽んじたものには必ず報いが来る。それを彼らは身を持って知ることになったのです。
私はもう彼らのことを考えません。電話もメールも全て無視しています。関わる必要がないのですから。
あれから半年が経ちました。私は新しい工房で作品作りに没頭する日々を送っています。工房は郊外の緑豊かな場所に構えました。大きな窓からは自然光が差し込み、制作に最適な環境です。4000万円の中から500万円を工房の設備に投資しました。残りは、これからの人生を自由に生きるための資金です。
「先生、今日の作品も素敵ですね」
「ありがとう。最近は本当に自由に作れるから、楽しくて仕方ないの」
心からそう答えることができます。誰にも縛られず、自分の感覚だけで作品を生み出す。この喜びを、今まで以上に感じているのです。
週に3回開いている陶芸教室には15名の生徒が通ってくれています。皆さん私の作品を愛してくださり、熱心に学んでくださる方々です。
「キヌ子さん、表情が本当に明るくなったわね」
古くからの友人がそう言ってくれました。
「そう?自分でも毎日が楽しいって感じるの。前はどこか無理してる感じがあったけど、今は違うわ」
私は長い間、家族のために自分を押し殺していたのだと、改めて気づきました。
先月開いた個展は大盛況でした。26年間の中でも、最も多くの方々に来ていただけたのです。作品も予想以上に売れました。経済的な心配はもうありません。陶芸からの収入と蓄えた資金。これからの人生を十分に豊かに生きていけます。
私は今68歳です。でも今が人生で一番幸せだと、心から言えます。自由で誰にも縛られず、自分の好きなことができる。何歳からでも新しい人生は始められるのです。
工房の作業台に、新しい作品の構想を描きます。明日から取りかかる花瓶のデザインです。自由な発想で、心のままに形を作っていく。この喜びは何者にも代えがたいものです。
カビ臭いとされた私。今は自分の人生の主人公です。誰にも遠慮することなく、堂々と生きています。人を軽んじた報いは必ず訪れる。そして正しく生きた人には必ず幸せが訪れる。これが私が学んだ真実です。
窓の外では夕日が美しく沈んでいきます。明日もきっと素晴らしい1日になるでしょう。私の新しい人生は、まだ始まったばかりなのですから。



