「お父さん、これ、何?」…

「お父さん、これ、何?」...

交差点の真ん中で立ち止まったまま、握りしめた拳の震えが止まらない。信号が青から赤に変わり、また青に戻る。周りの人々は傘を差して慌ただしく行き交うのに、自分の足だけがアスファルトに根を張ったように動かない。15年前に自分が書いたたった一つの署名が、静かに人生を押しつぶしていく感覚。これは、大阪の古びた団地に住む68歳の男、水原達夫の物語だ。

達夫は最寄り駅の民間駐輪場で働いていた。定期券を確認し、自転車を列に並べ直し、無断駐輪の自転車に警告シールを貼る。単純な仕事だ。学生や会社員は達夫の存在など空気のように、一切目もくれずに走り去っていく。達夫はその度に小さく頭を下げる癖がついていた。

6月の雨が続く夜、達夫は8時間の勤務を終えて帰宅した。妻の知恵子が台所からエプロン姿のまま出てきて、一通の封筒を差し出した。差出人の欄には、達夫が名前も聞いたことのない法律事務所の名前が記されていた。

ペーパーナイフで封を切る指先が、自分でも気づかないうちに震えていた。中にあった書類を広げた瞬間、達夫の動きが止まった。15年前、弟の小さな事業融資のために連帯保証人として署名した書類のことだった。弟は数年前から行方不明になっている。勇気の元金と利息は膨れ上がり、達夫夫婦がこれからの生活のために切り詰めて貯めてきた貯金の全額を優に超える金額になっていた。

「何の手紙なの?お父さん」

知恵子が軽い調子で尋ねた。達夫は無理に笑顔を作り、手紙を四つに折りたたんでズボンのポケットに押し込んだ。

「ああ、今月の水道料金の請求書だよ。少し金額がおかしいから、明日郵便局で確認してくる」

知恵子はそれ以上聞かず、台所に戻っていった。長年連れ添った夫婦の間には、深く詮索しないという暗黙の距離感がある。それが今の達夫にとっては救いであり、同時にこれから始まる隠し事の始まりでもあった。

その夜、雨が窓ガラスを叩く音が止まなかった。達夫は暗闇の中で目を見開き、隣で眠る知恵子の寝息を聞きながら思う。この人にだけはまだ言えない。言えば、この人が長年少しずつ切り詰めて貯めてきた金が、自分の弟の尻拭いのために消えていくことを認めなければならなくなる。

翌朝、達夫はいつもより一時間以上早く目を覚ました。役所には相談窓口がある。法律の専門家に聞けば、何か抜け道があるかもしれない。自分に言い聞かせながら、達夫は押入れから退職した年に一度だけ袖を通したスーツを取り出した。ナフタリンの匂いが顔に押し寄せる。洗面所の鏡の前でネクタイを結んだが、手先が思うように動かず、三度目にようやく形になった頃には額にうっすらと汗が滲んでいた。

玄関で靴を履いていると、ふすまの開く音がした。寝巻き姿の知恵子が眠そうな目を擦りながら立っていた。

「こんな朝早くにどこへ行くの?お父さん」

「区役所の方で年金の書類の確認があるんだ。午前中には戻る」

達夫は少し早口で答えた。知恵子は「そう。お弁当は?」と続けたが、達夫は「今日は要らない、外で済ませる」と答えて、傘を持ち直して玄関を出た。

区の法律相談窓口は、駅から歩いて15分ほどの雑居ビルの三階にあった。エレベーターを降りると、紙とインクの匂いが充満した狭い待合室に十数人が座っている。達夫は一時間半ほど待って、ようやく自分の番号が呼ばれた。

案内された相談ブースには若い男の弁護士が座っていた。達夫は上着の内ポケットから手紙を取り出し、手が震えながらテーブルの上に広げた。

「実は15年前に弟の事業資金の連帯保証人になりまして、その弟が今行方が分からなくなっているんです。それで、この保証を今からでも取り消すような手続きというのはあるものなのでしょうか」

弁護士は淡々とした声で答えた。

「法律上ははっきりしています。ご署名も実印もあなたのものですし、主債務者が行方不明になった場合、保証人であるあなたに支払い義務が移ります。例外はありません」

達夫はしばらく黙り込んだ。弁護士は「相談時間はお一人15分までとなっておりますので」と続け、次の書類に手を伸ばした。

ブースを出ると、達夫はしばらく廊下の壁に手をついたまま動けなかった。雑居ビルを出ると雨はさらに強くなっていた。達夫は傘を差すのも忘れて立ち尽くし、頭の中で「例外はありません」という言葉が何度も繰り返されていた。

ATMで通帳を確認すると、残高は120万円だった。請求金額は180万円、一括での支払いを求められている。60万円足りない。誰かに借りる、何かを売る、もっと働く。どんな可能性を巡らせても、頭の中で現実味を帯びてこなかった。

その日の午後、達夫は駐輪場に戻って作業着に着替えた。しかし集中力はまるで戻っていなかった。午後三時を過ぎた頃、入口付近の電動自転車の列を整理していた時だった。一台を押して隣に移動させようとした瞬間、手元が狂った。支えを失った自転車が隣の一台に倒れかかり、それが連鎖するように続けて三台、四台とドミノのように倒れていった。

ちょうどその時、コンビニの袋を下げた女性がこちらに歩いてきた。彼女は自分の買ったばかりの高級電動自転車が倒れているのを見て、大きな声をあげた。

「ちょっと何やってるんですか?これ買ったばっかりなんですけど」

達夫は雨の中、腰を90度に折り曲げて頭を下げた。女性はフレームに傷がついていないか確かめながら、苛立った様子で「ちゃんと見ててくださいよ」と言い捨てて立ち去った。女性が立ち去った後も、達夫はしばらくその場に立ったまま動けなかった。

それから数日、達夫は誰にも気づかれないよう必死で過ごした。消費者金融の相談窓口、市役所の消費生活センター。どこへ行っても帰ってくる答えは同じだった。保証人としての支払い義務は消えない。弁護士に依頼するには費用がかかる。どれも達夫の状況を変えるものではなかった。

ある日、洗濯の日だった。知恵子はいつものように達夫の上着をハンガーから外し、ポケットの中身を確認してから洗濯機に入れるのが習慣だった。その日、知恵子がズボンのポケットに手を入れた時、指先に硬い紙の感触があった。引き出してみると、それは銀行からの口座凍結の可能性を知らせる警告文書だった。

その日の夕食、食卓には会話がなかった。聞こえるのは箸が茶碗に当たる音と、古い扇風機が首を振る音だけだった。達夫は味噌汁を一口すすると、いつも通りに「うまいな」と呟いた。知恵子はそれには答えず、黙って自分の茶碗に視線を落としたままだった。

しばらくして、知恵子は箸を置いた。それから、達夫が畳んでポケットに戻していたはずのあの警告文書を、静かにテーブルの上に置いた。達夫の箸の動きが止まった。知恵子は声を荒げることも涙を見せることもなかった。

「なぜ、待っていたの?あのお金は私たちのこの先のためのお金だったのに」

達夫は視線をさまよわせながら言葉を探した。

「すまない。心配をかけたくなかったんだ」

知恵子はその言葉を静かに繰り返した。

「心配をかけたくなかった。それなら、こうして後から知ることになる私の気持ちはどうなるの?」

達夫は何も言い返せなかった。「俺が何とかする。俺がこの家の柱だ。俺が始末をつける」と低い声で言うのが精一杯だった。知恵子はそれ以上何も言わず、ただテーブルの上の紙をゆっくりと折りたたんで達夫の前に置き直し、静かに台所へ向かっていった。

夜も更けた頃、達夫は団地の廊下に出て、携帯電話を握りしめた。電話帳の中の「東京」と登録された息子の名前を指先が何度も行き来する。やがて深く息を吸って通話ボタンを押した。呼び出し音は八回なって、眠そうな息子の声が応答した。

「父さん、来月から家事が塾に通うんだよ。こっちの家賃だって上がってるし、俺たちも貯金を切り崩さなきゃいけないくらいなんだ。父さんたちは年金もらってるんだから、そんなに困ることないだろう。あんまり無理言わないでくれよ」

達夫は「あ、分かった。すまん。ちょっと聞いてみただけだ」と絞り出すように言い、「2人とも体に気をつけてな」と付け加えて電話を切った。息子は最後に「父さんもあんまり無理しないでね」と言ったが、その優しさのようなものが帰って達夫の胸をより一層重く締めつけた。

月末になり、達夫の銀行口座から通知の通りに120万円が一括で引き落とされた。残高はほとんどゼロに近く、まだ60万円余りが残っている。数日後、玄関の郵便受けには家賃の督促を知らせる赤い封筒が差し込まれていた。

その夜、達夫は誰もいない部屋で押入れの引き出しを一つずつ開けていった。退職記念にもらった高価な腕時計、若い頃から少しずつ集めてきた古い切手のコレクション、あの日区役所に行った時に着た一丁のスーツ。それらの品物を翌朝、居間の隅に一まとめにしておいた。それを見た知恵子は何も言わずに、ただ小さく頷いただけだった。

翌日の昼休み、達夫は近所の質屋に足を運んだ。査定員はそれらを手早く確認し、電卓を弾いて数字を見せた。表示された金額は、達夫が思っていたよりもはるかに少ない数千円程度のものだった。達夫はその数字をしばらく見つめていたが、値切る言葉も抗議する言葉も出てこなかった。長年持ってきた自尊心が、この場では何の役にも立たないことを静かに悟っていた。

その日以降、達夫は駐輪場の勤務先に頼み込み、夜間の警備を兼ねた延長シフトを引き受けるようになった。朝から夜遅くまで、一日14時間以上働く日が続いた。睡眠不足のせいか、血圧の薬を飲んでいても顔は赤みを帯び、額や首筋から流れる汗を袖で何度も拭いながら、それでも列に並ぶ自転車を一台ずつ整える作業を続けた。

給料日、達夫はコンビニで知恵子の好きなシュークリームを手に取った。レジで会計をしようとした時、財布の中の小銭を数え、10円足りないことに気づいた。後ろに並んでいた若い男が小さく舌打ちをする。達夫は何度もポケットを探ったが、小銭は一枚も出てこなかった。

「すみません。これは結構です」

達夫は店員に小さく頭を下げ、シュークリームをレジ横の棚に戻した。それから逃げるように店を出た。たった10円のことでこれほど惨めな気持ちになるとは、自分自身思ってもいなかった。

団地に帰りつくと、知恵子が居間の前に座り、ソファの破れたカバーを古い針と糸で縫っているのが見えた。薄暗い電球の明かりが、知恵子の白くなった髪を照らしている。達夫はしばらくその後ろ姿を玄関から見つめていた。知恵子は達夫の帰宅に気づき、「お帰りなさい。大丈夫?随分疲れてるみたいだけど」と声をかけた。達夫は何かを答えようとしたが、言葉にならなかった。これまで積み重ねてきた我慢と疲労が、その瞬間一気に切れたように崩れていった。

達夫は玄関の三和土にゆっくりと座り込み、膝を抱えるようにして両手で顔を覆った。声を出さないよう必死に喉の奥で押し殺しながら、痩せた肩が小刻みに震えていた。知恵子は縫い物の手を止め、驚いた様子で立ち上がり、達夫のそばに歩み寄って隣にそっと膝をついた。

「お父さん、どうしたの?」

達夫は涙で濡れた顔を上げないまま、途切れ途切れに言葉を絞り出した。

「すまない知恵子。俺はダメだった。この家を守ってやれそうにない」

知恵子は何も言わず、ただ達夫の背中にそっと手を置いた。その手のひらは縫い物をしていたせいかわずかに冷たかったが、その温もりだけが暗い玄関の中で唯一の救いとして達夫の震える肩に伝わっていた。やがて知恵子は達夫の背中をゆっくりとさすりながら、小さな声で「お父さん、お風呂入りましょうか?体冷えてるでしょう」と言った。達夫はただ小さく頷くことしかできなかった。

それから半月ほどが過ぎた。ある日の夕食後、知恵子が達夫に向かって静かに切り出した。

「お父さん、もう私たちだけでどうにかできる金額じゃないと思うの。市役所に相談に行きましょう」

達夫は箸を持つ手を止め、しばらく黙り込んだ。生活保護という言葉が知恵子の口から出たわけではなかったが、達夫にはその意味がすぐに分かった。

「俺たちがそんな施しを受けるようなことにと」

達夫が低い声で呟くと、知恵子は静かにはっきりと言い返した。

「施しじゃないでしょう。お父さんだってこれまでずっと真面目に税金を納めてきたじゃない」

若い頃から「働かざるもの食うべからず」「人様の世話になるのは恥」と教え込まれてきた達夫にとって、知恵子の提案はこれまで守り続けてきた自分自身のあり方そのものを根底から否定されるような感覚だった。それでも、息子から聞いた言葉、区役所で聞いた「例外はありません」という言葉、質屋で提示された数千円という数字。それらが次々と頭の中に浮かんでは消えていくうち、達夫の中で何かがゆっくりと崩れていくのを感じた。

「わかった」

達夫はようやく絞り出すように言った。

数日後、夫婦は揃って市役所へ向かった。福祉課の窓口は平日の午前中だというのに多くの人で込み合っていた。案内された窓口には若い女性職員が座っており、達夫が提出した年金手帳や通帳、家賃の滞納通知などの書類を一枚ずつ丁寧に確認していった。

「こちらの通帳を拝見しますと、先月の14日にスーパーで3000円ほどのお支払いがありますが、これは何のご購入でしたか」

達夫は一瞬言葉に詰まった。

「それは、食料品と生活用品をまとめて買ったものだと思います」

職員はさらに続けた。

「息子さんが東京にいらっしゃるとのことですが、経済的な援助は本当に一切受けられない状況でしょうか?確認のため、こちらから息子さんに直接お電話を差し上げることになりますが、よろしいでしょうか?」

その言葉を聞いた瞬間、達夫の目の奥が熱くなった。膝の上に置いていた手が無意識にズボンの生地を強く握りしめ、爪が皮膚に食い込んでうっすらと血が滲むほどだった。息子に電話がいく。その事実だけで、達夫の中に残っていた最後の自尊心が音を立てて崩れていくような気がした。すると知恵子が隣で、達夫の手にそっと自分の手を重ねた。その温かさに達夫は少しだけ息を整えることができた。やがて肩を落とし、静かに頭を下げた。

「わかりました。どうぞ手続きを進めてください。どうか私たちを助けてください」

その一言を口にした瞬間、達夫の中でこれまで68年間大切に守り続けてきた男としての、日本人としての誇りのようなものが完全に手放されたのを感じた。不思議な清々しさに似た感情が胸の奥に広がっていく。悔しさよりもむしろ、もう何も守るものがなくなったという解放感にも近かった。

生活保護の審査が降りると同時に、達夫たちは長年暮らしてきた団地を出て、より家賃の安い古い木造アパートへと引っ越すことになった。引っ越しの日も雨だった。トラックを頼む余裕もなく、近所で借りた小さな台車を使い、何度も往復しながら荷物を運び出した。ダンボール箱を積んだ台車を押しながら、達夫は長年住み慣れた団地の階段を最後にもう一度見上げた。何十年もの間、毎日のように登り下りしてきた階段が今日最後にもう自分のものではなくなるのだと思うと、胸に言葉にできない寂しさが込み上げてきた。

新しいアパートは以前よりもさらに狭く、湿気がこもっていた。畳の上に敷いた古い布団と、足が一本折れて古新聞を重ねて支えている机が、部屋の中の主な調度品だった。引っ越しの片付けを終えた夜、達夫と知恵子はその机を挟んで向かい合って座った。窓の外では相変わらず雨が降り続いている。達夫は近くのスーパーで買ってきた二割引きのシールが貼られた弁当の蓋を開けた。中には少し形の崩れたコロッケとご飯、それに漬け物が入っていた。達夫は箸でそのコロッケを一つ取り、知恵子の弁当箱の方へと差し出した。特に気の聞いた言葉をかけるでもなく、ただ黙ってそれを分けた。知恵子は静かに受け取り、一口かじった。それからしばらく咀嚼した後、ふと思い出したように口を開いた。

「あの、家の近くのコンビニに行ってみようと思うの。朝のシフトなら65歳以上でも雇ってくれるところがあるらしいから」

達夫はその言葉を聞きながら、何も気の聞いた返事をすることができなかった。ただ妻の顔を見つめ、小さく頷いた。胸の中には依然として深い悲しみが横たわっていたけれど、その悲しみはもはや以前のような焦りや悔しさに満ちたものではなく、どこか静かで、ゆっくりと受け入れられていくような感覚に変わりつつあった。達夫は冷めた米を一口に運んだ。噛みしめるうちに、味の薄い米の中にこれまでの人生で重ねてきた様々な出来事の味がじわりと染み込んでくるような気がした。

窓の外では、雨がその夜もまだ静かに降り続いていた。達夫は明日もまたいつも通りに目を覚まし、いつも通りに一日を過ごすのだろうとぼんやりと考えていた。この先の暮らしがどうなっていくのか、達夫にはまだはっきりとは分からなかった。それでも、隣に座る知恵子の箸がコロッケに触れる小さな音を聞きながら、達夫は少なくとも今この瞬間、自分はまだ一人ではないのだと、そう思うことにした。

Thumbnail