コンビニの前で、僕は足を止めてしまった。真冬の夜に、薄いコート一枚で、あの老女は突っ立っていた。手には、ぐしゃぐしゃに濡れた電気料金の滞納通知。空白の目で、ただそこにいた。隣に住んでいるのに、一度も言葉を交わしたことがなかった。このまま通り過ぎればよかった。しかし、僕の足は勝手に彼女の横へ向かい、口が勝手に「寒くないですか?」と聞いていた。彼女はぼんやりと「ああ…」とだけ答えて、コンビニの中…

コンビニの前で、僕は足を止めてしまった。真冬の夜に、薄いコート一枚で、あの老女は突っ立っていた。手には、ぐしゃぐしゃに濡れた電気料金の滞納通知。空白の目で、ただそこにいた。隣に住んでいるのに、一度も言葉を交わしたことがなかった。このまま通り過ぎればよかった。しかし、僕の足は勝手に彼女の横へ向かい、口が勝手に「寒くないですか?」と聞いていた。彼女はぼんやりと「ああ…」とだけ答えて、コンビニの中...

五年前に妻が最後に洗濯した白いワイシャツは、今も引き出しの中で静かに畳まれていた。黒川優像は、そのシャツに一度も袖を通さない。毎朝、引き出しを半分だけ開けて、折り目が崩れていないことを確かめ、また静かに閉じる。それが彼にとっての朝の礼拝だった。

沼津の海沿いの団地の一室。六十八歳の黒川は、今朝もその儀式を終えると、ちゃぶ台の上に小銭を並べた。千円札が三枚、五百円玉が二枚、百円玉が七枚、十円玉が十二枚。年金と駐輪場のアルバイト代を合わせた収入から、家賃や光熱費、保険料を差し引くと、食費に回せるのは二万円を少し切る程度。彼はその計算を毎月繰り返していた。同じ答えが出るのに、計算していると、数字の外側にある不安を閉じ込めておけるような気がした。

薬をさし、着替えを済ませ、細かくアイロンのかかった黒いズボンの折り目を確認して、黒川は部屋を出た。四〇二号室の前を通りかかった時、異臭が鼻をついた。酸っぱいような、腐敗が密閉された空間の中で進んでいくような、重く淀んだ空気の層が廊下に染み出してきていた。黒川は足を止めなかった。視線を前に向けたまま、鼻を刺す匂いに僅かに顎を引くだけだった。

四〇二号室には、白鳥千代という七十二歳の老女が一人で住んでいる。引っ越してきて二年、黒川は一度も彼女と言葉を交わしたことがない。名前を知っているのも、掲示板に張り出された緊急連絡先を無意識に読んだからに過ぎなかった。

沼津駅前の駐輪場で、黄色いビブスを着て自転車の列を整える。駅に向かう人々の流れの中で、黒川の存在はほとんど意識されない。斜めに止められた自転車、通路を塞ぐように投げ捨てられた自転車。彼は一つ一つを黙って直した。誰かが乱暴に自転車を置いて走り去っても、彼の顔には何の表情も浮かばない。怒りでも諦めでもなく、ただの動作だった。ここには複雑なことが何もない。感情を持つ必要が何もない。黒川はその繰り返しの中に安らぎを感じていた。

仕事が終わり、スーパーへ向かう。値引きシールが貼られる時間を待つため、彼は店内の隅のベンチに腰を下ろした。五割引きになったサバの塩焼き弁当を手に取り、賞味期限を確かめてから、そっとカゴに入れた。

団地に戻ると、メールボックスを確認する。広告チラシと電力会社からの案内だけだった。自分の箱から取り出した案内の下に、一枚の紙が挟まっていることに気づいた。赤みがかった用紙だった。自治会からの通知書だった。宛名は四〇二号室の白鳥になっている。担当者がポストの番号を間違えたのだろう。太字の一文が目に飛び込んできた。

「四〇二号室の住人に対し、廊下への異臭及び廃棄物の管理について早急な改善を求めます。状態が継続する場合、法的手続きを検討します」

黒川は紙を二つ折りにし、四〇二号室のドアの郵便受けに差し入れた。自分に関係のないことを、正しい場所に戻しただけだ。それ以上でも以下でもない。彼はそう自分に言い聞かせた。

その夜、眠りに落ちかけた頃、壁の向こうから音がした。カサカサという、何かを引っかくような、床を引きずるような鈍い音だった。リズムも規則性もなく、断続的に続く。黒川は布団の中で上半身を起こし、耳を澄ました。胸の奥で、前触れのない心臓の小さな音が鳴った。五、六分ほどで音は止んだ。彼はまた横になったが、目を閉じても、壁の向こうに何かがいるという感覚が消えなかった。人がいる。それだけのことだ。隣に人が住んでいる。それだけのことだ。笑いながら、黒川は夜明けまで眠れなかった。

あれから一週間が経った。ゴミ出しの日、自治会の班長である渡辺に声をかけられた。

「四〇二号室はもう黒川さんと白鳥さんのお二人だけになってしまいましたね。私たちはお互いに助け合ってこそでしょう。黒川さんは管理職もされていたと聞いていますし、ああいう方の扱いにも慣れていらっしゃるんじゃないかと思って」

渡辺の視線は穏やかだった。しかし言葉の一つ一つが、責任という綱を黒川の首に巻きつけていく構造になっていた。

「私はただの隣人です。お力になれるかどうか」

黒川はそう言って、深く頭を下げ、その場を離れた。お前には関係がない。彼は唇の内側だけでそう呟いた。

次の日の夜、駅前のコンビニの前で、黒川は足を止めた。白鳥千代が、薄いコート姿で扉の脇に立っていた。真冬の夜に着るにはあまりに頼りない格好で、手には何かの紙が一枚、ぐしゃぐしゃに濡れて握りしめられている。彼女の目はどこも見ていなかった。思考という機能そのものが、一時的に停止しているような、虚ろな目だった。

そのまま通り過ぎればいい。頭の中の声がそう言った。あの老女は自分には関係がない。しかし、体が先に止まっていた。黒川が咳払いをすると、白鳥はゆっくりと顔を上げた。

「お、寒くないですか?」

「ああ」

白鳥はそう言って、少し間を置いて、「寒いですね」と、まるで今気づいたように続けた。彼女の手の中の紙が見えた。電気料金の滞納通知だった。黒川が次の言葉を探すより先に、白鳥は自分でコンビニの扉を開け、中へ入っていった。黒川は残された。冷たいみぞれが降り続いていた。

部屋に戻り、布団に入る。今日の自分は、必要のないことをした。しかし、それを後悔と呼ぶには、少し違う気がした。何に近いのかを考えたが、言葉が見つからなかった。

その夜も、壁の向こうから音がした。今夜は前の夜よりも長く続いた。引っかく音に混じって、何か重い物を移動させる、鈍い音が混ざるようになった。黒川は暗闇の中で膝の上に両手を置いて座っていた。壁を叩くこともできる。大丈夫ですかと声をかけることもできた。しかし、彼は動かなかった。音が止んだのは、三十分ほど経ってからだった。静寂が押し戻すように部屋に満ちた。今夜は、ただの静けさではなかった。

十二月のある朝、玄関のドアを開けた瞬間、足の裏に冷たさが伝わった。廊下の床が濡れている。水は、四〇二号室のドアの下の隙間から滲み出していた。薄く茶色がかった、ぬめりのある水だった。黒川は鞄を玄関の中に戻した。このまま行くことはできなかった。廊下の水が自分の玄関にまで侵入している以上、これは自分の領域への侵食だった。彼が唯一許せないのは、自分の秩序が崩されることだった。

四〇二号室のドアを二度、ノックした。返事はない。もう一度、今度は強く叩き、声をかけた。ドアの向こうで、かすかな物音がした。鍵はかかっていなかった。ドアを開けると、空気が来た。長い時間をかけて変成し続けてきた空気が、出口を求めて流れ出してきたのだ。

部屋の中を見た。最初、全体像が把握できなかった。天井まで届きそうな新聞紙の束が、部屋の奥まで積み重なっていた。その隙間にプラスチックのコンテナ、スーパーの袋、ペットボトル、弁当の空き容器が詰め込まれている。洗面台の下から、水の音がしていた。継ぎ目が外れ、水が吹き出していたのだ。

黒川が振り返ると、白鳥千代が部屋の角に小さく丸まって座っていた。膝を立て、その上に腕を置き、腕の上に顎を乗せている。彼女は手を伸ばした。手の中に、丸い薄茶色のもの。白い粉を吹いた、変色した煎餅だった。

「主人がもうすぐ帰ってきますから、これでも食べながら待ってください」

声は糸のように細かった。黒川は煎餅を受け取らなかった。彼女の目は穏やかだった。この老女の世界の中では、この状況が普通なのだ。腐敗した食べ物も、天井まで積み上がったゴミも、漏れ続ける水も、全てが彼女の世界の文脈の中に収まっている。黒川はそう理解した。

動き出したのは、何かを決意したからではなかった。ただ立っているだけでは水が止まらないから。それだけの理由だった。黒川は自室に戻り、雑巾とタオルを持ってきた。パイプの継ぎ目にビニール袋と紐を巻きつけ、応急処置を施した。それから床の水を吸い取り始めた。カーディガンの袖口が濡れ、指先の感覚がなくなっても、彼は止まらなかった。途中で止めることの方が、やりきることよりも不快だった。白鳥千代は、その間ずっと同じ場所に座っていた。

仕事には二十分遅刻した。監督員は特に何も言わなかった。それが、黒川には居心地が悪かった。

その夜、帰り道にスーパーで、黒川はサーモンのおにぎりを一つ買った。百二十八円。今月の食費の計算に入っていない出費だった。一個だけだ。今日だけだ。黒川は四〇二号室のドアの前に、そのおにぎりをそっと置いた。チャイムも押さなかった。

手帳に食費の欄とは別の小さな括弧書きで、「128」と書き込んだ。誰に見せるわけでもないのに、そうせずにはいられなかった。

翌日も、その翌日も、黒川はおにぎりをドアの前に置いた。朝になると、袋は消えていた。受け取っている。食べているかもしれない。それはつまり、今のところ生きているということだ。それだけの事実を確認して、黒川は自分の部屋に戻った。

一週間で、括弧書きの数字は七百円を超えた。黒川の一日分の食費より多い。手帳を閉じ、閉じてからまた開いた。翌日の帰り道、スーパーの前で足を止めた。今日は買わないと決めたのに、結局、その日も買ってしまった。

ある日、仕事中に右目の視界の端がぼんやりとかすんでいることに気づいた。午後になっても、そのかすみは消えなかった。眼科に行くべきだったが、今月の医療費の枠は、目の薬ですでに使い切っていた。

おにぎりを置き始めて十日が経った頃、黒川は一つの判断を下した。このままではいけない。自分は医者でも介護士でもない。関わってしまった以上、何かあった時に、何もできないことへの責任だけが残る。黒川は沼津市役所へ行った。福祉課の窓口で、隣人の状況を説明した。ゴミ屋敷の状態、認知症の疑い、一人で生活できているとは思えないということ。

担当者の木村は、丁寧に話を聞いた後、言った。

「白鳥様ご本人から支援を求めるご意思の確認は取れていますでしょうか?」

「取れていません」

「現行の制度では、本人の同意なしに行政側から強制的に介入することが難しい状況です。ご家族がいらっしゃれば、一番いいのですが」

「今、あの人が家事を起こすか、人を傷つけるか、そのどちらかが起きなければ、行政は動かないということですか?」

木村は一瞬、言葉を止めた。困惑ではなく、周知に近い何かがその表情に浮かんだ。

「…そのようなことが起きた場合は、緊急対応という形で別の窓口が動きます。現状では、地域包括支援センターへのご相談が最初のステップかと」

黒川は差し出されたパンフレットを受け取った。怒りはあったが、それは木村個人への怒りではなかった。家族がいなければ動けない。本人の同意がなければ動けない。待機者が三百人いる。それは全て事実なのだろう。しかし、事実であることと、それで良いこととは別のことだ。

その四日後の午後、黒川の携帯電話に、知らない番号から電話がかかってきた。沼津市立病院の地域連携室からだった。

「本日午前中、白鳥千代様が沼津駅の構内で倒れているところを駅員が発見しまして、救急搬送されました。所持品の中に、黒川様のお名前が記載された紙が入っており、緊急の連絡先としてお電話させていただきました」

病院に着くと、担当者の田中という女性が説明してくれた。低体温と低栄養の状態だったが、意識ははっきりしている。しかし、自分がなぜ駅にいたのか、どこへ行こうとしていたのかは答えられないらしい。所持品のビニール袋の中に、くしゃくしゃになった紙が一枚。裏に鉛筆で、黒川の名前と電話番号が書かれていた。

「確かに、白鳥さんは『黒川さん』とおっしゃってましたね。入院にあたって、初期費用として五万円をお預かりいただく必要があるんですが、ご家族の方に連絡が取れれば一番なんですが」

五万円。黒川が、新しい電気ストーブを買うために毎月少しずつ封筒に入れてきた金額だった。今のストーブは七年前に買ったもので、今年の冬は新しいものを買おうと、コツコツと貯めてきたのだ。封筒は、ちゃぶ台の引き出しの中にある。

黑川は立ち上がった。トイレの個室に入り、鍵を閉めた。五万円。暖房がなくなれば、最も寒い一月二月を乗り越えるのは厳しくなる。カーディガンを重ねて、靴下を二枚履いて、湯たんぽで足元を温めながら眠ることになる。それは辛いが、死ぬわけではない。一方、あの老女を廊下に放り出すことは、もっと直接的な何かにつながる可能性がある。

黑川は目を閉じた。市役所の木村の声が頭の中で再生された。ご家族が。本人のご意思が。待機者が三百名。誰もが言い訳を準備している。言い訳の制度だけが磨かれていく。その言い訳の隙間から、人が一人、落ちていく。

黒川は立ち上がり、田中のもとへ戻った。

「手続きを教えてください」

声は静かで、感情がなかった。

窓口で、入院費用の仮払いをしたいと伝えると、若い担当者は「患者様とのご関係は?」と尋ねた。

「隣人です」

多少の驚きはあったかもしれないが、担当者はすぐに事務的に書類を処理し始めた。黒川はコートの内ポケットから通帳を取り出した。残高は六万円に少し満たない程度。彼は一階のATMで五万円を引き出した。札が数えられる音が、静かなコーナーに響いた。

イ環を、何十年も使ってきた個人のイ環を取り出し、出勤伝票の代わりの書類に押した。インクが紙に染み込む感触があった。その瞬間、黒川の目の奥がわずかに熱くなった。泣きたいわけではない。しかし、何十年もかけて身につけた、感情を数字に変換する習慣が、この瞬間だけ、わずかに機能を失った。

退院して五日後、白鳥千代が一時的な介護施設に移送されたという連絡が来た。黒川はそれを聞きながら、「それは良かったです」と言った。田中からは、仮払いの件は、白鳥の資産状況が確認でき次第、清算されると言われた。戻ってくるかどうかは分からない。

次の問題は、三日後に来た。管理会社から、四〇二号室宛ての通告書だった。室内に堆積した廃棄物の全量処分を二週間以内に完了すること。期限までに対応がなされない場合、契約解除の手続きを進める場合がある。そう書かれていた。黑川は管理会社に電話をしたが、担当者の坂本は、「建物の管理上、期限の延長は難しい」と繰り返した。「もし白鳥様が退去されることになりますと、施設への入居継続も難しくなる場合があるとは思いますが、それはあちらの施設の方でご判断いただくことになりますので」

黒川は「分かりました」と言って、電話を切った。放り出されたという感覚があった。しかし、それは坂本への怒りではなかった。この国の構造の問題だと彼は思った。制度と制度の間の隙間に落ちた人間を、誰も拾わない。拾う仕組みがない。仕組みがないから、誰かが個人として手を伸ばすしかない。その誰かが、今この瞬間、自分だった。

翌朝、黒川は仕事に行く前に、スーパーで大型のゴミ袋と使い捨てのゴム手袋を買った。その日の夕方、彼は四〇二号室の前に立った。鍵は、病院を通じて受け取っていた。

最初の一日、彼は四袋のゴミを廊下に出した。部屋の状態を見渡すと、変わったのか変わっていないのか、ほとんど分からないくらいだった。それでも、黒川は手袋を外し、部屋を出た。

二日目、奥に進むほど、物の密度は高くなっていた。新聞紙の束は、動かす度にばらける。黑川はその度にまとめ直して、袋に詰めた。六袋目を運び出した時、手袋が濡れていることに気づいた。ゴムが破れていた。彼は自室に戻り、手袋を変えた。

廊下に出てきたところで、渡辺が立っていた。ゴミ袋の列を見て、渡辺は言った。

「やっぱり黒川さんが動いてくださいますよね。実は、管理組合でもずっと頭を悩ませていまして」

「結構です。一人でできます」

黒川はそう言って、頭を下げ、四〇二号室のドアを押し開けた。

三日目、窓際の、白鳥が最初に座っていた場所のそばを片付けている時、黑川はその下から小さなノートを見つけた。A6サイズほどの、薄い青色のノートだった。ビニール袋に包まれ、テープで丁寧に口が止めてある。周りのゴミが湿気と時間で変色している中で、このノートだけは乾いた状態を保っていた。

黑川は長い間、それを手に持ったまま動かなかった。こんな丁寧に包まれたノートを、中身も見ずにゴミ袋に入れることはできなかった。彼はテープをゆっくりと剥がした。

最初の数ページは、きちんとした文字で書かれていた。家計の記録だった。水道代、電気代、食費。それが、どこかのページから乱れ始めた。文字が大きくなり、行が曲がり、「今日は何日?」という同じ言葉が繰り返されるようになった。あるページには、息子への手紙の下書きのようなものが書かれていた。息子の誕生日。息子が子供の頃に好きだった食べ物。息子が最後に来たのはいつだったか。

後ろから数ページのところに、最初のページの丁寧な文字に似たページを見つけた。意識して、ゆっくりと書いたことが分かる文字だった。日付は、二年前の春。黒川はそれを一文字ずつ読んだ。

「今日、四〇二号室の黒川さんが、ドアの前に落ちていた手紙を拾って、持ってきてくれた。何も言わずに渡してくれて、また自分の部屋に戻っていった。この団地で、私の顔を見て、顔を背けない人は、この人だけだ。もし私がいつか全部忘れてしまっても、どうか神様、この人に迷惑だけはかけないようにしてください」

黒川は読み終えて、目を上げた。ゴミの山を半分ほど崩した部屋に、夕方の光が細く差し込んでいた。彼は壁際まで歩き、背中を壁に当てて、そのまま床に座り込んだ。膝を立てて、両腕を膝の上に置いた。白鳥千代が、最初にいたのと同じような格好だった。

泣くつもりはなかった。泣く理由があるとも思っていなかった。しかし、肩がわずかに動いた。音もなく、声もなく、ただ肩だけが、この老人の体の中でどこかに収まりきれなくなったものを、細かく繰り返し外に逃していた。

しばらくして、黒川は立ち上がった。ノートをビニール袋に戻し、テープで止めた。それを、ゴミ袋ではなく、自分のポケットに入れた。

その後、一時間、黒川は残りのゴミを黙々と袋に詰めた。肩の震えは止まっていた。窓の外が完全に暗くなった頃、四〇二号室は空になった。合計で十四袋。三日分の作業の結果だった。

自室に戻り、手を洗い、薬をさした。今日は、右目の霞が少しだけ薄かった気がした。夕飯は、卵ともやしの炒め物だった。食べながら、ポケットの中のノートのことを考えた。白鳥のものだから、いずれは施設に届けるべきだ。しかし、今夜は届けられない。

手帳には、もうおにぎりの出費を書く必要はなかった。届ける先がなくなったのだ。

布団に入る前に、黒川は窓のそばに立った。今夜は雪が降っていた。一月の沼津では珍しいことだった。街灯の光に照らされて、雪が斜めに落ちていくのが見える。彼は窓ガラスに近づき、自分の息で曇ったガラスを、カーディガンの袖で拭いた。曇りが消えて、また雪の降る夜の景色が見えた。

今夜の自分の部屋は、いつもより静かだった。壁の向こうが空になったためだ。空の部屋が隣にある静けさというのは、人がいた頃の騒音よりも、ある種の重さを持つものだと黒川は思った。

失ったものがある。五万円と、体力と、積み立てていた暖房費と、この数週間の眠れなかった夜。それは確かにあった。そして、手に入れたものも、一つだけあった。ポケットの中の古いノート。あの中に書かれていた一言。「この団地で、私の顔を見て、顔を背けない人は、この人だけだ」。黒川はそれを手に入れたいと思っていたわけではなかった。しかし、ただそれがそこにあったことを、今夜の自分は知っている。

雪は降り続いていた。遠くで貨物列車の音がした。黒川はその音が遠ざかるまで、窓の前に立っていた。それから布団に入り、電気を消した。

暗い部屋の中で、黑川は目を閉じた。体は疲れていた。しかし、今夜の疲れは、これまでの夜の疲れとは少し違う種類のものだった。消耗ではなく、使ったという感触に近かった。自分の中の何かを、今日、初めて使ったのだという感触。眠りが来るまで、それほど時間はかからなかった。

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