息子が突然家にやって来て、老人ホームのパンフレットを三冊テーブルに並べたのは、真冬の午前十時だった。「家なんか売っ払ってちゃんとしたとこに入った方がいい。お金が余ったら俺が貯金しといてやるから」と、彼は心配しているふりをして言った。私は黙って頷いたが、彼が選んだその施設には、虐待と不審死の告発が山のようにあった。そして、私の家の鍵を握っていた彼が、不動産業者を連れて壁を測り始めた時、私は確信…

息子が突然家にやって来て、老人ホームのパンフレットを三冊テーブルに並べたのは、真冬の午前十時だった。「家なんか売っ払ってちゃんとしたとこに入った方がいい。お金が余ったら俺が貯金しといてやるから」と、彼は心配しているふりをして言った。私は黙って頷いたが、彼が選んだその施設には、虐待と不審死の告発が山のようにあった。そして、私の家の鍵を握っていた彼が、不動産業者を連れて壁を測り始めた時、私は確信...

午前十時を少し過ぎた頃、玄関のチャイムが鳴った。茂彦はゆっくりと廊下を歩き、鍵を開けた。扉の向こうに立っていたのは、二年近く顔を見ていなかった息子の陽介だった。スーツ姿で、真冬だというのに額に汗をかいていた。

上がってくるなり、陽介は紙袋から三冊のパンフレットを取り出し、テーブルに並べた。老人ホームのものだった。どれも明るい写真で彩られていた。

「もう2026年だろう」と陽介が言った。声のトーンを落とし、心配しているふりをしていた。「一人暮らしの年寄りを狙った犯罪が増えてる。家なんか売っ払って、ちゃんとしたとこに入った方がいい。ここのホームは俺が見てきたんだ。お金が余ったら俺が貯金しといてやるから」

茂彦は息子の顔を見た。見ながら頬の内側を噛んだ。若い頃からの習慣だった。怒りや焦りが込み上げてきた時、外に出さないための。

「考えてみる」

茂彦は背を向けたまま、それだけ言った。陽介は何かを言いかけたが、やがて椅子を引き、パンフレットを残したまま帰って行った。

三日後、茂彦は古いタブレットを引っ張り出し、パンフレットにあった施設の名前を検索した。最初に表示されたのは公式ページではなかった。ニュースサイトの記事だった。入居者への虐待、夜間の無人状態、不審な死亡例が複数。内部告発で明らかになった。過剰請求、行政への虚偽報告。記事の日付は半年前から一年前にかけてのものだった。施設はまだ営業を続けていた。処分は業務改善命令だけだった。

茂彦は画面を見たまま動かなかった。息子がその施設を選んだ理由が、今なら分かった。行政に指摘を受けながら営業を続けているような場所は、入居費用が安い。融通が利く。長く生きられなくても問題にならない。陽介は金に困っている。茂彦が家を売ればまとまった金が入る。施設に入ってしまえば、自由に動ける。ピースは揃っていた。

茂彦はタブレットの画面を消した。暗くなった画面に、自分の顔が映った。怒りがあった。だが泣く気にはならなかった。泣くのは、まだ何かを期待している人間がすることだと思っていた。

翌朝、茂彦は百円均一の店で人感センサー付きのLEDライトを四個買った。廊下の壁、便所の入り口の上、台所に続く曲がり角。一つ一つ両面テープで貼り付け、テストした。前を通ると光った。自分で決めて、自分でやった。誰かに頼らなくていい。金をかけなくてもできることがある。

だが、息子があの施設を選んだという事実は消えなかった。息子が自分に望んでいるものが、輪郭を持った。それは介護でも心配でもなく、終わりだった。静かで、早くて、書類の上で問題にならない終わり。

茂彦は近所への挨拶を試みたが、誰も立ち止まらなかった。コンビニに通って顔を覚えてもらおうとしたが、セルフレジに代わり、誰も彼を見なかった。区内の相談窓口に電話し、担当者が訪問してきた。若い女で、機械的に話を聞き、何かを手帳に書き、帰って行った。話を聞いてもらえたかどうかは分からなかった。

そして、二日後の夕方。買い物から帰ると、玄関の鍵が閉まっていなかった。出かける時、確かに鍵はかけた。引っ張って確かめた記憶があった。中に入ると、廊下の奥のセンサーライトが消えかけていた。誰かがそこを通ったのが、少し前だということだった。

台所から声がした。陽介の声と、もう一人の見知らぬ男の声。茂彦が台所の入り口に立つと、陽介は一瞬体を固め、それから笑った。

「ああ、帰ってきたか。こちらは保険会社の人間で、火災保険の定期点検に来てもらったんだ」

だが、男の胸元のバッジには、不動産会社の名前があった。買い取りや任意売却を専門に扱う業者の名前だった。男はレーザー機器で壁や窓の寸法を測っていた。下見だ。茂彦は何も言わず、荷物を持って奥の部屋に入り、襖を閉めた。

翌日から陽介が家に住み始めた。「しばらく世話になる」と言って。鍵も持っていた。自分の縄張りのように振る舞った。

ある夜、酔って眠り込んだ陽介の鞄から、茂彦は書類を見つけた。消費者金融からの通知が三社分。弁当屋のフランチャイズ契約と、解約による違約金の書類。そして、不動産の売買契約書。売主の欄に自分の名前が印刷され、押印の跡があった。自分は押した覚えがなかった。

その朝、茂彦は書類をテーブルに置いた。陽介は一瞬動きを止め、それから床に膝をつき、額を畳につけた。土下座だった。

「助けてくれ。借金のことは分かってる。取り立てが来てる。逃げ場がない。こんなつもりじゃなかった。弁当屋がうまくいくと思ってたんだ」

「お前も悪いんだぞ。俺がこうなったのは、お前が金もないままだったからだ。ちゃんとした親なら、もっと稼いでちゃんとした教育を受けさせてくれたはずだ。俺が失敗したのはお前のせいだ」

茂彦は床に額をつけている息子の後頭部を見ていた。

「出ていけ」

静かに、短く、それだけ言った。陽介の体が止まった。

「俺が死ぬぞ」

声が変わっていた。本願ではなくなっていた。陽介はゆっくりと頭を上げた。泣いてはいなかった。目が赤かったが、涙はなかった。懇願が消え、別のものが入っていた。茂彦は見た瞬間に分かった。

その次の瞬間、茂彦は椅子ごと後ろに押し倒された。陽介の体重がのしかかり、手が胸元の内ポケットに向かった。鍵、印鑑、通帳。茂彦は歯を食い縛り、陽介の手首に噛みついた。陽介が声を上げたが、手は離れなかった。ポケットの中のものを掴んだまま引き抜き、そのまま走り去った。

茂彦は床に倒れたまま天井を見ていた。右の手首に血が滲んでいた。テーブルの上に、書類はまだあった。陽介は鞄の中身を見られたことに気づいていないのか、持ち帰らなかった。茂彦は書類を畳んでジャンパーのポケットに入れた。印鑑と通帳がなくなった。陽介はそれを使って次の手を打つつもりだろう。

茂彦は警察に行った。息子に通帳と印鑑を奪われた。暴力もあった。と話した。担当の警官は状況を聞き、異人契約書に目を通し、一度部屋を出た。三十分ほどして、年配の男を連れて戻ってきた。

「息子さんから、先週、福祉関係の書類が提出されていました。お父さんの認知機能について、医師の診断書と相談記録が添付されていました。成年後見の申し立てが家庭裁判所に提出されています。審査中です」

茂彦は言葉の意味は分かった。全部。だが、言葉が体の中に入ってこなかった。

「認知症ではない」

「それについては、家庭裁判所の手続きの中で確認されることになります。暴力については確認しますが、通帳や印鑑については、申し立てが継続中である以上、現時点で被害届を受理することは難しい状況です」

茂彦は立ち上がり、書類を取り戻して警察署を出た。区役所に行き、記録の開示請求をした。書類を受け取れるのは、後日だった。

その夜から、家の電気が変だった。台所の電灯が数秒で消える。二日後には完全につかなくなった。電話線が切れた。次の朝、水道の蛇口を開けても水が出なかった。偶然が三つ重なることはなかった。陽介が成年後見の申し立てをすれば、公共料金の支払いを止めることくらいはできた。

茂彦は残りの現金で水と最低限の食料を買い、公衆電話から弁護士相談の窓口に電話した。オペレーターは言った。「弁護士に相談する場合、費用が発生します。立替え制度の確認にも手続きが必要で、最短でも来週以降になります」

来週。今夜どうするかについての答えは出なかった。

家に帰ると、玄関の前に黒い軽トラックが止まっていた。裏口から入ると、台所から声がした。陽介と、作業着を着た男たちが三人。引っ越し業者の格好をしていた。一人はバールのようなものを持っていた。

「荷物をまとめてくれ。今日中に出てもらわないといけない。成年後見の申し立ては通る。時間の問題だ」

茂彦は無言で自分の部屋に入り、襖を閉めて内側から抑えた。押入れの下段から古い出刃包丁を取り出し、隅に座って膝の上に置いた。使うつもりはなかった。ただ持っていた。

外側から襖が叩かれた。「開けないと壊すぞ」

バールの音がした。木がきしむ音。茂彦は出刃包丁を握ったまま静かに息をしていた。怖くはなかった。ただ、この襖がいつまで持つかを考えていた。

その時、気づいた。襖の隙間から漏れる光が、ついたり消えたりしている。廊下のセンサーライト。百円均一で買った、あの小さなライトが、男たちの動きに反応して点滅していた。人が通るたびにつく。消える。またつく。茂彦はその光の点滅を見て、部屋の外に何人いて、どこにいて、動いているのかを知った。最初に取り付けた時、あの光は安心だった。今、その同じ光が、部屋を囲む男たちの動きを教えていた。

しばらくして、バールの音が止んだ。陽介の声も、誰かに電話をしているようだった声も止んだ。廊下が静かになった。センサーライトが消えた。誰も動いていないらしかった。

夜が来た。拳で叩く音に変わった。「開けてくれ。頼む」陽介の声が変わっていた。「父さん、俺もどうしようもないんだ。あいつらに首根っこ掴まれてる。施設に入る紙にサインしてくれれば、それで全部終わるんだ」

茂彦は答えなかった。すると声がまた変わった。「いい加減にしろよ。お前が意地張ってるからこうなってるんだぞ。なんでお前みたいな貧乏人が、最後まで意地だけは捨てないんだ」

茂彦は暗い部屋の中で膝の上の出刃包丁を見ていた。使うつもりはなかった。だが、それを持っていることで、奴らが無造作にこの部屋に入ってこられない。それだけの意味があった。

目を閉じると、清掃の仕事をしていた頃のことを思い出した。深夜のビルで一人で床を拭いていた時間。あの仕事で給料をもらい、それで陽介を育てた。小さかった頃の陽介。妻が死んだのは十二年前だった。死んでから、息子はあまり家に来なくなった。

茂彦は目を開けた。自分が何を恐れていたのか。死ぬことではなかった。恐れていたのは、誰にも見届けられずにただ消えることだった。施設に入れられて、書類の上で処理されて、誰も気にしないまま終わること。だが、それよりも恐ろしいことが今はあった。自分の体が、自分の意思に関係なく、誰かの借金返済のために使われること。自分という人間が、最後まで自分のものでなくなること。それが一番恐ろしかった。

茂彦は静かに立ち上がった。出刃包丁を畳の上に置いた。使わないと決めた。押入れの下の床板に目をやった。十年前、床がきしむのを直した時、一枚の板が外れることに気づいていた。下に小さな空間があった。妻が亡くなった後、家の権利関係の書類をそこに移した。鉄の金庫では、陽介がいつでもアクセスできることに不安を覚えていたからだ。

板を持ち上げると、ビニール袋に包まれた書類が出てきた。土地と建物の登記簿謄本の原本、権利書、それに数年前に書いた遺言書の控え。陽介に家を相続させると書いたものだった。茂彦はそれらの書類を、古いアルミの鍋の中に入れた。火を放つのは、家ではない。書類だけだ。原本さえ消えれば、陽介がどんな手続きを進めようとしても、登記の変更には時間がかかる。本人確認の書類が揃わなければ、家庭裁判所の手続きも不動産の売買契約も、すぐには進まない。

マッチを一本すった。火がついた。鍋の中に落とした。灯油に火が触れた瞬間、青白い炎が立ち上がった。書類が縮れ、黒くなり、燃えていった。登記簿の文字が炎の中で消えていった。権利書の角が丸まり、灰になっていった。遺言書の控えに書いた陽介の名前が、最後まで読めるかどうかというところまで燃え、最後には何も読めなくなった。茂彦はその様子を最後まで見ていた。涙は出なかった。怒りもなかった。あったのはただ、何かが終わったという感覚だった。

炎が小さくなり、鍋の中が灰だけになった頃、水をかけた。ジュッという音がした。煙が少し上がった。換気のために窓を開け、茂彦は襖に近づいた。鍵を外し、ゆっくりと開けた。

廊下に煙の匂いが流れていった。男たちが驚いたように後ずさった。陽介が廊下の奥から走ってきた。

「父さん、何やってんだ!」

茂彦は何も言わず、部屋の中を指した。アルミの鍋が畳の上に置かれていた。中には灰だけが残っていた。陽介がその鍋を見て、畳に膝をつき、灰をかき分けるように手を入れた。指先が黒くなった。何かを探していた。文字の跡を探していたのかもしれない。だが、何も残っていなかった。

陽介は灰の中に座り込んだまま、声を上げた。「ああ」という言葉にならない声だった。畳に拳を打ちつけた。何度も。茂彦はその姿を見ていた。息子が泣いているのか、怒っているのか、分からなかった。両方かもしれなかった。

茂彦は部屋の隅から古いボストンバッグを取り出し、着替えを三枚詰めた。下着、セーター、厚手の靴下、財布、テレホンカード。年金手帳の本体はまだポケットにあった。それだけだった。

廊下に出ると、男たちが道を開けた。誰も茂彦を止めなかった。止める理由がなくなっていた。書類が燃えた。今この老人を力で抑えつけたとしても、陽介が望む結果には届かない。

陽介はまだ畳の上に座り込んでいた。灰の上に手をついて、肩を震わせていた。茂彦はその背中を見た。何かを言おうかと思った。だが、言葉が出てこなかった。許すという言葉は出なかった。憎むという言葉も出なかった。ただ、もうこれ以上ここにいる理由がない。それだけが分かった。

玄関で靴を履いた。男の一人が何も言わずに扉を開けた。茂彦は外に出た。冷たい風が顔に当たった。十二月の夜だった。茂彦は振り返らなかった。四十年以上住んだ家だった。妻と暮らし、陽介を育てた家だった。夜間の仕事から帰って、疲れた体を休めた家だった。百円均一のセンサーライトを取り付けた家だった。

茂彦はゆっくりと歩き出した。視野の右側が暗かった。だが、正面は見えていた。それで十分だった。道路に出て、駅の方向に向かった。今夜どこで眠るかは決まっていなかった。財布の中の現金がいくらあるかおよそ覚えていた。多くはなかった。それでも足は止まらなかった。

歩きながら、自分が今したことを考えた。自分の人生に関わる書類を、自分の意思で燃やした。誰かに指示されたのではなく、自分で決めて、自分でやった。それだけが今の茂彦に残っているものだった。家もない、金もない、証明書もない、家族もいない。それは紛れもない事実だった。だが、その全てを誰かに奪われたのではなく、自分の手で終わらせた。その違いが、今の茂彦には大きかった。

駅前の明かりが見えてきた。コンビニの看板が遠くに光っていた。茂彦はその光に向かって歩き続けた。これからどうなるかは分からなかった。今夜どこで休むか、明日どこに行くか、何も決まっていなかった。ただ歩いていた。風が強くなった。茂彦はジャンパーの襟を立てた。それでも歩き続けた。暗い道の先に何があるのかは、まだ見えなかった。

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