11月の雨が横殴りに降る大阪の駅で、62歳の男が一人、ホームの屋根の下に立っていた。靴の先は雨水を吸い、歩くたびに靴下の中でぐしゃりと音を立てたが、彼は気にするそぶりも見せなかった。ただじっと自分の足元を見下ろしていた。
男の名は野村兵吉地。白髪混じりの髪はきちんと整えられていたが、額はすでに薄くなり始めていた。痩せた体に、長年パソコン作業で丸まった背中。それでも外に出る時だけは、最後の意地のように背筋を伸ばそうとする癖があった。着たベージュのコートは袖口がすり切れていたが、汚れはなく、アイロンがかけられていた。
電車を待つ間、兵吉地は青い手帳を取り出し、鉛筆で今日使った金額を書き込んだ。120円のコーヒー。それだけだった。手帳の表紙はふやけて丸まっている。彼はそれを大事そうに胸ポケットにしまい、また靴の先に視線を落とした。
兵吉地が務めているのは、大阪にある物流センターの事務所だった。かつて彼はそこで課長という立場にいた。部下を10人以上抱え、取引先との折衝も一手に引き受けていた時期があった。60歳を迎えた時、会社は彼に最古要契約という形での継続を提示した。断れば収入は途絶える。彼は迷わず契約書に判を押した。
だが、契約の中身は以前とは別物だった。役職はなくなり、給与は6割近く減らされ、雑務だけは以前より増えていった。
事務所に着くと、兵吉地はまず机の上を丁寧に拭いてから座った。今日の仕事は先月分の伝票の再チェックだった。老眼鏡を鼻先にかけ、数字を一つ一つ指でなぞりながら確認していく。集中している間だけは、周りの視線も自分の立場も忘れられた。
午前10時を過ぎた頃、若い管理職の男が席にやってきた。名前は中原。まだ35歳だった。10年前、兵吉地が課長だった時代に部下として仕事を教え込んだ相手だった。今では立場が逆転し、中原が兵吉地の直属の上司にあたる。
中原はタブレットの画面を兵吉地に向け、先週分の入力ミスを指摘した。数字の桁が一つずれていたらしい。兵吉地はすぐに間違いを認め、深く頭を下げた。
「申し訳ございません。確認を怠りました」
中原は特に責めるでもなく、「次から気をつけてくださいね」とだけ言って自分の席に戻った。その口調に悪意はなかった。むしろ淡々としすぎていることが、兵吉地の胸を余計に締めつけた。
かつて自分が教えた相手に注意される側になっている。その事実だけで、腹の底が重く沈んでいくのを感じた。兵吉地は一言の弁解もしなかった。若い頃であれば状況を説明し、原因を分析し、改善案まで提示していただろう。だが今の自分にそんな権利はないと、彼はどこかで思い込んでいた。
昼休み、兵吉地は休憩室の隅の席に座り、家から持ってきた弁当箱を開けた。中身は白米と卵焼きと沢庵が二切れだけだった。周りの若い社員たちは新商品や休日の話で盛り上がっている。兵吉地はその輪に加わることもなく、黙々と箸を動かした。
午後になると雨は上がっていた。兵吉地は伝票の山を片付け終えると、休憩室の掃除や資源ゴミの分別といった雑用も引き受けた。これは誰かに命じられた仕事ではない。誰もやりたがらないから、自分がやっておいた方がいい。彼自身が考えて始めたことだった。
ゴミ袋を持って裏口に出た時、若い女性社員が通りかかった。彼女は一瞬気まずそうに兵吉地の方を見たが、何も言わずに会釈だけをして通りすぎていった。兵吉地もマスクの下でわずかに顔を引きつらせ、会釈を返した。その距離感が、今の自分の居場所そのものだった。
退社時刻になり、兵吉地は事務所を出た。空はすでに暗く、街灯が濡れたアスファルトに滲んでいた。彼は駅前のスーパーへ向かった。時刻は午後8時45分になろうとしていた。この時間には消費期限の近い弁当に半額のシールが貼られる。それを狙って毎晩この時間に来るのが、兵吉地の習慣だった。
棚の前で、彼は弁当を選ぶのに数分をかけた。半額シールの中でも、少しでも量の多いものを選ぶ。レジの店員は慣れた様子で機械的に処理をするだけで、彼のことを気に留めなかった。それが兵吉地にはむしろありがたかった。
スーパーを出ると、兵吉地は徒歩で自宅へ向かった。彼が暮らしているのは団地の一室だった。かつては妻と娘との3人暮らしだったその部屋も、離婚の際に妻が出ていき、娘も就職と同時に東京へ移ってからは、兵吉地一人が住むだけの空間になっていた。
団地の敷地に入ると、街灯は所々切れていて薄暗い。兵吉地は1階の郵便受けの前で足を止めた。錆びついた小さな扉を開けると、中にはチラシに混じって分厚い封筒が一通入っていた。差出人の欄には大阪市役所という文字と赤い判が押されていた。
兵吉地はその封筒を一瞬見つめたまま、動きを止めた。心臓が自分でも分かるほど早く打ち始めた。役所からの封筒に赤い判が押されているのを見るのは初めてではない。だが、これほど分厚い封筒は初めてだった。
彼は郵便物を一まとめに抱え、階段を上がった。部屋に入ると、まず電気をつけた。天井の蛍光灯は寿命が近いのか、点灯する度に一瞬ちらついてから安定する。彼は買ってきた弁当を茶台の上に置き、コートを脱いで丁寧にハンガーにかけた。それからあの封筒だけを手に取り、しばらく開封せずに眺めていた。
台所に立ち、兵吉地は湯を沸かした。緑茶の葉を湯飲みに入れながら、頭の中では別のことを考えていた。市役所からの通知といえば、大抵は保険料や税金に関するものだ。もし何かの間違いであれば、電話一本で解決するだろう。そう自分に言い聞かせるようにしていた。
湯飲みを片手に、兵吉地は茶台の前に座り直した。冷めかけた弁当の蓋を開けようとした手を止め、代わりに封筒を手に取った。指先がほんのわずかに震えていた。
封筒の中には、住民税の追徴に関する通知書と詳細な計算書、そして納付書が入っていた。2年前の住民税の算定に誤りがあったため、追加で納付が必要になったという説明が、事務的な文言で並んでいた。
金額の欄に目をやった瞬間、兵吉地の呼吸が一瞬止まった。25万円という数字がそこには記されていた。納付期限は30日以内。現在の契約社員としての月給、ほぼ3か月分に相当する額だった。
兵吉地は何度もその数字を見直した。桁を読み間違えているのではないか、自分の目がおかしくなったのではないか。そう疑いたかった。だが、何度確認しても数字は変わらなかった。
兵吉地はしばらくの間、身動き一つ取れなかった。茶台の上の弁当箱から白米の湯気がゆっくりと消えていくのが視界の端に映っていたが、それを気に留める余裕もなかった。頭の中では、これまで積み上げてきた小さな計算が全て崩れていく音が響いていた。毎晩の半額弁当も、120円のコーヒーも、細かな節約も、全てはこの先の生活を少しでも安定させるための積み重ねだった。それが一枚の通知書で根こそぎ持って行かれようとしている。
やがて彼は震える手で弁当箱の蓋を開けた。半額シールの貼られた弁当は、もうすっかり冷え切っていた。箸を持とうとした手が滑り、弁当箱が茶台の縁からずれて畳の上に落ちた。中の汁が畳の目に沿ってじわりと染み込んでいく。兵吉地はそれを拾い上げることさえせず、ただ畳に広がっていく汁を見つめていた。
畳に染み込んだ汁の跡は、翌朝になっても薄く残っていた。兵吉地は居留守にそれへ目をやり、しばらくの間その場に座り込んだまま動けなかった。頭のどこかでは昨夜のことがまだ夢の続きのように感じられていたが、枕元に置いた通知書を手に取った瞬間、その現実の重みが一気に体へ戻ってきた。
この団地に越してきたのは、まだ巻きが小学生だった頃だ。あの頃は、畳の目も壁の染みも、家族3人で話題にできるだけの余裕があった。今同じ畳の上に一人で座り、兵吉地はその記憶と今の自分との隔たりに静かに息を飲んだ。
身支度を整え、兵吉地はいつもより15分早く家を出た。駅へ向かう途中、コンビニの店先に貼られた求人のチラシに目を止めた。深夜の品出し、日払い9300円という文字が並んでいる。彼はしばらくその前で立ち止まったが、自分の年齢でこの仕事が勤まるだろうかという迷いが先に立ち、結局何も確かめずにその場を離れた。
事務所に着くと、兵吉地はまず自分の机の上を丁寧に吹き、コートを椅子の背にかけてから中原の席へ向かった。
「今日の午後、市役所での手続きがありまして、半休をいただけますでしょうか」
中原は驚いたような表情を浮かべたが、すぐに「分かりました。お気をつけて」と返した。理由を深く尋ねようとはしなかった。その配慮に、兵吉地は安堵と同時に、どこか寂しさに似た感覚も覚えていた。
午前中、兵吉地はいつも通り伝票の確認作業に取り組んだ。だが頭の中では別のことばかりが渦巻いていた。分割で払えないだろうか、猶予をもらえないだろうか。その時、隣の島で作業をしていた同じ嘱託契約の同僚、桑田が声をかけてきた。桑田は兵吉地より3つ年上で、以前は倉庫の管理職を務めていたという。
「近頃、顔色が優れないようですが」
兵吉地は一瞬言葉を濁そうとしたが、桑田の落ち着いた口調に釣られ、少しだけ本音がこぼれ出た。
「役所からの書類で、思わぬ出費が重なりまして」
桑田はそれ以上深く詮索することはせず、「こういう年になると、思いがけないことばかり起きますね」とだけつぶやいた。桑田自身も数年前に妻を介護施設に入れる際、想定外の一時金を求められ、貯金の大半を使い果たしたのだという。
「あの時は、真面目に働いてきた分だけ余計に悔しさが募りましたよ」
その言葉に、兵吉地は自分だけではないのだという小さな慰めと、同時にこの社会の底に沈んでいくものはいくらでもいるのだという実感を覚えた。
昼を過ぎ、兵吉地は事務所を出た。市役所に着いたのは午後1時を少し過ぎた頃だった。震える指で番号札のボタンを押すと、待ち人数は40人を超えていた。ロビーの隅にあるプラスチックの椅子に腰を下ろすと、同世代の男女が何人も座っている。誰も口を開かない。ただ壁の電光掲示板に映る番号をじっと見つめているだけだった。
隣に座っていた老婦人は、膝の上に置いた紙袋の中身を何度も確認していた。少し離れた席では、幼い子供を連れた若い母親があやしながら順番を待っていた。向かいの席には車椅子に乗った高齢の男性が、付き添いの職員に何かを尋ねている姿もあった。この場所に集まる誰もが、それぞれの事情を抱えて生きているのだと、兵吉地は改めて思わずにはいられなかった。
ようやく彼の番号が呼ばれたのは、待ち始めてから1時間半以上が経った頃だった。窓口に座っていたのは30歳前後に見える男性職員だった。兵吉地は通知書を差し出し、2年前の算定に誤りがあったのではないか、金額があまりに大きすぎると声を絞り出すように訴えた。
職員はキーボードを何度か叩き、画面を確認してから淡々と答えた。
「システム上、こちらの記録に基づいて再計算された結果です。算定自体に誤りはございません」
兵吉地はさらに食い下がった。支払いを分割にすることはできないだろうか。時期を少しだけ遅らせることはできないだろうか。職員は少し困ったような表情を浮かべたが、口調は丁寧なまま変わらなかった。
「分割については別途ご相談いただけますが、期限日までに納めていただけない場合、口座の差し押さえなど法的な手続きに移行することもございます。法律で決まっておりますので」
法律で決まっている。その一言を聞いた瞬間、兵吉地の体から力が抜けていくのが分かった。何十年も真面目に税金を納め続けてきた自分が、今その同じ制度によって首を絞められている。頭では理解できても、心のどこかではどうしても受け入れられなかった。
窓口を離れる時、兵吉地は深く頭を下げた。「お手数をおかけしました。ありがとうございました」と小さな声で言い、それ以上は何も言わなかった。職員はすでに次の番号を呼び上げていた。
市役所の外に出ると、空は先ほどよりも一段と灰色に沈んでいた。生き返う人々は皆、自分の目的地に向かって足早に歩いていく。その流れの中で、自分だけが取り残されているような感覚があった。
帰りの電車の中で、兵吉地は頭の中で何度も同じ計算を繰り返していた。25万円。月々の手取り、貯金の残高。どう並べ替えても、答えは同じところに行き着いた。
事務所に戻ると、すでに定時は近かった。兵吉地は残っていた伝票の確認だけを済ませ、他の社員たちが帰り支度を始めるのを横目に見ながら、いつものように休憩室の片付けを始めた。今日は特に理由もなく、少しでも遅くまで職場にいたい気持ちがあった。体を動かしていないと、頭の中の重さに押しつぶされそうだった。
片付けを終えると、兵吉地は資源ゴミの分別にも取りかかった。段ボールを紐でまとめ、ペットボトルのラベルを一本ずつ剥がしていく。単調な作業の中で、彼はようやく少しだけ心を落ち着けることができた。
ゴミ袋をまとめて裏口へ向かった時、コートのポケットの中でスマートフォンが震えた。画面には滅多に表示されることのない名前が浮かんでいた。東京に住む娘、牧からの着信だった。
電話の向こうから聞こえてきたのは、いつもの落ち着いた声ではなかった。牧の声は最初から震えていて、すすり上げるような息遣いが混じっていた。
「どうした?何かあったのか」
牧はしばらく言葉にならない嗚咽を漏らしていた。兵吉地はその場に立ち尽くしたまま、娘が落ち着くのをただ待った。少しずつ、牧は事情を話し始めた。夫の浮気が発覚し、離婚の手続きを進めていること。今住んでいるマンションは夫名義であるため、近いうちに出ていかなければならないこと。仕事だけでは急な引っ越しまで賄えないこと。
「30万円ほどあれば、なんとか小さなアパートを借りられそうなの。こんなこと頼んでごめんね」
その言葉が、電話越しに小さく漏れてきた。兵吉地は電話を握る手に思わず力がこもるのを感じた。頭の中では、先ほど市役所で見た25万円という数字と、牧の言った30万円という数字が同時に重なり合って浮かび上がっていた。
もし今、牧に本当のことを話せば、この子はさらに追い詰められるだろう。夫に裏切られ、住む場所さえ失おうとしている娘に、自分もまた助けてやれない。それを伝えることが、兵吉地にはどうしてもできなかった。
口から出てきた言葉は、まるで別の人間が話しているかのようだった。
「泣くな。父さんは仕事に出ているだけだ。大丈夫だ。心配するな」
牧は少しの沈黙の後、「でも急にそんなお金、お父さんも大変なんじゃないの」と小さく尋ねてきた。兵吉地はその問いに一瞬息を詰まらせたが、すぐに「心配いらない。貯金にはまだ余裕がある」と務めて明るい声を作った。
「本当に大丈夫なの?無理してない?」
「無理なんてしていない。お前が心配することじゃない」
娘を安心させたい一心で発した言葉が、自分自身の胸をも同時に締めつけていることに、彼はうっすらと気づいていた。
「貯金ならまだ少し余裕がある。明日にでも振り込んでおくから」
電話の向こうで牧の鳴き声が少しだけ柔らいでいくのが分かった。「ありがとう、お父さん。本当にごめんね」という声を聞きながら、兵吉地は視線を落とし、自分の足元の暗がりをじっと見つめていた。
通話を終えた後も、兵吉地はしばらくその場から動けなかった。頭の中では一度に二つの現実が激しくぶつかり合っていた。牧への振り込みと、市役所への納付。通帳の残高だけでは、両方を賄えるはずもなかった。
事務所に戻ると、兵吉地は自分の机につき、通帳とキャッシュカードを鞄から取り出して確認した。残高の欄に並ぶ数字を何度も指でなぞる。どれだけ見返しても、両方を賄えるだけの余裕はどこにもなかった。
やがて彼は電卓を置き、深く息を吐いた。どれだけ計算を重ねても、二つの支払いを両方満たすだけの答えは見つからなかった。それでも、牧への振り込みだけは何があっても先に済ませようと、彼は静かに心を決めていた。
翌朝、兵吉地はいつもより早く目を覚ました。牧への振り込みだけは、何があっても先に済ませようと、彼は改めて自分に言い聞かせた。通帳とキャッシュカードを持ち、始発に近い電車で駅前の銀行へ向かった。まだシャッターの開いていないATMコーナーの前で、彼は作動時刻までの10数分を立ち尽くしたまま待ち続けた。
ようやくATMの前に立った兵吉地は、震える指で操作画面をタップした。金額の欄に30万という数字を打ち込んだ時、彼の手はほんの一瞬止まった。画面には振り込み後の残高が表示された。数字はあまりにも小さかった。兵吉地はそれをしばらく見つめた後、確認ボタンを押した。
ATMから吐き出された明細書をコートの内ポケットにしまうと、彼はしばらくその場に立ち尽くしていた。この紙切れ一枚が、これから先の自分の生活を大きく変えてしまうかもしれない。それでも後悔はなかった。ただ、これからどうやって25万円を工面するか、その答えだけがまだ見えていなかった。
事務所に着くと、兵吉地はいつもと変わらない様子で自分の席に座った。老眼鏡をかけ伝票の束に向き合うが、頭の中では別のことばかりが渦巻いた。あと20日あまりで25万円をどう用意すればいいのか。答えはまだどこにも見えていなかった。
昼休み、桑田がまた隣の席に腰を下ろした。
「あれから何か進展はありましたか」
兵吉地は少し迷ったが、思い切って「娘の方にも急な物入りが重なりまして」と本音の一部を打ち明けた。桑田はしばらく黙って聞いていたが、やがて「子供のためなら仕方がない。それが親というものです」とだけつぶやいた。その一言には、桑田自身の経験に裏打ちされた重みがあった。
午後になり、中原が兵吉地の席にやってきた。「市役所の用事は無事に済みましたか」。兵吉地は一瞬言葉に詰まりそうになったが、すぐに表情を整え「はい、おかげ様で」と短く答えた。それ以上詳しく話すつもりはなかった。誰にも本当のことを言えない。会社にも娘にも。この重荷は自分一人で背負うしかないのだと、彼は改めて思い知らされていた。
その日の夕方、兵吉地は残業を申し出た。特に急ぎの仕事があったわけではない。ただ少しでも残業代を積み上げておきたいという計算が頭のどこかで働いていた。暗くなった事務所に一人残り、兵吉地はパソコンの画面に向かい続けた。作業の合間、彼は何度も電卓を取り出し残業代を含めた今月の見込み収入を計算し直したが、それでも25万円には遠く及ばなかった。
その夜遅く、団地の部屋に帰り着いた兵吉地は、電気をつけるとまず通帳を開いた。振り込みを終えた後の残高をもう一度確認する。何度見ても、その数字が増えることはなかった。彼はゆっくりと通帳を閉じ、茶台の上に置いた。
畳の上に横になり、天井を見上げた。頭の中では牧の鳴き声と、市役所の職員の事務的な声とが交互に響いていた。どちらの声からも逃れる術は見つからなかった。
その日を境に、兵吉地は食費をこれまで以上に切り詰め始めた。毎晩楽しみにしていた半額弁当さえも、棚の前で手に取ることをやめた。夕食は家から持ってきた白米に生卵を割り入れ、醤油を垂らしただけの卵かけご飯になった。味を感じる余裕さえ、今の彼にはなかった。
翌日の昼、兵吉地は事務所の休憩室には向かわず、近くの公園まで歩いた。ベンチに座り、家で握ってきた梅干だけのおにぎりを取り出す。冷たい風が吹きつける中、彼は一人で黙々とおにぎりを食べ続けた。公園には同じように一人で弁当を広げている高齢の男性が何人か見えた。互いに声をかけることもなく、ただ同じ寒さの中にそれぞれの孤独を抱えて座っているだけだった。
その夜、兵吉地は通帳を何度も見返しながら、これまで考えないようにしてきた一つの選択肢に目を向けていた。金融機関から一時的に借り入れをするという方法だった。利息はかかるが、期限までに間に合わせるにはそれしか思いつかなかった。
翌日、兵吉地はまた半休を願い出た。今度は理由を詳しくは言わず「所用で」とだけ告げた。中原は特に追求することなく、「分かりました」と短く答えた。
兵吉地が向かったのは、駅前にある地元の信用金庫だった。ローン相談専用の小さなブースに通され、担当者はまだ若い女性だった。年齢と現在の雇用形態、年収の見込みを尋ねられ、兵吉地は正直に全てを答えた。62歳、嘱託契約の契約社員、年収はおよそ200万円に届くかどうか。担当者はキーボードを打ちながら、時折り画面をじっと見つめる仕草を見せた。
しばらくして、担当者は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「大変恐縮ですが、契約形態と年齢の面から審査をお出しすることが難しいという結果になっております」
兵吉地はその言葉をすぐには飲み込むことができなかった。彼は食い下がった。担保になるものは何もないが、これまで一度も返済を滞らせたことはない。勤続年数も長い。自分にできる限りの説明を並べた。担当者は困ったように目を伏せ、「審査基準はこちらの一存では変えられないんです」と小さく謝罪の言葉を繰り返すだけだった。
兵吉地は勤務先の在籍証明書やこれまでの給与明細を鞄から取り出し、机の上に並べた。少しでも信用してもらえる材料があればと、事前に用意してきたものだった。担当者はそれらの書類を丁寧に受け取り、目を通してくれたが、最終的な結論が変わることはなかった。
担当者はしばらく画面を見つめた後、少し声を落として付け加えた。
「こういったご事情でしたら、市の社会福祉協議会にも生活資金の貸し付け制度がございます。そちらもご検討いただけるかもしれません」
規則の外側で示されたその小さな親切に、兵吉地はわずかに救われる思いがしたが、同時にそれすらも審査と手続きに時間がかかるだろうことは容易に想像がついた。
信用金庫を出た兵吉地は、次に駅の反対側にある消費者金融の店舗へ向かった。かつて部下たちに「あそこだけは絶対に利用してはいけない」と言い聞かせていた場所だった。今自分がその敷居をくぐろうとしていることに、兵吉地は乾いた笑いすら浮かべたくなった。店内は明るく清潔で、想像していたような陰湿さはどこにもなかった。カウンターの向こうに座る若い男性職員は、機械的ながらも丁寧な態度で応対した。兵吉地は同じように年齢と収入、契約形態を伝えた。職員はタブレットの画面を操作しながら、しばらく無言で数値を確認していた。やがて顔を上げた。
「申し訳ございません。当社の基準でも、今回はご希望に沿うことができない結果となりました」
理由を尋ねると、「年齢と雇用の安定が主な要因です」という説明が返ってきた。兵吉地はもう一度だけ「何とかならないだろうか」と小さな声で尋ねた。職員はしばらく沈黙した後、個人的な意見ですが、と前置きしてこう言った。
「こういう制度は、どうしても数字だけで判断されてしまうんです」
その一言には、職員自身のやりきれなさのようなものが滲んでいた。兵吉地はその場に立ち尽くしたまま、しばらく何も言葉が出てこなかった。信用金庫でも消費者金融でも、同じ理由で断られる。真面目に働き、税金を納め、一度も返済を滞らせたことのない自分が、62歳という数字と契約社員という肩書きだけで社会から弾き出されている。その事実が、彼の中でゆっくりと形を持ち始めていた。
事務所に戻ると、桑田がまた声をかけてきた。今日はどこかへ、と尋ねられ、兵吉地はしばらく黙り込んだ後、「少し借り入れの相談に」とだけ短く答えた。桑田はそれ以上深くは尋ねず、「この年になると、銀行というのは冷たいものですからね」と静かにつぶやいた。その一言が、兵吉地の胸に妙に重く響いた。
しばらくして、桑田はぽつりと付け加えた。
「若い連中には分からないでしょうが、コツコツ真面目にやってきた人間ほど、いざという時に締め出されるんです」
兵吉地はその言葉に頷くこともできず、ただ小さく目を伏せた。頷いてしまえば、自分の中の何かが崩れてしまいそうな気がした。
その夜、兵吉地は夕食を作る気力もなく、湯を沸かしてお茶だけを飲んだ。やがて彼は立ち上がり、押し入れの奥から古い段ボール箱を取り出した。中には若い頃の写真や会社での表彰状、そして家族3人で撮った古い写真が納められていた。写真の中の自分は、まだ課長として部下たちの前に立ち、自信に満ちた表情を浮かべていた。隣には幼い牧を抱いた妻の姿もある。兵吉地はその写真をしばらく見つめた後、静かに元の箱へ戻し、押し入れの奥にしまい込んだ。
12月に入り、大阪にも本格的な寒さが訪れ始めた。兵吉地は暖房のスイッチに手をかけるたびに電気代の請求を思い出し、結局その手を止めることを繰り返していた。その夜も彼は暖房をつけずに過ごすことに決めた。厚手のセーターを2枚重ね、膝には古い毛布をかける。部屋の中だというのに、自分の吐く息がうっすらと白く見えるほどだった。
残された時間は日に日に少なくなっていた。やがて兵吉地は押し入れの奥に手を伸ばした。奥の方にしまい込んでいた古い書類封筒を取り出し、茶台の上に置く。表紙には生命保険の証券という文字が記されていた。30年以上前、まだ牧が生まれたばかりの頃に加入した保険だった。毎月の保険料を、どんなに家計が苦しい時も一度も欠かすことなく払い続けてきた。もしもの時に家族を守るための、兵吉地なりの覚悟の証だった。
証券に並ぶ数字を兵吉地は何度も目で追った。もしこの契約を解約すれば、いくらかの解約返戻金が戻ってくるはずだった。それが今の自分にとって、最後に残された手段であることを彼はすでに分かっていた。
翌朝、昼休みに桑田がいつものように隣の席に腰を下ろした。
「何かあったんですか」
兵吉地は少し迷った後、「長年入っていた保険を解約しようかと考えていまして」とだけ答えた。桑田はしばらく黙り込んだ後、「それは簡単に決められることではないでしょう」と静かに言った。兵吉地は小さく頷いた。「それでも、他に方法が見つからないのです」
その日の午後、兵吉地はまた半休を願い出た。向かったのは駅前の郵便局だった。長年この保険の契約を管理してもらってきた場所だった。窓口には見覚えのある年配の局員が座っていた。兵吉地は保険証券を差し出し、「解約の手続きをお願いしたい」と告げた。
局員は証券を受け取り、しばらく画面を確認した後、少し驚いたような表情を浮かべた。
「長年真面目にお支払いいただいていた契約ですが、本当によろしいのでしょうか」
兵吉地は静かに頷いた。局員はそれでも念のため説明を続けた。
「今このタイミングで解約されますと、戻ってくる金額はごくわずかになります。それに、これから先もし何かございましても、保証は一切なくなってしまいます」
その言葉の一つ一つが、これまで30年かけて積み上げてきたものの重みを改めて突きつけてくるようだった。それでも彼の心はすでに決まっていた。
「それでも構いません。手続きを進めてください」
書類に記入をしながら、兵吉地の手は何度も止まりそうになった。30年間毎月欠かさず払い続けてきた保険料の総額を思うと、指先が震えた。それでも彼は一つ一つの欄を丁寧に埋めていった。印鑑を押す段になり、兵吉地は一瞬だけ手を止めた。この一押しで、これまで築いてきた最後の備えが完全に失われてしまう。頭では理解しながらも、兵吉地は静かに印鑑を押した。
手続きを終えた局員は、「後日、指定の口座に解約返戻金が振り込まれる予定です」と説明した。兵吉地は深く頭を下げ、「お世話になりました。長年ありがとうございました」と局員に告げた。局員もまた深く頭を下げ返してきた。
郵便局を出ると、外はまだ雪がちらついていた。兵吉地はしばらくの間、軒下に立ち尽くしていた。30年という歳月を、こんな形で手放すことになるとは。若い頃の自分は想像もしていなかった。
数日後、兵吉地の口座に解約返戻金が振り込まれた。通帳を記帳した彼は、その数字を見て思わず息を飲んだ。想像していたよりもはるかに少ない金額だった。局員の説明通り、長年積み立ててきたはずの金額のごく一部でしかなかった。それでもその金額とこれまでの貯金の残りを合わせれば、なんとか25万円の一部には届きそうだった。
翌日、兵吉地は市役所の分割相談の窓口にもう一度足を運んだ。得た金額を先に納め、残りを分割で支払わせてもらえないか。そう相談するつもりだった。窓口の職員は以前とは別の少し年配の女性職員だった。
「分割納付についてはご相談をお受けすることはできます。ただし、今回の期限日までにお手続きが完了していない場合、一旦は通常の手続きに沿って処理が進んでしまう可能性がございます」
「手続きには時間がかかる。期限には間に合わないかもしれない。そういうことなのか」
職員は申し訳なさそうな表情を浮かべながら、「システムの都合上、そうなる場合もございます」とだけ答えた。兵吉地は肩を落としたまま窓口を離れた。せっかく保険を解約してまで用意した金額が、間に合わないかもしれない。その可能性を突きつけられ、彼の中でまた重い不安が広がり始めた。
その夜、兵吉地は牧にだけはなんとか事情の一部を伝えておこうと思い立った。心配をかけたくない気持ちと、一人で抱え続けることの限界とが、彼の中でぶつかり合っていた。結局、兵吉地はスマートフォンを手に取ったものの、メッセージを打つことができず、そのまま画面を閉じた。新しい部屋での生活をようやく整え始めたばかりの娘に、これ以上の重荷を背負わせるわけにはいかない。そう自分に言い聞かせながら、スマートフォンを茶台の隅に静かに置いた。
翌日、桑田に保険を解約したことを伝えると、桑田はしばらく黙り込んだ後、「私も一度同じことをしたことがあります」とぽつりと漏らした。妻の入院費を工面するため、若い頃に入っていた養老保険を解約したのだという。
「あの時は、悔しさよりも何もしてやれない不甲斐なさの方が大きかった」
その言葉に、兵吉地は深く頷いた。誰かに打ち明けたところで状況が好転するわけではない。それでも、同じ痛みを知る者がそばにいるという事実だけで、兵吉地の胸のどこかがわずかに軽くなるような気がした。
期限日が近づくにつれ、兵吉地の生活はさらに切り詰められていった。暖房を使わない夜が続き、食事はさらに簡素になった。それでも彼は牧に、会社に、いつも通りに出勤し、いつも通りに伝票を確認し、いつも通りに休憩室を片付け続けた。
ある夜、兵吉地は押し入れの奥から古い写真の束をもう一度取り出した。30年前、この保険に加入した日のことを、彼はぼんやりと思い出していた。あの頃は、これから先の人生にこれほどの不安が待っているとは想像もしていなかった。兵吉地は写真を一枚ずつ丁寧に見返しながら、自分がこれまで大切にしてきたものについて静かに考えていた。会社への忠誠、家族への責任、そして真面目に生き続けること。そのどれもが、今この瞬間には目の前の現実を変えるだけの力を持っていなかった。
それでも兵吉地は写真を元の箱に戻しながら、ふと思った。例え保険という形の備えを手放したとしても、牧を守りたいという気持ちそのものは、これまでと何も変わっていない。その事実だけが、今の彼にとって残された最後の灯のようなものだった。
期限当日は、思っていたよりも静かにやってきた。兵吉地は朝いつも通り布団から起き上がり、いつも通り顔を洗い、いつも通り身支度を整えた。ただ一つだけ違っていたのは、財布の中にこれから先の暮らしを支えるだけの余裕が、もうほとんど残っていないという事実だった。
事務所に着くと、兵吉地は机に座り、いつものように伝票の束に向き合った。昼を過ぎた頃、中原が少し改まった様子で兵吉地の席にやってきた。
「市役所からの通知が、会社の給与担当宛てにも届いておりまして。今月分の給与から、税金の大部分が差し引かれる形になります」
兵吉地はその言葉を、驚くほど落ち着いた気持ちで受け止めた。すでに覚悟していたことだった。
「ご丁寧にありがとうございます。承知いたしました」
隣の島から、桑田がこちらの様子をちらりと見ていた。何か声をかけようとするそぶりを見せたが、結局何も言わずに、ただ小さく頷いて見せただけだった。その沈黙の中に、言葉にならない気遣いが込められているのを、兵吉地は感じ取っていた。
昼休み、桑田は珍しく自分から兵吉地の隣に腰を下ろした。
「何も聞きませんが」と前置きした上で、「こういう時は、体だけは壊さんように」とだけ言った。兵吉地は小さく頷き、「ありがとうございます」と短く答えた。それ以上の言葉はどちらからも出てこなかったが、その短いやり取りだけで、兵吉地の胸のどこかがわずかに軽くなったような気がした。
定時になり、兵吉地はいつものように休憩室の片付けと資源ゴミの分別を済ませた。事務所を出ると、兵吉地は自動改札の前で足を止めた。交通系ICカードを取り出し、残高を確認する。表示された数字は、今日一回分の運賃にも満たなかった。財布の中の小銭をかき集めても、それを補うだけの余裕はどこにもなかった。
兵吉地はしばらく改札の前に立ち尽くしていたが、静かに改札から離れ、駅の外へと向かった。外は朝からの曇り空が、そのまま雪へと変わり始めていた。彼はコートの襟を立て、団地までの道のりを徒歩で帰ることに決めた。距離にしておよそ5キロほどの道のりだった。
歩き始めてしばらくは、まだ体に力が残っていた。だが15分、20分と歩くうちに、靴の中で指先の感覚が少しずつ鈍くなっていくのが分かった。薄くなった靴の底を通して、アスファルトの冷たさが直接伝わってくる。1時間ほど歩いたところで、兵吉地は一度バス停の屋根の下に入り、息を切らせた。時間表に目をやると、この時間にはもうバスは走っていないことが分かった。兵吉地は小さく苦笑いを浮かべ、また立ち上がった。頼れるものが何もない。そのことにいちいち驚くだけの気力さえ、もう残っていなかった。
足の裏にはすでにはっきりとした痛みが広がっていたが、それでも彼は一歩ずつ団地への道を進み続けた。立ち止まってしまえば、そのまま動けなくなってしまいそうな気がした。
団地の敷地が見えてきた頃には、兵吉地のコートはすっかり雪をかぶって白くなっていた。彼は震える手でポケットの中を探り、小銭を数え始めた。全部で100円に満たない額だった。団地の手前にある小さなスーパーの明かりがまだついているのが見えた。兵吉地はふらつく足取りで、その店の入口へと向かった。
閉店間際の店内には、ほとんど客の姿はなかった。値引きコーナーには消費期限の近い商品に、さらに値引きシールが貼られていた。兵吉地はその棚の前で震える指先で商品を一つ一つ確認していった。手の中の小銭で買えるものは限られていた。やがて彼は、値引きシールが貼られた豆腐のパックを手に取った。価格は50円だった。それだけを持って、兵吉地はレジへと向かった。店員は特に何も言わず、機械的にその金額を受け取り、レシートを差し出した。
部屋に着くと、兵吉地はしばらく玄関先に座り込んだまま、靴を脱ぐことさえできなかった。冷え切った体の芯から震えが止まらなかった。それでも彼は少しずつ靴を脱ぎ、コートを脱ぎ、部屋の奥へと進んでいった。蛍光灯の紐を引くと、いつものように光が一度ちらついてから安定した。兵吉地は茶台の前に座り込み、震える手で豆腐のパックを茶台の上に置いた。台所から醤油の瓶を持ってきて、その脇に並べる。
その時、コートのポケットの中でスマートフォンが震えた。表示されていたのは、牧からの短いメッセージと一枚の写真だった。写真には小さな部屋の中で微笑む牧の姿が映っていた。ガランとした部屋にはまだ最低限の家具しか置かれていない。それでも牧の表情には、これまでの疲れを乗り越えた先にある静かな安堵の色が浮かんでいた。メッセージには「お父さんのおかげで新しい部屋を借りることができました。本当にありがとう。体に気をつけてね」という短い文章が添えられていた。
兵吉地はその文字を何度も何度も読み返した。牧が送ってきた部屋の写真には、まだダンボール箱がいくつか積まれたままの様子も映っていた。それでも、窓辺には小さな観葉植物の鉢が一つ置かれている。新しい暮らしを少しずつでも自分の力で整えていこうとする娘の姿が、その一枚の写真から伝わってきた。
兵吉地はその写真をしばらくの間、じっと見つめ続けた。目の奥が熱くなっていくのを感じながらも、彼は涙をこらえた。長年誰の前でも弱さを見せまいとしてきた癖は、こんな夜一人きりの部屋の中でも、彼を静かに縛りつけていた。
兵吉地はスマートフォンを茶台の上に置き、豆腐のパックの蓋をゆっくりと開けた。冷え切った豆腐の表面に、醤油を少しだけかける。それ以上の贅沢は、今夜の彼には必要なかった。箸を手に取り、兵吉地は豆腐を一口に運んだ。冷たく味の薄いその豆腐が、喉の奥をゆっくりと通りすぎていく。それは決して美味しいと呼べるようなものではなかったが、なぜか兵吉地の胸の中に、不思議なほど静かな安らぎが広がっていった。
金も、肩書きも、これまで積み上げてきたはずの信用も。気づけば、ほとんど何も残っていなかった。それでも、娘に新しい暮らしの場所を用意させることができた。父親としての最後の意地だけは、なんとか守り通すことができた。兵吉地はそう自分に言い聞かせるように、もう一口豆腐を口に運んだ。
食べ終えた後、兵吉地はもう一度牧から届いた写真を開いた。ガランとした部屋の中で微笑む娘の姿を見つめながら、彼はゆっくりと息を吐いた。この子がこれから少しずつ、あの部屋で新しい暮らしを築いていくのだろう。そう思うと、自分のことよりもそちらの方がはるかに大切なことのように思えた。
窓の外では雪がまだ静かに降り続いているのが見えた。明日もまた同じ一日が始まるのだろう。すり切れたベージュのコートを着て、薄くなった靴を履き、団地から駅までの道のりを歩き、事務所に着けば若い中原に頭を下げ、伝票の確認をし、休憩室を片付ける。その繰り返しの中に、これまでと変わらない自分がいる。それでも何かが少しだけ変わったような気もしていた。全てを失ったと思っていたその夜、兵吉地の中にはまだ守り通せたものが確かにあった。娘を守るという、ただそれだけのことだったが、それは彼にとって何者にも代えがたい確かな手応えだった。
兵吉地は畳の上にゆっくりと横になった。冷えた体を丸めながら天井を見上げる。蛍光灯の紐の先でほこりが小さく揺れていた。彼はその揺れを見つめながら、静かに目を閉じた。すぐには眠りは訪れなかった。それでもこれまでの夜とは違う、どこか穏やかな重さが兵吉地の胸の中に残っていた。失ったものは大きかったが、それでもまだ明日を迎えるだけの力は、残されているようだった。
翌朝、兵吉地はいつもと変わらない時刻に目を覚ました。窓の外には昨夜の雪がうっすらと積もり、朝の光を受けて白く輝いていた。体のあちこちに昨夜の道のりの疲れがまだ残っていた。それでも彼はいつも通りの手順で朝の支度を進めていった。決まった動作を一つ一つこなしていくことが、今の彼にとって数少ない拠り所の一つだった。
身支度を整え、兵吉地はいつものベージュのコートに袖を通した。すり切れた袖口も、薄くなった靴底も、何も変わってはいなかった。それでも彼はいつものように背筋を伸ばし、部屋を出た。
駅までの道を歩きながら、兵吉地は雪の残る道端に目を落とした。踏み固められた雪の下から、かすかにアスファルトの黒が覗いている。彼はその小さな景色を見つめながら、これから先も同じようにこの道を歩き続けるのだろうと、静かに思った。
事務所の前に着くと、兵吉地は一度立ち止まり、深く息を吸い込んだ。冷たい朝の空気が肺の奥まで染み渡っていく。彼はその冷たさを、不思議と嫌だとは思わなかった。ガラス越しに見える事務所の中では、すでに何人かの社員たちが自分の席についていた。桑田の姿もそこにあった。目が合うと、桑田はいつものように小さく会釈をしてよこした。兵吉地もまた、同じように小さく頭を下げ返した。
ドアを開け、兵吉地はいつも通りの声で挨拶をした。
「おはようございます」
まだ数人しか出勤していない事務所の中で、その声は静かに響いた。誰かがそれに応じ、「おはようございます」と返してくる。その当たり前のやり取りの中に、兵吉地は今日という一日の始まりを確かに感じ取っていた。



