夫は退職金が振り込まれた翌日、私にこう言った。「もうお前は必要ない。30年、うんざりだったんだ」。私は荷物もまとめず、そのまま家を追い出された。夫は「これで自由だ」と笑った。そして、私が退職金を全額引き出したと知るや、息子にこう叫んだ。「あいつは犯罪者だ。警察に突き出してやる」。でも夫は忘れていた。15年前のあの契約書のことを。私は夫に一言伝えた。「15年前のことを、忘れたのか」って。夫は何…

夫は退職金が振り込まれた翌日、私にこう言った。「もうお前は必要ない。30年、うんざりだったんだ」。私は荷物もまとめず、そのまま家を追い出された。夫は「これで自由だ」と笑った。そして、私が退職金を全額引き出したと知るや、息子にこう叫んだ。「あいつは犯罪者だ。警察に突き出してやる」。でも夫は忘れていた。15年前のあの契約書のことを。私は夫に一言伝えた。「15年前のことを、忘れたのか」って。夫は何...

「捨て山、知ってるか?」

夫が突然、そんなことを言い出したのは、いつもの冗談の延長かと思った。30年連れ添った相手だ。たまに変なことを言う人ではあった。

「昔はそういうこともあったらしいわね。ひどい話だわ」

「今、お前を捨てられそうな山を探してるんだ」

「はいはい」

「まあ冗談だがな。離婚となれば財産分与で半分持っていかれるだろう。だったら山にでも捨ててやろうかと思ってな」

私は笑って流した。でも、次の言葉で笑えなくなった。

「退職金目当てで、今まで結婚生活を続けてきたんだろ?」

「何言ってるのよ」

「本当か?」

「そんなわけないでしょ。家族として、お互いに支え合ってきたつもりよ」

夫は鼻で笑った。

「お前が何したって言うんだ? 家で飯作って、ちょっと掃除してただけだろ」

「ちょっと待ってよ。それがどれだけ大変なことだと思ってるの?」

「ほざけ。その程度のこと、俺にもできるわ」

「じゃあ、やってみなさいよ」

「やってやるよ。だから出ていけ」

私は言葉を失った。とっさに、ずっと前のことを思い出した。

「お茶が飲みたいって、買い物中の私を呼び戻すような人が、何を言ってるのよ」

「そのくらいできる。もうお前は必要ない。お前と30年も結婚生活して、もううんざりなんだわ」

「……さっき、退職金目当てじゃないと言ったな」

「ええ、そうね」

「じゃあ、退職金は全額俺のものだ。離婚して出ていけばな」

「本気で言ってるの?」

「もちろん。お前が俺の退職金を我が物顔で使うと思ったら、吐き気がするんだよ」

「私だって、あなたの仕事を支えてきた自負はあるわ」

「家で飯作って掃除してただけの女が、何を偉そうに」

「ひどいこと言うのね。あなたこそ、子育てに何も協力しなかったくせに」

「俺の稼ぎで、あいつらは立派な大人になったんだ」

「それは分かってるわ。でも、私が何もしなかったってことはないでしょ」

「お前じゃなくてもよかった。どの女を選んでも、お前くらいの働きはしたよ」

「随分と好き放題言ってくれるじゃない」

「あとは全部、家政婦に頼めば問題ない。おばあさんが消えて、最高の老後だな」

「……いつもの冗談じゃなさそうね」

「もちろん」

「がっかりだわ」

「あなた、もしかして浮気とかあるわけ……ないか。あなたを相手にする女性がいるわけないものね」

「なんだと? 俺だって本気を出せば、女の1人や2人は捕まえられるんだぞ」

「へえ、すごいですね」

「お前みたいな無価値な女は、もういらん」

そこまで言われて、私はようやく決心がついた。

「そこまで言うなら、いいわ。出ていく」

「心配するわけじゃないが、行くところはあるのかよ」

「ないわね」

「息子夫婦の邪魔だけはするなよ」

「分かってるわ。お世話になりました」

夫は「やった、これで俺は自由だ」と、まるで祝うように言った。

私はその日、家を出た。

三日後、息子から夫に電話があった。

「母さんと連絡がつかないんだけど。旅行か何か?」

「いや、あいつは出ていった」

「は? なんで?」

「老後までじいさんの面倒を見たくないんだとよ」

「そんなこと言ったの?」

「ああ、ひどい話だろう。おかげでまともに飯も食えてないよ」

「警察に捜索願いとか出した方が良くない?」

「自分の意思で出ていったんだぞ。失踪したわけでもあるまいし」

「そうだけど、父さんは心配じゃないのか?」

「捨てられたのは俺の方だ。心配するなら、父親の方だろう」

「お母さんの電話、電源が入ってないんだよ。どこかで倒れたりしてないかな?」

「俺のことはどうでもいいのか?」

「父さんは連絡も取れたし、家にいることが分かってる。でも母さんは、どこで何をしてるか分からないんだよ」

「そりゃそうだが、あいつの意思なんだから、ほっとけ」

息子は、何か引っかかるものを感じたようだった。

「父さん、退職してから何してるの? 少しは動いたり出かけないとだめだよ」

「なんだよ。ボケるとでも言いたいのか」

「なんか、やけに突っかかるね」

「お前が母さん母さんと言うからだ」

「俺にとっては、どちらも大事な両親だよ」

「どうだかな」

「とにかく、帰ってきたら教えて」

その三日後、また息子から連絡が来た。

「母さんと連絡取れたか?」

「いや、まだ折り返しもない。何度もかけてるが、つながらん」

「うん、俺もこの間からそう言ってるよな」

「どうにかして見つけろ」

「どうしたの? 急に焦って」

「大座があいつが抜き出したんだ」

「はあ?」

「退職金の残高が、こっそり消えてるんだよ」

「どういうこと?」

「2日前に退職金が1500万振り込まれたんだ。その翌日にあいつが出ていったんだが、その時に金を盗まれたんだよ」

「父さんの名義なんだろ? なんで母さんがお金を動かせるわけ?」

「ネットバンキングっていうのか? それでやったんじゃねえか」

「なんで父さんに黙ってそんなことするんだよ」

「知るか」

「母さん、離婚する気なのかな?」

「だから財産分与としてもらったんじゃない?」

「それにしても、全額なんてやりすぎだし、あいつは金なんていらないって言ったんだぞ」

「なんか話が噛み合わないな。本当に母さんが勝手に出ていったの?」

「そうだ」

「うーん、なんか母さんの行動がしっくり来ないな」

「俺は何もしてない。とにかく、連絡がついたら金を返すよう言っておけ」

数日後、息子の携帯に私から連絡が入った。

「母さん、みんな心配してるよ。連絡ちょうだい」

「ミキヤ、ごめん。スマホをなくしちゃって。さっき契約し直したばかりなのよ」

「ああ、やっと連絡取れた。何かあったのか? 父さんも心配してるぞ」

「ええ、まあ……心配っていうか、怒ってるって感じだけど」

「ああ、退職金のことをね」

「うん。勝手に家を出るなんて、何かあったの?」

「あの人、そんな風に言ったのね」

「違うの?」

「私は追い出されたのよ」

「は?」

「30年一緒にいてうんざりなんだって。今後は1人でのんびり生きていきたいそうよ」

「なんだよ、それ」

「今後は夫婦2人でのんびりしながら、たまにあなたたちが帰ってきてくれるのを楽しみに、穏やかに暮らしていくものだと思ってたの」

「俺だってそう思ってたよ」

「でも、それは私の勝手な人生プランだったみたい。あの人にとって、私は邪魔な存在だったのね。そんなことに気づかなかったなんて、私も妻として失格かもしれないと思った」

「違う。父さんが会社を務め上げたのも、俺が大人になれたのも、母さんのおかげだよ」

「ありがとう。でも、もういいの。私もずっとやりたかったことをやろうと思ってるのよ」

「何?」

「今準備中だから、お披露目できるようになったら知らせるわね」

「分かった。今はどこにいるの?」

「実家」

「それだと、あの人にすぐバレるから」

「今は内緒」

「そっか。それより、父さんの退職金を全額引き出したって本当なの?」

「うーん、そんなこと言ってたんだ。ATMで残高を見たら、すっからかんだったって」

「まあ、そうでしょうね」

「やっぱり母さんなんだ」

「私じゃないわね」

「じゃあ、誰が……」

「お父さんに伝えて。15年前のことを忘れたのかって」

「分かった。俺には教えてくれないの?」

「説明するには時間がいるわ。今、ちょっと忙しいの。お父さんから聞くといいわ」

「分かったよ。じゃあまた連絡するけど、家とかは大丈夫なの? あれだったら、うちに来てもいいんだよ」

「お嫁さんに迷惑はかけられないわ。それに、私なら大丈夫。心配しないで」

「そうか。何かあったら、すぐ言ってくれよな」

「はいはい、ありがとうね」

翌日、息子は夫と会った。

「母さんと連絡取れたよ」

「はあ。俺の連絡は無視してるくせに、あの女……!」

「父さんから聞いてる話と違うんだけど、どういうことなのかな」

「何がだ?」

「母さんは追い出されたと言ったよ」

「そうやって自分が被害者のふりをすることで、お前の同情を引こうとしてるんだ。ずるいやつだよ」

「2人とも言うことが違うんだよな」

「俺は嘘はついてない」

「あと、お金の件だけど……『15年前のことを忘れたのか』って言ってたんだけど、何の話?」

「え?」

「心当たりあるの?」

「いや……さあ、何のことだか」

「なんか今すごく忙しいみたいで、ゆっくり話せなかったんだ。どこにいるか分かったか?」

「いや、それも教えてくれなかった」

「何をこそこそしてやがる?」

息子は、ここでようやく夫に核心を問いただした。

「父さん、頼むから俺には正直に教えてくれないかな? 離婚を切り出したのは、父さんなの?」

「そうだよ。だったらなんだ?」

「どうしてだよ。今までずっと支えてくれたのは母さんだろう」

「そうだな。ただ、その役目が終わったというだけだ」

「退職金を手にした途端、切り捨てたの?」

「人聞きの悪い言い方をするな。お互いの人生を歩むというだけの話だ」

「ずっと主婦だった母さんが、いきなり世の中に放り出されて、何ができると思ってるんだよ」

「知るか」

「冷たすぎるよ。感謝もないのか?」

「あるから、今まで食わせてきてやったんだろう」

「なんて言い草だよ。……15年前の件って、何? 本当は心当たりあるんだろう?」

夫は、しぶしぶ口を割った。

「あれは俺が投資に手を出して、大損したんだ」

「俺が中学生の時に? そんなことがあったの、全然気づかなかった」

「このじいさんが、金を貸してくれたんだよ」

「いくら?」

「1800万くらい」

「はあ……そんなに。でも、ちゃんと毎月返済してる。15年も払ってきたんだぞ。もう終わってるはずだ」

「母さんは、そのお金を回収したのかな?」

「いや、でも、やっぱり勝手にお金を移動したり引き出すのは、銀行が許さないと思うんだけどな」

「だろう。だからあいつは犯罪者なんだよ。1ヶ月以内に返さないと、警察に突き出してやる。それが嫌なら、すぐに連絡するよう伝えろ」

2週間後、夫はようやく私と電話で話せた。

「しつこいわね。何なのよ」

「やっと返事しやがったな。1ヶ月近く無視しやがって」

「色々と忙しかったのよ。……離婚届けを出してくれたみたいね」

「なんで分かるんだ?」

「住民票を実家に変えておいたから、受理通知が届くのよ」

「ああ、そういうもんなのか。そんなことはどうでもいい。さっさと金を返せ」

「ミキヤにも伝えたけど、15年前のこと、忘れたの?」

「じいさんに借りた金の件だろ? あれは毎月返済してたし、もう終わってるはずだ」

「いいえ」

「なんだよ?」

「父には、毎月1万円しか返済してなかったのよ」

「はあ?」

「年間12万を15年で、180万しか返してないわ」

「なんで、それっぽっちだったんだよ」

「あの頃はミキヤの高校進学や大学進学を控えて、お金が必要な時期だった。父はそれを分かってて、1万ということにしてくれたの」

「そうだったのか。でも、契約書みたいなの作ったよな」

「そう。そこが重要なのよ」

「え?」

「私と夫婦でいる以上は毎月1万で良かったけど、離婚をしたら即時全額返済するという文言が入ってたのよ」

「はあ? 知らないぞ」

「知らないわけないでしょ。あなたがサインしたんだから」

「いや、あんなのを読んだって、よくわからないし……」

「父は私たちの夫婦関係が終わることなんて想定してなかった。だから、強制執行文言付きの契約書を作成したの」

「なんだそれ?」

「要は、支払いが滞ったり条件が変わった場合には、給与や預金を差し押さえることができる。強力な契約書なのよ」

「え、離婚したことで、父があなたに返済を猶予する理由がなくなったでしょ。だから即時に強制執行されたというわけ」

「ちょっと待てよ。そんなの知らねえよ」

「調べてみたら分かると思うけど、差し押さえという形で、もう手続きは済んでるはずよ。残りの120万は分割でいいそうよ」

「俺の退職金が、一瞬でパー……」

「そもそも、あなたが知識もない株に手を出して大損したことが原因でしょ。だからって父が言ったはずよ。『娘を裏切ったり傷つければ、すぐに返してもらうぞ』って」

「そうだったかな」

「その時、あなたはこう言ったの。『俺は一生ミヨコさんを大事にしますから、そんな心配は必要ないですよ』って」

夫は、しばらく沈黙した。

「……戻ってこい」

「は?」

「俺がどうかしてた。今後も一緒に暮らそう」

「お断りします」

「なんでだよ。どうせみすぼらしい生活を送ってるんだろう。俺もまだ若いし、就職して稼ぐから」

「あなた、私の趣味知ってる?」

「さあ、何だったかな。編み物か?」

「やったことないわね。……そういえば、何かパンとかよく焼いてたな」

「そう、それを仕事にしたの」

「はあ? 素人のパンなんて誰が買うんだよ」

「そうなのよね。だから、商品を限定してみたのよ」

「意味が分からん」

「ヒントは、ミキヤの息子」

「カトがどうした?」

「あの子、小麦アレルギーでしょ?」

「そうなのか?」

「本当に何も知らないのね。それで、美味しいパンもクッキーも食べられないの。そんなの可哀想じゃない?」

「まあ、そうだな」

「だから、グルテンフリーのお店を出すことにしたのよ」

「なんだそれ?」

「小麦粉を一切使わないで、パンとかお菓子とか、おかずとかを売るのよ」

「お前はアホなのか? そんなもの、ミキヤの息子しか買わないだろう」

「今はアレルギーじゃなくても、小麦を控える人が多いの」

「それじゃ、ラーメンもうどんも食えないじゃないか」

「そういうのを求める人をターゲットにするのよ。ちなみに、明日オープンよ」

「はあ? 金はどうしたんだ? 1500万はじいさんに返済されたもので、お前にくれてやったもんじゃないんだぞ」

「分かってるわ。ただ、その退職金は本来なら共有財産と知ってる? 半分はもらえるのよ」

「そうなのか?」

「ただ、マイナスも共有財産。父に返済した以上、私は何ももらえない。じゃあ、開業資金はどうしたんだって?」

「いい抜き物件が見つかったし、比較的余裕で開業できたわ」

「だからって、ただじゃ何もできないだろう」

「老後のために、コツコツと貯金してたのよ」

「え?」

「お金があると分かれば、あなたがまた余計な投資話に手を出すかもしれないから、黙ってたのよ」

「くそ……いくらだ?」

「1200万」

「そんなに!?」

「そう。だから、退職金はあなたがもらって、私はこの貯金で開業する。これで仲良く半分ってところね」

「こっちはおかげさまで、すっからかんなんだぞ」

「ええ、全額私がもらうわよ」

「なんでだよ。お前が離婚って言ったんだろう」

「あなたには家があるじゃない。その家の評価額もちょうど1200万くらいよ。これで、仲良く半分」

「いや、俺はここに住み続けるし、売ってしまえば住む場所がなくなるだろう」

「それは知らないわ。財産をきっかり半分こすればいいだけだもの」

「……本当は、このお金で老後は旅行したり、2人でのんびり生きていけたらと思ってた。でも、そんな夢を思い描いてるのは、私だけだったのね」

「悪かったよ。退職金を手にしておかしくなってた。一緒に旅行に行こう」

「悪いけど、そんな薄っぺらい嘘に騙されないわ。今の私にはやるべきことがあるの」

「俺も手伝おうか」

「あなたみたいな不機嫌な店員がいたら、売れるものも売れなくなるから。結構よ。じゃあ、さようなら」

「ちょっと待てよ。まだ話し合う余地はある」

私は、夫の顔を見て、静かに言った。

「山に捨てたと思ってちょうだい」

数分後、息子に電話をかけた。

「母さんと連絡取れた。グルテンフリーの店をやるそうだ」

「知ってる」

「え、うちの妻も手伝うことになったから」

「お前、知ってて黙ってたのか?」

「いや、聞いたのは数日前だ。でも、アレルギーの息子のためにこんな風に動いてくれるなんて、嬉しかった。母さんの子で良かったって思ったよ」

「俺は……敵だね」

「は? そんな母さんを定年直後に見捨てて、退職金を独り占めしようとしてた父親のどこを尊敬か、逆に教えてよ」

「……だから、それは謝ったけど、許してもらえなかったんでしょ?」

「そうなんだ」

「お前からも、何とか言ってくれないか?」

「もう無理だと思うよ」

「どうしてだよ」

「母さんと妻を見てると、羨ましいくらい楽しそうなんだ。前しか向いてないっていうか。……俺は、過去の人だってことか」

「でも、ある意味、父さんが母さんを見捨てたことで、夢や目標が見つかったんだから、感謝してるかもね」

「俺は……自分が頑張って働いてきた退職金という結晶を、あいつに我が物顔で使われるのが嫌だったんだ」

「母さんが管理してくれてたから、家も建ったし、俺も進学できたんじゃないの?」

「まあ、そうだけど……投資の件も聞いたよ。母さんがいなかったら、今頃うちは終わってた」

「分かってるんだけど……忘れてたというか」

「父さん、ありがとう」

「何がだ?」

「支えてくれる妻という存在の大切さに、改めて気づかされたよ」

「はあ?」

「俺は絶対にこんなクソ父になってはいけないって、新たに決意することができた」

「どこが感謝だ? けなしてるだろう」

「いやいや、本当に反面教師としては最高の事例だった」

「お前なあ……」

「これで実は浮気してましたみたいなパターンなら面白みもあるんだろうけど、そんな浮いた話がないところも、父さんらしいよね」

「ほとんどバカにしやがって」

「新しいパートナーもいない。お金もない。息子や孫にも会えない。そんな人生を65歳で選ぶその勇気には、ただただ驚くばかりだよ」

「これでも、随分と見下してやがるな」

「じゃ、残りの人生楽しんで。俺もそうするよ」

「お前、俺を見捨てるのか?」

「最初に自分がやったことを、もう一度思い出せばいい。ボケるにはまだ早いよ、父さん」

3ヶ月後、私はお店を順調に切り盛りしていた。

「母さん、すごい繁盛だね」

「そうなのよ。毎日忙しくって大変。でも、最高に幸せよ」

「俺も米粉で作ったパンとか初めて食べたけど、めちゃくちゃ美味しいし、会社の人たちにも大人気なんだ」

「それは良かったわ。息子も、喜んで朝ご飯にパン食べてるよ」

「行動起こしてなかったら、今頃本当なら……私はあの人のためにご飯を作るだけの毎日を、何の疑問も持たずに送ってたのかもね。たまにあなたたちが来てくれるのを心待ちにして」

「という人生が悪いわけじゃないけど、今の母さんは楽しそうだよ」

「あの人、今何してるか知ってる?」

「気になるの?」

「別に、そんなんじゃないわよ」

「建設現場で働いてるみたいだよ」

「え、営業畑だったあの人が……最終職に転向したんじゃないかな」

「あら、困ってる時に手を差し伸べてくれるかどうかって、今までのその人の積み重ねだと思うんだよね」

「確かに。長年一緒にいたけど、部下を連れてくることもなければ、贈り物が届いたこともなかったわ。よほど信頼のない人だったのね。今が人生の答え合わせってことか」

「でも、仕事は真面目だった。休まず働いて、家族を支えてくれたのは事実よ」

「うん、そこだけは見習おうと思う」

「さて、休憩は終わり。午後のパンを焼かないと」

「無理しないでよ」

「でも、楽しんで」

「ありがとう、お母さん。最高に幸せよ」

その後、元夫は4LDKの広い一軒家を持て余し、結果的に売却したそうです。一時的に手にした1000万ちょっとを増やそうと、手堅い個別銘柄の株を買ったそうですが、経営陣の不祥事で暴落し、資産は半分以下に減ったそうです。ここまで投資運のない人間がいるでしょうか? そのため、建設業のバイトを辞めるわけにもいかず、老後に退職金で優雅に暮らすプランは崩れ去りました。

そもそも、料理も洗濯もろくにしなかった人が、どうやって生きていくつもりだったのか。今となっては謎ですが、どうでもいいです。きっとカップラーメンのゴミと洗濯物の山の中で、のんびりと「快適な老後」を送っていることと思います。

私のグルテンフリーのお店は、おかげさまで大繁盛。アレルギーを持つお子様の親御さんから、感謝の口コミをたくさんいただきます。今までは家族のために生きてきました。でも、知らない誰かが喜んでくれる人生も、それはそれで嬉しいものです。お嫁さんと一緒に切り盛りして、いつか彼女が大きくしてくれたら。年を取った私でも、そんな夢を見ていいですよね。

あと何年生きられるか分かりませんが、家族とお客様の笑顔を支えにして、頑張りたいと思います。

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