食卓に並んだお茶の湯気が立ち上る、穏やかな夕食後のひととき。義理の娘・リナが箸を置いて、何の前触れもなく言い放った。「お母さん、二度とうちに来ないでください。お母さんの存在自体が、私たちの生活を乱しているんです」。隣で息子の新一は、私の助けを求める視線をそらした。三十五年前に夫を亡くしてから、身一つでこの息子を育て、教育費も結婚資金も家の頭金も、すべてを注ぎ込んできたのに。そして、リナは冷た…

食卓に並んだお茶の湯気が立ち上る、穏やかな夕食後のひととき。義理の娘・リナが箸を置いて、何の前触れもなく言い放った。「お母さん、二度とうちに来ないでください。お母さんの存在自体が、私たちの生活を乱しているんです」。隣で息子の新一は、私の助けを求める視線をそらした。三十五年前に夫を亡くしてから、身一つでこの息子を育て、教育費も結婚資金も家の頭金も、すべてを注ぎ込んできたのに。そして、リナは冷た...

夕食の後、食卓に並んだお茶の湯気が立ち上る静かな時間だった。その静けさを、義理の娘・リナの冷たい声が引き裂いた。

「お母さん、はっきり言わせてもらいます。二度とうちに来ないでください」

氷水を浴びせられたような衝撃が全身を貫いた。何を言われたのか、一瞬理解できなかった。

「リナさん、それは…どういう…?」

「もう限界なんです。お母さんの存在自体が、私たちの生活を乱しているんです」

その瞳には一片の迷いもない。私は隣に座る一人息子の新一を見た。助けを求めるように。しかし、新一は目をそらした。その仕草が、私の心臓をえぐった。

「新一、あなたも…同じ気持ちなの?」

長い沈黙の後、新一がようやく口を開いた。

「母さん、リナの言う通りだ。もう、家族として付き合うのは無理だよ」

家族。その言葉が、虚しく響いた。三十五年前、夫を亡くしてから、必死に育ててきた一人息子。その息子が今、私を「家族ではない」と言い切った。

「あなたたち、本気で言っているの?」

私の声は震えていた。怒りなのか悲しみなのか、自分でも分からない感情が込み上げてくる。リナが追い打ちをかけるように言い放った。

「本気です。今日限り、絶縁させていただきます」

絶縁。その二文字が、私の人生を根底から否定したように感じられた。

三十五年前の記憶が、走馬灯のように蘇ってくる。夫が他界したのは、新一が三歳の時だった。幼い子を抱え、途方に暮れた私は、保険営業の仕事を始めた。朝から晩まで駆け回り、必死で契約を取った。雨の日も風の日も、新一のためだけを思って働き続けた。

「母さん、今日も遅いの?」

幼い新一の寂しそうな声を思い出す。それでも私は歯を食いしばって頑張った。おかげで年収八百万円を稼げるようになり、新一を私立の進学校に通わせることができた。教育費だけで総額二千万円。大学の学費も全て私が払った。新一が結婚する時には、結婚式の費用として五百万円を援助した。さらにマイホーム購入時には、頭金八百万円を提供した。

「お母さん、本当にありがとうございます」

あの時のリナの笑顔は嘘だったのか? 孫が生まれてからの三年間、私は無償で孫の世話をした。保育園の送り迎え、病気の時の看病、全て私がやってきた。それだけではない。今でも毎月十万円の生活費を援助し続けている。新一の給料だけでは住宅ローンが厳しいと聞いて、黙って振り込み続けてきた。総額にすれば三千五百万円以上。私の人生の全てを注ぎ込んできた。それなのに、絶縁だという。私の三十五年間は、一体何だったのだろうか。

涙が頬を伝い落ちた。

思い返せば、リナの態度が変わり始めたのは半年前からだった。最初は些細なことから始まった。

「お母さん、この煮物の味付け、ちょっと古臭くないですか?」

リナが眉をひそめながら箸を置いた。私が心を込めて作った肉じゃがを一口食べただけで、まるで毒でも口にしたかのような顔をした。

「今時、こんな濃い味付けする人いませんよ。塩分取りすぎは体に悪いんです」

それからリナの攻撃は日に日にエスカレートしていった。

「お母さんの服装、もう少し今風にした方がいいんじゃないですか? 正直、一緒に歩くの恥ずかしいんです」

買い物に行った先では、私から距離を取って歩くようになった。まるで他人のふりをするように。私は深く傷ついたが、息子の妻だからと我慢した。

「お母さん、また同じ話してますよ。最近、物忘れひどくないですか?」

普通の会話をしているだけなのに、リナは大げさにため息をついた。

「認知症の検査受けた方がいいんじゃないですか? 早期発見が大事らしいですから」

私はまだ六十八歳。保険営業の仕事も現役でこなしている。年収八百万円を稼ぎ、部下の指導もしている。なのに、リナは私を認知症扱いした。

「もう本当に時代遅れなんですよ。お母さんの考え方って」

リナの言葉は日に日に辛辣になっていった。私が何か意見を言うたびに、リナは鼻で笑った。

「そんな昭和の価値観、今の時代には通用しませんから」

最も傷ついたのは、リナの実母が訪ねてきた時のことだった。

「うちのお母さん、本当に素敵でしょう? センスもいいし、話も面白いし」

リナは実母の隣で嬉しそうに微笑んでいた。実母には高級な和菓子でもてなし、私には安物の茶菓子を出す。その差別は露骨だった。

「お母さんは、元大手企業の秘書だったんです。品があって教養もあって」

私との比較を匂わせた言葉だった。リナの実母は上品に微笑みながら、私を睨むような視線を向けてきた。

「あら、岡本さんは保険の営業をされているんですって? 大変なお仕事ですわね」

その口調には明らかな見下しが含まれていた。保険営業という仕事を、まるで卑しい職業のように言われた。

新一も最近ではリナに同調するようになった。

「母さん、もう少しリナの言うことも聞いてよ。確かに母さんの料理、ワンパターンだし」

息子の裏切りが何より辛かった。幼い頃、新一は私の作る料理が世界一美味しいと言ってくれていたのに。

「母さんの話、確かに同じことの繰り返しが多いよ。リナも疲れてるんだ」

私が孫の世話をしていても、感謝の言葉一つない。朝七時に家を出て孫を保育園に送り、夕方迎えに行き、夕食を作り、お風呂に入れる。それを毎日続けているのに、当たり前のように私を使い、都合が悪くなると邪魔物扱いする。

ある日、リナが友人との電話で話しているのを偶然聞いてしまった。

「うちの義母、本当に鬱陶しいの。いつも家に来ては余計なことばかりして、正直顔を見るのも嫌になってきた」

私は凍りついた。孫の世話を頼まれてきているのに、「余計なこと」だと言われた。

「保険の営業してるらしいけど、きっと周りに迷惑がられてるわよ。あの年で図々しく働いてるなんて」

私の仕事まで侮辱された。三十五年間築き上げてきたキャリアを、一字一句で片付けられた。

「早く施設にでも入ってくれないかしら。そうしたら解放されるのに」

施設。まだ元気で働いている私を、もう施設に送りたいらしい。

「新一も同じ意見よ。あの人がいなくなれば、もっと自由に暮らせるのに」

息子まで同じように思っていたのか。胸が張り裂けそうだった。

リナの本音を知ってから、私は息子の家に行くのが怖くなった。それでも孫の顔を見たくて通い続けた。しかし、リナの態度はますます冷たくなるばかりだった。

「お母さん、玄関で靴ちゃんと揃えてください。だらしないんです」

「お母さん、また忘れ物してますよ。しっかりしてください」

「お母さん、孫の教育に口出ししないでください。時代が違うんです」

些細なことで攻められ、人格を否定される日々。私の存在そのものが否定されているような気がした。

そして今夜、ついに最後通告を受けた。絶縁。もう家族ではないと。三十五年間全てを捧げてきた息子とその妻から、私は完全に切り捨てられたのだ。

絶縁宣言から数分後、リナが立ち上がった。その表情には、これから本題に入るという気配が見て取れた。

「お母さん、実はもう一つ大事な話があるんです」

リナの口調が急に事務的になった。まるで仕事の交渉でもするような冷たさだった。

「お母さんの通帳と印鑑、それから保険の証書、全部こちらで管理させていただきます」

私は耳を疑った。絶縁するといった直後に、今度は財産の管理を要求してきた。

「どういうことかしら? 私はまだしっかりしているわよ」

「だからこそ、今のうちに整理しておく必要があるんです」

リナは用意していた書類を机の上に広げた。

「財産管理委任状」と書かれていた。

「これにサインしていただければ、お母さんの財産は私たちが責任を持って管理します」

新一も横から口を挟んできた。

「母さん、これは母さんのためなんだ。最近、高齢者の詐欺被害が増えているし」

詐欺? 私は三十五年間保険営業をしてきたのよ。お金の管理くらいできるわ。

私の反論を、リナは鼻で笑った。

「保険営業なんてもう時代遅れの仕事でしょう? 今はネットで簡単に加入できる時代なのに」

その言葉に、私は深く傷ついた。私の人生の大半を費やしてきた仕事を、一瞬で否定された。

「それに、お母さんの年収八百万円って本当ですか? きちんと申告してますよね」

リナの目が疑いに満ちていた。まるで私が脱税でもしているかのような口ぶりだった。

「当然よ。全て正当に稼いだお金です」

「だったら、もっと援助できるはずですよね。毎月十万円なんて少なすぎます」

私は息を飲んだ。毎月十万円の援助でも少ないというのか。

「リナさん、私はもう十分援助してきたはずよ」

「十分? 冗談でしょう。新一の親なんだから、もっと援助するのが当然です」

リナの理屈は完全に破綻していた。絶縁すると言いながら、金銭的援助は要求する。

「どうせお母さんもそのうち認知症になるんです。お母さんの言葉は残酷だった。その前に財産の整理をしておかないと、後で大変なことになります」

「認知症になると決めつけるのは失礼じゃないかしら」

私の抗議を、リナは完全に無視した。

「実はもう施設も探してあるんです。月十五万円の良いところです」

施設。その言葉に私は凍りついた。

「ちょっと待って、私はまだ元気よ。仕事もしているし」

「いつまでも働けるわけじゃないでしょう。現実を見てください」

新一が追い打ちをかけてきた。

「母さん、施設に入れば安心だよ。介護のプロがいるし、同年代の友達もできる」

息子の言葉とは思えなかった。まるで厄介払いをしたいだけのように聞こえた。

「入居金は五百万円です。お母さんの貯金から出してもらいます。残りの財産は私たちが管理します。毎月のお小遣いは三万円で十分でしょう」

リナが淡々と金額を告げた。お小遣い? 六十八歳の私が、息子夫婦からお小遣いをもらう立場になるというのか?

「ちょっと待って。私の財産は私が管理します」

「お母さん、意地を張らないでください。これはみんなのためなんです」

みんなのため。その言葉の裏に、私は吐き気を覚えた。

「本当のことを言いましょうか?」

リナの表情が急に険しくなった。

「お母さんの存在が、私たちの生活を壊しているんです」

壊している?

「そうです。お母さんがいるせいで、私たちは自由に生きられない。友達との旅行も行けない。外食も気を使う。休日も孫の世話を押し付けられる」

孫の世話は頼まれたからしていたのに、「押し付けられた」と言われた。

「正直、お母さんなんていない方がいいんです」

その言葉は、私の心臓を鋭く刺した。

「リナさん、それは言いすぎよ」

「言いすぎ? 本当のことじゃないですか?」

リナは見下すように私を見た。

「お母さんはもう用済みなんです。お金だけ置いて消えてください」

用済み。その言葉に、私は言葉を失った。新一を見た。息子なら妻の暴言を止めてくれるはずだと期待した。しかし、新一は黙って下を向いていた。

「新一、あなたも同じ気持ちなの?」

長い沈黙の後、新一が顔を上げた。その目は冷たかった。

「母さん、正直に言うよ。母さんの存在が重荷なんだ」

息子の言葉に、私は崩れ落ちそうになった。

「僕たちには僕たちの人生がある。いつまでも母さんに縛られたくない」

縛られる? まるで私が息子を束縛しているかのような言い方だった。

「あなたを育てるために、私は全てを犠牲にしてきたのよ」

「誰も頼んでない。母さんが勝手にやったことだろ」

新一の言葉は、私の三十五年間を完全に否定した。

「とにかく、この書類にサインしてください」

リナが再び契約書を突きつけてきた。

「サインしなければ、本当に二度と会いません。孫にも合わせません」

孫を人質に取った卑劣な脅しだった。

「そんな脅しには屈しません」

私は震える声で言った。

「脅し? これは提案です。お母さんのためを思って言っているんです」

リナの偽善的な言葉に怒りが込み上げてきた。しかし、その時、私の中で何かが変わった。怒りが急速に覚めていき、代わりに冷静な思考が戻ってきた。

この人たちはもう私の家族ではない。お金だけが目当ての他人だ。そう思った瞬間、不思議と心が軽くなった。

私は深く息を吸い込んだ。そしてゆっくりと顔を上げた。不思議なことに、もう涙は出なかった。代わりに、三十五年間保険営業で培ってきた交渉の勘が戻ってきた。

「わかりました」

私の返事に、リナと新一は顔を見合わせた。予想外に素直な反応だったのだろう。

「お母さん、サインしていただけるんですね」

リナが契約書を差し出してきた。私は静かに首を横に振った。

「いいえ。サインはしません。でも、あなたたちの望み通りにしてあげます」

「どういうことですか?」

リナの表情に警戒心が浮かんだ。

「絶縁したいんでしょう? 二度と私に会いたくないんでしょう? だったら、その通りにしてあげます。今日限りで、本当にお別れしましょう」

私は穏やかな笑顔を浮かべた。その笑顔が、逆に二人を不安にさせたようだった。

「母さん、財産の管理は…」

「財産の管理? 絶縁した他人の財産を管理する必要はないでしょう」

私の論理的な返答に、新一は言葉を詰まらせた。

「それより、私からも一つ提案があります」

私はゆっくりと立ち上がった。もうこの家に用はない。今まで援助してきた分は、全てなかったことにしましょう。

「なかったことに? ちょっと待ってください。それは困ります」

リナが声を荒げた。本音が出てきた。

「困る? でも絶縁するんでしょう? 他人にお金を渡す理由はありません」

私の正論に、リナは反論できなかった。

「新一、あなたの教育費二千万円、結婚費用五百万円、マイホームの頭金八百万円」

私は淡々と金額を挙げていった。

「全部で三千五百万円以上援助してきました。でも、もういいわ。これで貸し借りなしね」

新一の顔が青ざめた。

「母さん、それは贈与だったはずだ」

「贈与? 私は貸したつもりでしたけど。法的には、親子間でも金銭の貸借りは成立します。特にこれだけの額となると」

私は保険営業で培った法律知識を活用した。契約書こそ交わしていないが、援助の記録は全て残している。振り込み明細、領収書、全て保管してあった。

「脅すつもりですか?」

リナが睨みつけてきた。

「脅し? 私は事実を述べているだけです。あなたたちが絶縁を選ぶなら、私も自分の権利を主張するだけ」

二人は完全に言葉を失った。私はバッグから手帳を取り出した。三十五年間、全ての出費を記録してきた手帳だった。

「全て証拠があります。振り込み明細、領収書、全て保管してあります」

リナの顔が引きつった。

「まさか、本当に返せというつもりですか?」

「それはあなたたち次第です」

私は冷静に答えた。

「絶縁を撤回して、普通に家族として付き合うなら、今まで通り援助も続けます。でも、絶縁するなら、私も相応の対応をさせていただきます」

これは交渉だった。三十五年間の営業経験が、ここで生きた。

「母さん、ちょっと待ってよ。話し合おう」

「話し合い? さっきもう家族じゃないって言ったじゃない」

私の言葉に、新一は黙り込んだ。

「私は明日、弁護士に相談します」

その一言で、二人の顔が真っ青になった。

「弁護士?」

「ええ、私の顧問弁護士です。保険の仕事で長年お世話になっている方。親族や贈与の問題にも詳しい専門家です。親子間の金銭問題、きちんと法的に整理した方がいいと思いますので」

リナと新一が小声で相談し始めた。二人の顔には明らかな動揺が浮かんでいた。私は静かに荷物をまとめ始めた。

「お母さん、待ってください」

リナが慌てて呼び止めた。

「何かしら」

「その…少し考えさせてください」

「考える? 絶縁は撤回するということ?」

リナは答えられなかった。金が欲しいが、私との関係は切りたい。その矛盾に苦しんでいるのが見て取れた。

「いいでしょう。でも、私の決意は変わりません」

私は玄関に向かった。

「今夜でお別れです。もう二度と、この家には来ません」

「母さん!」

新一が追いかけてきたが、私は振り返らなかった。

「さようなら。お元気で」

私は静かにドアを閉めた。

夜道を歩きながら、私は不思議な解放感を覚えた。三十五年間の束縛から、やっと自由になれた気がした。

家に帰ると、すぐに行動を開始した。まず銀行の通帳を全て確認した。定期預金を含めて、三千万円以上の資産があった。次に援助の記録を全て整理した。振り込み明細、領収書、全てファイルにまとめた。そして、明日一番で弁護士に連絡することにした。

もう我慢する必要はない。正当な権利は、きちんと主張する。三十五年間必死に働いてきた。今こそ、その成果を自分のために使う時が来たのだ。

翌朝、私は朝一番で顧問弁護士の田中先生の事務所を訪れた。田中先生は保険業界では有名な法律家で、私とは二十年以上の付き合いだった。

「岡本さん、どうされました? 顔色が優れませんが」

「実は、息子夫婦から絶縁を言い渡されまして」

事情を説明すると、田中先生の表情が険しくなった。

「三千五百万円もの援助をしてきて、絶縁ですか? しかも財産管理を要求してきたとは」

「はい。もう完全に縁を切るつもりです。徹底的にやってください」

田中先生は眼鏡を直しながら書類を確認し始めた。

「岡本さん、これだけの証拠があれば、法的措置は確実に通ります。全額返還請求ですね」

「お願いします」

「わかりました。贈与の撤回と、不法利得返還請求、両方で攻めましょう。特に、母に対する侮辱行為による贈与の撤回は確実に認められます。それから、詐欺的要素も立証できそうですね」

「詐欺?」

「はい。最初から財産目的だった可能性が高い。この侮辱的な発言の数々…録音はありますか?」

「実はあります」

私はスマートフォンを取り出した。保険営業の習慣で、重要な会話は録音していた。

「素晴らしい。これなら慰謝料請求も可能です。精神的苦痛に対する賠償ですね。五百万円は取れるでしょう」

田中先生はすぐに書類の作成に取りかかった。

「今すぐ、内容証明郵便を送ります。返還請求三千五百万円、慰謝料五百万円、合計四千万円です」

「お願いします」

「それから、仮差押えの手続きもしましょう。相手の財産を凍結します」

その日の午後、内容証明郵便が息子夫婦の元に届いた。同時に、銀行口座の仮差押命令も執行された。

私の逆襲が始まったのは、それから三十分後だった。

「母さん! 銀行口座が使えない! これはどういうことだ?」

新一の叫び声が響いた。

「法的措置を取らせていただきました」

「四千万円だって? ふざけるな!」

「ふざけていません。むしろ、安い方です」

電話の向こうでリナの金切り声が聞こえた。

「給料が引き出せない! 生活できない!」

新一が電話を変わったようだった。

「お母さん、これは犯罪です」

リナの声はヒステリックだった。

「犯罪? 正当な法的手続きです。文句があるなら、裁判所にどうぞ」

「住宅ローンが払えません!」

「それはあなたたちの問題です」

私は冷静に答えた。

「母さん、話し合おう。今すぐ会ってくれ」

新一が必死に懇願してきた。

「会う? 『二度と来るな』と言われましたが」

「謝る! 全部謝るから!」

「謝罪? もう遅いです」

私は電話を切った。

三日後、新一夫婦が自宅にやってきた。インターホン越しに必死に呼びかけてきた。

「母さん、出てきてください! お母さん、お願いします! 死んでしまいます!」

私は一切応じなかった。「警察を呼ぶ」と伝えると、二人は逃げるように去っていった。

一週間後、田中先生から連絡があった。

「岡本さん、面白い事実が判明しました」

「何でしょう?」

「リナさん、過去に同じような事件を起こしていました。五年前、前の夫の親からも多額の金銭を騙し取っていたんです」

私は息を飲んだ。

「これは計画的犯罪です。刑事告訴も視野に入れましょう。詐欺罪で立件できる可能性があります」

その情報を新一に伝えると、彼は完全にパニックになった。

「母さん! リナは関係ない! 俺が悪かった!」

「関係ない? 共犯でしょう」

「母さん、お願いだ! 刑事告訴だけは勘弁してくれ!」

新一の声は、もはや悲鳴に近かった。

「勘弁? 私を母親と思っていないんでしょう?」

「思ってる! 母さんは大切な人だ!」

「嘘ですね。『用済み』だと言ったじゃない」

私は冷静に事実を突きつけた。

二週間後、新一夫婦の家に競売の通知が貼られた。住宅ローンが払えず、差し押さえられたのだ。

「母さん、助けて!」

新一から最後の電話があった。

「もう遅いです。自分たちで巻いた種でしょう」

「でも、孫が…孫が!」

「孫を盾にしないでください。あなたたちが孫の生活を壊したんです」

私は電話を切った。

一ヶ月後、裁判所から連絡があった。新一夫婦が自己破産を申請したという。

「しかし、悪意による免責は認められない。つまり、四千万円の債務は残るということです」

田中先生が説明してくれた。

「一生かけて返済してもらいます」

「その通りです。給料の差し押さえも可能です」

新一は会社を解雇された。横領の疑いがかけられたらしい。必死でお金を工面しようとして、会社の金に手をつけたのだ。

リナは実家に逃げ帰った。しかし、実家もリナを受け入れなかった。全てが知られ、縁を切られたのだ。

「因果応報ですね」

田中先生が静かに言った。

「ええ。全て、自分たちが選んだ結果です」

私は息子夫婦の末路に、一切の同情を感じなかった。三十五年間の献身を踏みにじった報い。それは、想像以上に重いものとなった。

新一からの手紙が届いた。刑務所からだった。横領罪で実刑判決を受けたのだ。

「母さん、俺が間違っていました。でも、もう遅いですね」

手紙はそれだけだった。リナは行方不明になった。借金取りに追われ、夜逃げしたらしい。孫は施設に預けられた。私は養育権を求められたが、断った。もう関わりたくなかった。

これが私の完全勝利だった。情けも容赦もない、徹底的な復讐。でも、後悔はない。彼らは私の人生を否定した。だから、私も彼らの人生を否定した。これが、三十五年間の献身への答えだった。

あれから半年が経った。私の生活は完全に生まれ変わっていた。

朝六時に起きて、高級ホテルのスイートルームからの景色を眺める。そう、私は自宅を売却し、ホテル暮らしを始めたのだ。月三十万円の家賃など、今の私には何でもない。

保険営業の仕事は、過去最高の成績を記録していた。精神的な重荷がなくなってから、年収は一千万円を超えた。

「岡本さん、また全国一位ですよ!」

部下の声が弾んでいた。六十八歳にして営業成績全国一位。これが、認知症扱いされた私の真の実力だった。

ある日、高級レストランで夕食をとっていると、見覚えのある人物を見かけた。リナだった。ウェイトレスとして働いていた。目があった瞬間、リナの顔が青ざめた。

「お、お母さん…」

「人違いです。私はあなたを知りません」

私は冷たく言い放った。リナはうつむきながら下がっていった。後で支配人から聞いた話では、偽名を使って働いていたらしい。借金取りから逃げているのだろう。時給九百五十円で、必死に働いているという。

新一の近況も耳に入ってきた。刑務所から出所後、日雇い労働をしているという。月収十五万円程度で、その大半が返済に消えるらしい。

「岡本さん、息子さんから連絡はないんですか?」

田中先生が心配そうに聞いてきた。

「ありません。もう息子ではありませんから」

「後悔はないですか?」

「全くありません。むしろ、清々しています」

本心だった。あの二人は私の人生を否定した。だから、同じ報いを受けただけだ。

最近、新しい生きがいを見つけた。恵まれない子供たちへの支援活動だ。年間五百万円の寄付をしている。施設の理事長が涙を流して感謝してくれた。

「岡本さんの寄付で、十人の子供が大学に行けます」

本当の家族に裏切られた私が、縁のない子供たちを支援する。皮肉なものだが、この活動が私に新しい喜びを与えてくれた。

ある日、孫から手紙が届いた。施設から送られてきたものだった。

「おばあちゃん、会いたいです。パパもママもいなくなっちゃった」

正直、心が揺れた。孫に罪はない。でも、私は決めていた。過去は振り返らないと。手紙の返事は出さなかった。代わりに、施設に匿名で教育資金を寄付した。一千万円。これで孫は大学まで行ける。それが私にできる最大限の償いだった。

新一から一度だけ手紙が来た。

「母さん、俺は地獄にいます。毎日十二時間働いても月収十五万円、そこから十四万円が返済に消えます。でも、これは自分で選んだ道です」

短い手紙だった。返事は出さなかった。書く必要もなかった。

最近、自伝を書き始めた。タイトルは『裏切りからの再生』。六十八歳からの第二の人生。出版社からは「ベストセラー間違いなし」と言われた。印税は、恵まれない子供たちに寄付するつもりだ。

リナの実母から連絡があった。

「岡本さん、リナが行方不明なんです。助けてください」

「知りません。警察に相談してください」

私は電話を切った。後で聞いた話では、リナは債務で夜逃げを繰り返しているらしい。

今、私の周りには、本当に私を大切にしてくれる人たちがいる。絵画教室の仲間たちとは、月に一度豪華な食事会を開いている。

「岡本さんの絵、本当に素晴らしいわ。今度の展覧会、楽しみにしてるわね」

褒められ、認められる喜び。それは、あの夫婦からは一度も感じることができなかった感情だった。

保険の仕事では、若い後輩たちから尊敬されている。

「岡本さんは私たちの目標です。六十八歳で全国一位なんて、伝説ですよ」

認知症扱いされた私が、今では「伝説」と呼ばれている。

ある日、テレビのニュースで新一の姿を見た。ホームレス支援の特集で、支援を受ける側として映っていた。やつれ果てた息子の姿。髭は伸び、服はボロボロ。かつて私を「重荷だ」と言った息子が、今では社会からも見放されていた。

でも、私の心は動かなかった。自業自得。その言葉しか浮かばなかった。

私は今、人生で最も充実した時間を過ごしている。年収一千万円、資産五千万円以上。そして、心から信頼できる仲間たち。失ったのは、偽りの家族関係だけ。

時々思う。もしあの時、息子夫婦が絶縁を言い出さなかったら、きっと私は今も奴隷のような生活を続けていただろう。認知症扱いされ、財産を奪われ、最後は本当に施設に送られていただろう。そう考えると、絶縁宣言はむしろ私を救ってくれた。

でも、感謝はしない。許すつもりもない。一生、許すつもりはない。

これが私の選んだ生き方。後悔はない。三十五年間の献身を踏みにじった者たちへの、完璧な復讐。それは、私自身が誰よりも幸せになることだった。

新一が地獄で苦しんでいる間、私は最高の人生を謳歌している。これが因果応報というものだ。悪いことをした人間は必ず報いを受ける。そして、理不尽に耐え抜いた人間は必ず報われる。私の人生が、それを証明している。

二度と来るなと言われた私は、二度と戻らない。そして、「二度と来るな」と言った者たちは、二度と幸せになれない。

これが、私の完全勝利の物語。

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