あの日、夫が通帳を開いた瞬間、時間が止まった。三十年以上コツコツ積み立ててきた老後のためのお金。それを私は、クラス会で再会した旧友の「月15%」という甘い言葉に、全額つぎ込んでしまっていた。夫は静かに言った。「お前が守りたかったのは、家族じゃなくて自分の見た目だけだ」と。その翌日、彼は家を出て行った。そして、あのアプリは消えた。「このページは存在しません」という文字だけが、私の全てを終わらせ…

あの日、夫が通帳を開いた瞬間、時間が止まった。三十年以上コツコツ積み立ててきた老後のためのお金。それを私は、クラス会で再会した旧友の「月15%」という甘い言葉に、全額つぎ込んでしまっていた。夫は静かに言った。「お前が守りたかったのは、家族じゃなくて自分の見た目だけだ」と。その翌日、彼は家を出て行った。そして、あのアプリは消えた。「このページは存在しません」という文字だけが、私の全てを終わらせ...

口座残高がゼロになった日のことを、今でも夢に見る。数字としてではなく、縦長の画面にぽっかり穴が開いたような、あの感覚。黒川しず子は六十一歳だった。夫が出ていった夜、廊下には脱ぎ捨てられた靴下が一足、残されていた。

この家を買ったのは二十三年前。三十五年のローンで、完済は七十歳を過ぎてからになるはずだった。夫の哲郎は六十三歳でビルの設備管理の仕事をしている。無口で、贅沢を言わない男だった。スーパーの半額シールが貼られた総菜を買ってきて、薄くなった緑茶をゆっくり飲む。何も欲しがらない。その姿が、しず子には時折、居た堪れない苛立ちを引き起こした。

二人の間には娘のさゆりがいるが、数年前から連絡は途切れがちになっていた。しず子が夫の実家を「古くて狭い」と言ったことが、遠回しに娘の耳に入り、それ以来、会話は儀礼的なものになっていた。

十月、中学時代のクラス会の案内が届いた。二十年ぶりの出席。本当の理由は、当時よりも見窄らしくなった自分を見せたくなかったからだ。クローゼットの服を出しては戻し、出しては戻し、最後にしず子が出した結論は、バッグだった。手持ちの服は合わせれば何とかなる。しかしバッグだけは、持っているものでは物足りなかった。ブランド品のレンタルサービスで見つけた、一泊二日七千円の革のバッグを、三秒考えてカードで借りた。手に持った時、何か別の人間になった気がした。

クラス会の会場で、しず子はひとりの女性に目を止めた。白と千ず。中学時代、特に目立つ存在ではなかった。しかし今、彼女の周りには自然と人が集まっている。派手なわけでもないのに、その人が話すと皆が耳を傾ける。千ずの方が先に気づいた。

「しずちゃん、随分変わらないね」

そう呼ばれるのは久しぶりだった。二人は料理の並んだテーブルの端で、ミネラルウォーターを手に話し始めた。千ずは静かに事業をやっていると言った。具体的なことは言わないが、あまり面白くない仕事だから、と笑った。その笑い方に、しず子は余裕を感じた。

帰り際、千ずが言った。「よかったら、今度ゆっくりお茶しない?」 しず子は社交辞令で「いいですね」と答えた。それなのに、千ずはスマートフォンを取り出し、番号を交換しましょうと言った。

翌週の水曜日、指定されたのは駅から十分ほどの、看板もない小さなカフェだった。コーヒーは一杯千二百円。しず子は表情を動かさずに受け取った。近況を話すうち、千ずはテーブルに肘をついて、こう切り出した。

「しずちゃんは、今お金のことで不安ある?」

しず子は一瞬固まった。千ずは続けた。「ごめん、失礼なこと言った。ただね、私もずっとそうだったから。顔作るのに全力使ってる時期ってあるじゃない。体が先に知ってるんだよね、しんどいって」

千ずは「五十代の半ばに一度、ちゃんと立て直した」と言い、輸入高級品の流通に関わるプライベートなネットワークの話を始めた。一般のルートを使わず、海外のメーカーから直接仕入れ、日本の富裕層や法人に流す仕組み。参加できる人間は限られていて、利回りは月十五%を目安にしている。「仕組み上、リスクはほぼない」と千ずは言った。

しず子の胸の中で、条件反射的な計算が動いた。月十五%、元手が五百万あれば月に七十五万。ローンが一気に縮む。薄いお茶を飲んでいる夫の丸い背中が頭に浮かんだ。

「信用できるの?」しず子の声は少し乾いていた。千ずはしばらくしず子を見ていた。穏やかだが、何かを測るような鋭さがあった。「私が今こうしていられるのは、このネットワークのおかげだから。信用できないと思ったら、あなたには進めない。でも、入ることを決めるなら、それはしずちゃん自身の判断よ。私は強制しない」

その夜、しず子は眠れなかった。天井を見ながら計算した。家のローン残高はおよそ八百万。銀行に追加融資を申し込めば、担保価値の範囲で借りられるかもしれない。千ずの話が本当なら、数年で状況が変わる。コロッケの半額シールと、薄いお茶と、丸い背中と、減らないローン残高が頭の中をぐるぐる回った。変えなければ、という思いが疑念より先に来た。

翌朝、しず子は銀行に電話した。そして一週間後、窓口で追加融資の書類にサインした。手が震えなかったのは、自分でも意外だった。実行されたのは十日後。通帳に記帳された数字を見て、しず子はしばらく動けなかった。その日の夜、千ずにメッセージを送った。「準備ができました」と。

土曜日、二人はまたあのカフェで会った。千ずは薄いタブレット端末で、仕組みを丁寧に説明してくれた。解約は三ヶ月前に申し出れば可能。収益は毎月末に振り込まれる。参加者は自営業者や元会社員が多い。しず子は特に矛盾を感じなかった。専用のアプリをインストールし、翌日、哲郎がいない時間を選んで送金した。もう後戻りはできないと思った。だが、その言葉に付随するはずの恐怖が、なぜかその時はなかった。

翌朝から、しず子は家計の計算をやり直した。最初に削ったのは食費だった。スーパーへ行く回数を週一に減らし、買うものはもやし、豆腐、卵、冷凍うどん、半額シールのついた食材だけ。肉は豚の細切れか鶏の挽き肉。牛肉は当分なし。哲郎の弁当は、おにぎりに変えた。次の週、哲郎が「弁当箱は持っていかないのか」と聞いてきた。「おにぎりでいいから」としず子は答えた。理由は言わなかった。

次に削ったのは暖房だった。十一月、気温が下がってきたが、しず子は日中はほとんどエアコンをつけないことにした。哲郎が帰宅してから就寝前の二時間だけ、最低限の設定で動かす。ある夜、リビングで膝掛けを二枚重ねて座っているしず子を見て、哲郎が「エアコン、壊れたか」と聞いた。「節電のため」としず子は答えた。哲郎は「そうか」と言い、ジャンパーを着たままソファに座った。

その週末、しず子はリビングのテレビを処分した。六千円になった。テレビがなくなった後のリビングは、壁のシミが目立った。哲郎は何も言わずにしばらく壁を見ていたが、「寝るか」と言って先に寝室に行った。

十一月の終わり、アプリに通知が来た。今月の収益が確定しました。指定口座に振り込まれる予定額は、計算通りだった。それどころか、わずかに上回っていた。翌朝、通帳で振り込みを確認した。しず子は記帳された数字を指で抑えた。現実だった。その日の午後、しず子は一人でデパートに行き、一万四千円の絹のスカーフを買った。深い緑に細い金の線が入ったもの。レジで支払う時、表情はほとんど動かなかった。翌日、そのスカーフを巻いて出勤すると、後輩の女性が「素敵ですね」と言った。しず子は「ありがとう」とだけ答えた。それだけで十分だった。

家に帰ると、哲郎が台所でインスタントの味噌汁を作っていた。しず子が遅くなったからだろう。しず子はコートを脱ぎながら、スカーフを先に外し、ハンガーにかけた上着の下に畳んで押し込んだ。なぜそうしたのか、自分でもよくわからなかった。夕食の途中、哲郎が「最近、なんか忙しそうだな」と言った。「少しね」としず子は答えた。

十二月、千ずから電話があった。「新しいフェーズに移行するタイミングが来た」と千ずは言った。海外の介護施設の開発プロジェクトに資本参加する形で、見込みは月三十%。ただし、参加するには今の出資額の三倍の資金が必要になる。参加しない場合は、今月末で元本と収益を精算して終了するという。しず子の頭は素早く動いた。今の三倍。銀行からは借りられない。では、何か他にまとまった資金はないか。思い当たるものが一つあった。哲郎の定期預金の通帳だ。三十年以上、副業や残業代を少しずつ積み立ててきた、老後のための貯金。

その夜、しず子は台所の引き出しの奥に手を入れ、哲郎の通帳と印鑑が入った小さな袋を取り出した。蛍光灯の下で通帳を開き、残高の数字を見た。頬の内側を噛んだ。寝室から哲郎の寝息が聞こえていた。これは家族のためだと、しず子は考えた。哲郎がこの先ずっと安心して暮らせるようにするための、今だけの借用だ。投資が成功すれば、全額戻す。利益の方が多いくらいだ。哲郎がしれば、きっと理解してくれる。

翌朝、哲郎が出かけた後、しず子は銀行に向かった。窓口で「夫が体調を崩しておりまして、私が代わりに」と、用意していた言葉で答えた。担当者は奥に引っ込み、戻ってきて「本人様の携帯にご連絡してもよろしいでしょうか」と言った。しず子の心拍が上がった。哲郎に電話がかかれば、全てが終わる。「夫は今、現場で作業中なので連絡が取れません。後でこちらから確認させます」としず子は言った。担当者は少し考えてから、「委任状があれば手続きを進められます」と書類を出してきた。しず子は用意していた委任状を出した。書類にサインし、押印した。手は震えなかった。震えなかったことが、後から思えば一番恐ろしいことだったかもしれない。

家に帰り、しず子はアプリで送金の操作をした。今の出資額の三倍の数字を確認し、送金ボタンを押した。確認画面が出た。「この操作は取り消せません」しず子は少しだけ目を閉じ、それからボタンを押した。完了。その夜の夕食は、冷凍うどんを温めただけのものだった。哲郎は黙って食べた。食べながら、一度だけ「寒いな」と言った。しず子は「そうね」とだけ答えた。哲郎が箸を置いた後、しばらくテーブルを見ていた。それから顔を上げて、「最近、どこか変じゃないか」と言った。しず子は目を合わせた。「変じゃない」と答えた。

一月、哲郎の職場で人員削減の話が出た。二月末で契約終了の正式な通知が来た。退職金はなく、一ヶ月分の給料が解雇予告手当として支払われるだけ。しず子も一月からパートの時間を削減され、月の手取りは六万円を下回っていた。銀行への返済は止められない。しず子は千ずに連絡した。「状況が変わったので、資金の返還時期を教えてほしい」と。返信は翌日来た。「プロジェクトは順調に進んでいます。来月半ばには確定できる見込みです。もう少し待ってください」しず子は「来月半ば」という言葉を繰り返した。ギリギリだが、間に合う。そう信じることにした。

三月、千ずからの返信は「あと少し待って」ばかりになった。「海外の規制当局との調整に時間がかかっている」という説明も一度だけ加えられた。三月の中旬のある朝、哲郎が言った。「通帳を確認したい。老後のために積み立てている定期預金の通帳だ。仕事が見つかるまでの当面の生活費を、そこから出したい」

しず子は台所に立ったまま、動けなかった。手に持っていた布巾を無意識に握りしめた。引き出しから袋を取り出し、哲郎に渡した。哲郎は立ったまま通帳を開いた。しず子は台所の壁を見ながら、来ると思った。しばらく沈黙があった。哲郎がページをめくる音。また沈黙。

「残高がない」哲郎が言った。「引き出したのか? 全部、いつ?」

しず子は答えなかった。

「おい」

しず子はゆっくり振り返った。哲郎の目の表情は、しず子が知っているどの表情とも違った。「投資に使った」としず子は言った。声は出た。ただ、自分の声とは思えなかった。「投資?」哲郎が繰り返した。「千ずという人のネットワークに」「すぐ帰ってくるから。もうすぐ確定するって言われてて」

哲郎の顔に、様々なものが通り過ぎるのが見えた。最初は理解しようとする顔。次に信じようとする顔。その次に、信じることができなくなっていく顔。「この家も」と哲郎は言った。「この家も、どうかしたのか」しず子は一瞬だけ目を閉じた。「追加で担保に入れた。去年の秋に」

哲郎の体から何かが抜けていくのが見えた。肩が落ちた。手の中の通帳が下を向いた。しばらく何も起きなかった。台所の換気扇だけが低く回っていた。それから哲郎は動いた。通帳をテーブルに静かに置いた。怒鳴るでも投げつけるでもなく、ただ静かに置いた。それがしず子には一番重かった。哲郎はリビングに行き、コートを取ってきた。「外に出る」と言った。それだけだった。しず子は「待って」と言おうとしたが、声が出なかった。玄関の扉が閉まった。

夜、九時過ぎに哲郎が戻ってきた。コートのまま玄関に立ち、リビングの入り口で止まった。「お前は」と哲郎は言った。「この家を、愛していたか」しず子は答えなかった。「俺は愛していた。三十年以上、ここで暮らしてきた。子供を育てた。古くて狭くて。それでも俺は、この家が好きだった。お前が嫌だったのは、この家じゃなくて俺だろう。俺の給料が、仕事が、生き方が。そうじゃないのか」「違う」としず子は言った。声が震えていた。「そうじゃない」哲郎は少しの間しず子を見た。それから静かに言った。「お前は、家族を愛していたんじゃない。お前が守りたかったのは、自分の見た目だけだ」

哲郎は寝室に行き、小さな布のバッグに何かを詰めて出てきた。しず子は「どこへ行くの?」と聞いた。哲郎は答えなかった。靴を履き、扉を開けた。振り返らなかった。扉が閉まった。

しず子はスマートフォンを手に取り、千ずに電話した。呼び出し音が続いた。出ない。メッセージを送った。返信は来ない。アプリを開くと、読み込み中の画面のまま動かない。何度スワイプしても変わらない。ログイン画面に戻り、再ログインを試みた。画面に文字が出た。「このページは存在しません」。千ずに電話をかけ直すと、「この電話番号は現在使われておりません」という音声が流れた。しず子はスマートフォンを耳に当てたまま、しばらく動けなかった。そのまま床に座り込んだ。冷たいフローリングが体温を奪っていった。

夜が明けても、哲郎は戻らなかった。昼過ぎ、しず子はネットで千ずの名前を検索した。すると、詐欺被害を訴える書き込みが複数出てきた。同じ手口。高級品の流通ネットワーク、月十五%、二段階目の移行を促すタイミング、アプリの突然の停止。日付は昨年から今年の初めにかけて集中していた。書き込みをしている人の年齢層は、五十代から七十代が多かった。組織的な詐欺。複数の被害者。被害総額は数千万円規模。

しず子は画面を閉じた。何も考えたくなかった。考えれば現実が確定する。確定すれば、もう取り消せない。

二週間が経ち、銀行から督促状が届いた。住宅ローンの返済が滞っているという通知だった。このまま滞納が続いた場合、担保の競売手続きに移行することがある、と書いてあった。別の封筒も届いていた。消費者金融から。しず子が千ずへの追加出資のために借り入れた業者のうちの一つからだった。その封筒は開けなかった。夜になると、玄関の外で声がすることがあった。三日に一度、九時から十時の間。しず子は電気を消してカーテンを閉めたまま、身を縮めていた。翌朝、ポストに「連絡してください」と書かれた紙が入っていた。しず子はそれを丸めてゴミ箱に捨てた。食事は一日一回になっていた。外に出ることが怖かった。

三月も終わりに近い、ある日の昼過ぎ。しず子はソファに横になっていた。胃の痛みがいつもより強かった。台所でインスタントのスープを作ろうとした時、胃の底から何かが込み上げてくる感覚があった。シンクに向かって吐いた。もう一度波が来た。顔を上げてシンクを見ると、赤黒いものが混じっていた。しず子はしばらくそれを見ていた。救急車を呼ぶべきだという考えが来た。しかし、次の瞬間、お金がないという考えが来た。入院費、治療費。今の状態で払える見込みがない。そのままでいいや、という気持ちがしず子の体を床に縛りつけた。

どのくらいそうしていただろう。鍵の音がした。玄関の鍵が回る音。鉄郎が台所に入ってきた。作業着の上にジャンパーを羽織り、手に紙袋を持っていた。書類を取りに来たのだと、後からわかった。哲郎が台所の入り口で止まった。床に座り込んでいるしず子を見た。シンクの中の赤黒いものを見た。しず子の顔色を見た。紙袋が落ちた。哲郎が寄ってきて、「しず子」と呼んだ。声に何かが混じっていた。「大丈夫か」と言いながら、しず子の肩に手を置いた。哲郎の手が暖かかった。それだけがはっきりわかった。哲郎がスマートフォンで救急車を呼んだ。

病院のベッドで目が覚めたのは、夜だった。天井が白い。首を横に向けると、哲郎がいた。椅子に座って俯いていた。眠っているようだった。作業着は薄汚れていた。どこかで働いていたのだとわかった。翌朝、医師が説明をした。ストレスと栄養不足による急性の胃炎。出血があったが、内視鏡で処置をした。数日は入院が必要だ、と言った。退院したのは四月の初めだった。桜が咲いていた。哲郎が退院の手続きを全てやってくれた。支払いのことは何も聞かれなかった。しず子も聞かなかった。

家に帰ると、玄関に靴が揃っていた。哲郎が片付けてくれたのだろう。台所のシンクも綺麗になっていた。あの日の赤黒いものは、もうなかった。その夜、哲郎が味噌汁を作った。具は豆腐と油揚げ。二人で向かい合って食卓に着くのは、久しぶりだった。「いただきます」としず子は言った。声が枯れていた。味噌汁を一口飲んだ。温かかった。それだけのことが、しず子には堪えた。目の奥が熱くなり、涙が一粒、汁の中に落ちた。哲郎は見ていたと思う。しかし、何も言わなかった。黙って自分の味噌汁を飲んでいた。食事が終わった後、しず子が洗い物をしようとすると、哲郎が「俺がやる」と言った。しず子は椅子に座ったまま、哲郎が皿を洗うのを見ていた。背中が丸かった。いつも丸かった。それがしず子にはずっと気になっていたのに、今は何も感じなかった。

翌日、銀行が委託した不動産業者の担当者が来た。現状の確認と今後の手続きについての説明だった。要点は一つ。この家は返却しなければならない。競売にかかる前に、任意売却という形を取ることができる。担当者は「その方が双方にとって負担が少ない」と言った。しず子は黙って聞いていた。哲郎も黙って聞いていた。扉が閉まってから、しばらく二人とも動かなかった。哲郎が先に動いた。「お茶を入れてくる」と言って台所に行った。結論は最初から出ていた。選択肢がなかった。手続きは哲郎が進めた。しず子は書類を渡された時だけ、サインをした。

引っ越しの日は、五月の連休明けに決まった。身の回りの整理を始めると、物の多さに気づいた。食器、衣類、本、家電。しず子は一つ一つに「いるか、いらないか」を判断し、多くのものを捨てた。ある日の午後、棚の奥から、娘のさゆりからの年賀状をまとめた封筒が出てきた。しず子はそれを一枚ずつ手に取った。さゆりの子供たちの写真が印刷されているものもあった。しず子はそれをまじまじと見た。前に会ったのは、三年前以上前だった。電話しようかと思った。受話器を持つ前に躊躇した。電話して、何と言うのか。家を失った。お金もない。そういうことを話すのか、それとも話さずにいるのか。どちらも難しかった。結局、電話しなかった。その夜、哲郎がさゆりに電話した。しず子には知らせずに、寝室で短く話す声が聞こえた。翌朝、哲郎が言った。「さゆりには話した。向こうはわかったと言っていた」それだけだった。

引っ越しの前日、ほぼ全ての荷物を処分し終えた。残ったのは、衣類と生活用品の最低限と、哲郎の父母の遺影が入った箱だけだった。新しい住まいは、最寄り駅から歩いて十五分のところにある古い木造アパートだった。築四十年を超え、六畳と三畳の二間。台所は狭く、壁に染みがあった。窓の外はすぐ線路で、電車が通る度に窓ガラスが揺れた。荷物を運び込んだのは二人だけだった。午前中で終わった。ダンボール箱がいくつかと、布団と最低限の家具だけ。部屋に並べると、スペースが余った。以前の家では収まっていたものが、こんなに少なかったのかと思った。昼過ぎ、二人はコンビニで買ったおにぎりとお茶で昼食にした。床にダンボールを敷いて、その上に座った。窓の外を電車が通った。硝子が震えた。哲郎は鮭のおにぎりを食べていた。しず子は梅のおにぎりを食べた。この人と、これからここで暮らすのだと思った。

六月、哲郎は建設現場の仕事を見つけた。日雇いに近い契約だったが、週に三、四日は働けた。しず子も商業施設の清掃の仕事を始めた。早朝六時から、開店前の館内をモップで拭く仕事だった。最初の仕事はフロアのモップ掛け。広い床を、一定の動作で端から端まで折り返して、また端まで。難しいことは何もなかった。ただ、長かった。腕が疲れ、汗が出た。三時間で午前の清掃が終わった。更衣室で制服を脱ぐ時、しず子は自分の手を見た。モップの柄を持ち続けたせいで、手のひらに赤い跡ができていた。爪の間に汚れが入っていた。以前の自分なら、この手を人に見せることを躊躇しただろう。今は、ただ疲れた手だと思った。

八月のある夕方、しず子は銀座に行った。理由があったわけではない。仕事の帰りに電車を乗り換える時、ふと乗ってしまった。人混みをゆっくり歩いた。以前ならウィンドウの中のものに目が行っていたが、今は特に何も見なかった。あるレストランの前を通った時、しず子の足が止まった。ガラス張りのフランス料理の店。窓際の席に、一人の女性がいた。千ずだった。間違いなかった。濃い色のワンピースを着て、ワインのグラスを持ち、向かいの六十代の女性と笑いながら話していた。しず子の体が固まった。叫ぼうとしたが、声が出なかった。足が動き、ガラスに近づいた。千ずが視線を上げ、しず子と目があった。一瞬だった。千ずの目がしず子を認識した。その一瞬、千ずの表情がわずかに動いた。驚きではなかった。「確認」という感じだった。それから千ずはまた向かいの女性に顔を向け、笑いながら何かを言った。しず子はガラスの前に立ったまま、動けなかった。

店の中からスタッフが出てきて、「お客様」と声をかけた。丁寧だったが、立ち去ってほしいという意味は明らかだった。しず子は何も言えず、後ずさった。千ずは窓の方を見なかった。しず子は一人で、夏の夜の銀座の歩道に立っていた。何ができるのかを考えた。叫ぶことはできる。警察に言うことはできる。しかし、しず子が署名した書類は、全て自分の意思での「投資」という形を取っていた。契約書の上では、投資のリスクは投資者が負うとあった。弁護士にも金がかかる。その現実は、ここ数ヶ月で骨身に染みていた。千ずはまだ笑っていた。ガラスの向こうでワインを口に運び、また笑っていた。しず子は向きを変え、歩き出した。人の間を縫って、駅の方向に。胸の中で何かが渦巻いたが、それを言葉にしようとはしなかった。

アパートに帰ると、哲郎が台所で何かを炒めていた。玉ねぎと豚肉の匂い。「遅かったな」と哲郎が言った。「どこか寄ってきたか?」「ちょっとそこまで」としず子は答えた。哲郎は「そうか」と言って、炒め物を皿に移した。それ以上は聞かなかった。夕食を食べながら、しず子は千ずのことを話そうかと考えた。話して何になるかと思ってやめた。哲郎を傷つけるだけだ。今夜は眠りたかった。

十一月になった。風が冷たくなった。アパートの壁は薄く、外の温度がそのまま伝わってくる感じがした。小さな電気ストーブが一台あるだけだった。二人の収入を合わせると、消費者金融への返済と生活費を払えば、ほとんど残らなかった。残らないが、足りてはいた。今月は払える。来月もおそらく払える。その繰り返しだった。

ある夜、哲郎が缶ビールを一本買ってきた。珍しいことだった。仕事で知り合った人間に「今日は少し頑張ったからな」と言われて、木が向いたのだと哲郎は言った。しず子はお茶を入れた。二人でストーブの前に座った。外で電車が通った。窓ガラスが震えた。電車が通り過ぎると、また静かになった。その静かな時間に、しず子は言った。「ごめんなさい」声は小さかった。しかし、部屋が静かだったから、聞こえたはずだった。「あなたが積み立てたお金を。この家のことも。全部、私が」

哲郎はビールの缶を見ていた。しばらく何も言わなかった。「俺も」と哲郎は言った。「もっと早く気づくべきだった。お前が無理をしていることに。台所のこと、テレビのこと、弁当のこと。おかしいとは思っていた。でも、俺は聞かなかった。聞いて、ゴタゴタしたくなかった。それが情けない」

しず子は哲郎の横顔を見た。「そんなことない」と言いたかった。しかし、言わなかった。二人でしばらく黙っていた。ストーブの赤い光が、部屋の中央に落ちていた。壁の染みが見えた。床の一部が踏むと音がした。窓の外に線路があった。この場所で、これからも生きていくのだと思った。綺麗な場所ではなかった。楽な暮らしでもなかった。先が明るいわけでもなかった。消費者金融への返済は、まだ何年も続く。年金が始まれば少し楽になるかもしれないが、今の積み立て記録を考えれば、高が知れていた。

それでも、今夜、温かいものがそこにあった。哲郎がストーブに手をかざした。しず子も同じようにした。二人の手が、ストーブの前に並んだ。大きくて節くれだった哲郎の手と、洗剤で荒れたしず子の手が、そこにあった。外でまた電車が通った。今度はしず子も窓の方を見なかった。ただ、手を温めていた。それだけのことが、この夜の二人の全てだった。

Thumbnail