夫が急に「父さんからもらったベンツを母さんにやれ」と言い出したとき、私は耳を疑った。あの車は、亡くなった母のために父が注文した新車。納車を待たずに母が逝ってしまったから、父は思い出の品として私に託してくれたのだ。そんな大切な車を、姑が「貸して」と言い出し、夫は勝手に鍵を持ち出した。戻ってきた車はバンパーがめちゃくちゃにへこんでいた。姑は笑って「傷やへこみで大騒ぎするのって日本人だけらしいわよ…

夫が急に「父さんからもらったベンツを母さんにやれ」と言い出したとき、私は耳を疑った。あの車は、亡くなった母のために父が注文した新車。納車を待たずに母が逝ってしまったから、父は思い出の品として私に託してくれたのだ。そんな大切な車を、姑が「貸して」と言い出し、夫は勝手に鍵を持ち出した。戻ってきた車はバンパーがめちゃくちゃにへこんでいた。姑は笑って「傷やへこみで大騒ぎするのって日本人だけらしいわよ...

「お前、父さんからもらったベンツを母さんにやれって?なんで急にそんなこと言うの?」
「母さんがずっと高級車に憧れてたの、知ってるだろ?」
「知らない。うちの父は軽自動車すら買えなかったんだ。」
「それは気の毒だけど、あげるのは違うでしょ?」
「どうせ古いんだろ?」
「失礼ね。新車よ。」

私は呆れて言葉を失った。夫の淳は、私の父が母のために新車のベンツを注文していたことを知っている。母は納車を待たずに病で亡くなった。父はその車を見ると思い出すからと、ずっと保管していた。それを私に託してくれたのだ。

「それに、ただの車じゃないの。あげるなんてできない」
「共有財産って知ってるか?」
「もちろん。でも贈与は共有にならないのよ。知らないの?」
「めんどくせえ。理屈並べるな」
「はい、どうぞってあげられるもんじゃないでしょ」
「じゃあ今日から電気も水道も使うなよ」
「なんでそんな話になるの?」
「お前の理屈で言うとそういうことだろ」
「共働きしてるし、私のパート代だって家計に入れてるわ」
「月数万の稼ぎで偉そうにすんなよ」
「時短にしてるのは、家事を全部一人でやってるからよ」
「そんなもんフルタイムでもできるだろ。母さんは完璧にやってたぞ」
「じゃあお母さんと暮らせば?」
「なんでそうなるんだよ。俺はベンツを寄越せって言ってるだけだろ」

私は首を振った。
「たまに乗ってもらうのはいいけど、あげるのは父の気持ちに反する。母への思いが詰まった大事な車なの」
「死んだ人間のことなんてどうでもいいだろ」
「よくそんなことが言えるわね」
「ぐちぐち言うなよ。さっさと鍵出せ」
「断るわ。事故られたらたまったもんじゃないし」
「母さんを年寄り扱いすんな。まだ55だぞ」
「年齢の問題じゃない。運転の技量の話よ」
「元ヤンだから運転センスは抜群なんだよ」
「余計に怖いわ。絶対に渡さないから」

翌日、車の鍵がなくなっていた。スペアもない。車もない。淳に問い詰めると、ようやく「ちょっと借りただけだろ」と白状した。

「は?昨日渡さないって言ったよね」
「家の車を家族が使って何が悪い?」
「あの車は私の名義よ。今すぐ返して」
「そのうちな。来週の法事で使うって言ってたじゃないか」
「知ってる。だからすぐに返してって言ってるの」

私は姑に直接電話した。姑は悪びれもせず、近所で評判だと嬉しそうに話す。
「ガソリン入れてあげたんだからいいじゃないの」
「満タンで一回一万円近くかかりますよ」
「そうなの?会社って維持費が大変ね」
「来週は法事で使うので、今すぐ戻してください」
「電車で行けばいいじゃないの」
「実家の駅から徒歩一時間なんですけど」
「歩けない距離じゃないわね」
「いい加減にしてください」
「分かったわよ。それまでには返せばいいんでしょ」

約束の当日、姑は連絡不通。淳に問い詰めると、温泉に向かっていると言う。姑も一緒に。

「は?約束が違うじゃない?」
「悪い。忘れてたんだよ。そんなに攻めるなって」
「どうやって実家まで行けって言うのよ?」
「電車とバスで行けばいいじゃん」
「乗り換え三回で家から二時間以上かかるのよ」
「嫁は歩きで十分だろ」
「本気で言ってるの?」
「文句あるなら離婚するぞ」
「いいよ」
「……冗談だよ」

私は結局、法事に大遅刻した。父は何も悪くない私を責めず、迎えの手配をしてくれた。父の同級生の家に泊まり、帰り際、父がぽつりと言った。
「ジュン君、ちょっと話がある」
「あの車は今日の法事に乗ってくることに意味があったんだ」
「親族が集まって、お袋さんを偲ぶだけなのに、なんで車が必要なんですか?」
「君に理解してもらう必要はない。いい加減にしないと警察に言うぞ」
「さすが親子だ。由香と同じこと言いますね。でも無駄ですよ」
「分かってる。親族相当例だろ」
「よくご存知で。でも君の母親は対象外だよな」
「人のものを借りたら返さないといけないんだよ。そんなことも君は親から習ってないのか?」
「うるせえな」

父は翌日、警察に被害届を出すと言い出した。しかし、少し待ってほしいと言う。
「GPSで調べたら、温泉地にはいないんだ。隣の県にいる」
「しかも、大人のホテル街だ」
「まさか、お母さんと一緒なの?」
「それはさすがにないだろう」
「じゃあ、あいつ、誰か女を乗せてたってこと?」
「まだ分からない。今から向かってみようと思う」
「私も行く」
「いや、父さん一人で行くよ。今突撃して問い詰めるのは得策じゃない。今回だけだと言い逃れされるかもしれない」
「一度でもダメに決まってるじゃない」
「こういうのは継続性があることが重要らしい」

数日後、淳のスマホにLINEが届いた。
「リナちゃん、ベンツでドライブ楽しかったね。また一緒にラブホ巡りしよう」
私はその画面をじっと見つめた。
「リナって誰?」
「友達だよ。気にしないで」
「温泉とか嘘ついて一緒に出かけてたんでしょ?」
「違うよ」
「父が現地まで行って確認してくれたんだけど」
「はあ。プライバシーの侵害だ」
「自分が買った車のGPSを確認することの何が悪いの?」
「そんなもの仕掛けてたのか?」
「機能として車についてるのよ。知らないの?」
「こっそり位置情報を見るなんて卑怯だぞ」
「いつから浮気してたの?」
「してないって言ってんだろ?」
「嘘つかないで。女性といたのは知ってるのよ」
「それは友達が色々悩んでたから相談乗ってただけだよ」
「2泊3日で結果的にそうなったけど、やましいことはしてない」
「じゃあなんでお母さんと温泉なんて嘘をつく必要があったわけ?」
「そんなことより、母さんが明日車返すって。話そらさないでよ」

翌日、車は戻ってきた。しかし、バンパーはめちゃくちゃにへこんでいた。姑は「傷やへこみで大騒ぎするのって日本人だけらしいわよ」と笑った。
「私は日本人なので大騒ぎさせてもらいます」
「細かいことはいいじゃない。傷はあっても動くんだし」
「どこが細かいんですか?新車だったんですよ」
「形あるものはいつか壊れるって言うでしょ」
「壊した人が言うことではありませんよ」
「とりあえず返したから。じゃあね」
「待ってください。夫が浮気していました」

姑はようやく驚きの表情を見せたが、それも一瞬だった。私は静かに告げた。
「器物損壊については刑事と民事両方で進めたいと思っております。また改めて連絡させていただきます」
「身内でしょ?私たち家族じゃない?」
「じゃあ私もお母さんの服やバッグに落書きしてもいいですか?」
「絶対に許さないわよ」
「同じことなんですよ。大事なものを壊されて許せない気持ち、分かってくれますよね」

一週間後、姑に内容証明が届いた。ベンツの一ヶ月分の使用料として120万円。
「高すぎるわよ」
「実際にレンタカーで借りるとそのくらいになります」
「ふざけないで」
「私は渡さないと言ったのに無理やり奪ったのは息子さんですし、無断で使ったのはお母さんです」
「あまり調子に乗ってると離婚されるわよ」
「なんでここで夫婦の問題が出てくるんですか?」
「もしかして息子さんから何か聞いてるんじゃないですか?新しい彼女との再婚話とか」
「何の話かしら」
「そうじゃなければ、お母さんから離婚なんて言葉が出てくるわけないんですよ」

姑は動揺し、思わず口を滑らせた。私は畳みかけた。
「ベンツのリアバンパーは純正で20万以上です」
「あの女に直してもらえばいいでしょ」
「私がぶつけたんじゃない。あの下手くそ女がやったのよ」
「誰のことですか?お母さん以外の女性が車を運転したんですか?」
「……やばい」
「淳がリナさんと間違えて私にLINEしてきたんです。ベンツでドライブ楽しかったねって」
「あのアホ……」
「まあ三人で仲良く責任取ってください」

翌日、淳が実家から戻ってこないまま、内容証明を送った。300万円の慰謝料請求。淳は怒鳴り込んできた。
「ふざけてんのか?」
「大真面目よ。心も車も傷つけられたの。弁護士がこのくらいが相場だって言うから仕方なくその額だけど、本当は100億欲しいくらい」
「証拠は?」
「ホテルに行った履歴が車に残ってるわ。数時間男女で滞在していれば不貞行為があったと認定されるそうよ。しかも2日連続」
「ふざけんな!」
「ちなみに車の使用料と修理代はお母さんの方に送らせてもらった。ぶつけたのはあなたの女みたいね。お母さんが自分の罪を軽くするために息子の浮気相手を売ったみたいよ」
「マジかよ……」
「どうせ泣きついてくると思うけど、三人のうち誰でもいいから支払いだけよろしく」
「お前には血も涙もないのか?」
「あるから悲しいし悔しくて泣けてくるんでしょ」
「だったら仕返しなんてせずに一人で泣いてろ」
「そうかな。私は母のためにも泣き寝入りしたくないの」
「なんで亡くなったお母さんが出てくるんだよ」
「あの車は本当は父が母に買ったものだったの。一年半前に注文して納車を楽しみにしてた。でも母に病気が見つかって間に合わなかった。父は車を見ると思い出すからってずっと人に預けて目に触れないようにしてたの」
「だったらなおさら都合がいいじゃないか。俺や母さんが使ってやったんだから」
「違う。あの法事の日に実家に乗って行って、母に見せる約束だったの。『父さんは約束通り買ってくれたよ』って伝えたかったのに」
「お前、本気で言ってんの?あの世にいる人間が、ベンツだ、素敵ねえなんて思うわけがないだろ」
「分かってる。でも、どこかで見守っててくれると思うから、残された人たちは前を向いて生きていけるの」

私は淳に離婚を告げた。淳は慰謝料を払うと言い張ったが、私はあっさりと引き下がった。
「じゃあね。離婚届は実家に送ります。さようなら。今までありがとう」

翌日、父の友人だという会社の社長から呼び出しがあった。淳はそこで初めて、自分が働いている会社の創業者が私の父であることを知った。
「あなたが2年前に転職する時に口添えしてくれたのは父なの」
「慰謝料と修理費を払わないなら給与天引きにすると言われたよ」
「お前ら本当に卑怯だな」
「父の顔を潰したのに解雇しないでくれるのよ。それだけでも感謝しなさい」

数日後、淳は解雇された。しかも、車内で同時に三人の女性と結婚を前提に交際していたことが発覚し、三人全員から慰謝料請求の訴訟を起こされた。既婚であることを隠していたのだ。総額は1000万円近くになると言われている。姑も修理代と損害賠償が確定し、淳の慰謝料を払うためにマンションを手放すことになった。親子で古いアパートに引っ越したが、毎日のように言い争いが絶えないと聞いている。

私はようやく穏やかな毎日を取り戻した。ベンツは修理から戻ってきて、今はピカピカだ。毎月父と一緒に母の墓参りに行っている。あの日に果たせなかった約束を、少しずつ届けていくつもりだ。今の私には、空から守ってくれる母と、世界一頼もしい父がいる。過去に囚われず、新しい自分として前を向いていく。

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