ドアの向こうから、夫と女の笑い声が聞こえてきた。私は自分の部屋に帰ってきたはずなのに、そこには見知らぬ女の靴と、知らない香水の匂い。もっと早く気づくべきだった。夫に愛されていないことは、ずっと前から分かっていたのかもしれない。それでも私は、この瞬間まで、夫を信じたかった。
私、吉岡せ子、31歳。大手企業でバリバリ働くキャリアウーマンだ。仕事一筋であまり恋愛に縁がなかった私が、去年の春に夫のトールと出会った。好きな映画が驚くほど一緒で、意気投合して交際が始まった。休みを合わせて旅行に行ったりして、関係は順調だった。結婚願望が強い方ではなかったけど、この人となら一緒に人生を歩んでいきたいと思えたから、結婚に踏み切った。
結婚してからも、私は仕事を続けたいと思っていた。夫もそれを理解してくれていて、共働きでの生活が始まった。夫は中小企業に勤めていて、残業が多く、週に3回は遅くまで働いている。私はほとんど残業がなく、定時で帰れるため、家事は全部私がやっていた。元々家事は好きだったから苦じゃなかったし、疲れて帰ってくる夫に休んでほしいという気持ちもあった。
そんな充実した毎日を送っていたある日、私に長期出張の話が舞い込んだ。結婚してから初めての、一ヶ月以上に及ぶ出張だった。キャリアに関わる重要な仕事で、不安はありつつも、かなりやる気になっていた。ただ一つだけ心配だったのは、家事が苦手な夫が一人で生活できるかどうか。実家暮らしが長かった夫は、家事全般がまるでダメだったからだ。
「出張の間だけでも、ハウスキーパーを雇おうか?」
私がそう提案すると、夫は「自分一人で大丈夫だ」と笑った。「これを機に、家のことも覚えたいしな」とも言ってくれた。いつも任せっきりだったことを反省しているような、そんな言葉だった。嬉しくなって、私は夫に家のことを任せて、出張に専念することにした。
出張先での仕事は、予想以上に忙しかった。やることがたくさんあって充実していたけれど、夫のことを考える時間はほとんどなかった。それでも、仕事が終わった夜には毎日、必ず夫に電話かメッセージを送っていた。「あれはどこにしまった?」とか「こういう時はどうしたらいい?」とか、家事に関する質問が多かった。
しかし、一ヶ月もすると、その連絡は徐々に減っていった。疲れが溜まって、部屋に戻ると仮眠を取ってしまうことも何度かあった。目が覚めると深夜で、夫に連絡するのは諦めた。夫の方からも、家事に慣れてきたのか、以前のように質問してくることもなくなった。お互いに連絡がないのが当たり前になっていった。それでも私は、夫なら大丈夫だと思っていた。家のことを任せられるという安心感で、むしろ仕事に集中できていた。
そして、嬉しいことに、仕事は予定よりも早く進み、出張期間を一週間短縮することができた。つまり、家に帰るのが早まったのだ。久しぶりに帰る家で、夫はちゃんと生活できているだろうか。ご飯はちゃんと食べているだろうか。私は夫を驚かせたいと思い、早く帰ることを知らせなかった。ホテルをチェックアウトし、お土産を買って、帰りの電車に乗った。土曜日の午後、夫は休みで家にいるはずだ。突然帰ったら、どんな顔をするだろう。夫の喜ぶ顔を想像して、帰り道はとてもウキウキしていた。
家に着くと、私は静かに鍵を開けて、バレないように中に入った。しかし、そこに広がっていた光景に、期待していた気持ちは一気に崩れ落ちていった。玄関には、私のものではない女性の靴があった。私の心臓がバクバクと鳴り始める。家の横には見知らぬ車が停まっていて、玄関には車の鍵が置いてあった。その鍵は、私が知っている夫のものではない。恐る恐る家に上がると、かすかに女性の香水の匂いがした。
私は悟った。私が出張で留守の間に、夫は女を家に連れ込んでいる。リビングにもキッチンにも人の気配はなく、夫の部屋にも誰もいなかった。もしかして、と私は自分の部屋へと向かった。心臓がうるさいくらいに鳴っている。私は自分の存在を消すように静かに歩き、部屋のドアの前まで来た。
ドアの向こうから、夫と女の会話が聞こえてきた。
「奥さんがかわいそうだと思わないの?」
女の声が聞こえた。どこか人を馬鹿にしたような、笑いを含んだ声だった。
すると、夫も笑いながら答える。
「あいつは仕事人間だから、放っておいて問題ないよ。俺はあの嫁とは会話したくない。ずっと出張に行ってて欲しいくらいだよ。一緒にいても全然面白くないし」
時間が止まったかのように、私はその場に立ち尽くしていた。
「出張中は毎日電話が来るから面倒だったけど、最近はかかってこなくなって助かってる」
「まあ、嫁の稼ぎがいいのが、一緒にいる唯一の理由だな」
夫が私を愛していない。ただの金づるとして見ていた。その言葉を聞いて、私は谷底に突き落とされたような気持ちになった。悲しみで胸が張り裂けそうで、怒りは湧いてこなかった。ただひたすら悲しくて、絶望的だった。
こんな状態で、あの二人と顔を合わせることはできない。私は二人に気づかれないように、静かに家を出た。そして、その足で近くのビジネスホテルに行き、部屋を借りて、布団をかぶって大声で泣いた。
一晩中泣いて、翌朝になってようやく、私は今後のことを考え始めた。もうあの家には帰れない。新しい住まいを探さなければいけない。悶々と考えているうちに、また悲しみが込み上げてきて、眠りについたのは深夜だった。
翌日、私はホテルを出て、自宅の様子を見に行った。遠くから自分の家を眺めていると、玄関から夫と女が出てきて、腕を組みながら、昨日から停めてある車の方へ歩いていった。私は気づかれないように、その様子をスマホのカメラで撮影した。二人は車に乗り込み、出発していった。
家の中に入ると、私は貴重品なども含めて、自分の私物をすべて回収した。部屋は荒れている様子はなく、まるで夫婦で暮らしているかのようだった。キッチンの食器は綺麗に片付けられ、洗濯物も二人分干してあった。相手の女が家事をしているのだろう。夫がハウスキーパーを断った理由は、こういうことだったのか。あの日、私が出張に出る前に、すでに夫は女を家に連れ込むつもりだったのだ。
私はようやく現実を受け入れ、離婚することを固く決意した。家を出て、私はすぐに動き始めた。まず、離婚の準備を進めるために弁護士に相談した。そして、マンスリーマンションを契約して、生活の基盤を整えた。さらに、不倫の証拠を集めるために探偵事務所にも依頼した。これらの間も、夫からは一切連絡がなく、私からも連絡はしなかった。夫は私がまだ出張中だと思っているようで、私が私物を持ち出したことにも気づいていないようだった。
一週間後、出張が終わる日、私は夫と暮らした家に戻った。探偵からの報告では、今日もあの女が家にいるようだ。家の前に車が停まっている。私はあの日と同じように、静かに鍵を開けて家の中に入った。リビングには誰もいない。私はまっすぐ寝室へ向かい、勢いよくドアを開けた。
ベッドの上には、何も身につけずに絡み合っている夫と女の姿があった。二人は驚いて、固まっている。私は無言のまま、スマホのカメラでその姿を激写した。十分な証拠は集めていたが、最後に、決定的な瞬間を撮影したのだ。静かな部屋にシャッター音が響き、そこでようやく夫が声を上げた。
「おい!取るなよ!何やってんだ!」
私は怒る夫と、黙って俯いている女を、無言で睨みつけた。
「来週帰るって言ってたじゃないか!」
予定より早く帰ってきた私に、夫は戸惑いを隠せない。探偵が掴んだ証拠は十分だが、私は口を開いた。
「気持ち悪いわ。早く服を着なさい」
二人をリビングに連れて行き、私はその場で土下座させた。そして、三人で話し合いを始めた。
「これは……気の迷いだったんだ」
夫は言い訳ばかりを口にする。相手の女は、下を向いて震えているだけだ。
「私といてもつまらないから、ずっと出張に行ってて欲しいって言ったんでしょ?」
私は、リビングのテーブルに置かれた、二人で買ったであろうお揃いのコーヒーカップに目をやった。
「私がいない間、随分と楽しんでいたようね」
私は夫と話したくなかった。私からも、夫と会話をしたいとは思わなかった。ただ、さっさとこの男と縁を切ることだけを考えていた。
「弁護士に任せるから、そちらと話して。私には話しかけないで」
私はそう言って、外で待機してもらっていた弁護士に電話をかけた。突然現れた弁護士を見て、夫は「どういうことだ?」と驚いている。夫からすれば、私が一週間前からすべてを把握していたことなど、知る由もない。私が今日初めて不倫を知ったと思っているのだから。
戸惑う夫をよそに、弁護士は淡々と、私の離婚の意思と慰謝料請求について説明を始めた。
「ちょっと待ってくれよ!」
夫が困惑した態度をとるが、弁護士は事務的に話を進める。
「離婚はできない!考え直してくれ!」
夫は私に向かって懇願するが、私は無視した。弁護士は、私が集めた不倫の証拠をまとめた資料を見せながら、私が出張から早めに帰宅した経緯や、その時に聞いた会話の内容まで、すべて説明した。
夫は、私の行動力に圧倒されて、ただただ話を聞いているだけだった。弁護士はさらに事務的に告げた。
「後日、奥様が荷物の回収に来ます。それまでに離婚届にサインをしておいてください。また、相手女性にも慰謝料を請求します」
そう言って、弁護士は席を立ち、私も一緒に家を出た。夫は何かを言いたそうにしていたが、私は一切目を合わせなかった。
その後、一週間、夫からはしつこく連絡が続いた。離婚を阻止しようと、説得してくる内容ばかりだった。
「考え直してくれ。もう一度話をしよう」
私は夫からの連絡には一度も返信せず、ただ眺めていた。夫が離婚を望まない理由は簡単だ。私の方が収入が多く、生活費の大部分を私が出していたから。そして、いずれ親から遺産を受け取ることも、夫は知っている。お金の心配が要らない生活を手放したくないだけなのだ。私を愛してもいないのに。
荷物の回収日、私は家に向かった。玄関を開けると、夫が申し訳なさそうな顔で立っていた。
「……お帰り」
私は夫に目もくれず、自分の部屋へ入って鍵をかけた。荷物をまとめていると、ドアの外から夫の声が聞こえてきた。
「頼む!土下座するから!悪かった!」
泣きそうな声で謝ってくる。だが、私にはただのパフォーマンスにしか見えなかった。私は気持ちを切り替えて、荷物をまとめ続けた。業者が来る少し前に、部屋から出て、夫に言った。
「離婚届はどこ?早く渡して」
私は、こんな男の謝罪など受け取る気は一切なかった。夫は一貫した私の態度に、ついに諦めたようだった。しぶしぶ立ち上がり、震える手で離婚届を持ってきた。私はそれを無言で受け取り、再び自分の部屋へ戻り、荷物の整理を続けた。
業者が到着し、私は荷物と共にその家を出た。夫とは別れの挨拶も交わさず、無言のまま、私たちの夫婦生活は終わった。
後日、私は離婚届を提出し、離婚が成立した。最後まで夫と口を利かなかったことは、自分でも少しやり過ぎだったかもしれない。しかし、私の心は本当に傷ついていたのだから、仕方なかったと思う。
新しい生活が始まったが、幸運なことに、私を支えてくれる人はたくさんいた。離婚の経緯を知った人たちは「あんな男のことは忘れろ」と慰めてくれた。新たな出会いの場を提供してくれる人もいれば、飲みに付き合ってくれる人もいた。離婚後に寂しさを感じることもあるだろうと思っていたが、思ったよりもそういう感情には襲われなかった。今の私は、むしろ前向きで元気だった。「これからはもっと幸せになってやる」という思いで、毎日が充実していた。
一方、元夫の状況は私とは真逆だった。共通の知人から聞いた話では、この一件が周囲に広まり、元夫の友人たちはみんな離れていったらしい。不倫遊びに散財して、慰謝料を払った後には、貯金は底をついたそうだ。しかし、一度身についた派手な生活は改善できず、今は生活水準を下げるのに苦労しているらしい。その後の話では、不倫相手も、元夫と揉めに揉めて、すぐに関係は終わったようだ。
元夫は自分の欲望に溺れて人を傷つけ、友人もお金も失ってしまった。私に依存して思い描いていた未来は、跡形もなく消え去ったことだろう。しかし、それは元夫自身が招いた結末だ。私はあの男のことはもう関係ない。これからは、仕事にプライベートに、もっと充実した日々を送っていく。



