「もう限界。離婚します」
私は夫の拓也にそう告げた。彼は酒の匂いをさせながら、玄関で仁王立ちしていた。
「はいはい。離婚な。離婚。あのね、私は本気だから」
「バカ言ってないで反省しろよ。誰のせいでこんな時間から飲みに出てると思ってんだ」
「あなたが勝手に同僚を連れてきたからでしょ。今日の朝、『みんなを連れてくるから飯を用意しとけ』って言ったじゃない。私は今日残業だって言ったのに」
「知らん。俺はちゃんとお前と約束したよな」
「約束って、一方的に『約束な』って宣言して出てっただけじゃない。約束っていうのは相互同意があって初めて成立するの。あなたのは約束じゃなくて、ただの押し付け」
拓也は鼻で笑った。
「はいはい。そうですか。そもそもこういうことって、一度や二度じゃないよね。お母さんのローン払うのだって、一方的に決めて、ちゃんと払ってるじゃん」
「そりゃ払ってるけど。でも、約束破ったお前が悪い。ママがこのことを知ったらぶち切れだぞ。『約束破るやつは信頼されない』って口癖だからな」
「それも無理はないでしょ。あなた、今年で何歳? 41でしょ。もうママに頼るのはおかしいよ」
「いいだろ、別に」
「そういうわけで、私はもう限界です」
拓也はため息をついて、手をひらひらさせた。
「ああ、分かった。俺が悪かったよ。次からは気をつける」
「そう言って気をつけたこと、あった? なかったから離婚だって言ってるんだけど。今度は本気だ」
「それでいいだろ。分かった。じゃあ約束ね。守れなかったら次こそ離婚」
「はいはい。了解」
「守りなさいよ。約束破るとか、人として最低だからね」
一週間後。
拓也の母、美恵子から電話がかかってきた。
「咲夜さん、拓也がうちで飲んだくれてるわ。邪魔だから持って帰って」
「お母さん、すみません。実は今日は残業で、まだ帰ってなくて」
「仕事? ああ、嫁が残業するほど仕事一辺倒なんて。咲夜さん、あなた、嫁の自覚あるの?」
「ありますよ」
「拓也が言ってたわよ。あなたに離婚届にサインさせられたって。嫁の自覚がある人がすることかしら」
「ああ、それはですね、拓也があまりにもひどいもので。拓也が約束を守らないって聞いたけど、一方的に押し付けてくるんですよ。こっちは同意もしてないのに『約束だ』って」
「だからって嫁が夫に離婚を迫る? 私の時代だと考えられない行動だわ」
「それこそ時代が違うんで」
「私ね、咲夜さん」
「はい」
「あなたのことが嫌いなの」
「え、いや、まあ、なんとなくは分かってましたけど。そこまではっきり言わなくても」
「嫁は夫の三歩後ろを歩け、なんて私の頃は言ったものだけど。そういう気持ちが足りないんじゃないかしら」
「いや、でもそれは現代的ではないと言いますか」
「それにすぐ口ごたえ。四十超えたっていうのに、子供も生まないで仕事ばかり。価値観が違うわ。嫁失格」
「はい」
「拓也が言ってたわ。うちのローン払うの、不満があるんだって」
「それは拓也が勝手に言い出したことなので。お母さんの家のリフォーム代、月に二十万ですよ。急に言われて納得できる金額ではないと言いますか」
「んうん。二十万。え、はい。そうよね。うん。二十万だったわ」
「えっと、お母さん、何よ」
「いや、なんか変じゃありませんでした?」
「義母相手に変。口が過ぎるわよ」
「ごめんなさい」
「拓也に行ったそうね。離婚届にサインさせて、次は離婚だって」
「言いました」
「そう。さっきからどうしたんですか? 普段のお母さんはもっとこう、切れたナイフみたいな人なのに」
「そういう一言が余計だって言うのよ」
「すみません」
「全く。とにかく、さっさと拓也を連れて帰ってちょうだい。家で飲んだくられても迷惑よ」
「仕事が終わったらすぐに行きます」
「早くしてちょうだいね。あ、そうそう。うちのローン用紙」
「え、はい」
「あれ邪魔だから、拓也と一緒に持って帰りなさい。私が払ってるわけでもないのに、置いてあっても意味ないわ」
「いや、でも」
「いいから持って帰りなさい。分かったわね」
数日後。
「咲夜、今月のローン払われてないわよ」
拓也が電話で叫んでいるのが聞こえた。
「はあ? 何言ってんの? ママ」
「何言ってんのも何も、払われてないんだもの」
「いや、金の管理は咲夜に任せてるから、そっちに聞いて」
「咲夜さんから連絡あったわね。『自分は払わないから、よろしくお願いします』って」
「は? どういうことだよ」
「どうもこうも、そのままの意味でしょ。というか、ローンの名義はあなたよね」
「そうだけど。それを全部咲夜に払ってもらってたの?」
「役割分担だよ。ぶっちゃけ、あいつの方が俺よりも稼ぎいいし。俺の担当は生活費」
「そうなの? でもあなた言ってたわよね」
「何を?」
「私の家をリフォームした時、『ローンは俺が払う』って言ったけど、『自分で払うから名義は俺でいいよ』って。『ママは気にしないで』とまで言ってたじゃない」
「だからそれが何だって言うんだよ。俺と咲夜は夫婦なんだから、一緒のことだろ」
「そう言うけど。あら、ローンって毎月何万円だったかしら? ボケるには早いだろう」
「十万だろ? 十万」
「そうそう。十万ね。奥さんに押し付けるには高い金額じゃないかしら?」
「大丈夫だって。あいつの稼ぎすげえから。すぐに咲夜に言っとくよ。払えって」
「咲夜さんに無駄だと思うけど」
「無駄ってことはないだろう。あいつは俺と約束したんだ。ママのローンを払うって」
「この間聞いた感じだと、それも一方的な約束なんでしょ」
「だとしても約束は約束だ。ママだって昔から言ってただろ。『約束を破るのは信頼を裏切るのと同じ。絶対にやってはいけないことだ』って」
「そうね。何度も言ってきたわね」
「俺はママから言われたことをしっかりと実践してきたんだ。約束を守ってきたおかげで、仕事でも人間関係でも楽できてるしな」
「楽ね」
「そうだよ。約束があれば、明確に俺が正義だ。破る方が悪い。どんな言い訳も、破った側はできないからな」
「あ、そうですか。それ、本当に約束って言うのかしら?」
「あ、とにかく支払い早くしてちょうだいね。名義があなたである以上は、困るのはあなたよ」
十分後。
「お前、ママの家のローン払ってないらしいな」
拓也が家に帰ってきて、いきなり怒鳴った。
「払ってないわよ。お母さんにも伝えたけど、私、払う気もないから」
「ふざけんな。俺との約束を破るつもりか?」
「破るも何も。突然あなたがローン払うってママに言ったから、『よろしくな』って言ってきただけでしょ」
「でもお前は払ってた。払ってた以上は約束したのと一緒だ」
「一緒じゃないでしょ。私は『約束します』なんて一言も言ってないんだから」
「そういうのは屁理屈だって言うんだよ」
「咲夜、お前さ、自分で言ったことも忘れたわけ?」
「私が言ったこと?」
「『次こそ離婚だ』って言ったよな。約束だって言ったね。俺に離婚届にサインまでさせといて。自分がその約束を破るとかありえないだろう」
「私は破ってないけど」
「俺に約束させたんだから。お前も同じ条件です。約束破ったら離婚。つまり、お前が払わないなら離婚だぞ」
「あ、私にされたことを持ってたんだ」
「そりゃそうだろ。約束を守らないお前が悪いのに、被害者ヅラしやがって」
「じゃあ、今はさぞ気分がいいんでしょうね。私にやり返せたとか思ってるんだ」
「ああ、気分いいね。お前がした約束だ。払えないなら離婚。それが嫌なら払え」
「とっくに離婚してますが。あなたとは他人ですので、ローンを払う義理もありません。名義はあなたなんだから、自力でどうぞ」
「ちょ、え、離婚してる?」
「約束を破られたので、約束通り離婚しました」
「いやいやいや、約束破ったのはお前だろ」
「でもさっき『離婚離婚』って言ってたよね。あなたの言った通りの結果じゃない? 喜べば」
「いや、俺は別に本気じゃなくて、お前が反省してくれればそれでいいっていうか」
「そうなの? でも残念。もう離婚届出しちゃってるから」
「はあ」
十分後。
「ママ、ヤバい。どうしよう」
「どうしたの?」
「咲夜さんに話をしたんじゃないの?」
「したよ。したけど、あいつ勝手に離婚してやがった」
「あらまあ。このままだとローン全額、俺が払うことに。残りいくらだっけ?」
「二百万くらいね」
「二百万? 離婚したら財産分与とかあるよな。その状態で二百万って、さすがに」
「拓也、別にローンは気にしないでもいいのよ」
「は?」
「最悪、実家を売っちゃえばいいんだし」
「実家を売るためだろ、それは」
「そう、そうなんだよ。そもそも何のためにリフォームしたと思ってんだ? あの実家は将来は俺がもらうんだし」
「うーん。そうは言うけどね。ま、他に方法がないとは言わないけど」
「あ、本当か? 一応、ローンを全額咲夜に被せる方法はあるわよ」
「マジかよ。それ、それを教えて」
「その前に、大事な質問があります」
「質問なんだよ」
「この間、咲夜さんが月二十万払ってるって言ってたのよ。あ、それは。でもうちのローンは月十万のはずでしょ。あなたに確認したら十万だって言ってたわよね。これは一体どういうこと?」
「それはさ、ママ。これって必要な確認? どうでもいいだろう」
「良くないから聞いてるのよ。この金額の差を放っておいたらダメ」
「なんでだよ」
「本来ね、ローンの名義があなたである以上、そのローンを人に払わせるなんて無理なことなの。でもさっき、その無理を通そうって言ってるのよ。なのにあなたが嘘をついてるんじゃ、話が変わらないわ。その金額の差をそのままにして、勝てる話じゃないの」
「それは分かるけど」
「正直に話してくれないと、私もどうしようもないわね」
「分かったよ。実は咲夜には二十万だって嘘ついてた」
「どうしてそんなこと?」
「あいつ金の管理がガチガチでさ、遊ぶ金もなくて困ってて。だから私のリフォーム代に十万上乗せしてたのね。ピンハネするために」
「ピンハネが悪いだろ」
「じゃあ、その十万の使い道は、領収書とか残してないの?」
「一応あると思うけど」
「なら、それを全部うちに持ってきなさい。あ、放置しててバレたらどうするの? 処分しないといけないでしょ」
「それはそうだけど、処分くらい俺が自分で」
「あのね、そんな単純な話じゃないの」
「そうなの?」
「実際に金額に差がある以上、十万の行き先は必要よ。そこで出しても問題なさそうな領収書は使わないと」
「それは確かに、信憑性を高めるためってことか」
「そういうことよ。で、その判断があなた一人でできるの? ママだってそんなことできるのかよ」
「私が見るんじゃなくて、知り合いの弁護士に渡すのよ。使えるかどうかはそちらに判断してもらうわ」
「そっか。分かった。すぐに持っていくよ」
「そうしなさい。それにしても、さすがはママ。やっぱり最後に頼れるのはママだけだよ」
「当たり前でしょ。私は咲夜さんのことが嫌いだからね。この機会に痛い目に合わせてあげるわ」
数日後。
「ママ。あれ? どうなった? 俺が渡した領収書、使えそうなのあったか?」
「領収書? ああ、それだったら咲夜さんに聞いてみたら」
「あ、咲夜? なんでだよ」
「だって領収書は全部咲夜さんに渡したから」
「はあ? 渡した? いや、でもママの知り合いの弁護士に渡すって」
「渡したわよ。咲夜さんを担当している知り合いの弁護士にね」
「え?」
「そもそもの話だけどね。ローンを他人に押し付けるなんてできるわけないわ。いや、でもママがそう言った方が、あなたが証拠をくれると思っただけよ」
「証拠?」
「私が咲夜さんに持ち帰らせたローン用紙。それと、実際に口座から引き出されてる金額。それだけじゃ確実な証拠にはならなくてね」
「はあ」
「ママ、さっきから何言ってんの?」
「何って? あなたが不正に使っていたお金の話でしょ?」
「でもそれって咲夜の話だろ? ママには関係ない話じゃん」
「関係ないことはないでしょ。私のバカ息子が迷惑をかけたのなら、私が責任を持って証拠くらい集めるわ」
「そもそもなんでママが咲夜のためにそこまでするんだよ。嫌いだって言ってたよな」
「痛い目に合わせるって言ってたじゃないか」
「確かに。私は咲夜さんが嫌いです。仕事一辺倒で、嫁としての何たるかも分かってない。あんな嫁、私の頃では考えられないわ」
「ほら、やっぱり」
「でもそれは私の時代の話でしょ。今は違うじゃない」
「は?」
「生きてきた時代が違うから、価値観は合いません。個人的な話で言えば咲夜さんは嫌いですけど、それとこれとは話が違うわ」
「ママ、私はあなたに口酸っぱく言ってきたわよね。約束を守りなさい。信頼を裏切らないようにしなさいと」
「あ、は、だから俺はその教えを守って守って」
「あなたは『約束』という言葉を都合よく使っていただけよ。あなたが守っていたのは約束ではなく、自分に都合のいい約束という言葉を押し付け、責任を相手に押し付けた。それは最初からローン金額という嘘をついていた。信頼は作るものではなく、築き上げるものです。それを土台から放り投げたのはあなたでしょう。そんな人の言う約束に一体何の価値があるの?」
「いやでも、このままじゃ俺ローン」
「心配しないでいいわよ。実家は売ります。ローンはそこから全額出しますから、問題ありません。ただし、今まで咲夜さんを騙してたお金、それは全額請求されるでしょうけどね」
「は? 元々五百万で残りが二百万。ってことは、あなたがピンハネしてきた金額は三百万。そっくりそのまま」
「いや」
「慰謝料も含めて請求されるでしょうね」
「じゃあ三百万飛んで四百万、五百万。払えるわけないだろ、そんな金」
「そんな金を今まで咲夜さんに払わせてたのは誰?」
「う、それは」
「弁護士を通し、法律に照らし合わせ、正式な社会の約束に乗っ取って請求されるの。約束は大事なんでしょ? なら社会の約束も守りなさい」
「ちょっと待ってくれよ、ママ。このままじゃ俺」
「咲夜さんが嫌いだと言ってきたけど、私は約束を守らない。約束を都合よく使う。そんな不誠実な人間の方が何倍も大嫌いなのよ」
数日後。
「そろそろ届いた? 弁護士からの通知か」
「来たよ。五百万の請求だってな。笑うわ」
「笑い事で済むか」
「笑えるわけないだろう。どっちなのよ? そもそもなんで慰謝料が二百万もあるんだよ」
「そこについては自覚あるでしょう。ピンハネしてたお金で何してたの?」
「は? 何してたって? 何がだよ」
「あのね、領収書は全部こっちにあるの。あなたがキャバクラで飲んでたのは分かってるから」
「損害賠償の請求でそれは補填されるだろう」
「それはそれ、これはこれ。あなたが使ったお金を返すのは当たり前。慰謝料はそれとは別のものだからね。ローンと嘘をついてキャバクラ代をくすねてたんだから」
「だからってこんな」
「私ね、あなたの約束を大事にするところを好きよ」
「は? 急になんだよ」
「私も約束って大事なことだと思ってる。だから幼い頃からそういう風に教えられてきた。『約束を守る』って言ってたあなたとは気が合うと思ったの」
「だからそれが何だよ」
「けど、結婚してあなたと生活する中で気づいたのよ。あなたは自分に自信がないんだろうなって」
「は? 自信がない?」
「約束を押し付けて、自分は正しいって思いたいんでしょ? 破った方が悪いって言えば、自分が何を言っても自分は悪くないって立場を取れるもんね」
「それと自信がないって話がどう繋がるんだよ」
「自信がないから、安全なところから人を叩きたいんでしょ。自己肯定感が低い。そういうことをしないと、自分が優位だと思えない」
「適当なこと言うな。俺は別に」
「キャバクラで愚痴を巻いてたんだって。キャバクラのキャストの人が言ってた。『嫁の方が稼ぎがあって腹が立つ』って。それははっきり言います。約束なんて盾にこもってる奴が腹を立てる権利はない」
「お前、何様だよ」
「そもそも私があなたに腹を立ててないとでも? 一方的に『約束』っていう名の命令を押し付けて、それが何年も続いて我慢して、結果キャバクラ代が欲しいから騙してました。それはお前、あれだろ」
「どれだよ。言ってみてよ」
「私が納得できる理由があるの?」
「お前が金の管理厳しくて、小遣いくれないから。俺だって色々と我慢してたんだ」
「あげてましたよね。月に五万。昼飯代は別。五万じゃ足りないし」
「キャバクラ代には足りないでしょうね。あなたが酒飲んで若いお姉ちゃんとキャッキャしてる間、私は残業して帰ったら家事して、お酒を飲む暇もない日々を送ってましたけど」
「仕事はお前が好きでやってることだろ」
「その私がやってることから酒代が出てるんですよね。だったらそれを否定できる立場じゃないよね」
「それはそうだけど」
「で、何? 一方的に約束とか言って厄介事を押し付けて、できなかったら『約束破った』って騒ぎ立てて。俺は我慢してたんだ。小遣いが足りない。こっちのが我慢してるわ」
「分かった。分かったから」
「分かってたらこんなことしてないよね。『俺は正義だ』ってお母さんに行ったんでしょ。あなたは弁償金を払うのがお似合いよ」
「ごめんて」
「だからさ、その慰謝料だけでも減額とか無理?」
「いや、でもちょっとくらい、私がしてきた我慢に比べたらちょっとの金額だけど。そんなあなたへの請求は、法律で認められた社会との約束なの。約束を破るのは人として最低なんでしょう。悪いのはあなただから、最後の約束くらい守りなさい」
一ヶ月後。
「お母さん、今回はありがとうございました。LINEとはいえ、拓也の証拠が取れたおかげでスムーズに請求ができました」
「それは何よりね。さ、もう私たちは他人でしょ。いつまでも連絡なんて取ってどうするの?」
「私、やっぱりお母さんが苦手です」
「あそ。私は咲夜さんが嫌いよ。価値観は合わないし、言い方きついし、なんか『嫁が』とか言われてもピンとこないし。何喧嘩売るの?」
「でも、お母さんと出会えてよかったです。はっきり言うっていうか、歯切れがいいっていうか。なんかそういう感じです」
「ねえ、バカにしてるわよね」
「そういうあり方がどれだけ人の信頼を勝ち取れるか。お母さんを見ててよくわかりました。私はお母さんが苦手です。でも、お母さんのことは信頼していますから」
「いつも一言余計だって言うのよ」
「すみません」
「私ね、実家を売ったの。知ってます。ローンを全額補填したんですよね。息子の言葉とはいえ、私も甘えてたんでしょ。まさか私への恩返しを搾取されてたなんてね」
「別にそれはお母さんは悪くないと思いますけど」
「昭和っぽくて、義理堅くて、言い方がきつい。それはそんなひねくれたババアなりの責任の取り方よ」
「お母さん、今は小さいアパートを借りてね、一人で暮らしてるの。暇だったらいつでも顔出しなさいな。お茶くらいは出してあげるわ」
「お母さん。絶対、絶対行きます。毎日行きます」
「毎日はいいわよ」
「子ね、毎日は冗談ですよ。週一くらいで行きますね」
「それもそれで」
「お母さん」
「何よ」
「これからもよろしくお願いします」
「はいはい。よろしくね」
拓也はこの件の後、私から請求された慰謝料と損害賠償金の返済に追われる日々を送っています。お母さんは実家を売却した後、拓也には引っ越し先を伝えなかったそうです。結果として拓也は頼る相手もいない中で孤軍奮闘。私と結婚していた頃は一度も残業しなかったのに、今は毎日のように残業をして、副業まで始めたんだとか。そこまでやっているにも関わらず、キャバクラ通いはやめられないようで、新しい借金まで抱えて、日々ヒーヒー言いながら返済地獄を堪能しています。
一方で、私の生活はあれ以来穏やかです。今まで以上に仕事に集中し、近々昇進の話も出ています。そのことをこの間お母さんに伝えたら、「仕事一辺倒だから男っ気がないんだ」と叱られました。
お母さんとは今でも週に一回、近況報告会としてお茶を飲んでいます。会うたびに小言を言われるし、相変わらず口はきついし。きっと私がお母さんを好きになる日は来ないでしょう。けれど、そんなお母さんを私は誰よりも信頼しています。



