「離婚届、送ったぞ。届いたか?」——電話越しに夫がそう言った時、私は実家で生後二ヶ月の娘を抱いていた。里帰り中のある午後、いつも通りミルクを作っている最中の電話だった。「まだ届いてないのか。即達でも時間かかるもんだな」。意味が分からず問い返すと、彼はこう続けた。「出産した女には魅力ないんだよ。妊娠してから女として見れなくなった」。私はと言えば、この電話の三ヶ月前、彼の浮気を知った瞬間から、彼…

「離婚届、送ったぞ。届いたか?」——電話越しに夫がそう言った時、私は実家で生後二ヶ月の娘を抱いていた。里帰り中のある午後、いつも通りミルクを作っている最中の電話だった。「まだ届いてないのか。即達でも時間かかるもんだな」。意味が分からず問い返すと、彼はこう続けた。「出産した女には魅力ないんだよ。妊娠してから女として見れなくなった」。私はと言えば、この電話の三ヶ月前、彼の浮気を知った瞬間から、彼...

「離婚届、送ったぞ。届いたか?」
「え、離婚届?何の話?」
「まだ届いてないのか。即達でも時間かかるもんだな」
「ちょっと、本当に何の話?」
「ああ、そのことなんだけどよ。出産した女には魅力ないんだよ。正直、見るのもきつかったわ」
「はあ?」
「やっぱり俺はさ、ずっと女でいてほしいんだよ。お前、最近化粧もしてないじゃん」
「そうね。そんな余裕はないわ」
「そこなんだよ。俺の目はどうでもいいんだなって」
「はい。あなたからどう見られるかも、世間でどう見られるかも、どうでもよくなったってことよ」
「俺に可愛く見られたいと思わずに、すっぴんと寝巻きで歩いてるの、マジきつかったわ」
「随分な言い方ね。確かに、おしゃれする余裕もなくて、周りから見れば綺麗には見えなかったと思う。でも、妊娠中だって分かってるわけでしょ」
「ていうか、妊娠してから女として見れなくなったんだよ。なんか、生理的に無理って言うか」
「俺の両親も離婚してるんだけど、離婚理由が女として見れないからだったんだよな。今なら親父の気持ちが分かるわ」
「最低な気持ちを理解しなくていいと思うんだけど」
「最低じゃなくて、生理現象だって」

「それで、何?妊娠中のパートナーを見て無理だってなったから、離婚したいって言いたいわけ?」
「そう、そう。離婚するのは当然だろ」
「はあ、そうなんだ。それがあなたの気持ちってわけ」
「いいから、とにかく離婚届に署名して送り返せよ。早くしないとお前が不利になるぞ」
「不利?なんでそうなるのよ。まあ、でもいいわ。書いてあげる。こんなこと言われて、私も嫌だし」
「ちょっと外見主義なところはあるなって感じてたけど、まさか妊娠中にまでそんなこと言われると思わなかったわ」
「じゃあ、さっさと記入しろよ。あとはもう戻る場所ないぞ」
「はい。なんでそうなるの?」
「だって、あの家は俺の名義だからな」
「まあ、実家にいるから別に困らないけど」
「うわあ。実家に転がり込むしかないとか、ダサすぎ。シングルマザーとか人生終わってんな」
「そうさせたあなたがそれを言うわけ?言っておくけど、あなたは世間一般で言うと、妻子を捨てたクソ野郎なのよ。自覚してる?」
「おいやいや、捨てられる方が悪いんだって。母さんも言ってたなあ。お父さんに捨てられた私が悪いって」
「普通そう思うはずなのに、お前は反省しないんだな」
「反省するところが一ミリもないんだよ。それと、慰謝料とか請求してくんなよ。お前に魅力がなくなっただけなんだから、俺は悪くないし」
「慰謝料なんて、なんで?」
「おい、離婚したら普通請求してくるかなって思ってさ。でも俺にはないからな。お前が勝手に太っただけだし」
「自分は悪くないって思ってるのに、慰謝料の心配をするって矛盾してるわよ。あなた、頭大丈夫なわけ?」
「俺はいたってまともだぜ。最近、親父とも連絡取ってるんだけど、親父が言ってたんだ。女として見られないやつと一緒にいても未来はないって。まさにその通りだな。子供もいらねえし、養育費も払う気ないから」
「なんですって?ちょっと待って。それとこれとは話が違うわよ」
「なんだよ。離婚したらさ、俺は持てるから、すぐ次見つかると思うんだよね。お前と違って、俺は市場価値高いから。だから養育費払う暇とかねえの。普通に考えろよな」
「養育費は義務よ。あなたは父親なんだから」
「だから離婚して父親やめるんだよ。俺の親父だって養育費払ってなかったし。まあ、お前も次の相手見つかるといいな。シングルマザーじゃ難しいだろうけど」

「あのさ、ずっと気になってたんだけど、なんでこのタイミングで離婚なんて言ってきたの?」
「俺、ちゃんと計画立ててたから」
「計画?」
「俺の両親も離婚する時に結構揉めたんだよな。俺はそういうのはしたくなかったんだ。だから考えたんだよ。お前が実家にいる間に離婚届を出せば、何もできないだろう。里帰り中で身動き取れないもんな」
「だから、妙に早く里帰りしろって急かしたのね」
「そういうこと。生まれるのは二ヶ月後だろ。まだ余裕あるし、離婚届くらい書けるじゃん」
「二ヶ月あれば、弁護士だって雇えるのよ」
「好きにすればいいんじゃね。俺も弁護士に相談したんだ。何もかも準備してたってわけ」
「へえ、そう」
「あとさ、俺が先に離婚届を出せば有利になるって聞いたんだ」
「有利?いや、離婚届に先もないでしょ。書いて出すだけなんだし」
「先に記入した方が有利になるんだよ」
「何よそれ。それに、離婚すればお前の貯金も半分くらい俺のものだよな。結婚してる間に貯めたんだから当然だろ。財産分与はしっかりするから、そこだけは時間かけてていいぜ」
「へえ、法律詳しいんだ」
「夫婦の財産は共有だからな。法律くらい勉強しろよ」
「そっか。言いたいこと、それで全部?」
「ああ、正直ね、離婚には私も賛成だったの。私も、あなたみたいな身勝手な人とはもう関わりたくなかったし」
「はあ?何?強がり?」
「そうじゃないわ。まあ、いいけど。じゃあ、離婚でいいじゃない。あなたは思い込みが激しくて、上から目線で、結婚してからは自分が一番偉いってふんぞり返ってたわ。だから離婚して、この子のために養育費だけ払わせて、静かに終わらせようと思ってたのよ。慰謝料も請求しないつもりだったわ。揉めたくなかったから」
「へえ、賢い判断じゃん」
「でも、あなたはこの子に養育費すら払う気がないって言ったわよね。子供もいらない、教育費も払わないって言った」
「それが何だよ」
「その発言だけは、絶対に許せない。あなたが私を捨てるのは勝手にすればいいわ。でも、この子まで見捨てるなんて、母親として絶対に許せないのよ。ふざけんじゃないわよ。最低限の責務を果たしなさいよ。このクズ男」
「はあ。急に切れんなよ。ヒステリックとかうざい」
「ああ、こんな女とは離婚してよかった。人生失敗したわ」
「もっと賢く生きろよな」

翌日、突然電話がかかってきた。
「すみません。田中と申します。三咲さんのアカウントでお間違いないですか?」
「はい。そうですが、どちら様ですか?」
「健二さんの彼女です。健二さんから離婚の話を聞きました」
「えっと、健二は私の夫ですが」
「知っています。でも、もう終わったんですよね。健二さんは私のことを本気で愛してくれています」
「はあ、そうですか」
「なので、離婚してくださりありがとうございます。私たち、本当に愛し合ってて。赤ちゃんのこと、大変でしょうけど頑張ってくださいね。健二さんのことは私が幸せにしますから」
「それは、先輩不告か何かですか?まさか彼女の方から連絡してくるなんて。浮気しているとお花畑思考になるっていうのは、フィクションじゃないんですね。まあ、連絡する手間が省けて助かりました」
「え、あの、私のこと知ってるんですか?」
「知っていますよ。二十六歳、営業事務。健二と同じ会社で、九月頃から交際中。ああ、高飛車って言うんですかね。浮気ですけど」
「交際です。私たちは真剣なんですよ。健二さん、奥さんとはもう冷めてるって言ってましたし」
「え、どんなことを言ってたんですか?」
「妊娠してから女として見れなくなったって言ってました。私の方が若いし、健二さんを幸せにできます。だから浮気とかじゃないんです。私、ちゃんと離婚されてからお付き合いしてるので」
「ええ、離婚してから。じゃあ、一つ聞いていいですか?健二は、あなたに離婚したら結婚するって言ってました?」
「当たり前じゃないですか?離婚しないと結婚できませんし」
「離婚したとは聞いてたんですけど、揉めてるから結婚は少し待ってって言われてたんです」
「そっか。なるほどね。かわいそうに」
「イライラと負け惜しみですか?そっちの方がかわいそうですよ」

数日後、健二から電話がかかってきた。
「おい、離婚届、届いたわ。確かにあなたの字ね」
「即達で送ったのに、随分遅かったな」
「届いてたけど、確認に時間がかかったのよ」
「ああ、そっか。まあ、届いたならいいや。お前もちゃんと書けよ」
「それはできないわ」
「は?おい、今更なんだよ」
「せっかく送ってもらって悪いんだけど、この届け、無効なのよ。そもそも」
「何言ってんの?意味わかんないんだけど」
「特に、もう離婚してるし、私たち。一ヶ月前に離婚届、出したの。一応、役所に確認してきたんだけど、ちゃんと受理されてるわよ」
「は?え、ちょっと待て。どうなってんだ?俺の同意なしに離婚なんてできるわけないだろ」
「あなたの同意、ちゃんとあるよ」
「はい?」
「忘れちゃったのね。でも、私は覚えてるわ。三ヶ月前、あなたに浮気を指摘したら逆ギレされて、『そんなに信じられないなら離婚届、書いてやるよ』って署名したの、覚えてない?」
「あ、あれは確かに書いたけど、でも俺、離婚届が入ったあの封筒はちゃんと捨てたはずだぞ」
「ああ、私の部屋に忍び込んで持ち出したやつね。中身、確認した?」
「いや、してないけど。けど、お前、あの封筒に入れてただろ?」
「ええ?封筒には入れてたわ。どこにでもある普通の封筒に、『離婚届』って書いて。まあ、誰が見ても分かるでしょうね」
「まさか、あの封筒に入ってたのは偽物。本物は別の場所に保管してたから、あなたが盗んだのはダミーってわけ。ご苦労様。ていうか、勝手に捨てるとかありえないからね、普通」
「くそ、嵌めやがったな」
「いや、そんな分かりやすく保管するわけないでしょ。ていうか、あなたも離婚するつもりだったのに、なんで離婚届を破棄したのか理解不能だわ」
「お前が勝手に出すと面倒だろ」
「ああ、浮気がバレて離婚されたなんて、親戚の笑い者だものね。隠蔽できないうちに離婚されて、大事になると困るから。離婚届は自分の都合で出したいわけね」
「そうだ。くそ。こんなはずじゃ」
「でも、俺が有利なのは変わらないぞ」
「はあ。何言ってんの?」
「俺はちゃんと弁護士に相談したんだぞ。先に離婚届を出せば有利って言われたんだ」
「ああ、LINE法律事務所の百瀬弁護士よね。それ」
「あ、なんで知ってんの?」
「私の大学の先輩なの。あなたの名刺が出てきたし、名前を見た瞬間、ああ、よりによってこの人に相談しちゃったって、ちょっと同情しちゃった」
「はあ?前にも言ったけど、先に離婚届を出せば有利なんてことはないのよ。ていうか、誰が出しても同じなのよ。だって、紙を出すだけなんだし」
「嘘だろ。先に記入しておけば有利って」
「誰が先に書いたかなんて、証明しようがないでしょ。あの先輩、口先でいいこと言う人だから、言い回しを勘違いしたのね。きっと、『先に離婚届を出せば』じゃなくて、『離婚の意思表示はちゃんとしろ』とでも言われたんじゃない?」
「それは、そんな言い方だったような」
「つまり、あなたは有利どころか、ほぼ負け確定。詳しいことは弁護士から連絡が行くから。あとは弁護士とどうぞ」
「それじゃあね」
「ちょ、待てよ。話し合おう」
「話し合う?何を?今更じゃない?言ったでしょ、私たち、とっくに終わってるの」
「お前が勝手に終わらせたんだろ?」
「それは違うわね。あなた、散々私を罵倒したの忘れたの?スクロールしてみて。暴言のバーゲンセールよ」
「悪かったよ、色々。お前のことを馬鹿にして」
「ああ、そこはどうでもいいの。あなたに女として見られないと言われても、正直、ああ、そうくらいにしかならないわ。なら、なんで私が許せないか。あなたが子供はいらない、養育費は払わないって言ったからよ。私はね、あなたと関わり合いたくなかったから、慰謝料なんていらなかった。でも、子供は違うわ。あなた、分かってる?養育費を払わないって言うのは、親であることの否定なのよ。あなたはそれを軽々しく口にした。その時点で、話し合う価値がなくなったから。私はね、あなたが私にしたこと、全部ちゃんと返してもらうから、覚悟しててね」

一週間後、健二から電話がかかってきた。
「なんだよ。ああ、内容証明、届いた」
「ちゃんと確認してね。弁護士さんに即達で送ってもらうよう頼んでおいたのよ」
「こんなの認めねえぞ」
「あら、もう確認したの。早いわね。でも、あなたが何を言っても、そこに書いてあることは事実よ。離婚届は一ヶ月前に受理済み。浮気の証拠も、一応入ってるでしょう。ホテルの領収書にLINEのスクリーンショット、あと探偵さんにお願いして手に入れた写真。それだけあれば十分だし」
「請求内容は見たわよね。こんなのぼったくりじゃねえか」
「あら、そうかしら。慰謝料三百万円に、さらに養育費、月五万円ってだけよ。三百万は確かに相場より少し多いけれど、妊娠中の浮気ってことで高いってだけ。拒否した場合は、給料差し押さえで強制執行するから」
「嘘だろ。ていうか、なんだよこの証拠。お前、全部知ってたのかよ。浮気は疑いだけじゃなかったのか?」
「知ってたわよ。だから、あなたに罵倒されても傷つかなかったの。だって、それ以上の傷をすでに負っていたから。浮気してるって知って、どれだけショックだったか。まあ、あなたには分からないでしょうね」
「ああ。あと、それとは別に、住宅の頭金一千万円の返還も請求するから」
「はあ?なんで?」
「だって、あの家はあなたのものでしょ?なら、私が出した頭金は貸したことになるじゃない。離婚して私を追い出すんだから、返してっていうのは当たり前でしょ。自分でそうしたんだから、自業自得よ」

翌日、またしても彼女が実家に押しかけてきた。
「こんにちは。三咲さん」
「まさか、私の実家に突撃してくるとは思いませんでした。母が追い返したそうですが、どうして実家の住所を知ってるのかしら?」
「健二さんから聞きました。LINEじゃなくて、直接話をさせてください。そのためにわざわざ来たの?ご苦労様。それから、こちらには話すことは何もないのだけど」
「あなたのやってることは間違ってます。言いがかりです。なんで私が慰謝料を払わないといけないんですか?もう離婚してるはずでしょ?」
「ええ、離婚はしましたね」
「だったら、慰謝料とか請求するのおかしくないですか?」
「おかしい?どうして?」
「健二さん、奥さんとはもう終わってたって言ってたんです。奥さんが妊娠して、健二さんが冷めたって」
「そもそも、浮気の定義って何か知ってる?」
「え?」
「婚姻関係にある人が、他の人と関係を持ったことを言うのよ。でも、仮に気持ちが冷めていたから浮気じゃないという主張が通るとしましょう。私が妊娠したのは、去年の十二月ですよ。でも、あなたと健二が付き合い始めたのは、去年の九月。あれ?時系列おかしくない?」
「は?」
「私が妊娠する前から、あなたたち付き合ってましたよね。妊娠して冷めたって、嘘じゃない?」
「そんな」
「健二さんの言うこと、全部信じてたの?かわいそうに。ちゃんと考えれば分かることよ。でも、そうね、かわいそうなあなたに現実を見せてあげる。あなた以外にも、女いたわよ。二人、浮気相手がね」
「嘘、そんなの信じない」
「はい。これ、証拠ね。探偵に依頼したの。そうしたら出るわ、出るわ。きりがないわよ。この写真の女性、見覚えない?同じ会社の人事部の人でしょ。こっちは、取引先の女性。全員に『離婚する』って言ってたみたい」
「そんな、私だけだと思ってた」
「まあ、私に連絡してきた人はあなただけだったわ。あなたは、どこかで私から夫を奪ったと思って、優越感に浸っていたんでしょう。でも、残念。あなたは、私が捨てたゴミを拾っただけ」
「ゴミ?」
「ええ、ゴミ。妊娠中の妻を捨てる男なんて、ゴミでしょ。そのゴミ、あなたにあげるわ。おめでとう。ああ、でも、慰謝料はきっちり払ってもらうけどね」
「こんなの、ひどすぎる」
「ひどい?妊娠中の女性から夫を奪おうとしたあなたが言うの?自分から先々不告してきたんだから、ボコボコにされる覚悟くらいあるでしょ」

数日後、健二から電話がかかってきた。
「待ってくれ。話し合おう。三咲。俺が間違ってた。両親のことで俺もトラウマがあって、あの時言ったことは本気じゃなかったんだ。養育費も払う。慰謝料も考える。だから、裁判だけは勘弁してくれよ」
「あら、払うには払うけど、裁判になって会社にバレるのが嫌なのね。本当、どこまでも自分勝手ね。でも、払ってくれるならいいわよ」
「それで、本当か?助かるよ」
「それじゃあ、全額一括で支払ってね」
「は?」
「当たり前じゃない?私はもう、あなたと関わり合いたくないの。養育費も慰謝料も、全部一括で払ってくれたら、もう連絡しなくて済むし」
「う、そんな大金、払えないって。毎月ちゃんと支払うから」
「そう言って、あなたは逃げるでしょう。私はあなたのこと、信じてないの。信じられるわけない。だから、給料差し押さえの手続きを取ろうとしてるのよ」
「待ってくれよ。許してくれ。本当だ。金もちゃんと払うから」
「今更遅いのよ。全部、あなたが自分で蒔いた種。自分から話し合いの機会を台無しにしたの。自業自得よ」

同時刻、健二は浮気相手のま衣と電話で言い争っていた。
「お前のせいで、全部ダメになった。どうしてくれるんだよ」
「はあ?あなたが『離婚する』って、奥さんとはうまくいってないって嘘ついたんでしょ。しかも、ほかにも女がいるって知ってるのよ。私を都合のいい女にしてたくせに」
「都合のいい女?お前が勝手に突っかかってきたんだろ」
「なんですって?最低。あなたなんか知らない。私だって、慰謝料請求されてるのよ」
「あんたのせいなんだから、あんたが払ってよ」
「なんで、お前なんかのために払うんだよ。ふざけんなよ」

数日後、再び健二から電話がかかってきた。
「三咲、勘弁してくれよ。会社の上司に呼び出された。お前のせいで、ラン建設との取引が危ないって」
「ええ、そうなんだ」
「それで」
「お前の元嫁の実家だろ。先方から、俺とは仕事をしたくないと言われてるって言われた。こんなの、ちょっとやりすぎだって。離婚した腹いせかよ」
「別に、離婚したからそうなったわけじゃないわ」
「は?」
「あなたが、妻子を冒涜するようなことを平気で言ったからよ。そんなことを言う人と仕事したいと思う人なんて、いないでしょ。もちろん、コンプライアンス的にもね。その証拠として、LINEのスクリーンショットも提示してるわ。あなたの上司も納得したから、あなたに話をしたのでしょ」
「で、注意されたくらいで、泣きつかないでくれない?」
「営業から総務に移動になったんだよ。減給もあるって。『会社に損害を出す前に大人しくしてろ』なんて言われて、職場でもみんなの目が冷たいんだ」
「そりゃ、そうでしょうね。妊婦を捨てた最低男なんて、陰口を叩かれるに決まってるでしょう」
「取引先も、俺を避けるようになった。頼むから、お父さんに取引停止だけはしないでくれって言ってくれよ」
「取引停止を決めたのは、社長としての父の判断よ。私じゃどうしようもできないわ。ああ、あなたのことが大好きなま衣さんも、今頃同じような目に合ってるかもね。まあ、どちらも自業自得よ」

二週間後、健二が実家に直接やってきた。
「三咲、頼む。話を聞いてくれ。俺が間違ってた。本当に間違ってた。仕事も左遷されて、金もなくてもう限界なんだ。家だって、このままじゃ維持できない。少しだけ、慰謝料を減額できないか。養育費は払う。ちゃんと払うから。俺たち、一緒にいた時間もあっただろう。その頃のことを思い出して、頼むよ」
「健二、もう終わったことよ。あなた、私に『出産した女には魅力がない』『養育費も払わない』って言ったわよね。その時点で、あなたは父親でも夫でもなくなったの。一緒にいた時間、それを全部踏みにじったのは、あなたよ。あなたが私にしたこと、この子にしようとしたこと。私は一生忘れない。二度と連絡してこないで。でも、最後に、あなたが私に言った言葉をそっくりそのまま返すわ。人生、失敗したね。ざまあみろ」

その後、健二は慰謝料三百万円と住宅ローン頭金一千万円を請求され、そんな金額を払えるわけもなく、家も手放すことになった。養育費も裁判で確定し、給料差し押さえで毎月の支払いに追われる日々。浮気相手二人からも慰謝料請求の訴訟を受け、総額五百万円以上の支払い義務が発生した。しかも、浮気相手のうち一人が「結婚を前提に交際していた」として、結婚詐欺の疑いで警察に相談したそうで、健二は完全に追い詰められている。

ちなみに、ほかの浮気相手には慰謝料を請求していない。彼女たちは浮気していると知らなかったこと、それを知った時に誠実に謝ってくれたこと、そして浮気の証拠をくれたことが大きな理由だ。ま衣さんには慰謝料を請求したが、二百万円の支払いに追われ、会社でも噂が立ち、居場所をなくして退職。実家にも帰れず、完全に孤立しているそうだ。

一方、私は実家のサポートを受けながら、元気な女の子を出産した。育休明けには職場に復帰し、両親や友人に囲まれて穏やかに暮らしている。あの時、冷静に準備しておいて本当に良かった。散々馬鹿にされていたけれど、私は妊娠中のお腹を愛おしく感じていた。ずっと我が子を感じられるあの瞬間は、きっと当事者にしか分からない大切な時間だ。今は娘と触れ合う時間も愛おしく、この子を幸せにすることが今の私の目標だ。

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