「ごめん。母さんの分の予約、忘れてたんだ。」
羽田空港の国際線ターミナル。息子の涼介からそう告げられた瞬間、頭が真っ白になった。
手には大きなスーツケース。2週間分の荷物を詰め込んで、心待ちにしていた日だった。
涼介の隣には妻の直と、その母親である義母が立っている。3人とも、すでに搭乗手続きを終えた様子だった。
「今回は、俺たちとお母さんだけで行くよ」
直の言葉に、胸が締め付けられる。旅行費用300万円は、私が全額負担したはずだった。それなのに、私だけが置いていかれようとしている。
状況がすぐには飲み込めなかった。
「そっか。ありがとう。気をつけていってらっしゃい」
私は笑顔でそう言った。けれど心の中では、何かが音を立てて崩れ落ちていくのを感じていた。
3人の背中を見送りながら、私は静かな決意を固めていた。
私は本田道代、58歳。市役所で38年間事務職を務め、夫の高志と息子の涼介を支えることが何よりの喜びだった。
涼介の教育費は総額850万円。すべて私が負担した。結婚するときには500万円を渡した。
3年前、涼介が直と結婚してから、2人は私たち夫婦の家で暮らし始めた。この家は私と高志が購入したもの。涼介が中学生のときだった。
頭金700万円は私が出し、ローンも夫婦で返済してきた。名義も私との共有だ。涼介たちは「同居」という形になる。
最初は嫁との関係も良好だったが、少しずつ違和感を覚えるようになっていった。
直の母親への誕生日プレゼントは5万円。けれど私の誕生日には何もなかった。
義実家への帰省は月に2回。いつも楽しそうに向かう。
「母さんは別にいいよ。でもお母さんのプレゼントはデパートで選んでるから」
涼介のその言葉を聞いたとき、胸に小さな棘が刺さったような痛みを感じた。「いいよ」という言葉の軽さが、私の立場を物語っているように思えた。
そして今年の春、ある出来事が起きた。
夕食を終えた後、涼介が切り出した。
「母さん、実は夫婦でお母さんと3人でヨーロッパ旅行を考えてるんだ」
心が弾んだ。海外旅行なんて何年ぶりだろう。
「まあ、素敵ね。私も一緒に行けるの?」
「え、お母さんもご一緒にいかがですか?4人でも楽しいですよね」
直の言葉に、私は笑顔で頷いた。
「ぜひ行かせてもらうわ」
その夜、久しぶりに胸が高鳴るのを感じた。パリの街並み、美術館、美味しい食事。想像するだけで心が軽くなる。高志に話すと、彼も嬉しそうに笑ってくれた。
けれど数日後、涼介から電話があった。
「母さん、旅行の件なんだけど、費用ちょっと援助してもらえないかな」
「いくらぐらい必要なの?」
「300万円」
受話器を持つ手が震えた。300万円。決して小さな金額ではない。4人分の航空券とホテル代で、母さんの分も含めてだから。
息子のためなら。私は承諾した。長年コツコツと貯めてきた貯金から300万円を振り込んだ。通帳の数字が大きく減っていくのを見ながらも、楽しい旅行を夢見て心を踊らせていた。
それから1週間後、旅行の打ち合わせがあった。リビングのテーブルには綺麗なパンフレットが広げられている。エッフェル塔、凱旋門、ノートルダム大聖堂。写真を見るだけで胸が高鳴った。
「お母様、ビジネスクラスにしましょう。足も伸ばせて快適ですよ」
直が母親に優しく語りかける。
「まあ、そんな、申し訳ないわ」
「いいんですよ。長時間のフライトですから、ゆっくり休んでいただきたいんです」
私は当然、自分もビジネスクラスだと思っていた。300万円を出したのは私なのだから。けれど涼介の言葉は、私の期待を裏切るものだった。
「母さんはエコノミーで。予算の関係で」
胸に冷たいものが走る。
「でも300万円出したのは……」
言いかけた私を、直が遮った。
「お母さん、細かいことは気になさらないでください。家族なんですから」
「家族」という言葉が、妙に空ろに響く。私は黙って頷くしかなかった。
さらに数日後、今度はホテルの話になった。直がタブレットを見せながら嬉しそうに説明する。
「お母様はスイートルームを予約しました。聖川が一望できる素敵なお部屋なんです。バスルームも広くて、アメニティも高級ブランドの物ばかりですよ」
「なおちゃん、そこまでしなくても」
義母は遠慮がちに言うが、その表情は満更でもない様子だ。画面には豪華な寝室の写真が映っている。
「私の部屋は?」
私が尋ねると、涼介が答えた。
「母さんはスタンダードルームで」
同じホテルなのに、部屋のランクが違う。その意味を噛みしめるしかなかった。
スイートルームとスタンダードルーム。この差は一体何を意味するのだろう。300万円を出した私が、なぜ一番狭い部屋なのか。
出発の1週間前、最終確認の場でさらなる衝撃が待っていた。
「お母様、ルーブル美術館、とても楽しみですね。モナリザも見られますよ」
「ええ、夢のようだわ。まさか本物のモナリザが見られるなんて」
私も美術館を楽しみにしていた。学生時代、美術の授業が好きだったことを思い出す。
けれど涼介は申し訳なさそうに首を横に振った。
「母さん、美術館は人数制限があるみたいで。お母さんを優先させてもらっていい?」
「じゃあ、私はホテルで休んでいてください。お疲れでしょうし」
直の笑顔が、冷たく感じられる。
300万円を払って、ホテルで休む。その矛盾に、言葉が出なかった。
座席も部屋も観光も、すべてが義母優先。私は「付け出し」のような存在になっていた。まるでお金だけ出せばいいと言われているようだった。
それでも私は何も言わなかった。息子の喜ぶ顔が見たい。その一心で、全てを受け入れようとしていた。心の奥で何かが軋んでいたが、まだ我慢できると思っていた。母親とはこういうものだと、自分に言い聞かせながら。
そして迎えた出発当日。朝早くから準備を整えた。2週間分の服、化粧品、常備薬。大きなスーツケースに丁寧に詰め込む。パスポートも何度も確認した。
初めてのヨーロッパ。緊張と期待で胸がいっぱいだった。
「楽しんでこいよ」
高志が見送ってくれる。彼は仕事の都合で今回は参加できない。
「ええ、お土産たくさん買ってくるわね」
タクシーで羽田空港へ向かった。車窓から見える景色が、いつもより明るく見える。
国際線ターミナルに到着すると、すぐに涼介たちの姿が見えた。
「涼介、なおさん、お母さん」
私は笑顔で声をかけた。けれど3人の表情は、どこか硬いように感じる。
「あ、母さん」
涼介が目をそらした。その様子に、嫌な予感が胸をよぎる。
「さあ、チェックインしましょう。私の搭乗券は……」
「それが、母さん……」
涼介の声が小さくなった。
「母さんの予約、忘れてたんだ」
時間が止まったように感じた。予約を忘れた。その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「え、でも……何度も確認したわよね?先週も座席の話をしたばかりじゃない」
「手配が複雑で、今から取り直すと追加で100万円かかるって言われて」
直が申し訳なさそうに言う。けれどその目には、本当の申し訳なさはなかった。
「じゃあ私が追加で払うわ。100万円なら、なんとか……」
必死に言葉を探した。ここまで来て諦めたくなかった。
「いや、今回は俺たちとお母さんだけで行くよ」
涼介の言葉が、胸に突き刺さる。
「どういうこと?300万円、私が出したのよ」
声が震えた。
「それは旅行代金として、ありがたく使わせていただきます」
直が笑顔で言った。その笑顔が、あまりにも冷たく感じられる。
「道代さん、ごめんなさいね。でも若い人たちの計画だから」
義母までもがそう言う。若い人たち?義母は72歳。私より14歳も上なのに、若い人たちの仲間に入っている。その矛盾に、眩暈がしそうだった。
「涼介、本当に私を置いていくの?あなたの実の母親よ」
「母さん、悪いけど。お母さんを楽しませたいんだ」
息子の口から出た言葉に、心が凍りついた。義母を楽しませたい。では、私は?私の楽しみはどこにあるのだろう。
「私は……私はどうなるの?」
「母さんはまた今度。今回はお母さん優先で」
また今度。本当に今度なんてあるのだろうか。その言葉がどれほど軽いものか、涼介は分かっているのだろうか。
「お母さん、留守番お願いできますか?家のこと心配なので」
直の言葉に、息を飲んだ。留守番。300万円を払った私に、留守番をしろというのだ。
「留守番……?」
その言葉を繰り返すことしかできなかった。空港の喧騒が、遠くに聞こえる。
「じゃあ行ってくるね。2週間後に帰るから」
涼介がスーツケースを引いて歩き始めた。直と義母もその後ろに続く。3人とも笑顔だった。まるで何事もなかったかのように。
私は一人、出国ゲートの前に立ち尽くしていた。手には大きなスーツケース。中には2週間分の夢が詰まっていた。
3人の背中が、どんどん小さくなっていく。出国審査のゲートをくぐる瞬間、涼介が一度だけ振り返った。けれどすぐに前を向いて、消えていった。
空港のロビーに、私だけが残された。周りにはこれから旅立つ人たちの笑顔が溢れている。家族連れ、カップル、友人同士。みんな幸せそうに出発を待っている。
その中で、私だけが動けずにいた。
涙が出そうになった。けれど私は泣かなかった。代わりに、静かに微笑んだ。誰もいない空間に向かって、冷たく。
「そっか。ありがとう。気をつけていってらっしゃい」
その言葉を口にしたとき、私の中で何かが完全に切り替わった。
もう我慢する必要はない。もう遠慮する必要もない。
涼介、直。そしてあなたのお母さん。帰ってきたとき、何もかもが変わっているから。その覚悟を、私はこの瞬間に決めた。
スーツケースを引いて、空港を後にした。けれど私が向かった先は、自宅ではなかった。
タクシーに乗り込み、運転手に告げた行き先は、ある法律事務所だった。
実は1週間前、私はこっそりとこの事務所に相談の予約を入れていた。旅行の打ち合わせで感じた違和感が、日に日に大きくなり、万が一のことを考えて準備をしていた。まさか本当にこの日が来るとは思わなかったが。
「本田さん、お待ちしておりました」
弁護士の先生が穏やかに迎えてくれる。
「確認させていただきますが、あの家の名義は私と夫の共有名義です。頭金700万円は私が出しました。ローンもほとんど私たち夫婦で返済してきました」
書類を広げながら、落ち着いて説明する。不思議と声は震えていなかった。
「息子さんは居住しているだけです。所有権は一切ありません。では、売却は可能です。ただしご主人の同意が必要になりますが」
「夫は了承しています」
実は夫も今回の件に激怒していた。涼介たちが最終確認に来た夜、寝室で高志に全てを話したのだ。
「道代、お前、本当に300万円出したのか?」
「ええ。でも、私だけ置いていかれそうな気がしてるの」
高志の顔が、見る見るうちに赤くなっていく。
「ふざけるな。あいつら、母親を何だと思ってるんだ」
普段は温厚な夫が声を荒げた。
「道代、もう我慢しなくていい。あの家は俺たちの財産だ。息子だからって、好き勝手させるわけにはいかない。お前が決めたことなら、俺は全面的に協力する。300万円も払わせておいて、母親を置いていくような息子に遠慮する必要はない」
夫の言葉に、私は静かに頷いた。そのとき、心が決まった。
弁護士の先生は書類を整理しながら言った。
「ご主人の同意があるなら、手続きは進められます。ただ売却には通常3ヶ月かかりますが」
「2週間以内に現金化できますか?」
先生は驚いた表情を見せる。
「2週間?それはかなり厳しいですが……」
「息子たちが旅行から帰ってくるのが、2週間後なんです。それまでに、全てを終わらせたい」
先生は少し考え込んでから、頷いた。
「買い取り業者に依頼すれば、可能かもしれない。ただし相場より安くなりますが」
「構いません。確実に2週間以内でお願いします」
「わかりました。駅近の3LDK、築15年。相場なら4500万円ですが、買い取りなら4000万円程度になるかと」
4000万円。十分な金額だった。
「それでお願いします」
法律事務所を出た後、私はそのまま不動産会社へ向かった。弁護士の先生が紹介してくれた、買い取り専門の業者だ。
「本田様、資料を拝見しました。確かに2週間以内の買い取りが可能です。ただし、現在お住まいの方がいらっしゃいますよね?」
「息子夫婦です。今2週間の海外旅行中で」
「なるほど。では、その間に契約を済ませてしまいましょう」
あまりにもスムーズに話が進んでいく。まるで全てが私の味方をしているかのようだった。
「来週の月曜日に最終契約。その場で代金をお振り込みいたします」
「ありがとうございます」
不動産会社を後にして、次に向かったのは別の不動産会社だった。今度は新しい家を探すためだ。
「夫婦二人で暮らせる2LDKのマンションを探しています」
「かしこまりました。ご予算は?」
「2000万円程度で」
駅近の新築をいくつか見せてもらった。その中で、駅から徒歩5分の新築マンションが気に入った。明るいリビング、使いやすいキッチン。二人で暮らすには十分すぎる広さだ。
「即入居は可能ですか?」
「はい、来週からでも大丈夫です」
「では、これで現金一括でお願いします」
担当者の方が目を丸くした。
「現金一括ですか?」
「ええ、来週中にはお支払いできます」
全ての手続きを終えて、家に帰った。高志が心配そうに待ってくれている。
「道代、どうだった?」
「決めてきたわ。この家は売却する。新しいマンションも契約した」
「そうか」
高志は静かに頷いた。
「後悔はないか?」
「全くないわ。むしろ、もっと早くすべきだった」
その夜、私たち夫婦は二人でこれからの計画を練った。引っ越しの段取り、荷物の整理、そして新しい生活のこと。
涼介たちが旅行を楽しんでいる間に、私たちの人生は大きく動き始めていた。
翌日から、引っ越しの準備を始めた。私物を一つ一つダンボールに詰めていく。思い出の品々。けれど未練はなかった。
「これも持っていこう」
高志が結婚当初の写真を手に取る。
「ええ、大切な思い出だものね」
二人で笑顔を交わした。新しい生活への期待が、少しずつ膨らんでいく。
涼介たちが帰ってくる時には、もう何もない。その光景を想像すると、不思議と心が軽くなっていくのを感じた。
涼介たちが旅行5日目を迎えた頃、私たちの引っ越し作業は本格的になっていた。大型トラックが家の前に止まる。引っ越し業者の方々が手際よく荷物を運び出していく。
「奥様、こちらの家具も全てお持ちしますか?」
「ええ、私たちが買ったものは全て」
ダイニングテーブルも、ソファも、冷蔵庫も、洗濯機も。リビングがどんどん空っぽになっていく。15年以上暮らした家。思い出はたくさんあったけれど、未練はもうなかった。
「道代、本当にいいのか?」
高志が最後にもう一度確認する。
「ええ、もう決めたことだから」
私の声は静かだったが、揺らぎはなかった。
涼介の部屋も空にした。学生時代の教科書、思い出の品々。それらは全てダンボールに詰めて、倉庫に預けることにした。捨てたわけではない。ただ、もう私たちの手元には置かないというだけだ。
1週間が経ち、月曜日。不動産会社での最終契約の日を迎えた。
「本田様、こちらが売買契約書になります」
分厚い書類に、私と高志が署名していく。一枚、また一枚。サインをするたびに、新しい人生への扉が開いていくような気がした。
「では、売買代金4000万円、本日中にお振り込みいたします」
「ありがとうございます」
契約を終えて外に出ると、空が妙に明るく感じられた。
「終わったな」
「ええ、終わったわ」
高志と顔を見合わせて、二人で小さく笑った。
その日の午後、銀行から入金の連絡があった。通帳を記帳すると、4000万円という数字が並んでいる。長年積み上げてきたものが、形を変えた瞬間だった。
翌日、新しいマンションへの引っ越しが完了した。15階の角部屋。窓からは町の景色が一望できる。
「いい眺めだな」
「本当ね」
ここで二人で、新しい生活を始める。荷物を整理しながら、心が軽くなっていくのを感じた。誰にも気を使わない。誰にも遠慮しない。自分たちだけの空間。
以前住んでいた家には、新しい所有者の方への手紙だけを残してきた。
「この家を大切にしてくださり、ありがとうございます。どうぞお幸せに。前所有者より」
そして2週間が経った。涼介たちが帰国する日だ。
私は新しいマンションのリビングで、コーヒーを飲んでいた。携帯電話の電源は切ってある。連絡先も変更した。
その頃、羽田空港では。
「ああ、楽しかった。お母様も喜んでくださって、嬉しいです」
直が大きなスーツケースを引きながら言う。
「本当に素敵な旅行だったわ、なおちゃん。涼介君、ありがとう」
義母も満足そうな表情だ。
「さて、母さんにお土産渡さないとな。何か文句言われそうだけど」
涼介が少し面倒臭そうに言った。タクシーに乗り込み、自宅へと向かう。車窓から見える景色は出発前と変わりない。けれどこれから彼らを待っている現実は、まるで違うものだった。
「ただいま」
涼介が玄関の鍵を開けようとする。けれど鍵が回らない。
「あれ?鍵壊れたのかな?」
何度か試しても、開かない。不安そうにもう一度試した、そのとき。隣の住人が出てきた。
「あの、どちら様ですか?」
「俺たち、ここに住んでるんですけど」
「え?でもこの家、先週新しいご家族が引っ越して来られましたよ」
涼介と直の顔から、血の気が引いていく。
「そんなバカな」
慌ててインターホンを押した。中から見知らぬ男性が出てくる。
「はい」
「あの、ここ俺たちの家なんですけど」
「はい。先週この家を購入しましたが」
「購入……?」
直がパニックになって叫ぶ。
「不動産会社を通じて、正式に購入しました。前の所有者の方は、もう引っ越されましたよ」
新しい住人の方が、困惑した表情で答える。
「前の所有者って誰ですか?」
「本田道代さんと、本田高志さんという方です」
その名前を聞いた瞬間、涼介は全てを理解した。
「母さん……母さんが家を売ったのか?」
「そんな、勝手に売るなんてできないでしょう!」
なおが必死に言う。
「いえ、お二人が正式な所有者でしたから。息子さんについては何も聞いておりませんが」
新しい住人の方が、不思議そうに首をかしげる。
「母さん、どこに?」
「連絡先は知りません。お手紙だけ、郵便受けに入っていました」
涼介は震える手で携帯電話を取り出した。母の番号に電話をかける。けれど繋がらない。
「お客様がおかけになった電話番号は、現在使われておりません」
アナウンスが冷たく流れる。
「電話、繋がらない。どうして」
「お母さん、何してるんですか!」
なおが狼狽える。道代さん、まさか。義母も顔を青くしていた。
「とりあえず、父さんの実家に行ってみる」
タクシーを拾い、高志の兄の家へ向かった。
「涼介か、どうした?」
「おじさん、父さんと母さんは?家が……家が売られてて」
「ああ、引っ越したって聞いたぞ。どこに行ったかは教えてもらってないが」
「何か聞いてませんか?」
「いや、高志も道代さんも、妙に晴れ晴れした顔してたな。『新しい人生が始まる』って、嬉しそうに言ってたよ」
叔父の言葉に、涼介は膝から崩れ落ちそうになった。
「俺たち、どうすれば……」
その日の夜、3人はビジネスホテルに泊まることになった。他に行く場所がなかったのだ。
「家も、お母さんの連絡先も、何もかも……」
なおがベッドに座り込んで、呆然としている。
「どうして母さん、どうして」
涼介も頭を抱えていた。
「道代さん、怒ってらしたのよ。当然だわ」
義母が静かに言った。
「当然?何がですか?」
「あなたたち、300万円もらって、母親を置いて行ったのよ。それも『予約を忘れた』なんて嘘をついて。ひどいのはあなたたちでしょう。ビジネスクラスもスイートルームも、全部道代さんのお金なのに。道代さんだけエコノミーでスタンダードルーム。観光にも行けない。どんな扱い?誰が我慢できるの?」
義母の言葉が、二人の胸に突き刺さる。
「俺たち、なんてことを……」
涼介は自分のしたことの重さを、ようやく理解し始めていた。けれど、もう遅かったのだ。
それから3ヶ月が経った。
私たち夫婦の新しい生活は、穏やかで平和なものだった。朝はゆっくりと起きて、二人で朝食を取る。窓から差し込む日の光が、とても心地よく感じられた。
「道代、コーヒーのお代わりはいるかい?」
「ええ、ありがとう」
高志が入れてくれるコーヒーを飲みながら、新聞を読む。そんな何気ない時間が、こんなにも幸せだなんて。
家を売却した4000万円のうち、新しいマンションの購入に2000万円を使った。残りの2000万円は、私たち夫婦の老後の楽しみのために取ってある。
「今度の連休、温泉にでも行くか」
「いいわね。どこがいいかしら」
こんな会話ができることが、どれほど贅沢なことか。誰にも気を使わず、自分たちのペースで生きていける。それがどれほど自由なことか。
ある日の午後、携帯電話が鳴った。知らない番号だ。少し迷ったが、出てみることにした。
「母さん……母さん」
涼介の声だった。3ヶ月ぶりに聞く、息子の声。
「涼介、やっと繋がった」
「母さん、どうして……どうしてあんなことを」
声が震えている。
「あんなこと?300万円払わせて置いていったあなたたちのこと?」
私の声は、静かで冷たいものだった。
「それは……すまなかった。でも、家まで売るなんて」
「あの家は、私と父さんの財産よ。売って何が悪いの?」
「でも、俺たち住む場所が……」
「外の人に頼むのはおかしいのでは?」
その言葉に、涼介は絶句した。
「だって、あなたたち『義母さんは外の人じゃない』って言ったわよね。でも私は外の人なんでしょう。だったら外の人に、住む場所の心配をされる筋合いはないわ」
「母さん……そこをなんとか」
「お母さん、変わって。せめて連絡先だけでも教えてください」
なおの声も、必死だ。
「『留守番お願いできますか?』って言ったのは、誰だったかしら?それはあなたたち。私を留守番させて、お母さんと楽しい旅行に行ったわよね。だから私は、あなたたちに留守番させて、新しい人生を楽しんでいるの」
「お母さん、お願いします。許してください」
「今更言われても、信用できないわ」
そう言って、電話を切った。着信拒否の設定をして、携帯電話を置く。
「道代」
高志が心配そうに声をかけてくれる。
「大丈夫。もう何も感じないわ」
本当に心は穏やかだった。怒りも、悲しみもない。ただ、自由があるだけだ。
夕方、二人でベランダに出た。夕日が町を赤く染めている。
「あの時、空港で決めたの。もう二度と軽んじられる人生は送らないって」
「お前は正しいことをしたよ」
高志が優しく肩を抱いてくれた。
「人を軽く見る者は、いずれ代償を払う。あの子たちは、身を持って知ったはずよ」
我慢し続けることが美徳だと、ずっと思っていた。母親は息子のために何でも犠牲にするべきだ。けれどそれは間違っていた。自分の尊厳を守るためには、時として毅然とした行動が必要だ。相手が例え家族であっても、理不尽には立ち向かわなければならない。
因果応報という言葉がある。悪いことをすれば必ず報いが来る。そして正しく生きてきた人には、正しい報いが訪れる。
私は38年間、真面目に働いてきた。家族のために多くのものを犠牲にしてきた。けれどそれを当然だと思われることは、違う。感謝されないことに、我慢し続ける必要はない。自分を大切にすることは、決して悪いことではないのだ。
「新しい人生に乾杯」
高志がグラスを掲げる。
「ええ、乾杯。自由で、誰にも縛られない人生に」
二人でワインを飲みながら、夕日を眺めた。
涼介たちが今どうしているのか。それはもう、私の知るところではない。彼らは彼らで、自分たちの人生を生きていくのだろう。私は私で、残りの人生を夫と二人で、笑いながら楽しむつもりだ。
誰にも遠慮せず、誰にも気を使わず、本当の意味で自由に。
今、私は心から言える。私は勝利者だと。理不尽に屈することなく、堂々と戦い抜いた結果が、この自由なのだから。



