指の腹に封筒の角が食い込んだ。松原秀夫は、郵便受けの前に立ったまま、その薄茶色の重みを感じ続けていた。四十数年近く働き続けてきた体のどこかが、中身が何かをすでに知っていた。だが頭はそれを認めようとせず、彼は封筒をそっとオーバーコートのポケットに滑り込ませた。
十一月の末、静岡県沼津市の海沿いにある団地の一室から、この話は始まる。海からの風が四〇二号室のアルミサッシの隙間を鳴らしていた。窓枠は長年の潮風に痛められ、その役目を失っていた。秀夫は七十一歳。この朝も薄いセーターの上に、グレーのニットベストを重ねて着込んでいた。電気ストーブには手を伸ばさなかった。電気代のことを考えないようにするためだ。考え始めたら止まらなくなるから。
台所では妻の知恵子が動いていた。六十八歳になった彼女は、以前はふっくらとした体つきだったが、最近は頬の肉が落ち、乾燥でひび割れた手で、出がらし同然の麦茶パックに、もう一度お湯を注いでいた。それをステンレスの水筒に移し、秀夫が夜の仕事に持って行けるように準備していた。二人の朝食は白米と、半分に切った茹で卵が一つずつ。食卓に会話はなかった。知恵子が箸を動かす音と、秀夫が茶碗を置く音だけが時折鳴った。
食事を終えると、秀夫はいつものように腕時計を確認した。九時五十二分。午前十時になると、彼は毎日、一階の郵便受けを確認しに降りる。それが習慣だった。特に何かが届くわけではない。電気代の通知か、スーパーのチラシ。それだけだ。しかし、その行為をしなくなると、生活の何かが失われる気がして、ずっと続けていた。鍵を手に取り、知恵子に声をかけることなく玄関を出た。特に用事のない声かけが、なぜか億劫になっていた。何年も前からそうだった。
一階の郵便受けを開けると、中には折りたたまれたチラシが二枚と、それから一通の茶封筒が入っていた。明らかにチラシより重い。差出人には「裁判所」と印字されていた。秀夫は封筒を郵便物の下に挟み込み、ゆっくりと背を伸ばした。足取りは変えなかった。変えないようにした。
部屋に戻ると、知恵子はまだ台所で食器を洗っていた。秀夫は廊下で靴を脱ぎ、足音を立てないように居間に入った。チラシを座卓の上に置き、封筒だけを手に持ったまま、壁際に立った。耳を澄ますと、水音は続いている。秀夫は封筒の端を爪で慎重に切り開いた。中から薄い紙が数枚、折りたたまれた状態で出てきた。広げると、縦書きの文章がびっしりと並んでいた。読み進めるにつれ、紙を持つ手の震えが始まった。最初は小さな震えだったが、やがて指先から手首、前腕へと広がり、紙がかすかに音を立て始めた。文書は支払督促の申し立てに関する通知だった。請求金額は百四十万円。
秀夫は記憶を手繰り寄せた。頭の奥に、触れないようにしまっておいた記憶だ。当時、秀夫は地元の運送会社に務めていた。中堅社員として倉庫管理と伝票処理を担当していた。その職場に、二十代の若い社員が入ってきた。島田という男だった。実家が遠く、住む場所を探していると言ったのだ。不動産会社から保証人が必要だと言われているが、身内がいないと。秀夫は断れなかった。同じ職場の人間が困っているのに、知らぬ顔をするのは人間としておかしいと思った。当時はそういう考え方が染みついていた。秀夫は借賃契約書の連帯保証人欄に、名前と判を押した。島田はその翌年、会社を辞めて連絡が取れなくなった。その頃から運送会社の業績も傾き始め、最終的に倒産した。秀夫も職を失い、自分のことで精一杯で、島田を追いかける余裕はなかった。いや、追いかけようとしなかった。そのうち何とかなるだろうと思っていた。
通知には、島田が借りていた部屋の家賃と、退去後の現状回復費用等の合計が記されていた。百四十万円。連帯保証人である松原秀夫に対して支払いを求める旨が、判を押したような文章で並んでいた。
水音が止んだ。秀夫は書類を素早く畳み、座布団の下に差し込んだ。次の瞬間、知恵子が居間に入ってきた。布巾で手を拭きながら、夫の顔をちらりと見る。知恵子の目は不安を感じると、視線がそわそわと泳ぐ癖があった。
「大丈夫ですか。」と彼女は言った。声は小さく、最初に少し息を吸い込んでから言葉を出す癖があった。
秀夫は顔を上げ、目を合わせなかった。「郵便だよ。年金の通知が来ていた。」声は努めて平坦にした。首の筋肉が硬くなっているのを感じた。知恵子はしばらく夫を見ていたが、何も言わず、また台所の方へ引っ込んでいった。
その夜、秀夫は防寒着を着込んで外に出た。郵便物の仕分け作業の夜間パートは午後十時から翌朝六時までだ。自転車で二十分ほどかかるセンターへ向かう。冬の夜の空気は塩の匂いが強く、風が顔に当たって目が余計に乾いた。街灯の下を通るたびに、光の輪が滲んで広がり、路面の白線が二重に見えた。センターまでの道を長年走り慣れているが、最近は遠石の位置を体で覚えて走るようになっていた。目で確認するより、そちらの方が確実だった。
大きなベルトコンベアに流れてくる荷物を、宛先ラベルを見ながらエリアごとに仕分けていく仕事だ。問題はラベルの文字が読みにくくなったことだった。特に細かいフォントの地名が判別できない。顔を荷物に近づけると、隣の作業員との距離が縮まり、流れを乱すことがある。それでも秀夫は顔を近づけながら作業を続けた。自分のペースだけが落ちていた。
休憩時間に、秀夫は管理者の熊井のところへ行った。五十代の男で、動作は素早く、常に忙しそうにしている。
秀夫は周りくどい言い方になった。「事情があって、もう少しシフトを増やしていただくことはできないかと。」
熊井は書類から顔を上げずに聞いていたが、やがて顔を上げて秀夫を一秒ほど見た。その一秒の間に、何かを判断したのが分かった。
「松原さん、率直に言わせてください。」丁寧な口調だったが、言葉の端にためらいがなかった。「今の作業量でも、ラベルを読み間違えることが増えています。ミスが出ると翌日の配送に響く。シフトを増やすどころか、今の体制が続けられるかどうかを、正直私も心配しています。年齢的なことを言いたくはないのですが、万が一、作業中に転倒などされると、労災の問題も出てくる。」
秀夫はそうですかと頭を下げた。「失礼しました。」声はかれていた。熊井はすでに書類に目を戻していた。
夜中の二時過ぎ、秀夫は作業を終えて外に出た。細かい雨が降り始めていた。帰り道、秀夫は街灯の下で自転車を止めた。コートの内ポケットから、昼間座布団の下から取り出した書類を取り出した。蛍光灯の光で再び文字を追う。今度は昼間より落ち着いて読もうとしたが、やはり手が小刻みに震えた。百四十万円。秀夫の月給は今の仕事で約三万八千円。二人合わせた年金と給与の合計が月に約十五万円。家賃、食費、光熱費、薬代を差し引くと、ほとんど手元に残らない。百四十万円という数字は、そのような生活の前では消えない影のように重かった。街灯の下で秀夫はしばらく動かなかった。雨が頬を伝った。海の方から風が来ると、しょっぱい匂いがした。
この町に来て三十年以上になる。仕事を変え、会社が潰れ、年を取り、それでも何とかやってきた。誰かに迷惑をかけたことはないと思っていた。むしろ誰かの役に立とうとしてきた。それがどこかで、こういう形になって戻ってきた。秀夫は書類を再び畳んでポケットに収めると、濡れた路面の上をゆっくり走り始めた。団地の灯りが遠くに見えた。あの四〇二号室だけがうっすらと光っていた。知恵子がまた眠れずにいるのだろうと思った。帰ったら何と言えばいいか。言えることは何もないと分かっていた。
十二月に入ってから、知恵子は夫の様子がおかしいことに気づいていた。食事の量がさらに減った。茶碗に盛った飯の半分以上を残すことがあった。それから、秀夫は毎朝食後に飲む血圧の薬を、数日そのまま残していた。初めは飲み忘れかと思った。一日二日ならある。しかし、今日で四日目だった。四日分の薬がそのまま綺麗に残っていた。薬を節約しようとしているのか、それとも飲む意味がないと思い始めたのか。どちらの可能性も知恵子には怖かった。
夕方、秀夫が起きてきてから、知恵子は声をかけた。「ごめんなさいね。」と先に言ってから、薬のことを切り出した。この癖は昔からで、何か言う前に必ず謝るのだ。
「ああ、忘れてたよ。」秀夫は麦茶の水筒を持ったまま、振り向かずに答えた。それだけだった。忘れてたは本当ではないと知恵子は思った。四日間毎朝忘れるということはない。でも追求しなかった。追求すると、夫はますます押し黙る。それが長年の経験から分かっていた。知恵子は引き出しから薬を出して座卓の上に置いたが、秀夫はそれに一瞥もくれず、テレビの方へ顔を向けた。
翌朝、秀夫は知恵子に何も告げず、早い時間に家を出た。沼津市役所の正面玄関が開くのは午前九時。その十分前には着いていた。案内板を探し、法律相談の窓口を見つけた。月曜日と木曜日の午前中に、弁護士による無料相談を実施しているという。今日は木曜日だった。それは偶然ではなく、秀夫は昨日の夜、配送センターの休憩室で、老眼で見づらい画面を指で拡大しながら、市のホームページを確認していたのだ。
待つこと三十分ほどで番号が呼ばれた。相談窓口はガラスのパーテーションで仕切られた小さなブースだった。向こう側に座っていたのは、三十代前半の男性だった。ノーネクタイのスーツを着て、背筋がまっすぐで、手元にメモ帳を広げていた。名前を大西といった。大西は秀夫が差し出した支払督促の通知を手に取り、しばらく黙って読んだ。読み終えると、メモ帳に何かを書きつけた。
「ご確認させてください。この契約書に、松原様のお名前と印鑑が入っているということで間違いないですか。」
秀夫は頷いた。
「連帯保証というのは、主たる債務者と全く同等の責任を負う形になります。つまり、島田さんが支払えない場合、あるいは連絡が取れない場合、貸主側は保証人である松原様に対して直接全額の支払いを請求することができます。これは法律上の規定ですので、ご事情に関わらず、免除というのは原則として認められておりません。」
秀夫は当時のことを説明しようとした。事情があって断れなかったこと。相手が逃げたこと。自分が職を失っていたこと。言葉は出たが、大西の顔色は変わらなかった。
「お気持ちは事情として分かります。ただ、その事情が法律上の免除理由になるかどうかはまた別の話です。支払督促が出ている以上、これを無視するのは得策ではありません。異議申し立てをするかどうかを、早めにお決めいただく必要があります。」
秀夫は頭を下げた。「何か力になっていただけるようなことは。」
大西はわずかに表情を緩めたが、それは同調からではなく、次に言うべきことを考えている間のわずかな時間のようだった。「この相談窓口でできることは情報提供と一般的なアドバイスになります。具体的な対応については、弁護士か司法書士に個別にご依頼される形になります。ただし、費用が発生します。法テラスを利用される方法もありますので、こちらの用紙にご案内を書きますね。」大西は手元のメモ帳を破って秀夫に渡した。
市役所を出ると、正面の広場に冬の風が吹いていた。秀夫はバス停のベンチに腰を下ろした。バスを待っているわけではなかった。ただ、その場を離れることができなかった。どこかで、役所に行けば何か道が開けるかもしれないと思っていた。規則と規則の間の隙間に、人情が通る余地があるかもしれないと。それは甘かった。秀夫は目を閉じた。喉が渇いていた。百円のコーヒーが一本買える金額はあった。しかし、が動かなかった。これ以上、今日は何も使いたくなかった。
その同じ時刻、四〇二号室では、知恵子が押し入れの中を整理していた。眠れない夜が続くと、知恵子は体を動かさずにいられなくなる。今日は押し入れの下段を整理していた。古い毛布を出し、埃を払い、畳んで重ねた。その奥に、昔の菓子の缶が一つあった。蓋を開けると、古い領収書と折りたたまれた紙が数枚入っていた。何年も手をつけていなかったものだ。折りたたまれた紙を一枚ずつ手に取ると、それはメモ用紙ではなかった。書式があり、枠があり、数字があった。知恵子は老眼鏡を掛け、台所に行き、明かりをつけてから、再び紙を開いた。読み始めてすぐに、手が止まった。支払督促。裁判所。百四十万円。松原秀夫。連帯保証人。知恵子は口の中で確かめるように読んだ。何度呼んでも、書いてあることが変わるわけではなかった。
知恵子は押し入れの前に座ったまま、しばらく動かなかった。何日前から、夫はこれを知っていたのか。薬を飲まなくなったのはいつからだったか。朝食の飯を残し始めたのはいつからだったか。一つ一つの記憶が、今になって意味を変えて見えてきた。知恵子は紙を丁寧に畳んだ。菓子の缶には戻さなかった。座卓の上にそっと置いた。
秀夫が帰ってきたのは、夕方の五時を少し過ぎた頃だった。居間に入ると、知恵子が座卓のそばに正座していた。座卓の上には、畳まれた紙が置かれていた。秀夫はその紙を見て足が止まった。知恵子は顔をあげなかった。ただ、両手を膝の上で揃えてじっとしていた。二人の間に言葉はなかった。
やがて、知恵子の手がゆっくりと動き始めた。膝から畳の上へそっと下ろし、指先で畳の縁をなぞるように触れた。それから、引き出しから古い菓子の缶を取り出した。蓋を開けると、中に一円玉、五円玉、十円玉が詰められていた。知恵子は少しずつ取り出して、畳の上に並べ始めた。一円玉を一列に並べ、十円玉を横に並べ、五十円玉を重ねていく。その動作はゆっくりで丁寧で、まるで長年の習慣のように静かだった。
知恵子が数えているのは、この家にある現金の全部だった。通帳に入っていない、日々の細かい支出に使う小銭。スーパーのレジでちょうどの金額を出すために取り分けておくもの。知恵子はずっとそれを管理していた。一円でも余ったら缶に入れる。足りない時は缶から出す。その缶の中身が、今、畳の上に並んでいた。
秀夫は壁に手をついて、そのまま床に座り込んだ。正座ではなく、足を崩した。そうするより他に、体の置き所がなかった。知恵子はずっと数え続けた。百八十四円。
知恵子がようやく顔を上げた。目は赤くなっていた。しかし、泣いてはいなかった。涙の代わりに、何か硬いものがその目の奥に沈んでいた。疲労と、長年の蓄積と、それからこれ以上逃げ場がないという静かな認識だった。
「ごめんなさいね。」と知恵子は先に言った。また謝ってしまった。それから、声がわずかに詰まった。「私たち、なんで生きていけるんですかね。」
責める言葉ではなかった。怒鳴っているわけでもなかった。ただ、問いとして静かに口から出てきた。秀夫は口を開こうとした。何か言わなければならなかった。しかし、頭の後ろが急に重くなった。視界がほんの一瞬、ぐらりと揺れた。秀夫はそのまま壁に背をつけて、崩れるように座り込んだ。知恵子が立ち上がりかけたが、秀夫は手を上げて制した。
「大丈夫だ。」声が出たので、大丈夫だと思った。ただ、しばらく動けなかった。畳の上に並んだ小銭が、部屋の薄い蛍光灯の光を受けて鈍く光っていた。百四十万円という数字と、百八十四円という数字が、この狭い部屋の中に一緒にあった。
十一月の末、今度は団地の管理組合の事務局から封筒が届いた。秀夫は今度は封筒を隠さなかった。もう隠す元気が残っていなかったのかもしれないし、知恵子がすでに全てを知っているのなら、隠すことに意味がないと思ったのかもしれない。封筒を座卓の上に置いたまま外出し、知恵子が先に開けた。内容は二ページにわたっていた。この海沿いの団地は、建物の経年による腐食が外壁検査で深刻な水準に達したこと、耐震性の面でも現行基準を満たしていないこと、そのため令和九年六月をもって建物を解体することが決定したこと、入居者は翌年の四月末までに退去完了するよう求めること。そういったことが丁寧な文面で記されていた。
今の家賃は月三万二千円。この古さと狭さで、これ以上安い物件は市内のどこを探しても見つからないだろうということを、二人とも体で知っていた。引っ越しをするということは、新しい部屋を借りるということだ。敷金、礼金、仲介手数料。最初にかかる初期費用だけで数十万円になる。そしてその前に、連帯保証人となってくれる人間が必要だ。二人には頼める人間がいなかった。娘は五年前に連絡が途えた。北海道で離婚し、その後どこにいるかもわからない。親族とはもう長い間、往来がなかった。いつの間にかそうなっていた。
十二月に入って最初の週末、二人は連れ立って駅の方へ出かけた。沼津の駅前には不動産の看板を出している事務所が何件かある。秀夫は事前に地図を確認しておいた。老眼鏡をかけてスマートフォンの画面を拡大し、紙のメモに住所を写してから出かけた。
最初の事務所は駅から二分ほどのところにあった。ガラス窓に物件情報が貼り出され、蛍光灯の明るい店内に若い男性スタッフが二人いた。応対したのは二十代後半か三十代前半に見える男で、動作が機敏だった。名前を田口といった。
秀夫が条件を話した。家賃は三万円台、できれば今の団地から遠くない場所、二人暮らしで一LDKか二DKで構わない。田口はタブレットを操作しながら聞いていたが、入力する手が途中で少し止まった。
「失礼ですが、お二人のご年齢を確認させてください。」口調は丁寧だったが、質問の出方が案内へ進む前の確認ではなく、ふるい分けをするための確認のように聞こえた。秀夫が七十一歳と答え、知恵子が六十八歳と付け加えた。
田口はタブレットの画面から目を上げた。「も、連帯保証人の方はいらっしゃいますか。または、家賃保証会社のご利用をお考えですか。」
秀夫は保証人になれる親族がいないこと、保証会社については詳しくないことを話した。そして、「実は現在、以前に保証人となった件で支払命令が届いており。」と言いかけた時、田口の表情が動かなくなった。田口はタブレットを操作するのをやめ、手を膝の上に置いた。
「あのう。現在、債務の支払いを求められているという状況ですと、入居審査においてかなり難しい状況になってしまうかと思います。家賃保証会社も信用情報を確認しますので。申し訳ないのですが、今の弊社の物件ではご対応が難しい状況でして。」と言って、立ち上がって頭を下げた。秀夫も立ち上がり、頭を下げた。「お時間を取らせてしまいました。」知恵子も頭を下げた。三人がそれぞれ頭を下げたまま、誰も顔を上げようとしなかった。
二件目は少し路地に入ったところにある事務所だった。応対したのは五十代の女性だった。秀夫の話を最後まで聞いてから、うんうんと頷いていた。ただし、話を聞き終えた後の言葉は同じだった。
「お年のことと、今の保証問題が重なると、大家さんの方が難色を示すことが多いんです。特に長期入居になると、孤独死のリスクを心配される大家さんが増えていまして。」
孤独死という言葉が室内の空気の中にしばらく残った。知恵子は視線を自分の膝の上に落としていた。二人でいるのに、まだ生きているのに。秀夫は礼を言い、椅子から立ち上がった。
三件目は、秀夫が事情を話し始めたところで、担当者が奥の上司に確認すると言って席を外し、そのまま十分以上戻ってこなかった。やがて別の男性が来て、「現在ご希望に合う物件のご案内が難しい状況です。」と頭を下げた。四件目は、入口のドアを押したところで、カウンター奥の女性と目が合い、その女性がすぐ近くにいる男性に何かを耳打ちするのが見えた。秀夫は一歩入ったところで立ち止まり、そのまま引き返した。知恵子は気づかなかったが、秀夫は気づいていた。
五件目は、対応してくれた男性が最後まで丁寧で、手元に資料を何枚も出してきた。それだけに、最後の言葉がよりはっきりと伝わった。「現時点では、ご要望の条件でお二人をお受けいただける大家さんが見つかっていません。もし何かあればご連絡します。」と名刺を渡された。秀夫はその名刺を受け取り、上着のポケットにしまった。
五件目の事務所を出たのは、もう午後四時を過ぎていた。冬の日が短く、空がすでに暗くなり始めていた。二人は並んで歩いた。知恵子の足は重く、履き慣れた靴の中で足の指の付け根が傷んでいた。しかし、何も言わなかった。商店街の入口あたりで、歩道の段差がある場所があった。アスファルトが盛り上がり、地面が少し欠けていた。白内障で輪郭が滲む秀夫の目には、その段差がうまく見えなかった。爪先が引っかかった。体が前に傾いた。秀夫は片手をアスファルトについて体を支えたが、片膝は地面についた。手のひらが擦れて赤くなった。ズボンの膝の辺りに薄い泥がついた。
知恵子はすぐに駆け寄り、夫の腕を両手で掴んだ。「大丈夫ですか。ごめんなさいね。」謝る必要のないことを謝った。知恵子は首に巻いていた古いマフラーを外し、夫の手のひらに押し当てた。秀夫はその手を振り払おうとしたが、途中で止めた。通りを歩く人たちは二人を見ていなかった。足早に通り過ぎていく。誰も立ち止まらなかった。
六件目の事務所は商店街から少し外れた場所にあった。看板が古く、窓ガラスに貼られた物件情報のチラシも日焼けして反りが丸まっていた。秀夫は入るかどうか少し考えてから、ドアを押した。中は薄暗かった。カウンターに、白髪交じりの七十代近い男性が一人座っていた。秀夫が挨拶すると、「うん。」と言って顎で椅子を指した。秀夫が事情を話し始めると、男性は手を止めてじっと聞いていた。途中で何も言わなかった。秀夫が話し終えると、男性はしばらく黙った。それから、棚の方へ立ち上がり、古いクリアファイルを一冊引き抜いた。席に戻り、カウンターの上に広げた。
「一軒だけある。」と男性は言った。声が低く、事務的だった。「条件は家賃が月二万四千円。敷金が一ヶ月分、礼金なし。保証人については、今の状況であっても入居の相談には乗れる。」
秀夫は条件を聞きながら、知恵子と顔を見合わせた。
「ただし。」と男性は続けた。「現状有姿の物件だ。」
秀夫は聞き返した。男性は感情のない声で言った。「前の入居者が亡くなった。室内で一人で発見されたのは、亡くなってから二ヶ月以上経ってからだ。それが三年前のことだ。今は部屋は業者が清掃している。法律上、重要事項として告知する義務がある。それだけだ。」知恵子は最後の部分が聞き取れず、小さな声で夫に問いかけた。秀夫は知恵子の耳元に顔を近づけて、小声で繰り返した。「人が亡くなった部屋だ。三年前に。」知恵子はその言葉を聞いて、体がわずかに震えた。
男性はクリアファイルから一枚紙を取り出して、テーブルの上に置いた。間取り図だった。六畳一間と、台所、ユニットバス。市内の外れ、海からは離れた山の手の方にある物件だった。秀夫はその間取り図を見た。知恵子も見た。二人とも何も言わなかった。
「考えておきます。」と秀夫は言い、立ち上がった。
その帰り道、秀夫は駅前の通りに一軒の質屋があることを思い出した。以前から看板を見かけていたが、立ち止まったことはなかった。秀夫は知恵子に「少し一人で用事がある。先に帰っていてくれ。」と言った。知恵子は黙って頷いた。何も聞かなかった。
秀夫は質屋のドアの前で一度立ち止まり、上着の内ポケットに手を入れた。そこに入っていたのは、古い機械式の腕時計だった。三十年以上前、秀夫がまだ運送会社に務めていた頃、自分で貯めた金を使って買ったものだ。高級品ではないが、当時の秀夫にとってはそれなりの金額だった。毎日使っていたが、今の生活ではベルトが傷んでから使わなくなり、引き出しの奥にしまっていた。捨てることがどうしてもできなかった。その時計を買ったという事実が、あの頃の自分には確かに何かを持っていたという証拠のように感じられていた。それを手放すことは、あの頃の自分を否定することに似ていた。しかし、今はそれを言っている場合ではなかった。
秀夫はドアを押して中に入った。店内は狭く、ガラスケースの中に時計や指輪が並んでいた。カウンターに三十代前半の男性がいた。秀夫は時計をカウンターの上に置いた。男性はそれを手に取り、裏返し、竜頭を回し、ルーペで文字盤を確認した。動作は手慣れていた。「少々お待ちください。」と言って、カウンターの奥の端末を操作し始めた。しばらくして、男性が戻ってきた。時計を再びカウンターの上に置き、少し間を置いてから数字を言った。
「四千円です。」
秀夫は聞き直した。男性は繰り返した。「四千円です。申し訳ないのですが、このモデルは今の買い取り市場ではなかなか値がつかなくて、バンドの痛みもありますし。」秀夫は時計を見た。文字盤の中で、秒針が動いていた。
「わかりました。」声は自分でも驚くほど静かに出た。男性が伝票を書く間、秀夫はカウンターの前に立っていた。時計を受け取った時、薄い紙幣が手のひらの上にあった。四千円分の重みは、思っていたより軽かった。秀夫は口の内側を噛んだ。血の味が薄く広がったが、口を閉じたまま飲み込んだ。
外は暗くなっていた。秀夫は四千円を内ポケットにしまい、歩き始めた。今日一日歩いた距離を、また歩いて帰らなければならなかった。自己物件の間取り図が頭の中で離れなかった。六畳一間。前の入居者が一人で亡くなった部屋。それが今、自分たちに残された選択肢だった。信号が赤になった。秀夫は横断歩道の前で立ち止まった。青になっても、一呼吸置いてから渡り始めた。
十二月の第二週の火曜日の夜、秀夫は配送センターへ出かけた。その夜は風が強く、自転車のハンドルが流された。向かい風のせいでペダルが重かった。その夜の担当は、通常の仕分けに加えて、県外向けの特急便の仕分けが加わっていた。特急便は別の仕分けレーンで行い、荷物の行き先を色分けされたシールで分類する。秀夫はそのシールの色の違いが、蛍光灯の下では区別しにくかった。薄い緑と薄い青は、目が悪いと同じ色に見えた。作業の途中で、秀夫は迷った。手元の荷物のシールの色が判断できなかった。顔を近づけた。それでも確信が持てなかった。隣の作業員に聞こうかと思ったが、迷惑をかけたくなかった。自分で判断した。青だと思った。それが緑だった。荷物は静岡県内向けではなく、愛知県向けのレーンに流れた。中身は精密機器の部品で、翌日の午前中に届かなければならないものだった。
ミスが発覚したのは、その夜の仕分けが終わった後の集計の段階だった。熊井が秀夫を事務所に呼んだのは、深夜一時を過ぎた頃だった。熊井はため息のような息を一つ吐いてから、口を開いた。
「今夜の件ですが。先方には今から別ルートで対応します。費用については会社が持ちます。ただ、松原さん。正直に言います。今夜のミスが初めてではない。先月も先々月も小さなミスが出ている。これまでは社内で処理してきましたが、今回は取引先への影響が出ました。」
秀夫は黙っていた。熊井はしばらく書類を見てから、また顔を上げた。その目が怒っているのではないことは分かった。困っているのだった。どう伝えたらいいか、言葉を選んでいるのが見えた。
「今月末で、雇用契約の更新をお断りしなければならないかもしれません。できればそうしたくないのですが、このままでは会社としての判断をせざるを得ない。今月一杯は通常通り出勤していただいて構いません。ただ、来月からについては、ご検討いただけますか。」と言って、また頭を下げた。秀夫も頭を下げた。「ご迷惑をおかけしました。」声がかれなかったのは、もうかれるほどの力が残っていなかったからかもしれなかった。
帰りの自転車の中で、秀夫は今月末で給与がなくなることを計算した。年金だけになる。二人合わせて月二十一万四千円。家賃は今の場所でもあと数ヶ月で払わなくなるが、引っ越し先の家賃が始まる。二万四千円の新しい家賃を差し引いても、なんとかなる額ではある。しかし、百四十万円の債務の返済が始まれば、そこから毎月一定額が引かれる。その事実を知恵子に言わなければならなかった。言えるかどうか分からなかった。
その週の木曜日の夜、知恵子は一人でスーパーへ出かけた。秀夫は夜勤の日だった。知恵子は夕食の材料を買い忘れており、冷蔵庫には豆腐が半丁と、スライスチーズが一枚残っているだけだった。近所のスーパーは閉店間際の時間帯に生鮮食品を大幅値引きする。午後九時になると、担当の店員が値引きシールを張って回る。知恵子はそれを知っていて、その時間帯に合わせていくようにしていた。団地から歩くこと五分ほどの道のりを、知恵子はゆっくりと歩いた。
精肉コーナーに来ると、まだ値引きシールが貼られていなかった。時刻は午後八時五十分。あと十分で値引きが始まる。知恵子はその場を離れず、棚のそばに立って待つことにした。同じように待っている人が、他にも何人かいた。若い女性が一人、中年の男性が一人、そしてもう一人、知恵子と同じくらいの年齢の女性が一人いた。その女性は小柄で、ダウンジャケットを着ており、売り場の隅の辺りから精肉コーナーを見ていた。午後九時になった。店員が台車を押して売り場に入ってきた。棚の前に来て、商品を一つ一つ手に取り、シールを貼り付けていく。その動作の間、売り場の空気が変わった。待っていた人たちが少しずつ近づいてくる。知恵子も近づいた。目当ては豚ひき肉のパックだった。店員が豚ひき肉のパックにシールを貼った。知恵子は手を伸ばした。その瞬間、別の手が横から来た。ダウンジャケットの女性の手だった。知恵子の手より早く、そのパックを掴んだ。掴んだというより、知恵子の手をわずかに押しのけた。強い力ではなかった。しかし、確かに知恵子の手は退かされた。女性はパックを籠に入れ、次の商品を探して動き始めた。知恵子の方を見なかった。
知恵子は手を引っ込めた。棚の前に残っている豚ひき肉はもう一パックあった。しかし、そちらには先ほどの中年男性がすでに手を伸ばしていた。知恵子は豆腐のパックを手に取った。それから、棚の端にあったうどん一玉を手に取った。それだけを籠に入れ、レジへ向かった。レジを通った後、知恵子は袋に商品を詰めながら、ふと止まった。豆腐とうどん。今夜の夕食はそれだけだった。秀夫がいないので、自分一人の夕食だ。豆腐に醤油とかつお節をかけて食べれば、それでひとまず空腹は収まる。そう思ったのに、手が動かなかった。袋の口を持ったまま、動かなかった。
レジ横の袋詰め台の上に、スーパーのポップ広告が貼ってあった。赤い文字で「クリスマスフェア」と書かれ、チキンとクリスマスケーキの写真が印刷されていた。明るい写真だった。十二月だった。娘が小さかった頃、クリスマスの夜はいつも何か特別なものを作った。チキンの丸焼きは買えなかったが、鶏肉を焼いて、市販のケーキを一ホール買ってきた。娘が喜んだ。秀夫もその夜だけは早く帰ってきた。三人でテーブルに着いた。そういう夜があった。今の娘がどこにいるか、知恵子は知らなかった。電話番号は変わっている。住所は分からない。年賀状ももう何年も来ていない。何かの拍子に連絡が来るかもしれないとずっと思っていた。来なかった。
袋詰め台の前で、知恵子はそれらのことが一度に来た。顔が崩れた。筋肉の力が抜けていくように、ゆっくりと両手で顔を覆った。泣き声は出なかった。声が出るほど力が残っていなかった。ただ、体が震えた。肩から背中から両腕から、細かく震えた。蛍光灯の光が手のひらを通して赤く滲んでいた。周りに人はいた。レジを通る客がいた。店員がいた。しかし、知恵子の周りだけ空気が止まっているように感じた。誰かが声をかけるわけでも、立ち止まるわけでも、手を触れるわけでもなかった。それが当たり前のことだということを、知恵子は分かっていた。どのくらいそうしていたか分からなかった。やがて震えが少し小さくなった。知恵子は顔から手を離した。袋の口を閉じ、持ち上げた。軽かった。
店の外に出た。風が冷たかった。知恵子はスーパーの隣にある小さな公園のベンチに座っていた。公園と言っても、ブランコが一台とベンチが二脚あるだけの狭い場所だった。夜は誰もいなかった。街灯が一本あり、その下のベンチに知恵子はぽつんと座っていた。買い物袋を膝の上に乗せ、前を向いていた。
秀夫が帰り道にその公園の前を通ったのは、偶然ではなかった。いつもとは違うルートを通った理由は、自分でも言葉にできなかった。なんとなく、まっすぐ帰る気になれなかった。少し遠回りをしているうちに、見慣れた妻の後ろ姿が見えた。秀夫は自転車を止め、公園に入った。砂利の音がして、知恵子が振り向いた。知恵子の顔を見て、秀夫は何があったかを聞かなかった。聞く必要がなかったのかもしれないし、何があったかに関わらず、この顔をしている妻に声をかける言葉が見つからなかったのかもしれない。秀夫は知恵子の隣に腰を下ろした。知恵子の膝の上の袋を秀夫は見た。豆腐の白い角が袋の中に透けて見えた。それだけだった。
空から白いものが落ちてきた。雨とも雪とも言えない細かい粒だった。風に流されて横から来ることもあった。頬に当たるとひんやりとした。秀夫はコートの袖をまくり、知恵子の肩に腕を回した。それは自然な動作ではなかった。何十年も連れ添って、そういうことをする夫婦ではなかった。仕事と家事と節約の中で暮らしてきた二人に、そういう習慣はいつの間にかなくなっていた。それでも、秀夫は腕を回し、知恵子の肩を抱えた。知恵子の体は小さく、コートを着ていても薄かった。肩甲骨の辺りが硬く、緊張していた。しばらくして、その硬さが少し解けた。
「すまなかった。」と秀夫は言った。声が低く、言葉が短かった。「すまなかった。」もう一度言った。知恵子は何も言わなかった。前を向いたままだった。しかし、体の力が少しずつ抜けて、秀夫の腕の方へ重みが来た。もたれかかるというほどではなかった。ただ、そこに腕があることを認めたというような重みだった。白い粒が二人の上に降り続けた。秀夫は今月末で仕事がなくなることを、まだ言っていなかった。言えなかった。今夜は言えなかった。
年が明けてから、秀夫は仕事に出なくなった。十二月末で雇用契約が終わったからだ。そのことを知恵子に告げたのは、公園のベンチから帰った翌朝のことだった。朝食の茶碗を前にして、秀夫は短く言った。知恵子は一度箸を止め、「そうですか。」と言い、また食事を続けた。それだけだった。怒らなかった。責めなかった。ただ、その日から知恵子の夜の寝つきが、また一段と悪くなった。
一月の初めに、年金事務所から書類が届いた。厚みのある封筒で、差出人の名を見た秀夫は、今度は知恵子に隠さなかった。二人で並んで座卓の前に座り、一緒に読んだ。内容は、支払督促への対応として裁判所が定めた和解案に関するものだった。百四十万円の債務について、毎月の年金から一定額を差し引く形での分割返済が開始されること。差し引き額は二人の年金合計額の一定割合として算出されており、月当たり二万千円。期間は残高がなくなるまで続く。秀夫は書類を読み終えてから、指で数字を確認するように書類の端を押さえた。月に二万千円。年金の手取りが月に十一万四千円。そこから二万千円が引かれると、九万三千円になる。新しい部屋の家賃が二万四千円。残りが六万九千円。光熱費、食費、薬。知恵子は夫が計算しているのが分かった。自分も同じ計算をしていた。二人で別々に同じ数字を頭の中で動かしていた。
「やっていけないことはない。」と秀夫は言った。知恵子は頷いた。やっていけないことはないという言葉の意味を、二人はよく知っていた。これは余裕があるということではない。食べられないということではない。ただ、毎日を一円単位で管理し、病院に行けず、外出を控え、何かが壊れるたびに修理と買い替えを天秤にかけながら、そういう形で生きていくということだった。
引っ越しの日は、一月の終わりに決まった。引っ越しの三日前から、知恵子は部屋の掃除を始めた。業者が荷物を運んでいくのは引っ越し当日だったが、その前に自分でできることをやっておきたかった。家具の下の埃、棚の裏の黒ずみ、換気扇のフィルターの油汚れ。知恵子はそれらを一つずつ、時間をかけて綺麗にしていった。使った道具は古いタオルと歯ブラシと雑巾と重曹だった。市販の洗剤は使わなかった。台所のタイルの目地は、細い歯ブラシで擦ると、灰色だったものが少し明るい色になった。何年分の汚れかは分からなかった。しかし、綺麗にできるところは綺麗にした。できないところはできないと認め、そこで手を止めた。
押し入れの棚はベニヤ板がたわんでいた。長年重いものを乗せていたせいだった。知恵子は濡れた雑巾でその板を拭いてから、乾いた布で仕上げた。拭いても歪みは治らなかった。それでも拭いた。秀夫は別の部屋で荷物の整理をしていた。不用品を処分し、持っていくものと捨てるものを分ける作業だった。二人は声をかけ合うわけでもなく、別々に作業を続けた。秀夫が引き出しの中を整理していると、古い名刺が何枚か出てきた。かつての職場の同僚のものだった。名前を見ても顔が浮かばない人もいた。全員を捨てた。一枚一枚、ちゃんと見てから捨てた。
引っ越しの前日、秀夫は夕方に窓辺に出た。ガラス戸を開けると、海からの風が来た。塩の匂いが濃かった。この部屋に来てからずっと、この匂いの中で暮らしてきた。最初は気になったが、いつの間にか気にならなくなり、いつの間にか当たり前になり、今は意識して吸い込まないと気づかないほどになっていた。眼下の駐車場はほとんど空になっていた。海は夕暮れの光の中で灰色に見えた。白内障のせいで輪郭がぼやけているので、どこからが海でどこからが空か、境界線がはっきりしなかった。それでも、海の音は聞こえた。波が岸に当たる、低い繰り返しの音だった。この音がこれで最後になる。秀夫はそう思ったが、感慨のような気持ちは出てこなかった。ただ、寒かった。風が耳の横を通り過ぎた。後ろに来た気配がした。振り向かなかった。知恵子も何も言わなかった。ただ、窓際に並んで立った。二人でしばらく海の方を見ていた。秀夫が先に部屋の中に戻った。知恵子はもう少し立っていた。それから戻った。
引っ越し当日、業者が来たのは午前九時だった。二人組の若い男性だった。残った荷物が少なかったせいもあり、作業は一時間かからずに終わった。業者が去った後、部屋は空っぽになった。壁にかつて棚があった場所の跡が残っていた。日焼けの差で、長方形の薄い影のようなものがついていた。床には家具の足の跡が、四つ点々と残っていた。知恵子は業者が去ってからも、雑巾を持ったままでいた。秀夫は玄関の近くで待っていた。知恵子はもう一度台所に入った。もう拭くものは何もないはずだったが、シンクの端を一度だけ拭いた。それから振り返り、台所から居間に足を踏み入れた。空っぽの部屋だった。
「そろそろいいんじゃないか。」と秀夫が声をかけた。知恵子は頷き、雑巾を丸めてビニール袋に入れた。玄関で二人は靴を履いた。秀夫が先に扉を開けた。外廊下の風が入ってきた。知恵子は部屋の中を振り返った。空っぽの部屋は、思ったより広く見えた。知恵子は外に出た。秀夫が扉を引いた。金属が金属に当たる音がして、扉が閉まった。鍵を差し込み、回した。鍵を引き抜き、ポケットにしまった。この鍵は後で管理事務所に返却する。
二人は廊下を歩いた。管理事務所は一階にあった。対応に出てきたのは四十代の女性だった。松原秀夫の名前を確認し、鍵を受け取り、退去確認書に署名を求めた。秀夫がボールペンを受け取り、書いた。住所欄には、もう次の場所の住所を書いた。女性は書類を確認し、コピーを一枚秀夫に渡した。「ご苦労様でした。」とだけ言った。秀夫は頭を下げた。知恵子も頭を下げた。女性も頭を下げた。
建物の外に出た。空は曇っていた。秀夫と知恵子はそれぞれにビニールバッグを一つずつ持っていた。最低限の日用品と重要な書類が入っていた。それが二人の荷物の全てだった。大きな家具は引っ越し業者が先に運んでいる。駅まで歩いた。団地の正門を出て、海沿いの道に入った。右手に海が見えた。冬の海は近くで見ると色が濃かった。波が繰り返し来ては、コンクリートに砕けていた。砕けるたびに白いしぶきが上がったが、すぐに風に散って消えた。知恵子は歩きながら海を見なかった。足元を見て歩いた。段差に気をつけながら、ゆっくりと歩いた。
しばらく歩いたところで、秀夫が歩幅を緩めた。知恵子が追いついた。並んだ時、秀夫の手が知恵子の手に触れた。知恵子の手は乾燥で荒れていた。温かくはなかった。冷えていた。秀夫はその手を握った。ゆっくりと、確かに握った。知恵子は立ち止まらなかった。歩き続けた。握り返した。二人はそのまま歩いた。手をつないで歩くということを、いつ以来やっていなかったか、どちらも思い出せなかった。思い出せないくらい昔のことだった。それでも、互いの手はよく知っていた。こちらの指がここに来ると、向こうの指がここに収まるというような、長年が作った形があった。
駅が近づいてきた。道が広くなり、人が増えてきた。信号を待つ人たち、自転車、バス。冬の平日の昼間の人の流れが、二人の周りに来た。信号が青になった。横断歩道を渡り始めた。渡りながら、秀夫の手が少し力を込めた。知恵子も同じように力を込めた。駅に入った。改札を通る時だけ、一度手を離した。それぞれカードをタッチして通り抜けた。改札の向こうで、また隣に並んだ。手をつなぎ直した。ホームに上がると、電車が来るまで数分あった。ホームの端のベンチに、二人で座った。ビニールバッグを足元に置いた。二人の向かう先は、市内の外れにある古いアパートの一室だった。六畳一間と台所。三年前、前の住人が室内で亡くなった部屋。その部屋で、明日から二人は暮らす。秀夫はそのことを今は考えないようにした。考えたところで、何かが変わるわけではなかった。知恵子も今は考えなかった。考えても、体が動かなくなるだけだと知っていた。
電車が来た。ドアが開いた。二人は立ち上がり、電車に乗り込んだ。車内はそれほど混んでいなかった。席はあったが、二人は扉の近くに立った。手は繋いだままでいた。ドアが閉まった。電車が動き始めた。窓の外を、団地のある方向の景色が流れていった。海が見えた。一瞬、白い波が見えた。それからビルが重なり、景色が変わり、見えなくなった。秀夫は窓の外を見ていた。知恵子は前を向いていた。車内のアナウンスが次の駅の名前を言った。その次の駅で乗り換えがある。乗り換えて、また三駅。それが、今日から二人が降りる駅になる。電車は揺れながら走り続けた。秀夫の手と知恵子の手は、揺れに合わせて少し力が変わったが、離れなかった。窓に映る二人の姿が、駅に着くたびに一瞬明るくなり、また動き始めると薄くなった。それを繰り返しながら、電車は進んでいった。



