81歳の高月平蔵は、40年間ゴミ収集の仕事をしてきた。腰は曲がり、歩けば右足を引きずる。それでも彼は誰にも頼らずに生きてきた。娘の千鶴子に迷惑をかけたくなかったのだ。千鶴子は離婚し、大型スーパーのレジで働きながら、大学生と高校生の子供を一人で育てている。平蔵には500万円の預金があった。有料老人ホームに入るための金、自分の始末を自分でつけるための金だった。この金は絶対に手をつけないと決めていた。
ある午後、千鶴子が突然アパートを訪ねてきた。仕事帰りの制服姿だった。彼女は玄関先に立ち、靴も脱がずに、かまちに腰を下ろした。しばらくの沈黙の後、彼女は顔を上げずに言った。
「お父さん、50万円貸してもらえる? 」
賢介の大学の学費が来月までに必要だという。奨学金の審査が間に合わず、来月には必ず返すと言った。声は練習してきたように平坦で、落ち着いていたが、不自然だった。平蔵には分かっていた。プライドの高い千鶴子が、こうして金を借りに来ることの重みが。しかし、彼は首を振った。
「それはできない。あの金は動かせない」
千鶴子の手が止まった。彼女は顔を上げ、平蔵をまっすぐに見た。その目にあったのは怒りでも失望でもなく、もっと乾いた、諦めに近いものだった。父親にはもう何もないと判断したような目だった。彼女は「そうか」とだけ言い、静かにドアを閉めて出て行った。静かすぎる閉まり方が、平蔵の胸に重くのしかかった。
夜になり、平蔵は布団に入ったが眠れなかった。千鶴子の顔が浮かぶ。あの目が離れなかった。1時間ほど経った頃、枕元の携帯電話が振動した。画面には銀行のロゴと、不自然な日本語の通知が表示されていた。
「お客様の口座において不正なアクセスが検知されました。本日中にご確認いただけない場合、口座は永久に凍結される場合がございます」
永久に凍結。その言葉が平蔵の胸に突き刺さった。口座が凍結されたら、来月の家賃も薬代も払えない。千鶴子に頭を下げるしかなくなる。今日、あの目で自分を見た娘に、そんなことは言えなかった。時計は夜の10時を過ぎていた。「本日中に」という言葉が、彼を急き立てた。平蔵はリンクを押した。見慣れた銀行のログイン画面だった。ロゴも、フォントも、入力欄も、本物と見分けがつかなかった。彼はIDとパスワードを入力した。次に、本人確認のためワンタイムパスワードがSMSで送られてきた。送信元は銀行の名前だった。それを入力すると、今度は電話がかかってきた。銀行のカスタマーセンターの番号だった。
「もしもし」
落ち着いた男の声だった。セキュリティ管理部の宮と名乗った。第3者による不正アクセスがあり、全額を引き出される可能性があると言う。丁寧で、どこか安心感のある声だった。
「現在、緊急の防衛措置を発動しております。ご本人による最終確認が必要です」
男はまず、先ほどのワンタイムパスワードを確認させてほしいと言った。平蔵は読み上げた。次に、キャッシュカードのPIN番号を聞かれた。平蔵の動きが一瞬止まった。テレビで聞いたことがある。銀行員が電話で暗証番号を聞くことはないと。しかし、その記憶は、妻がまだ元気だった頃の光景と混ざり合い、はっきりと思い出せなかった。男は続けた。
「ご不安な気持ちは理解できます。ただ、今回は緊急事態でして、通常の手続きでは間に合いません。1秒でも早くご確認いただく必要があります」
500万円が今夜消えるかどうか。それだけが頭の中を占めていた。疲れで判断力が鈍っていた。平蔵は口を開いた。
「4802」
声は震えていたが、止まらなかった。男は「ありがとうございます」と答え、今度は通帳の4桁の番号を確認させてほしいと言った。平蔵は引き出しから通帳を取り出し、それも読み上げた。男は「確認できました。まもなく防衛処理が完了します。30分ほど待てば、口座は通常通り使えます」と言い、電話は切れた。
平蔵は緊張が解け、すぐに眠りについた。翌朝、彼はいつも通りに起き、朝食を済ませると、口座を確認するために近所のコンビニのATMへ向かった。カードを差し込み、暗証番号を押し、残高照会を押した。画面に表示された数字を見て、平蔵の頭は真っ白になった。
ゼロ。残高は0円だった。
もう一度やり直しても、同じだった。500万円が、たった一夜で消えていた。キャッシュカードが手から落ちた。しばらく拾うことができなかった。銀行に駆け込み、警察にも行った。銀行員は複数の口座に振り込まれていること、警察官はフィッシング詐欺であり、犯人は海外にいることが多く、資金回収は難しいと告げた。どちらも同じことを言った。戻ってくる可能性は、ほとんどないと。
平蔵は公園のベンチで通帳を眺めた。最後のページだけが違う数字になっていた。彼は千鶴子に電話をかけた。電話の向こうで息を飲む音がした。
「500万円、全部」
その日の夕方、千鶴子が仕事帰りにやってきた。平蔵は昨夜の一部始終をもう一度話した。話し終えると、千鶴子は言った。
「お父さん、銀行は電話で暗証番号を聞かない。それは絶対にしない」
平蔵は何も言えなかった。
「ニュースでも言ってた。銀行員を名乗っても暗証番号は教えるなって。知っていたのに、なぜ教えたんだ? 」
平蔵は「知っていたが、その時頭になかった」と答えた。千鶴子は続けた。
「昨日、私には貸せないと言った500万円を、電話の向こうの知らない男には一晩で全部渡したんだね」
その言葉は正確で、平蔵は反論できなかった。千鶴子は「また連絡する」とだけ言い、静かに帰って行った。テーブルの上に、冷めたお茶が2つ残っていた。
生活保護の審査が通り、家賃の補助が始まった。数字の上では生活が成り立つようになったが、平蔵の心は空っぽだった。節約の意味も、生きる目的も、失ってしまった。千鶴子は月に一度、顔を出すようになった。詐欺の話は、二人の間では決して出なかった。ただ、孫のアルバイトの話や、スーパーの野菜の話など、他愛のない話をして時間を過ごした。ある土曜日、テレビで詐欺被害のニュースが流れた。あの日見たのと似たような偽の通知が画面に映し出された。二人は黙ってそれを見ていた。ニュースが終わると、千鶴子がぽつりと言った。
「あの時、もっと話せばよかった。もう少しちゃんと事情を説明すればよかった」
平蔵は言った。
「お前が悪いわけじゃない。俺が断ったのは、お前を信用していなかったからじゃない。そこだけ分かっていてくれればいい」
千鶴子は「分かってる」とだけ言った。その短い言葉に、平蔵は何かが救われるような気がした。
冬が来た。平蔵の毎日は変わらなかった。しかし、ある晴れた朝、彼は久しぶりに自然な気持ちで仏壇に手を合わせ、「今日も1日よろしく頼む」と心の中で言った。窓から差し込む光が畳の上に影を作っていた。お茶を淹れ、両手で湯呑みを包み、一口飲んだ。温かかった。それだけのことだった。しかし、その当たり前のことが、平蔵の目に少しだけ特別に映った。今日の昼頃、千鶴子から短いメッセージが届くかもしれない。来月、孫の賢介が家に来るかもしれない。それはまだ分からない。平蔵は湯呑みを流しに運び、窓の外を見た。空は晴れていた。遠くに低い山の稜線が見えた。いつもそこにある景色だったが、今日ははっきりと見えた。彼はしばらくその景色を眺めていた。失ったものは戻らない。しかし、彼は今日も、この平凡な朝を生きていくのだった。



