61歳で定年を迎える直前、私は銀行の残高を見て初めて現実を直視した。32年勤めた会社の支社長という肩書きも、7着のオーダースーツも、17階からの夜景も、すべては借金で作られた見せかけだった。毎月3万円の赤字をリボ払いで誤魔化し続け、貯金は42万円。そんな時、10年前に会社を追われた同期が突然私にこう言った。「それ、全部誰のためにやってきたんですか?」その言葉に答えられないまま、私は彼の助言を…

61歳で定年を迎える直前、私は銀行の残高を見て初めて現実を直視した。32年勤めた会社の支社長という肩書きも、7着のオーダースーツも、17階からの夜景も、すべては借金で作られた見せかけだった。毎月3万円の赤字をリボ払いで誤魔化し続け、貯金は42万円。そんな時、10年前に会社を追われた同期が突然私にこう言った。「それ、全部誰のためにやってきたんですか?」その言葉に答えられないまま、私は彼の助言を...

61歳の誕生日の夜、黒川竜平は手に汗を握りながら、スマートフォンの残高表示をじっと見つめていた。何度確認しても数字は変わらない。普通預金は42万円。マンションのローンはまだ3200万円以上残っている。手取り月収は61万円なのに、毎月の支出はそれを上回っていた。その差額を、彼はリボ払いでごまかしてきた。

妻の千鶴は小さなケーキを用意してくれたが、竜平には祝う気持ちなど微塵もなかった。息子の剣士は大学の課題があると言って早々に自室へ引き上げ、食卓には夫婦二人だけが残された。千鶴が赤ワインを勧めたが、竜平の頭の中は数字のことでいっぱいだった。

7月で定年を迎えれば給与は止まる。再雇用の給与は現在の3分の1以下になる。年金がもらえる65歳までの4年間、この差をどうやって埋めるのか。彼は考えることを避けてきた。見て見ぬふりをしてきた。

その夜から、竜平は眠れなくなった。日中は変わらず支社長として振る舞った。部下の前では決して難しい顔を見せなかった。しかし昼休みにトイレの個室に入ると、壁に背をもたれ、目を閉じた。頭の中では数字だけが動いていた。

6月下旬のある夜、竜平は引き出しの奥から古いスマートフォンを取り出し、一人の男の名前を検索した。宮島誠治。10年前、大阪本社で同期だった男だ。宮島は役員との確執から左遷され、最終的には会社を去った。竜平は当時、内心では「うまくやれなかった側の人間」だと思っていた。それが今、宮島が起業したという話を思い出し、連絡を取ろうとしている。

翌日、古い名刺に印刷された携帯番号にメッセージを送った。10年ぶりの突然の連絡だと詫びながら、「近いうちに一度会いたい」とだけ書いた。その夜、返信が来た。「いいですよ。来週の水曜日、浜松町でどうですか? 」

水曜日の夜、浜松町の居酒屋で二人は向かい合った。宮島はユニクロのTシャツに無地のスラックス、靴はスニーカーというラフな格好だった。10年で体格はがっしりし、顔つきは穏やかになっていた。緊張した様子がまるでない。ビールを一杯ずつ頼み、当たり障りのない話をした。竜平が話し、宮島が短く応答する。それだけの時間がしばらく続いた。

会話が一度途切れた時、宮島が静かに言った。「突然連絡してくるからには、何かあったんでしょう。」

竜平は否定しようとした。「いや、ただ懐かしくなって」と言いかけたが、宮島の目がそういう言い訳を受け付けない落ち着きを持っていた。竜平は言葉を飲み込み、低い声で言った。「資金の流れが、少し苦しくなっている。」

宮島は黙って聞いた。頷きもしなかった。竜平は言葉を選びながら話した。定年まであと少しだということ。再雇用の条件が想定より悪いこと。ローンがまだ残っていること。金額の具体的な数字は出さなかった。プライドがそれを許さなかった。しかし宮島は数字を聞かなかった。「それは全部、誰のためにやってきたんですか? 」と聞いた。

竜平は答えに詰まった。仕事のため、と言いかけたが、言葉が喉で止まった。宮島はそれ以上は掘り下げなかった。「何か方法を探しているなら、選択肢はある。」そう言って、財布から現金を出し始めた。竜平が反射的に自分が払うと言うと、宮島は少し笑い、「でも半分は出させてください」と言って、使い込まれた旧札を2枚テーブルに置いた。その財布の厚みは、竜平のそれとは比較にならなかった。

翌週の火曜日、宮島から「ランチでもどうですか? 」とメッセージが届いた。竜平は迷った。宮島に会うということは、助けを求めるということだ。その事実が重かった。30年以上、誰かに助けを求めた記憶がなかった。しかし、本当に困っている。それを認めることが、スーツの下の自分を丸裸にされるような感覚だった。それでも、竜平は短く返信した。「来週の火曜日でお願いします。」送信ボタンを押した瞬間、何かが小さく動いた気がした。

翌週、新橋の路地裏にある定食屋で二人は会った。宮島は日替わり定食の800円を頼んでいた。竜平は刺身定食の1100円に少し迷い、結局それを頼んだ。以前なら迷わなかったはずの差額だった。宮島が先に口を開いた。「先週の話、もう少し聞かせてもらえますか。具体的な数字でいいですよ。」

竜平は低い声で話した。住宅ローンの残債がおよそ3200万円であること。毎月の返済と生活費と諸費を合わせると、手取りをわずかに上回る支出になっていること。カードのリボ払いの残高が110万円を超えていること。定年後の再雇用では月給が大幅に下がり、年金受給までの4年間に穴が開くこと。話しながら、自分の声が思ったより安定していることに気づいた。数字を並べると、感情が少し引いていった。

宮島は最後まで黙って聞き、それからようやく竜平の方を向いた。「それで今すぐ収入を増やしたいのか、それとも支出を減らす方法を探しているのか、どちらですか。」竜平は「両方です」と答えた。宮島は小さく笑った。「そりゃそうですね。」そして言った。「今、環境関連素材の仲介をやっている業者が足りていません。特にリサイクル対応の放送資材を調達したい中堅メーカーは多いが、どこに当たればいいか分からない。黒川さんはその両方を知っているはずです。」

仲介、つまりブローカー。買いたい側と売りたい側を繋ぎ、差額をもらう。組織の肩書きなしに、個人として動く。宮島は続けた。「黒川さんには30年分の業界の顔がある。それは今の会社に帰属しているわけじゃない。黒川さん自身の財産です。」そして、一つだけ条件を付けた。「今の会社に在籍しているうちはやらないこと。退職してからやる。あるいは退職の目途をつけてから準備する。」

7月、竜平は定年を迎えた。退職式は事務的で短かった。部下たちが小さな花束をくれた。退職後の最初の2週間、竜平は何もできなかった。毎朝同じ時間に目が覚め、スーツを着ようとして、どこにも行くところがないと気づく。3週目に入った頃、彼は動き始めた。かつての取引先と個人として情報交換を続ける中で、食品メーカーが生フィルムの代替素材を探しているという話が浮上した。竜平はその素材を扱っている中部地方の中小メーカーに顔があった。双方に連絡を取り、間に立った。価格交渉に時間はかかったが、最終的に取引が成立した。竜平の取り分は契約金額の3%。振り込まれた金額は62万円だった。スーツを着て毎朝出かけていた時代の月給より少し多い額だった。

最初は純粋な驚きだった。それからすぐに別の感覚が来た。「もっとできる」という感覚だった。

8月の第1週、かつての同業者である倉田という男からメッセージが届いた。業界関係者と投資家が集まる非公式のパーティへの招待だった。竜平は最初、気が乗らなかった。今の自分は何の肩書きも持っていない。しかし、数時間後にもう一度その招待メッセージを読んだ。「投資家」という言葉が目に留まった。竜平は参加する旨を返信した。

当日の夕方、竜平は久しぶりにスーツを着て、軽自動車で港区に向かった。会場となる店は、照明が落とされた落ち着いた空間だった。すでに十数人が来ていた。倉田が愛想よく迎え、すぐに別の男を連れてきた。「柴田と言います。フィナンシャルアドバイザーをしています。」30代半ばに見えた。スーツは高そうだった。顔立ちは整っていて、声はよく通った。柴田はすぐに話し始めた。「最近、脱炭素関連のプロジェクトへの資金需要が急増していますね。特に南米のバイオマスエネルギー開発は、日本から出た資金の運用先として非常に注目されています。」

そして、こう続けた。「今月末に締め切りがある案件があって、月利20%が保証されています。私のお客様の中でも、すでに大手の方が何人か参加されています。」

「月利20%」。竜平はその言葉を聞いた時、胸の中で何かが反応した。反応した後に、少しだけ警戒する気持ちも来た。しかし、その警戒はすぐに「自分は素人ではない」という感覚に押し流された。30年間ビジネスをしてきた人間だ。詐欺師には分かる。根拠のない自信があった。

翌日の午前中、竜平は宮島にメッセージを送った。詳細はぼかして、「南米の再生エネルギー関連で月利20%という案件があると聞いた。どう思いますか?

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」と書いた。宮島からの返信は30分も経たないうちに来た。「やめてください。」一言だけだった。竜平が「なぜですか? 」と返すと、宮島の返信はまた短かった。「月利20%が本物なら、その人間は銀行から借りています。銀行の金利は今でも数%です。なぜ彼らは素人から高い金を集める必要があるんですか? 」

論理としては正しかった。しかし、竜平の腹のうちでは「でも自分が見た限りでは怪しくなかった」という感覚が残っていた。「もう少し詳細を聞いてみます。」竜平は返した。宮島からの返信はなかった。

3日後、柴田から詳細な資料が送られてきた。南米のある国のバイオマス発電プロジェクトのスキーム図が載っていた。図表は整っていて、リターンの試算が表にまとめられていた。竜平は資料を1時間ほどかけて読んだ。読みながら引っかかる点がないかを探した。しかし、文書の作りは丁寧で、判断の根拠がなかった。

翌週、竜平は柴田のオフィスを訪れた。銀座の小さなオフィスだった。ガラス張りのドアを開けると、受付の女性が立っていた。コーヒーが出された。柴田は資料を使いながら改めて説明した。竜平は質問した。「元本のリスクは? 」「ヘッジしています。」「プロジェクトの実態は確認できますか?

」「現地の写真と現地法人の登記書類が。あなたは。」別のフォルダーが開かれた。ポルトガル語で書かれた公的な書類に見えた。「このプロジェクトに参加できる最低金額はいくらですか? 」柴田はわずかに間を置いてから言った。「3000万円から受け付けています。ただ、今月末の締め切りに間に合わせるには、今週中にお返事をいただく必要があります。」

3000万円。それは住宅ローンの残債とほぼ同じ額だった。竜平はその日は返事をしなかった。「考えさせてください」と言い、オフィスを出た。

夜、千鶴が寝てから、竜平はリビングに一人座った。頭の中が騒がしかった。宮島の「やめてください」という言葉が何度も浮かんだ。同時に、柴田の穏やかな声と整った資料も浮かんだ。なぜ宮島の言葉に素直に従えないのか。答えは分かっていた。62万円の仲介報酬では足りない。それは金額の問題というより、速度の問題だった。このペースで仲介を続けても、ローンを返し終わるのに何年かかるか。

もう一つの感情もあった。柴田のあのオフィス、受付の女性、綺麗に製本された資料。そういうものに囲まれた時、竜平はある種の安堵を感じていた。自分がまだ「その世界」の人間として扱われているという感覚。宮島が自転車で定食屋にTシャツ姿でいるのとは、まるで違う世界だった。

夜が明けかけた頃、竜平は柴田のメールに返信を書き始めた。「詳しい話をもう一度聞きたい。来週、もう一度会えますか。」送信ボタンを押してから、竜平は目を閉じた。宮島から返信がなかったことを、もう一度思い出した。あれは怒ったのではないだろう。ただ、これ以上言っても無駄だと判断したのかもしれなかった。

翌週の月曜日、竜平は再び銀座のオフィスを訪れた。今度は自分の方から質問を用意していた。プロジェクトの現地責任者の名前、日本国内での法的根拠、途中解約の可否。柴田は一つずつ答え、全ての回答に対して追加の資料が出てきた。竜平にはその書類の中身を精査する専門知識がなかった。しかし、それを認めることができなかった。最後に柴田が静かに言った。「黒川さんのような業界経験を持つ方が判断されるなら、この案件は非常に相性がいいと思います。エネルギーと流通の両方を知っている人はそう多くない。」

その一言が、竜平の残っていた抵抗を緩めた。

竜平は頭の中で逆算した。今の貯蓄では到底届かない。しかし、マンションを担保に借りれば3000万円は出せる。リターンで返済する。2年で元が取れれば、その後は黒字になる。竜平はこの計画の前提が崩れた時のことを考えなかった。考えようとしなかった。

その日の夕方、竜平はオフィスのデスクで震える手でボールペンを持った。契約書は5ページあった。最後のページに署名欄があった。柴田はその間何も言わず、静かに待っていた。それが却って竜平には逃げ場のなさとして感じられた。竜平はペンを動かし、自分の名前を書いた。書類を柴田に渡すと、柴田は笑顔で「ありがとうございます」と言った。エレベーターの中で鏡に映った自分の顔には、表情がなかった。

9月の第1週、柴田から電話がかかってきた。「先月分の配当が確定しました。来週の初めに指定口座へ振り込みます。」金額は60万円だった。3000万円の出資に対して月利20%であれば600万円になるはずだった。しかし柴田は「初月は手数料と現地コストの精査があるため、配当は段階的に増えます。今月は60万円。来月からは正規の計算に戻ります」と説明した。竜平はその説明に頷いた。翌朝、指定口座に60万3000円が振り込まれていた。柴田の言葉通りだった。

宮島に報告したい衝動があった。しかし、思い止まった。宮島は最初からやめろと言っていた。今更うまくいっていると伝えることが、勝ち誇るようで恥ずかしかった。その代わり、竜平は柴田に電話した。「来月の配当の見込みはどうですか? 」柴田は穏やかに答えた。「来月からは正規レートでお支払いします。3000万の20%、600万です。」その夜、竜平は久しぶりによく眠れた。

その翌週、柴田から「重要なご連絡があります」とメッセージが来た。折り返し電話をすると、柴田の声はいつもより少しだけ早かった。「政府の方針で、来月から海外への資金送金規制が強化されます。今のプロジェクトのポジションを維持するために、今月末までに追加の資金を入れていただく必要があります。今週金曜日までに、3000万円の追加出資をお願いしたいと思います。今のお客様は皆さん対応されています。もちろん無理にとは言いません。しかし、枠を失うと来月以降の配当への影響が出てしまいます。」

3000万円。今の自分にはない金額だった。しかし、方法はあった。マンションを担保に借入れをする。不動産担保ローンなら、短期間で資金を作れる。

その日の午後、竜平が出かけている間に、千鶴は寝室のクローゼットを整理していた。季節の変わり目で夏物を奥にしまおうとしていた。クローゼットの下段に畳んで置かれていた竜平のジャケットを動かそうとした時、その下に薄いファイルが挟まっているのに気づいた。クレジットカードの明細だった。数ヶ月分。最新のものは先月の日付だった。最初の1枚の利用残高の欄に、117万円という数字があった。

夜、食卓で千鶴が口を開いたのは、食事が終わりかけた頃だった。「クローゼットを整理しようとしたら、鞄が出てきました。」それだけ言って止まった。竜平は箸を置いた。「カードの明細を見ました。100万円以上。ずっと隠していたんですね。」声は静かだった。しかし、その静かさが竜平には怒鳴られるより重かった。竜平はテーブルの木目を見た。「仕事のためだ。接待とか会社のために使ってきたんだ。それが積み重なって。」千鶴は少しの間竜平を見て、静かに言った。「私に相談して欲しかった。」

竜平は「大丈夫だ。今、別の収入がある。ちゃんと返せる」と言った。「別の収入? 」千鶴は繰り返した。「どんな?

」竜平は少し間を置いた。「仲介の仕事を始めた。放送資材の。うまくいってる。」千鶴は何も言わなかった。箸を持ったままテーブルを見ていた。「信じてほしい。」竜平は言った。千鶴は顔を上げなかった。「わかりました」とだけ言った。その夜、千鶴はいつものように体を傾けて寝ることはなく、背中を向けていた。

翌朝、柴田からメッセージが届いていた。「金曜日まであと3日です。ご確認いただけましたか。」

竜平はトイレの中でそのメッセージを読んだ。3000万円をどうやって作るか。不動産担保ローンの審査には時間がかかる。もっと早い方法がいる。竜平は千鶴名義の印鑑と実印がどこにあるかを知っていた。以前マンションを購入した時に使った実印だった。保管場所は、千鶴本人から教えてもらっていた。その事実が頭の中に浮かんだ。竜平はそれをすぐに打ち消した。しかし、打ち消してもまた浮かんだ。

火曜日の朝、千鶴が買い物に出た。剣士はキャンパスにいた。マンションに竜平一人になった。竜平はしばらくリビングで立っていた。頭の中で何かが叫んでいた。「やめろ」という声だった。その声を、別の声が押しのけた。「文句がない」という声だった。竜平はクローゼットの奥に手を入れ、実印の入った桐の小箱を取り出した。テーブルの上に置き、また少しの間動かなかった。やがて竜平は椅子に座り、あらかじめ用意していた抵当権設定の申請書類を取り出した。千鶴の署名欄があった。竜平はペンを持った。手が震えていた。震えたままペンを動かし、千鶴の名前を書いた。字は千鶴本人のものとは似ていなかった。しかし、銀行の窓口担当者がそこまで見ることはないだろう。竜平は印鑑を押した。書類を折りたたみ封筒に入れ、桐の小箱を元の場所に戻した。台所で手を洗った。鏡を見た。自分がやったことの意味を、竜平はゆっくりと理解していた。千鶴の名義を使った。許可なく。それは偽造だった。

翌朝、竜平は近くの銀行の窓口に行った。スーツを着て行った。久しぶりに着るグレーのスーツだった。窓口で担当者の若い女性に書類を出すと、担当者は書類を確認し、奥に入った。10分が経ち、15分が経った。担当者が戻ってきて、確認書を1枚持ってきた。「確認のご連絡を、ご本人様にさせていただいてもよろしいでしょうか? 」竜平の心臓が一瞬早く打った。「奥様のご連絡先を。」竜平は表情を変えずに言った。「今日は妻が体調を崩していて。本人確認はこちらの書類で足りますでしょうか。」担当者はしばらく書類を見て、また奥に戻った。10分後、担当者が戻り「今回は書面確認で対応させていただきます」と言った。「審査完了後、営業日以内に振り込みます。」

3日後、竜平の口座に3100万円が振り込まれた。竜平は柴田に電話し、「振り込めます」と言った。振り込み先は法人口座だった。会社名は柴田の名刺に書かれていた会社名とは少し違った。竜平はそれを一瞬「おかしい」と思ったが、「グループ会社でしょう」と自分に言い聞かせた。3000万円を入力し、確認画面が出た。送信ボタンを押した。画面に「振り込み完了」と表示された。竜平はスマートフォンを置き、目を閉じた。あとは柴田が言った通りに毎月600万円が入ってくる。2年あれば元が取れる。しかし、その計算をしながら、どこかで小さな違和感が息をしていた。違和感の正体は言葉にはならなかった。竜平はそれに蓋をした。

翌日の木曜日、竜平は仲介の電話をしていた。9月の末には別の案件が成立しそうだった。電話を1本かけ終え、次の番号に手をかけた時、見慣れない番号から着信が入った。出ると、相手は落ち着いた男の声だった。「太陽パッケージ投資社の人事部からです。」竜平は立ち上がった。「退職後の活動について確認したいことがある。本社の法務部から連絡が来ている。直接電話で話せますか? 」電話は法務部の担当者に変わった。要件は明解だった。竜平が退職後に、在職中に取引のあった複数の企業と個人として仲介業務を行っていたことが判明した。退職時の誓約書には競業避止義務の条項があった。「これは違反に当たる可能性があります。正式な書面を送ります。顧問弁護士を通じて、損害賠償請求の手続きを検討する場合があります。」電話が終わった。

仲介の収入はこれ以上続けられない。止めるしかなかった。柴田への入金はすでに終わった。毎月の配当だけが、唯一の収入源になった。

その翌日の土曜日、千鶴は郵便受けを取りに行った。一通の見慣れない封筒があった。差出人は銀行名だった。千鶴は封筒を手に持ち、表を見た。宛名は千鶴本人の名前だった。開けると、抵当権設定に関する通知書だった。マンションを担保に3100万円の借入れが設定されたことを知らせる内容だった。千鶴は紙を持ったまま動かなかった。書類の署名欄を見た。自分の名前が書いてあった。しかし、自分は書いた覚えがなかった。印があった。自分の実印だった。

竜平がコーヒーカップを2つ持ってリビングに入ってきた。千鶴が立っていた。竜平はその手の中の紙を見た。一瞬、二人の間の空気が止まった。「これは何ですか? 」千鶴の声は低かった。震えていた。「私の名前が書いてあります。私の印鑑が押してあります。でも、私はこんなものを書いた覚えがありません。」竜平はコーヒーカップをテーブルに置いた。どちらも静かに。それだけに、その動作が不自然に丁寧だった。「説明してください。今すぐ。」竜平は息を吸った。「投資をした。まとまった資金が必要で、担保を使った。」「私に黙って。」千鶴は言った。「この家を担保に入れたんですか?

私の名前を使って。私は何も知らなかった。なぜ。」竜平はテーブルを見た。顔を上げられなかった。「全部話してください。」と千鶴は言った。

竜平は話した。仲介の仕事を始めたこと。柴田という人間にあったこと。南米のプロジェクトに出資したこと。3000万円を振り込んだこと。それをどうやって調達したかを、最後に話した。千鶴は最後まで黙って聞き、それから言った。「なぜ話してくれなかったんですか。」声が震えていた。「心配させたくなかった。」竜平は言った。千鶴は少しの間言葉を受け止めていた。「心配させたくなかったのではなく、知られたくなかったんでしょう。」竜平は否定しようとして、できなかった。「今まで何十年もずっとそうだった。何かまずいことが起きると、私には知らせなかった。車を変えた時も理由を言わなかった。カードの明細を隠していた時も。この家のことも、そう。私に相談しなかったのは、私を信用していないからじゃないですか。」竜平は声を出した。「そうじゃない。」「じゃあ何のためですか。」竜平は言葉に詰まった。体の中に何かが溜まっていくのを感じた。長い間、溜めてきたものだった。「この家のためだ。」竜平は言った。声が大きくなっていた。「俺がずっと稼いで、みんなを食わせてきた。それがどれだけ大変だったか。体裁を保つことがどれほど大変だったか、分かるか。」千鶴は竜平を見た。顔に怒りがあった。しかし、それだけではなかった。「体裁。誰のための体裁ですか? 私はこんな部屋じゃなくてよかった。この物件もこのマンションも、あなたが決めた。私は意見を言う前に、もう契約が終わっていた。剣士の学校だって。そう。あなたは私たちのためにやってるって言う。でも、本当は自分が恥ずかしくないようにやってきただけじゃないですか。」

千鶴は静かに言った。「私は今夜、剣士と話します。これからのことを。」

千鶴は剣士を連れて、その夜はマンションに戻らなかった。剣士の友人の家に泊まる、と短いメッセージだけが来た。竜平は一人リビングに座っていた。夜になって柴田に電話した。しかし、柴田の電話は呼び出し音が鳴り続け、繋がらなかった。メッセージを送った。「ご連絡ください。」返信は来なかった。午前1時になっても、午前2時になっても、返信はなかった。

翌朝、もう一度電話した。今度は無機質な自動音声が流れた。「おかけになった番号は現在使われておりません。」メッセージアプリを開くと、既読がついていたのに返信はなかった。プロフィール画像が灰色のデフォルト画像に変わっていた。アカウントを消したということだった。3000万円が消えた。その事実が、ゆっくりと体の中に落ちてきた。

竜平はシャツを着替え、ジャケットだけ羽織って外に出た。銀座のオフィスに行けば、柴田はいるはずだ。そう思わないと足が出なかった。ビルに着き、エレベーターで6階に上がった。扉が開き、廊下に出た。右手にガラス張りのドアがあったはずだった。そこには何もなかった。ドアはあった。しかし、ガラスの向こうに家具がなかった。受付のカウンターも、革張りのソファもなかった。貼られていたロゴのシートも剥がされていた。掃除をしていた女性に尋ねると、「ここは先週の終わりに退去されましたよ。引っ越し業者が来て、中のものを全部運び出していきました」と言った。

竜平はコーヒーショップに入り、窓際の席に座った。外を人が歩いていた。スーツの男、子供を連れた女性、自転車の配達員。それぞれが何かを持ちながら動いていた。自分だけが何も持っていないように感じた。スマートフォンを出して、柴田の番号にもう一度かけた。「使われていない」という音声が流れた。将来のことを考えようとしたが、頭の中が静かにならなかった。3000万円。千鶴の名義を使った3000万円。マンションを担保に入れた金。それが消えた。もう一つの事実も浮かんだ。仲介の仕事は、会社からの通告で実質的に終わっている。収入がなくなった。柴田からの配当もなくなった。手元に残っているのは、抵当権の設定されたマンションと、100万円を超えるカードの残債と、銀行への返済義務だけだった。

その週の金曜日、竜平の元に太陽パッケージの本社から書留が届いた。法律用語の並んだ通知書と、損害賠償請求の可能性について言及した文書だった。竜平はその書類を封筒に戻し、引き出しの中に入れた。台所に行き、湯を沸かし、インスタントコーヒーを作った。以前はエスプレッソマシンで入れていたコーヒー。それがいつから変わったか、はっきりした記憶がなかった。

土曜日の昼前、インターフォンが鳴った。千鶴の声だった。「少し荷物を取りに来ました。」竜平が扉を開けると、千鶴が一人で入ってきた。20分ほどで、千鶴はキャリーケースとバッグを持ってリビングに戻ってきた。玄関で靴を履きながら言った。「銀行から封書が来ていましたよ。テーブルの上に置いてあります。」それから鍵を一本、玄関の棚の上に置いた。カチッと小さな音がした。それから扉を開け、出ていった。千鶴はスペアキーを置いて行った。もう戻らないという意思表示ではなく、ただそこに置いた。その曖昧さが、竜平には却って重かった。

マンションに一人になった。食欲がなかった。夜眠れなかった。明け方頃にやっと少し眠れても、2時間もすれば目が覚めた。宮島に連絡しようかと何度も思った。しかし、そのたびに止まった。宮島はあの時、「やめてください」と言った。竜平はそれを無視して進んだ。今更何と言って連絡すればいいのか、言葉が見つからなかった。

10月の頭に入ったある夜、竜平は夕食代わりのカップラーメンを食べ、ソファに横になっていた。その時、中心部に鋭い痛みが来た。最初は食べすぎかと思った。しかし、痛みは引かなかった。むしろ少しずつ強くなっていった。立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。台所まで歩き水を飲んだが、逆に痛みが波のように強くなった。竜平は台所の床にしゃがみ込み、両手を床についた。タイルが冷たかった。ここ数週間の積み重なりが一気に崩れるような感覚だった。痛みがまた強くなり、吐き気が来た。間に合わなかった。床に暗い色のものが広がった。赤かった。

竜平は本能でリビングまで這うようにして戻り、スマートフォンを掴んだ。指が震えていた。119に電話しながら、リビングの床に倒れ込んだ。「救急です」と竜平は言った。声がかれた。住所を聞かれ、マンションの名前と部屋番号を言った。「そのまま待っていてください」という声が聞こえた。天井が見えた。照明が明るかった。サイレンの音が遠くから近づいてきた。

救急車の中で、救急隊員の男が「ご家族に連絡しますか? 」と聞いた。竜平は少し間を置いた。「妻は…問い合わせて止まった。別居中です。」「緊急の連絡先はありますか? 」竜平はまた間を置いた。宮島という名前が浮かんだ。他に浮かばなかった。これだけのことが起きて、連絡できる人間が一人しかいなかった。その一人は、竜平が無視した忠告をくれた男だった。その事実が、痛みよりも重く竜平の中に沈んでいった。

意識が戻った時、天井は白かった。看護師が入ってきて言った。「胃の出血があって、内視鏡で処置しました。もう出血は止まっています。」4日間、入院した。最初の2日は安静が必要で、ベッドから出ることをほとんどしなかった。窓の外を見るか、天井を見るかのどちらかだった。千鶴も剣士も来なかった。病室に自分一人だった。

夕方、扉が開く音がした。宮島が入ってきた。コンビニの袋を持っていた。今日は薄い青色のシャツにジーンズだった。宮島は竜平のベッドの脇に来て椅子を引いて座った。竜平の顔を見て、少しの間何も言わなかった。「大丈夫ですか」とは聞かなかった。明らかに大丈夫ではないことは、見れば分かった。宮島は袋からペットボトルのお茶を出してベッドサイドのテーブルに置いた。それだけした。「救急の人から連絡がありました。入院費はとりあえず私が立て替えておきました。落ち着いてから考えてください。」竜平は「ありがとうございます」と言った。声がかれた。説教もしなかった。後悔の言葉を求めもしなかった。ただそこにいた。そのことが、竜平には何よりも重かった。

退院の日、宮島が迎えに来た。宮島自身の軽自動車で。宮島は何も聞かなかった。「どこへ行きますか」とだけ言った。竜平はマンションの住所を言おうとして止まった。あそこに帰っても、千鶴もいない。剣士もいない。食べるものもない。「少しだけ、何か食べられる場所によれますか?

」宮島は頷き、病院から少し離れた小さなラーメン屋に連れて行った。竜平は塩ラーメンを頼んだ。待っている間、竜平は口を開いた。「全部話します。」宮島は水を飲みながら「どうぞ」と言った。竜平は話した。柴田のこと、3000万円のこと、千鶴の名を使ったこと、千鶴が出ていったこと。ラーメンが来ても、食べながら話し続けた。順番はたどたどしかったが、最初から最後まで話した。宮島は食べながら聞いた。口を挟まなかった。

話し終えた時、竜平のラーメンは半分以上残っていた。宮島はしばらくどんぶりの底を見ていた。それから顔を上げた。「弁護士に相談した方がいい。千鶴さんの名義の件は、刑事上の問題になる可能性があります。弁護士を通じて整理した方がいい。」竜平は頷いた。「柴田の件は、警察ですか? 」宮島は少し間を置いてから言った。「詐欺として立件されるかどうかは、証拠の問題もある。ただ、黒川さんが3000万円を取り返せる可能性は低いと思っています。」それは冷たく言ったのではなかった。ただ、正直に言った。竜平はその言葉を受け取った。3000万円は戻ってこない。それをきちんと受け入れたのは、この瞬間が初めてだった。

10月の末、銀行から通知が届いた。担保設定した物件について返済が滞っているため、売却手続きを開始することがあるという予告書だった。11月に入り、竜平は宮島が紹介してくれた弁護士に相談した。弁護士はいくつかのことを整理した。千鶴の名義を使った書類の件は、千鶴が被害届を出さない限り刑事事件にはならない可能性が高い。しかし、民事上の損害賠償は別問題だと説明した。また、「任意売却」という選択肢があると説明した。銀行と交渉して競売より有利な条件で物件を売却し、残債を整理する方法だと。弁護士は言った。「最終的には物件を手放すことになります。ただ、手続きを踏めば残債の扱いについて多少の余地が生まれる場合もあります。」物件を手放す。マンションを失う。17階のあの眺め。35年かけて手に入れたはずのもの。しかし、不思議なことに予想したほどの痛みがなかった。もうずっとそうなるとは、勝手にしていたのかもしれなかった。

11月の初め、マンションに戻ると、玄関に一通の封筒が床に置かれていた。千鶴の字で「竜平」と書いてあった。開けると短い手紙だった。「弁護士を通じて、正式に手続きをしたいと思います。剣士のことは2人で話し合いたい。ただ今は難しいので、少し時間をください。」それだけだった。竜平はその手紙をテーブルの上に置いた。千鶴の字はいつも少し右に傾いていた。竜平はその傾きを30年以上見てきた。

11月の中旬、任意売却の手続きが始まった。竜平は書類に署名するだけの役割になっていた。以前なら自分が全てを決定する立場だった。今は他人に整理してもらう立場だった。その楽さを、竜平は驚くほど穏やかに受け入れていた。12月の初めに物件の引き渡しが決まった。竜平は少しずつ片付けを始めた。クローゼットにはスーツが7着並んでいた。全て仕立てのものだった。竜平はそれを1着ずつ取り出し、ハンガーにかけたままダンボール箱に立てかけた。食器棚には千鶴が選んだ食器が残っていた。白いシリーズで、同じデザインで統一されていた。竜平はそれを眺めた。千鶴に連絡して取りに来てもらうべきかもしれないと思った。荷物を整理しながら、この部屋に越してきた日のことを思い出した。20年前だった。引っ越し当日の昼に、千鶴がコンビニのおにぎりを買ってきて、ダンボールの上に広げて食べた。そのことだけは、なぜかはっきり覚えていた。

引き渡しの前日。竜平はマンションで最後の夜を過ごした。リビングのソファはまだあった。大きすぎて持っていけなかった。竜平はそのソファに最後の夜も座った。照明をつけていなかった。外の夜景だけが部屋を薄く照らしていた。東京の光がガラスを通して入ってきた。明日から、ここではなくなる。17階の眺めも、コンビニのおにぎりの朝食も、エスプレッソマシンのコーヒーも、仕立てのスーツも、全部なくなる。それがどういうことか、今夜になってようやく体で感じていた。しかし怒りではなかった。悲しみとも少し違った。重かったものが、ここに置いていけるという感覚に少し近かった。竜平は窓に近づき、ガラスに額をつけるくらいまで行き、夜の東京を見た。遠くまで光が続いていた。「俺はこれからどうなるんだろう」と竜平は思った。答えはなかった。しかし、その問いが恐怖ではなく、初めてただの問いとして浮かんでいた。その夜は、珍しく早く眠れた。

埼玉県の外れにある木造アパートは、駅から歩いて18分かかった。部屋は6畳一間だった。南向きの窓があったが、すぐ前に別の建物の壁が迫っていて、日が差し込む時間は1日のうちに少しもなかった。壁は薄かった。隣の部屋のテレビの音がうっすらと聞こえた。荷物を運び込んだ。ダンボールが8個、それだけで部屋の半分が埋まった。スーツは2着だけ持ってきた。残りは処分した。エスプレッソマシンは持ってこなかった。置く場所がなかったし、必要でもなかった。荷物を置いて、竜平は床に座った。椅子がなかった。テーブルもまだなかった。窓の外の壁を見ながら、少しの間座っていた。61年生きてきて、6畳一間にダンボール8個。それが今の自分の全てだった。竜平はその事実を、不思議と重くは感じなかった。ただ確認した。そういうものとして受け取った。

翌朝、5時半に目が覚めた。体の習慣は変わっていなかった。着替えて外に出た。駅までの18分の道を、今日は走った。住宅街の細い道が続いていた。コンビニが1軒、自転車屋が1件。朝の6時前で、通る人間はほとんどいなかった。駅のロータリーを折り返して、また同じ道を戻った。合計で36分。以前の5kmのコースより短かったが、足は動いた。体はまだ動くのだという気持ちを持った。それだけで、その朝は十分だった。部屋に戻りシャワーを浴びた。朝食は昨日コンビニで買ってきたパンを1個食べ、インスタントコーヒーを作った。マグカップは引っ越し前日に100円ショップで買ってきた白いカップだった。今日から何をするか考えた。仕事を探さなければならなかった。スマートフォンで求人サイトを開いた。61歳という年齢を入力すると、表示される件数が一気に減った。それでもいくつかあった。警備員、清掃員、工場の軽作業、配送ドライバー、マンションの管理人。竜平はリストを眺めた。以前の自分なら、この一覧を見て「自分には関係のない世界だ」と思ったはずだ。しかし今は、どれもしっかりと条件を確かめた。ドライバーの欄に目が止まった。「夜間の中型トラック運転」という項目だった。普通免許で可。ただし中型以上の免許があれば優遇、と書いてあった。竜平には、かつて業務で使っていた準中型免許があった。応募ボタンを押した。

2日後、面接の日程を知らせるメールが来た。面接会場は埼玉市内の物流センターだった。竜平は朝から電車に乗り、最寄り駅から歩いた。グレーのスーツを着た。残してきた2着のうちの1着だった。センターの待合室に通されると、すでに他の応募者が3人いた。3人とも、竜平と同じようにスーツではなく綺麗な普段着に着替えていた。竜平だけがスーツだった。少し浮いているかもしれないと思った。担当者は30代の男性だった。履歴書をしばらく見て、「定年退職後に自分で少し仕事をしてみたのですが、うまくいかなかった部分があって」という竜平の説明に、それ以上深くは聞かなかった。「夜間の配送は、体力的に大丈夫ですか? 」竜平は頷いた。「毎朝走っています。」担当者は少し間を置いてから言った。「来週から研修という形で入ってもらえますか。」竜平は頭を下げた。「よろしくお願いします。」その言葉が口から出た時、少しだけ軽かった。

研修初日、竜平は夜の9時に物流センターに着いた。エプロンと手袋を渡され、名前を書いたシールをエプロンの胸に張った。「黒川」と書かれた白いシール。苗字だけ。担当の先輩ドライバーは、田辺という40代の男だった。無駄口を叩かなかった。「まず積み込みから覚えてもらいます。」ダンボールは一つ15kgほどあった。それをトラックの荷台に、配達先に近い順に積んでいく。竜平は黙ってやった。2時間ほどで積み込みが終わった。出発は日付をまたぐ少し前だった。深夜の幹線道路に出た。信号が少なかった。トラックは淡々と走った。2件目に向かう車内で、田辺が言った。「最初はきついですけど、慣れます。」竜平は「そうですね」と答えた。

3週間が経った頃、竜平は1人で配達に出られるようになっていた。ある夜、積み込みをしていると、ダンボールのラベルを見た。ラベルには取引先の名前が印刷されていた。見覚えのある名前があった。かつて竜平が支社長として取引していたメーカーだった。竜平がルートを作り、価格交渉をし、関係を育ててきた取引先。ダンボールの表面をよく見ると、放送資材のメーカー名も印刷されていた。「太陽パッケージ」と書いてあった。竜平がかつて務めていた会社だった。自分がかつて売っていた放送資材を、今は配送している。竜平はその事実を荷台の前に立ちながら受け取った。笑えるような、笑えないような感覚があった。しかし、恥ずかしくはなかった。不思議と、恥ずかしくなかった。ダンボールを荷台に積んだ。丁寧に向きを揃えて積んだ。

深夜の首都高速をトラックで走った。この時間帯の高速道路は、乗用車よりトラックの方が多かった。互いに同じ速度で同じ方向に流れていた。竜平はハンドルを握りながらふと思った。この道を以前は黒いドイツ車で走ったことがあった。日曜の昼にどこかへ行こうとして、特に行く場所もなくて、ただ走ったことがあった。あの時の車の静粛性と、今のトラックのエンジン音はまるで違った。しかし、どちらも同じ道を走っていた。違うのは、今は荷物を積んでいるということだった。誰かに届けるものを持って走っている。それだけのことが、以前との一番大きな違いのように思えた。ラジオをつけた。深夜の番組は、リスナーからのメッセージを読むコーナーだった。仕事がうまくいった話、子供が生まれた話、別れた恋人のことを今でも考える話。それぞれが短く読まれた。竜平はそれを聞きながらアクセルを踏んだ。世の中にはこれだけの話があるんだな、と思いながら走った。

月が変わり、初めての給料が振り込まれた。夜間手当込みで、手取りが22万4000円だった。以前の月収と比べると3分の1以下だった。しかし、この22万円は誰の名にも使っていなかった。誰かを欺いてもいなかった。自分の体を動かして、自分で稼いだ金だった。竜平はその数字をしばらく見た。ここから毎月少しずつ返していく。弁護士が動いてくれていた。返済スケジュールの大枠は見えてきていた。15年かかるかもしれない。20年かかるかもしれない。しかし、0ではなかった。

ある夜、配達から戻って部屋に入った時、竜平はテーブルの上に1枚の紙を広げた。コンビニで買ったメモ用紙だった。ボールペンを取り出し、千鶴への手紙を書こうと思った。弁護士を通じた連絡は続いていたが、竜平本人から千鶴に直接の言葉を届けていなかった。何を書くかしばらく考えた。謝罪の言葉は頭にあった。しかし、それだけではない何かを書きたかった。竜平はペンを動かした。「千鶴」と書いた。それから少しの間止まった。「今、埼玉で夜間の配達の仕事をしている。体は動いている。借金の返済を始めた。時間はかかるが、続けるつもりでいる。君に黙っていたこと。名前を使ったこと。謝っても取り消せないことは分かっている。それでも、謝りたい。すまなかった。剣士のことを、よろしく頼む。」翌朝、ポストに入れた。返事が来るかどうかは分からなかった。来なくても、それはそれで仕方のないことだと竜平は思った。届けることができただけで、今は十分だった。

1月の半ば、宮島から連絡が来た。「近くを通るけど、少し寄っていいですか? 」宮島は夕方に来た。自転車だった。アパートの前に自転車を止め、インターフォンを押した。竜平が扉を開けると、宮島は室内を一度だけ見た。それから竜平の顔を見た。「ちゃんとしてますね。」竜平は少し笑った。「6畳ですが。」宮島は上がり込んで床に直接座った。椅子がないことを気にする様子がなかった。竜平もその隣に座った。インスタントコーヒーを作って出した。100円均一のトレーに乗せて。宮島はそれを受け取り一口飲んだ。「うまいですね。」「そうでもないと思いますが。」宮島は笑った。「前にあった時より、顔が軽くなった気がします。」竜平は少し考えてから言った。「そうかもしれません。」しばらく2人で黙っていた。隣の部屋のテレビの音が、うっすら聞こえた。「仕事はどうですか。」「体は動いてます。荷物を積むのが最初きつかったが、慣れてきました。」宮島は頷いた。それから言った。「俺も最初の仕事は配送回収の手伝いでしたよ。会社を辞めてから、知り合いの手伝いで1年くらいやってた。」竜平はその話を聞いた。宮島がそういうところから始めたことを、今まで知らなかった。宮島の会社が今あるのは、そういう場所から積み上げたからだったのか。「聞いておけばよかった。」竜平は思った。もっと早く、ちゃんと聞いておけばよかった。その言葉は口に出さなかった。ただ頷いた。宮島はもう一口コーヒーを飲んで立ち上がった。「また連絡します。」靴を履き、自転車のライトをつけ、「じゃあ」と言って走り出した。竜平は扉の前に立ち、その背中が遠ざかるのを見た。寒い夜だったが、少しの間、底に立っていた。

2月に入ったある朝、郵便受けを確認すると一通の封筒が入っていた。差出人の欄を見た。「黒川剣士」と書いてあった。竜平は封筒を部屋に持ち帰り、テーブルの上に置いた。着替える前に封を開けた。便箋1枚だった。「お父さんへ。元気ですか?

僕は今、大学のゼミが忙しい。母は今のところ落ち着いています。2人で色々話しました。まだ整理できていないことも多いけど、父が働いているということは聞きました。返事を書くかどうか迷いましたが、書くことにしました。それだけです。剣士より。」竜平は便箋を持ったまま、窓の外の壁を見た。「返事を書くかどうか迷いましたが、書くことにしました。」という一文が、竜平には重かった。迷った上で書いた。それだけのことが、今の竜平には十分すぎるほどだった。竜平はすぐには返事を書かなかった。何日か言葉を考えた。1週間後、短い返事を書いた。「元気でいる。仕事を続けている。それだけでいい。返事をくれてありがとう。」投函してから、竜平はまたいつものように仕事に向かった。

春が近づいてきた。竜平は毎朝走り続けていた。ルートは少しずつ変わっていた。最初は駅までの往復だったが、今は住宅街の外れにある小さな公園を回るコースにしていた。公園には池があった。朝の6時頃、その池の前を通ると、鳥がいることがあった。白い羽で水際に立って、動かなかった。竜平が近づいても逃げなかった。ただじっとしていた。その朝は、なぜかその鳥のことが頭に残った。何に似ているのか、言葉にはならなかった。

3月に入ったある夜、配達のルートを走っていると、見覚えのある交差点を通った。信号で止まった。左手に、古めの集合住宅が並んでいた。千鶴と剣士が今住んでいるアパートは、この近くのはずだった。信号が変わった。竜平はアクセルを踏まなかった。後ろから車が来る気配がなかった。竜平は少しの間、止まっていた。千鶴の部屋は、この通りを入って右に折れた先にある。弁護士の書類の住所から知っていた。竜平はハンドルを左に切った。トラックで入るには細い路地だったが、ゆっくり進んだ。集合住宅の前に来た。2階建てで、外廊下に洗濯物が干してあった。3月の夜に干された洗濯物は、湿気を含んで重そうに見えた。竜平は車を一瞬止め、建物を見た。部屋番号は分かっていた。2階の窓に光があった。誰かがいた。起きていた。千鶴か、剣士か。あるいは2人ともか。竜平はその光を、少しの間だけ見た。降りて行こうとは思わなかった。今の自分には、あの扉を叩く資格がなかった。資格を取り戻すには、もっと時間が必要だった。何年かかるかは分からなかった。しかし、今夜ではなかった。竜平は前を向いた。トラックをゆっくり動かし、路地を出て元の道に戻った。

次の配達先に向かう前に、竜平はダッシュボードの上に置いておいた封筒を取った。昨夜のうちに用意していたものだった。今週の給料から封じた現金だった。全部ではなかった。しかし、今の自分が出せる精一杯の額だった。脇道に入り、集合住宅の前に停車した。エンジンを切らなかった。ハザードランプをつけて外に出た。郵便受けの列があった。部屋番号のシールが貼ってあった。千鶴の部屋番号の受け口に封筒を入れた。封筒の表には何も書いていなかった。差出人もなかった。ただ、中に小さなメモを入れてあった。「少しずつ返していく」と書いただけだった。竜平は郵便受けから手を離し、トラックに戻った。ハザードを消し、アクセルを踏んだ。また夜の道に出た。

その夜の最後の配達が終わったのは、夜明け前の4時過ぎだった。センターへの帰り道、高速の登りルートに乗った。東の空が少しだけ色を変え始めていた。まだ暗かったが、暗さの質が変わっていた。夜の黒とは違う、薄い灰色になっていた。竜平はラジオをつけなかった。エンジンの音だけが聞こえた。ハンドルを握りながら、今夜の自分のことを考えた。あの光のついた窓を見たこと。郵便受けに封筒を入れたこと。それが良かったかどうかは、まだ分からなかった。受け取ってもらえるかどうかも分からなかった。ただ、できることをしただけだった。今の自分が今夜できることを。空がさらに明るくなった。東の方角に、うっすらとオレンジが混じり始めた。竜平はその色を見ながらふと気づいた。今、体がどこも痛くなかった。眠れない夜が続いていた頃は、いつもどこかが張っていた。頭の後ろか、肩か、胸の内側か。今夜はそれがなかった。疲れてはいた。体は確かに疲れていた。しかし、今感じているこの疲れは、以前の疲れとは違っていた。以前の疲れは、体と別のものが疲れていた。何かを維持しなければならないという疲れ。体裁を保ち、見栄を張り、数字をごまかし、自分を大きく見せ続ける。その疲れだった。今の疲れは、体だけだった。

センターが見えてきた。竜平はウィンカーを出し、駐車場に入った。トラックを止め、エンジンを切った。静かになった。朝の空気が入ってきた。3月の朝はまだ冷たかった。竜平は少しの間、運転席に座ったままでいた。コンビニで買ってきたおにぎりがダッシュボードの上にあった。海苔の巻かれた塩結びだった。1個だけ買ってきていた。竜平はそれを取り、袋を開けた。一口食べた。冷たかった。米が少し硬かった。それでも食べた。窓の外、東の空が白んでいた。オレンジは少し薄くなり、代わりに全体が明るくなってきた。雲の端が光を受けて、白く染まり始めていた。竜平はおにぎりを持ったまま、その空を見た。

35年かけて手に入れたものが、全部なくなった。名刺も、肩書きも、スーツも、車も、マンションも、家族も。手元に残っているのは、6畳一間と1台の中古の自転車と、今月の給料の残りだけだった。それでも、なぜか今この瞬間、竜平は息ができていた。胸が締めつけられていなかった。何かを証明しようとしていなかった。誰かに見せようとしていなかった。ただ、夜明けの空の前に一人で座って、冷たいおにぎりを食べていた。それだけのことが、ひどく自由だった。おにぎりを食べ終え、袋を丸めた。竜平はドアを開け、外に出た。3月の冷たい空気が体に当たった。空はもう完全に明るくなりかけていた。竜平は少しの間、そこに立った。誰もいない駐車場の真ん中で、一人で立って朝の空を見上げた。何かが変わったとは思わなかった。何かが始まったとも思わなかった。ただ、今日という日がまた来たと思った。それだけだった。竜平は歩き出した。ゴミ箱に向かって、一歩ずつ歩いた。